大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月30日 | 祭り

<302> 夏越の祓 (なごしのはらえ)

    健やかな 一句たのめる 夏越かな

   みなつきのなごしのはらへする人は千年(ちとせ)の命のぶといふなり   『拾遺集』 巻 五 夏 (292)   よみ人しらず

 年に二回、冬と夏に罪や穢れを除き去って無事に過ごせることを願う大祓の行事が各地の社寺で行なわれ、大晦日に行なわれる祓を年越の祓、六月に行なわれる祓を夏越の祓(六月の祓)と呼ぶ。三十日の今日、この大祓の夏越の祓が桜井市布留町の石上神宮であり、出かけた。

  大祓は大宝元年(七〇一年)に出された大宝律令で宮中の年中行事に定められ、禊(みそぎ)をしたり、紙で作った形代を水に流したり、カヤで作った茅(ち)の輪を潜って罪や穢れを祓うという行事で、京都の下鴨神社や東京の山王神社の祓がよく知られるが、発祥の地である大和でも社寺でよく見られる。

  今日はその社寺の一つにあげられる石上神宮に出向いてみた次第である。午後五時から始められた祓の神事の後、冒頭にあげた『拾遺集』の古歌を参加者みんなで歌い上げながら、神剣と参拝者各自が穢れを払い移した紙の人形(ひとがた)を納めた大櫃を担った神官たちを先頭に、参拝者約三百人がその後に従い、境内に設えられた茅の輪を三回潜って祓を行なった。

 生憎の雨模様で、梅雨独特の蒸し暑さがあったが、茅の輪潜りは厳かに行なわれた。参拝者全員が茅の輪を潜った後、希望者に茅の輪のカヤ(ススキ)が配られた。カヤ(ススキ)は生育力が強く、これにあやかって夏の厳しい時期を過ごして行きたいという願いによるもので、夏越の祓の行事には茅の輪が設えられ、茅の輪潜りの行われるのが習いになっている。

 写真は左から、麻布を裂いて、穢れを祓う「裂布」の儀式を行なう神官。参拝者の形代を大櫃へ納める神官。茅の輪潜りの先頭を行く神剣。茅の輪を潜る参拝者の形代を納めた大櫃。老齢者や家族連れが目についた茅の輪潜り(いずれも石上神宮で)。

 この日を境に大和も夏本番である。原発事故以来、節電の話が喧しいが、暑さの厳しい夏を無事に過ごしたいというのはみな同じ願いであろう。冒頭の句の「一句」とは私の総体を言うもので、象徴にほかならない。「健やか」に勝るものはない。

                    


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2012年06月29日 | 万葉の花

<301> 万葉の花 (16)  ひかげ、かげ、かづら (日蔭、影、蔭、加氣、縵)= ヒカゲノカズラ (日陰蔓)

    夏至過ぎぬ 何処の人か 救急車 

     人はよし思ひ止むとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも                             巻 二 (149) 倭姫大后

 『万葉集』にヒカゲノカズラと目される「ひかげ・かげ・かづら」で登場する歌は七首。その用法は冒頭にあげた149番の歌のように鬘(かつら)にして頭につけるものとして出て来るものが四首、後は女性に喩えた歌が一首と女性の名で登場する歌が二首あるが、直接、間接の違いはあるものの、みなヒカゲノカズラが鬘にして頭につけられたことによる歌であるのがわかる。

 冒頭の歌は天智天皇の崩御に際し、大后が天皇を偲んで詠んだ悲歌で、「人はいかようにあろうとも、私にはヒカゲノカズラを鬘につけた天皇のお姿を忘れることはございません」というほどの意である。倭姫大后は舒明天皇の孫に当たり、天智天皇には姪に当たる女性で、大海人皇子が身を引く形で皇后にのぼった人物である。集中にはこの歌とともに天皇の不予と崩御に際して詠んだ歌が連なり、歌心が発揮されている。この歌の「玉かづら」はヒカゲノカズラの「影」を導き出す語で、「影」は天皇の面影を述べるのに用いられている。

