大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年09月20日 | 創作

<3534> 写俳百句 (81)  藤原宮跡一帯の彼岸花

           彼岸花辿りて行けば宮の跡

                             

 台風が去った昨日、橿原市の藤原宮跡の周辺を歩いた。宮跡の駐車場に車を置き、醍醐池の西から北に向かい、東へ畦道を辿り、醍醐池の東から南へ、蓮田の近くまで。そこで西にコースを変え、広い宮跡に辿りつき、車に帰った。ヒガンバナが花盛りで、歩く道筋や畦にヒガンバナの赤い帯が出来、撮影した。ヒガンバナの名所としては隣の明日香村がよく知られ、ヒガンバナと言えば、明日香村に足を運ぶが、藤原宮跡周辺もヒガンバナの多いところである。

 日曜日のコロナ禍とあって宮跡は結構人出があり、野球などスポーツを楽しむ人たちがいるかと思えば、虫取り網を翻してバッタなどを追っかけている親子連れからヒガンバナにカメラを向ける御仁など思い思いの姿が見られた。私もヒガンバナの写真を撮りながら約二時間。5000歩ほどを歩いた。今日は彼岸の入りだが、花は彼岸の中日ごろまでが見ごろだろう。別名にマンジュシャゲ(曼殊沙華)。では、曼殊沙華で一句。 左右なく天上天下曼殊沙華 写真は大極殿跡方面に帯をなして咲き続くヒガンバナの花群(左・後方の山は耳成山)とヒガンバナのアップ(右)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年10月20日 | 創作

<3203> 作歌ノート  ジャーナル思考 (一)

        日々にしてニュ-スに沿へる耳目あり感ありゆゑのジャ-ナル思考

 ここに掲げる短歌は私が新聞社に在籍し、主として大阪本社を拠点に働いていた昭和四十三年(一九四三年)から平成十一年(一九九九年)の間に作ったもので、歌は新聞人たる仕事の一端にあって日ごろ感じ、思ったところを五七五七七に表現したものである。

 私が在籍したこの三十二年間を振り返れば、学生運動が地方大学に及び学内が荒んでいた時期に始まり、万博景気を経て公害問題が顕現し、石油ショックが続いて起き、バブル景気に沸いた後、バブルが弾けて、証券会社をはじめとする金融機関の破綻などがあり、右肩上がりの経済成長の時代が終わりを告げた。事件事故においては、主にグリコ森永事件、豊田商事会長刺殺事件、日航機墜落事故、神戸連続児童殺傷事件などがあり、私の仕事の締めくくりの時期に未曾有の阪神大震災と和歌山毒物カレー事件があった。

   また、時代が昭和から平成に変わり、技術革新によって器機のデジタル化が進み、パソコンや携帯電話(後のスマホ)などの普及とともにインターネットによる情報通信の進展が著しく、スピード化とグローバル化が私たちの身にも及び、仕事にも影響を及ぼすに至った。私はこの間ほとんどの年月を写真記者として編集部門の一端で仕事をして来た。

                   

   新聞写真で言えば、モノクロからカラーへの移行期に当たり、暗室での手現像から明室での自動現像による暗室不要の時代に進み、間もなくデジタルカメラによるフィルムレスが進み、銀板写真の時代が去って、写真技術の様相が一変した。こうした新聞写真の技術革新、その過渡期の夜明け前の時代を経験した。

   この技術革新で言えば、私はフィルムカメラ時代の報道カメラマンとしてその任に当ったということになる。ここに掲げた短歌は、このような世相と職場環境を背景に生まれたものが多く、構成を巡らせて作ったというより、日々の思いによる呟きのような歌がほとんどで、一首一首に時事的要素が絡むといった具合で、「ジャーナル思考」の題名を付すことになった。

   歌はほとんどが年次に従って並べたつもりであるが、作りっぱなしで、個々の歌についてはいつ作ったかはっきり覚えのあるものが少ないのと作品の中には相当ときを置いて推敲し、改作にまでは及ばないまでも、手を加えたものもあるので、歌がそのまま純粋に自分の辿って来た年次の年齢を映したものとは言えない点が少なからずあることをまず断っておかなくてはならない。

