<298> 万葉の花 (15) ひさき (久木、歷木)=アカメガシワ (赤目柏)
少年の 声がするなり 夏木立
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 巻 六 (925) 山部赤人
「ひさき」は集中の四首に見え、赤人が聖武天皇の吉野行幸に際して詠んだこの925番の歌で殊によく知られる。この歌は長歌の反歌二首中の一首で、夜の歌である。今一首の反歌はこの歌の前に置かれている924番の歌で、「み吉野の象山のまの木ぬれにはここだもさわぐ鳥の声かも」とあり、こちらは昼の情景を詠んだ歌で、二首は昼と夜が対応する形に配され、ともに鳥の鳴き声が登場する歌になっている。象山は行幸のあった吉野離宮の背後にある山である。
この二首は従来叙景歌として名を馳せ、鑑賞されて来たが、叙景の歌とする見解に対し、925番の歌で疑義を呈する論が現われた。疑義は、この歌の情景描写について、単なる写生にしては不自然であるというもので、この歌の解釈に新展開を見せたのであった。これは『赤人の諦観』(梅原猛著)によるもので、ここにひさきが関わって来るという次第である。『赤人の諦観』によれば、ぬばたまの真っ暗な夜にひさきが生える川原が実際に清いとして目に出来るかどうかということで、そこのところが疑義として指摘されるわけで、この歌は夜の川原の実景を写生して詠んだものではなく、昔の行幸を懐かしんで詠んだ心象の歌であるというのである。
昔の行幸とは、柿本人麻呂が長短歌を奉上した持統天皇の吉野行幸のことで、そのときの行幸を思い、にぎやかに楽しく過ごしたであろう当時の人々(大宮人)を思い浮かべながらその姿(霊)に和して詠んだのだという。つまり、924番の歌の鳥も、925番の歌の千鳥も、行幸を楽しむその昔の人々(大宮人)の姿に重ねたもので、その中に人麻呂も交じり、昼となく夜となく楽しいときを過ごしたことを想像して詠んだのだという。よって、実景とは言い難い歌としても、そこに歌は成り立つというわけである。
この二首の反歌をともなう長歌は吉野の離宮を讃えたもので、持統天皇のころからずっと続いて来た吉野への行幸が、これからも永久に続くことを寿ぎ願う気持ちによって作られた。で、その意を汲む形で反歌の二首も詠まれ、昔の人々(大宮人)が行幸を楽しむ姿(霊)とともにあるその吉野行幸を寿いでいるわけであるが、反歌の二首は、柿本人麻呂への尊崇の念によって人麻呂の霊をも慰める歌になっているのだという。
ここで思われるのが、言葉の数に制約のある短歌で、短い詩形ゆえにその制約によって、言いたいことが十分に伝え得ないということが生じることになる。で、この十分でない短歌の舌足らずなところが逆に、短歌の内容を深いものにするのであるが、そこにはいろいろな見解や解釈が生ずることになり、読む者を惑わせるということにもなるわけで、万葉歌においても上述のような状況が生まれて来ることになる。
このことを念頭にひさきを見るに、これについては、アカメガシワ説、キササゲ説、雑木説などがあって、今のところアカメガシワ説が有力視されている状況になっている。ひさきにアカメガシワをあてる説は、源順の『倭名類聚鈔』(九三八年)に「唐韻云楸(音秋漢語抄比佐木)木名也」とあるのに加え、貝原益軒の『大和本草』(一七〇九年)に楸樹を赤目柏と記載されていることによるが、私もこの説に賛同する一人である。
写真のアカメガシワは左の三点が行幸のあった吉野川の宮滝付近から三キロほど上流にある川上村の渓谷沿いで撮影したもので、この川筋にアカメガシワの多いのが指摘出来る。キササゲは中国原産で自生する樹木ではなく、野生化したものがあったとしても、アカメガシワの比ではなく、今もあまり見られない点も含め、否定的要因たり得ると言える。
また、雑木とする見方は、巻十二の柿本人麻呂歌集の歌に「度會の大川の邊の若歷木(わかひさき)わが久ならば妹戀ひむかも」(3127)とあり、この一首に「若歷木」が同音で次の言葉「わが久ならば」を導くものとして「ひさき」と読ませる箇所があり、このことから、歷木は櫪に等しく、ブナ科のクヌギであって、この歌を単純に考えれば、ひさきはクヌギの類ということになることが指摘される。
しかし、クヌギは櫪のみでなく、檪、椚、橡の表記があり、『万葉集』ではクヌギをつるばみと称して、橡の字をあてていることから察するに、クヌギは橡で、万葉人は本来クヌギであるべき歷木をひさきと見たのではないかということが想像される。この考えからすれば、歷木イコールひさきで、、歷木とアカメガシワが一致することになるわけである。
仮に、ひさきが雑木ということであっても、川辺に生える樹木としては、クヌギというより、その植生上、アカメガシワが最適で、アカメガシワが中心に考えられると言える。アカメガシワはトウダイグサ科の落葉高木で、大和には非常に多く、低地から山岳に至るまで見られ、樹高は大きいもので十五メートルほどになるが、川原などに生えるものには低木状のものも見られる。殊に渓谷沿いに多く、若芽が赤く、葉がカシワの葉のように大きいのでこの名がある。
地方名の菜盛葉や御菜葉も大きな葉に食物を載せたことによるもので、昔の人の知恵が思われる。樹皮を乾燥させ、煎じて胃潰瘍に用い、腫れものの患部を洗うためにも用いた。造作もない木であるが、昔の人には重宝な木であったに違いなく、その名は知悉されていたと思われる。雌雄別株の花は地味であるが、花序は雌花の方にボリュームがあり、花は目につき、わかりやすい木である。
もちろん、ひさきがアカメガシワとする説が有力とは言え、これは推論にほかならず、推論は推論の域を出るものではない。しかし、こういう場合は説(推論)がいかに多くの人に認められるかどうかであり、認められればそこに論というものは納まりゆくわけで、ひさきがアカメガシワであることもこの納まりのうちにあると言えるだろう。 写真は左から渓谷で茂るアカメガシワと雌花に雄花(川上村で)。右端の写真は奈良市の猿沢の池で見かけたアカメガシワ。池の中に置かれた丸太に生えた若木で、花によるところ雄株である。