 ヒカゲノカズラを鬘にして飾ることは、速須佐之男命の狼藉によって天照大御神が天の岩屋戸に隠れ籠ったとき、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が天の香山のヒカゲノカズラの「日影」を襷にして、ツルマサキの「眞折(まさき)」を鬘に、ササを手にし、神がかりの裸踊りをして天照大御神を誘い出した『古事記』の記事が基になっていると言われる。後に『延喜式』神祇令にも新嘗祭等の祭祀において神聖な草としてヒカゲノカズラの「日影」を鬘につけることになった。

 これがのちのち様式化され、形式的になっていったと見られ、美的感覚でも見られるようになって、美しい女性にも喩えられたようで、巻十四の3573番、詠み人知らずの歌にもそれが現われている。「あしひきの山かつらかげましばにも得難きかげを置きや枯らさむ」というのがその歌で、「得難い山の美しいヒカゲノカズラを得ないで、枯らしてしまうのであろうか」と、深窓の女性をヒカゲノカズラに喩えている。

 ヒカゲノカズラという植物は、羊歯類に属するヒカゲノカズラ科の常緑草本で、夏の盛りのころ地を這う茎から枝を直立させ、先端部に花に当たる胞子囊をつけ、パウダー状の胞子を放出し、子孫を殖やす。四億年以上も前の古生代にはすでに地球上に出現していたと見られ、沖縄を除く全国各地に自生し、大和にも極めて多く、山歩きをすれば、必ずといってよいほどよく目にする。

 大和は歴史を誇る故地で、古式に則った祭りが多くみられるが、そんな中、大宝律令の神祇令に基づくと言われる奈良市本子守町の率川神社で行なわれる三枝祭で、巫女の四人がササユリを手に舞いを奉納するときヒカゲノカズラを鬘にして頭に巻く。率川神社は三輪山を御神体とする大神神社の摂社で、聞くところによれば、このヒカゲノカズラは大神神社から毎年贈られるという。このヒカゲノカズラも辿り行けば、遠い昔の所謂『古事記』の神話に行きつくことが言えそうである。

 写真は胞子囊穂を立てたヒカゲノカズラ(左)と率川神社の三枝祭で「うま酒みわの舞」を奉納に向かう巫女の一人。ヒカゲノカズラを鬘に巻いているのがわかる。なお、右端の写真は、天川村の山中で撮影したものであるが、天宇受賣命が鬘にしたとされる「眞折」のツルマサキの果実で、マサキに似た果実である。ヒカゲノカズラもツルマサキもともにツル性であるが、ヒカゲノカズラが地を這って生えるのに対し、ツルマサキはフジと同じように、他の木に這い上がって生育する違いがある。

                 


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2012年06月28日 | 植物

<300> 山 の 花

   山に入って 山の花に 出会う

 速いもので、六月ももう終わりに近いが、六月は東吉野村の明神岳(一四三二メートル)方面を見て回った。昨日も大又から明神谷に入り明神平方面を目指した。雨は降っていなかったが、渓流は水嵩があって危ない箇所も見られたので、途中で引き返した。それでも山に入ると平地では見られない花に出会うもので、撮影することが出来た。

 山の青々たる草木は何らかの形で花を咲かせる。冬は別にして、四季の巡りに花を咲かせる。だからいつ山に登っても何んらかの花に出会える。大きく目立つ花もあれば、小さく葉に隠れるように咲く花もある。ここが自然の妙味で、観察者には難儀な半面、それを見つける楽しみがある。また、山によって生える草木の異なるケースがあるので、時期を同じくしても山によって違う花に出会うことがある。この点も観察を怠ることの出来ないところであり、また、楽しいところでもある。大和という限定された地域においてもこれは言える。

 そういう次第で、花追い人の観察者には期待も抱くことになるが、山野の自然には自然体で臨み、とにかく、観察を怠らないことが求められる。相当数山には出向き、既にいろんな花に出会っているので新鮮さに欠け、以前ほど花にカメラを向けなくなった気がするが、以前よりも細やかに目配りしながら歩いていることは確かである。で、今でも山に入ると、一点かニ点初めての花に出会うから観察はなかなか止められない。