   阪神大震災のときの歌などはもっとあってよいはずであるが、少ないのは多忙を極め、心身ともに疲れ、歌を作り上げるだけのパワーに欠けていたことと、当時、短歌への意欲より花の写真撮影に重きを置いて休日などを過ごすという生活スタイルを採っていたことにもより歌が作れなかったのではなかったか。言わば、大震災はインパクトが強すぎて、我が心身の力量では掬いあげることが出来なかったということになる。当時の歌の寡少は、いま振り返ってみると、そこに因があるように思われる。

   「ジャーナル思考」については、当初、「ジャーナル余聞」くらいがいいかと思っていたが、「余聞」というのは心のよりどころとしては何か遊びめく気分が感じられ、自分の仕事上から見て十分ではないという心持ちがし、「思考」に改めた。「思考」は「余聞」より言葉が硬く、文芸的柔和な雰囲気に欠けるが、真摯に社会と向き合い、見つめて日々を過ごして来た自分の仕事について思うに、ここはやはり「余聞」より「思考」の方がよいと結論づけられた。で、解題の歌も冒頭に掲げたごとく詠むに至った次第である。 写真は一九七三年と七四年の紙面切り抜きのスクラップブック。

      神代へも思ひ巡らす男らの情熱見えて聴く文化論

  記者の目の確かさを問ふ確かさの限界人の子といふ我ら     

  「愛こそを」「愛せよ」「愛のほかになし」人に生まれて人を憎むか

  祖国とは寄る辺と思ふああ日本中国残留日本人孤児

  時は疾く往けり霞めるごとくして過ぎしにやさし去年の穂の波                 去年(こぞ)

  マス・コミ論処暑を過ぎなほふつふつと滾つおもしろおもしろの世か

  人間の奢りのほかにあらずなり古木伐られて果てにけるかも

  今しなる過去への旅の草枕滅びしものへ供花の一茎

  目にも見よ耳にも聴けよ霊歌あり汝大地を別かつべからず

  論陣の論のうちそとなる歩み陽を恃みとす塑像の姿                     陽(ひ)

  童女の死より幾日も経ぬ家の炎暑の庭に射干の花

  ラガ-あり勝利もそして敗北もともに夕陽に染められてゐる

  喜びの対極にして悲しみのあり且つ常の報道の眼よ

  批判とは己の弁護自らに挙手するものの言ひが居をなす                   居(ゐ)

  満ち満ちてことさら弾む声の中その声のみにあらざるも見ゆ

  今といふ時の鋩ここにして詩歌もて意思を詳らかにす                       詩歌(うた)

  そこここにある日常を思はしめべた数行の記事の役割

  麓まで紅葉至るその朝の記事に女流作家の訃報

  「権利」てふ若き言葉の時代去り今まさにして世の末の論

  飢餓もあり難民も増え世紀末ホテルのサロンのスープ冷めゐる

      正義とは誰に向かひて言ふ言葉なりや彼我にて問ひ問はれゐる

  斬らば斬れ撃たば撃つべし蒼ざめて倒るるものの側に寄り立つ

  隣国の騒擾を読む傍らに少女二人の初夏の声

  猫の死を聞きし二月の雨の朝死因不明が意識を強ひる

  日々にして記事あり日々にして記事の中に思考の鋩を磨ぐならひ                  鋩(ほ)

  ハイジャック犯も護送の警官も我も人間なりけり「喝」                        喝(かーつ)

  非非非非非 非非非非非非非 非非非非非 非は非即ち 非在の非なり

  祇園会の過ぎし日に見し訃報記事猛暑いよいよ烈しくなれり

  渡されしチラシの中の「平和」二字炎暑に灯す穂あかりの色

      記事中の一行の意味ありありとそこよれ論の開かるる夢

  赤紙の赤と戦火の赤を知る者の裔なる論者の「平和」

  盂蘭盆会終戦記念日炎天下高校野球の球児らの声

  利己主義の象徴にして兵器ありその存在の頂点の核

  奪ひたるものと奪はれたるもののあるなりそして日常の声

     生きてゐる身として思へ思ふべし汝弱きも生きゐる身なり

  一瞬の輝きそれを掬へざる無念もあれば報道の眼よ

  樹を倒し獣を殺めその後も斯く歩むほかあらぬか人類                            人類(われら)

