大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年05月14日 | 祭り

<255> 當麻寺練供養会式

      仏にも 物語あり 語るらく あるは當麻の 練供養かな

 二上山の麓にある中将姫ゆかりの當麻寺で、十四日観音菩薩や勢至菩薩をはじめとする二十五菩薩による練供養会式が行われ、二千人近い人出で賑わった。當麻寺は用明天皇の皇子、麻呂子王(まろこおう)が兄の聖徳太子の教えに基づき、河内に建立した万法蔵院が現在の地に移され、麻呂子王の孫に当たる當麻国見真人(たいまのくにみまひと)の名に因んで當麻寺としたのが始まりであるという。(平山敏治郎・平岡定海共著『大和の年中行事』参照)。

 この當麻寺には、奈良時代の天平宝字年間に右大臣藤原豊成の娘、中将姫が家庭の事情などに悩んだ末、十七歳で剃髪得度して入り、極楽浄土にあこがれ、仏道に精進して、蓮糸で大曼荼羅の浄土図絵を織り上げ、二十九歳にして観音菩薩や勢至菩薩など二十五菩薩の導きを得て極楽へ赴いたという伝説がある。

 當麻寺はこの中将姫の伝説に因む大曼荼羅図絵を本尊とし、本堂の極楽堂に祀っている。この曼荼羅図絵は「當麻曼荼羅」と呼ばれる阿弥陀浄土変相図で、衆目され、愛されるところとなって今にある。中将姫が一夜にして織り上げたという蓮糸による大曼荼羅図絵は現存しないが、転写された図絵が遺されており、貴重な遺産として国宝に指定されている。

 この練供養は「聖衆来迎練供養」とも呼ばれ、この中将姫の伝説に基づき、仏教では来世を司る阿弥陀如来の使いとして脇侍である観音菩薩と勢至菩薩に加えるところ合わせて二十五菩薩と天人などが中将姫を極楽へ導くために迎えに来るという設定で行われ、その様子を披露するものである。

 この日は本堂の極楽堂から門の近くの娑婆堂に木製の来迎橋が架けられ、二十五菩薩や天人、僧呂、稚児なだが列をつくって歩いた。初夏の青葉の下、観音菩薩や勢至菩薩などの二十五菩薩は極楽堂と娑婆堂を往復し、帰りは先頭の観音菩薩が蓮台に坐し合掌する中将姫の木像を手にして体を揺らしながら歩き、無事に生き仏中将姫を極楽に導いた。

 放送によるお寺の説明を聞いていて、ふと、小泉八雲の『きみ子』という短編を思い出した。この短編は最後に弥陀が現れ、きみ子に「おお、我が法の娘よ、お前は申し分ない道を生きた。お前は、最高の真理を信じ、理解してきた。いま、わたしはここへ、お前を迎えに来たのであるぞよ」という言葉をもって、きみ子に最高の賛辞を贈るが、中将姫の話に似るところがある。

 二十五菩薩の練供養は、平安時代の僧、恵心僧都(源信)が迎講(むかえこう)として始めたものと言われ、阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩や勢至菩薩など二十五菩薩が、極楽浄土を願う人々を迎えに来るという教えを広めるために行なったものという。當麻寺でも恵心僧都(源信)によるこの阿弥陀仏来迎の迎講が行なわれ、これが中将姫の伝説と結びつき、盛大に行なわれるようになったという。練供養は中世に発展する阿弥陀信仰の一つの形になった。

                                        

 また、久米寺の練供養のときにも触れたが、この時期は田植えの始まる前で、農家では一斉に休みを取り、みんなで楽しむ風があった。當麻の一帯ではこの當麻寺の練供養の日を休みとし、これを「當麻レンゾ」と呼んでその一日を楽しみ、練供養をより盛大なものにしたという。最近では、よく知られる祭りになり、近在だけでなく、ツアーで見物に訪れる人など遠来の人も多くなった。 写真は中将姫の木像を高々と掲げて歩く観音菩薩(後方は合掌して歩く勢至菩薩)と練供養に詰めかけた見物衆で埋まった當麻寺の境内。