  ニッポニアニッポンその名切なくもテレビの中の国原の夢

  世の中のために少しは働いてゐるか憲法記念日の朝

  カーラジオ今日も交通渋滞のニュース「伝法大橋二キロ」

  寸評の「白眉」の二字の感懐に若葉の萌ゆる新聞の朝

  世の中を「さういふもの」と言ふなかれ政治の大義疑獄を覆ふ

  闇といふ言葉が常につきまとふ政治の裏の裏を撃つべし

  如何に生き如何に死せどもむらぎもの心は毀誉の世の常の中                     中(うち)

  石楠花の花に青空 青年に志見ゆ憲法記念日

  若さあり気負ふ思ひのほとばしり天安門の青年の声

  民衆といふ懐かしき言葉感ジャ-ナリズムの矜持とともに

  犯人の心の中を推し量り薔薇の五月も毒されて過ぐ

  犯人の獅子身中の王者へは何差し向けん歯痒さにゐる

  頼りなき耳目の頼りなさゆゑに理解力とか審美眼とか

  思ひとしあるものならむ「素戔鳴尊に炎天の焔を奉る」とぞ                       焔(ひ)


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年08月18日 | 創作

<3139>  作歌ノート 悲願と祈願  (九)

                取り落とす名刺一枚鶺鴒の影ひき消ゆるさらば異郷へ

     <夢あればこそ人生>

   取り落とした名刺一枚。その一枚が白鶺鴒の羽ばたいて飛んで行くごとくに見えた。名刺とは処世の何ものでもなく、それを取り落とすとはまさに失態であり、大げさに言えば、人生の落伍を意味する出来事のようにも思える。しかし、取り落とした名刺が白鶺鴒の羽ばたくごとく輝いた瞬間、心に浮かんだのは憧れの異郷であった。そして、私は名刺から変身した白鶺鴒の幻影を追って、いささか思慮を欠いたかにみえる決別の辞を胸に長年勤めて来た会社を辞めたのであった。

                                                   

  溝蕎麦の花に雨降る昼つ方この身一つの置きどころ 夢

 こうした経緯によっていまある身の置きどころはと自問するに、夢よりほかにない。逃避と言われても仕方なかろう。異郷への夢。その夢は溝蕎麦の花にも触発され、翡翠の瑠璃色の羽によっても開かれたのであった。

  翡翠の翡翠色の一閃に異郷の門扉開かれにけり

  翡翠の昏きに顕ちて飛翔せりその一瞬の時の輝き

 白鶺鴒も翡翠も美しい異郷の使者としてその入り口に現れ、門扉を開いて見せたのであった。しかし、門扉をくぐったかに思えた感覚は幻影の何ものでもなく、私は会社との決別の事実のみを胸に立ち尽くすことになった。変身した白鶺鴒はどこに消えたのか。瑠璃色の羽で私を誘った翡翠はどこに雲隠れしたのか。異郷はまさに夢。私は現身(現実)から逃れる術もなくいまここにいる。

 そして、私はこの現身(現実)のいまを味わいながら、かつて、歌にも詠んだ美しかる「後の世の夢」をともないながら青梨を食べた処暑の朝のことを思い出した。

  昨の夜の後の世の夢食卓に処暑の今朝青梨を食みをり                    昨(きぞ) 食(は)

 青梨は現身(現実)の酸味を含み心に滲みた。しかし、この果たせなかった夢に懲りることなく、また、翡翠が現れ、瑠璃色の羽で異郷へ誘えば、私は誘われるまま瑠璃色の羽を追って行くだろう。そして、この思う身は、永遠に現身(現実)と夢(憧れ)との間を行き来しながら心を彷徨わせるのに違いない。 写真はイメージで、溝蕎麦の花と翡翠。

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  到れざるゆゑとし言はむ階に仰ぎ見てゐし彼方の台                         階(きざはし) 台(うてな)


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2020年06月29日 | 創作

<3090>  作歌ノート  悲願と祈願  (六)

              到り得ず掬ひ得ざるがゆゑ夢は夢としてありなほもあるべく

   <些細な夢でも夢をもってあれば一日はなる>

   至り得ないゆえに憧れは憧れとしてある。憧れが成就すればそこにおいて憧れは憧れではなくなる。恋の条などもこの理のうちにある。忍恋を恋の中の恋と論じたのは『葉隠』の山本常朝であるが、これは確かであると思える。告白せず、忍びに忍んで恋する恋こそ恋の中の恋。忍恋では恋は成就しないだろうが、ずっと心に秘めていつまでも恋し続けることが出来る。それはより強く。一生続けられる恋もある。焦がれ死ぬとはよく聞く言葉ではあるが、恋は忍恋。で、次のような句の例も見られる。

  花楝生涯のひと土佐に老ゆ                                    戸枝虚栗

   このことは、恋だけでなく、私たちの一生において当てはまることが幾らもある。例えば、欲しいものがあっても買えないというようなこと。また、行きたいところがあっても行けないというようなこともある。こうした事態において私たちはそれを遂げたいという思いに駆られ、憧れをつのらせることになる。で、冒頭の一首に続き、次のような歌にも意識が向かうことになる。

         

  まだ到り得ざるがゆゑに登り行く一歩登れば一歩の眺め

 それで、一歩登れば一歩の、十歩登れば十歩の変化があり、必ずそれだけの眺めが得られ、それだけの景色に会える。それは、気に入った景色ばかりとはいかず、ときには失望することもあるけれど、一歩登れば一歩分の、十歩登れば十歩分の景色に出会えるがゆえに私たちはその先を目指す。

 人生などはこの登りに等しく、しんどくても先々の景色に憧れ、期待が持てるゆえに行くことになる。で、まだ、至り得ないというところに妙味というものがあり、はたして、私たちは先を思い巡らせる。そして、ときには躓きながら行き、そんなとき、歌なども生まれることになる。

   塔一つ見え隠れする道にして躓けばまた登りとなりぬ

 憧れつつ行くことは楽しい。しかし、それにはそれでまた難儀も生じて来る。そして、その難儀を行かねばならないこともある。人生半ばも過ぎれば、それはわかる。で、喘ぎつつ行き、躓いて、またの一首ということになる。

   塔はもちろん目標の一つ、一景であり、それは憧れの何ものでもない。見え隠れするところを憧れつつ登る。躓いてまた登りは急になる。登りとは苦しさのまたの言葉にほかならない。しかし、その苦しさにもめげず、なおも登る。登り詰めたときの気分を思いながら。で、なお思うに、この登りは人生の何ものでもなく、歌はその表象ということになる。では、いま一首。

   到り得ず掬ひ得ざるがゆゑ夢は夢いまいづこ秋の夕暮

 成就を抱いて、恋焦がれつつ、逸れることなく行く。純情に。秋の夕暮に明日への望みの鐘が聞かれる。果たして、人生は展開して行く。 写真はイメージで、センダンの花、花楝。


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2019年09月29日 | 創作

<2822>  作歌ノート 見聞の記  時流空間

     生きるとは時流空間ここに身を置くことここに思ひを抱き

 ここに題する時流空間とは時と所、即ち、刻々と過ぎてゆく時の流れと生きゆくものたちの居場所をいうものにほかならず、特に今という時が意識されるところ。居場所の空間については個々によって異なるが、地球生命である私たちにとって、大きく言えば、地球自体がこの居場所の空間ということになる。ということで、空間、即ち、居場所は個々のものながら共有されてあるものとも言えるのである。つまり、ここでは、この時流空間を意識において作った歌群であると言ってよい。

 この間、スウエーデンの環境活動家の少女が国連で地球温暖化による地球環境の変化にともなう人類の危機を訴えるスピーチをして話題になったが、このスピーチは強烈で、まだ余韻にあるが、北欧の一少女の言葉に聞き入った出席者は返す言葉もなく、静まり返った。それは出席者の聴衆一人一人に共有されている地球という空間に生きているということと危機に瀕しているという今の時、即ち、時流の認識が参加者の聴衆一人一人にあって、その一人一人の琴線に触れたからと思われる。

 少女が訴えたのは、経済成長優先の考え、彼女の言葉で言えば、大人たちの「おとぎ話」によって危機的状況に至っている私たちの居場所である地球をこれ以上侵害しないで欲しいというものであった。それは地球が個々人のみならず、すべての地球生命に共有されている居場所としての空間であることを認識の前提に言っているわけで、科学優占による経済成長を美徳として洗脳されている現代人を非難するものであった。だが、洗脳された現代人は少女のスピーチに答えを出せなかった。

 これが地球を取り巻く時流空間の状況と言え、会場が緊張によって静まり返ったのは、この現代人における洗脳の事情とその影響による現今の世界の状況をいみじくも示したのであった。地球が共有される居場所でありながら、その居場所の認識があまりにも異なっている。で、同床異夢を少女はスピーチの場で感じたのであろう。「来るべきところではなかった」とも述べたのであった。

 言わば、これは時流空間における私たち個々の異なりによるものと言ってよく、共有されている居場所の認識にあっても、共有の認識に乏しい個々の身がそこにはあるということにほかならない。そして、そこには限りない生の欲望と強者と弱者を生む生の内実が潜み、その内実が常に働いていることが思われたりする。

 つまり、時流空間における私たちが接しているところの風景の世界は、自然を基にしてはいるものの個々の様々な思いによる接し方或いは認識によって異なる時流空間の錯雑たる認識事情をもって私たち個々の生の存在と絡まって成り立っているということにも思いがゆく。少女の言い分は真っ当にして聞かれるものながら、時流空間に生を展開しているものの「おとぎ話」はそう簡単に止められない。懸念は感じながらも、悲しいかな、この「おとぎ話」では地球温暖化の結末を想定することなど出来ないのである。

           

 ここに用いた写真は、九月も半ばを過ぎたころ、近くの公園で撮影したもので、人工の水場でエナガが水浴びをしている図である。普通は樹林の梢を渡っているはずで、水浴びをする時期ではないが、撮影の日は相当蒸し暑く、この暑さにあってエナガは水浴びをしたのであろう。この水浴びも地球温暖化の影響として見るべきと思えた。つまり、国連における少女のスピーチと公園で目撃したエナガの水浴びの姿に直接的関係はないのであるが、地球温暖化というキーワードによって私の時流空間において意識されたという次第である。以下の歌群は、嘗て、この時流空間を意識において作ったもので、冒頭にあげた通りである。

   メタセコイアぐっと伸びゐる感の春 雨のち晴の天の高きに

   未だ見ぬあこがれがある駅頭に梅だより三分咲きを告げゐる

   秋雨が町工場を濡らしゐる鉄挽く音の午後のひと時

   チャペルより新郎新婦出で来たり白無垢なれば天使のごとし

   観覧車絵本のごとく見ゆるなり弥生の空を背景にして

   乱軍の将晴々と死に急ぐテレビドラマを家族と見をり

   それぞれにみなそれぞれにありながら行き交ふ人の夕暮の街

   朝かげに軒の菊花は息災を告げて咲きゐる馥郁とあり

   夕闇に浮き立つ電光ニュ-ス見き缶コーヒーに温まりつつ

   超高層ビルの谷間に雨が降る人が咲かせてゐる傘の花

   あをあをと公園通り雨に濡れ赤き車が雨足の中

   雑草の住宅街の一角の空地は誰に買はれてゆくか

   管理地といふ立札の立つ空地キチキチバッタきちきちと飛ぶ

   クリスタルガラスに映る夜の街その街にして行き交へる人

   狂ふことなき淋しさよコトコトと動く深夜のエスカレ-タ-

   これもまた一種の形見水際にオブジェのごとく傾く破船

   スクランブル斜めに過る交差点そのスペースの不思議な広さ

   固執してゐるごとく見ゆ都市空間埋められてゆく定めにありて

   大勢の時流における逆行の少数派ゆゑに見えて来るもの

   論をなすものに傍観否めざるつまりそこより論はなさるる

   季節感なども加へて書店には人の思ひが目眩めくある

   人体に似る形態の都市機能人の流れは血流に似る

   この耳目この身は何に統べられてゐるのか時流空間の生