 また、何回か足を運んだ山野では、そこにおける植生の確認作業というのもある。登山道などでは、「確かここに生えていた」と思うようなことが往々にしてある。そんな場面に出くわしたときには、植物の弱点というか、弱い立場ということが思われたりして無念な気持ちにさせられることがあるが、十年たっても同じ場所に生えている草木などに出会うと、「頑張っているな」と思われ、勇気づけられることもある。

 今回紹介するサワダツが勇気づけられる例で、細くひ弱な存在の木であるが、大きな岩石に守られて長らえているのがわかる。一方、何回かの歩きで、花の咲くのに出会って、「こんなところに生えていたのか」と思われる草木もある。今回紹介する花の中ではシロガネソウがこれに当たるが、花の観察者にはこういう出会いもあるから止められない。

 また、オオバメギでは、花に出会ってその木が何の木であるかを知った。観察者にはこういうこともあるわけで、図鑑に照らしてみるが、こういう場合は勉強したという気持ちになる。これらを総じて言えば、歩くことは出会うことであり、出会うことは知ることであると言えそうである。で、これらを思うに、「山に入って 山の花に出会う」という冒頭の一行が浮かんで来るという次第である。写真は左からアワブキ、クルマムグラ、サワダツ、オオバメギ(ミヤマヘビノボラズ)、シロガネソウ。

                                              


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2012年06月27日 | 写詩・写歌・写俳

<299> 眺 望

           眺望の一角にしてビルが建つ 建てば損なふ眺望の中

 以前、市街地の再開発にともなう建設ラッシュがあったとき、冒頭の歌を作った。「ここに高層ビルが建てられると眺望が利かなくなる」とそんなことを思い作った歌であるが、思った通り、ビルが建った後はそのビルが壁になって全く眺望が利かなくなった。

 なぜ、このような以前の歌に触れるかというと、最近、大和の地で縦横に高架道路が造られ、風景が一変して来たからである。国も地方も日本という国の行政は道を造ることに執心して来た。今もその状況に変わりなく、道路はどんどん造られている。で、結果が今日に見え、大和の地も例外でないことが言えるわけである。

 これは物流を鉄道から車に変えた国の政策によるもので、私が子供の時分にはどんな小さな田舎駅にも隣接して倉庫が建ち、そこが物流の保管場所に当たり、乗降客とは別に、物の動きとそこで立ち働く人がいて活気に満ちていた。で、倉庫に出入りする物品を見れば、その地域の産業や特産物がわかったもので、駅はその地域の人、物すべてになくてはならないところだった。

 それが、鉄道からトラックに物流が変更されるに従って、駅の貨物量は減少し、駅の物流部門は寂れ、いつの間にか消滅したのであった。代わりに道路が整備され、車の生産に拍車がかかり、車社会が到来することになった。このモータリゼーションによる車の増加と道路の整備拡張が経済成長の一つの指針となり我が国は発展して来たのであった。

 このようにして、国も地方も行政はみな道を造ることに力を入れて来た。ところが、九十年代に入ってバブル経済がおかしくなって、経済の減速が見られ、国や地方自治体の借金が嵩むようになったのであるが、それからも、道路は相変わらず造られ、大和の地でも前述するところの状況にあるわけである。

 で、以前に作った冒頭の歌が思い起こされた次第で、「損なう」というのは単に眺望のみを言うものではなく、寂れてしまった田舎駅の様相も言外には含んでいるつもりである。例えば、「日の当たる場所が登場すると、日陰もできる」という具合で、家が建てば、日当たりのよいところも出来れば、日陰も生まれるという道理で、発展はすべてのものに満遍なく及ぶというわけにはなかなかいかない。ときには泣きを見る者も出て来るということになる。

 言わば、ビルは発展の一つの象徴であるが、そこには損なわれる眺望があるわけで、私たちにはそこのところも忘れてはならないと言える。これは大和の高架道路にも言えることで、ここに、今一首思い出される歌があるので、以下に紹介したいと思う。

   家ひとつ取り壊されて風光は溢れる 言葉が生まれるように                 原 梓

 この歌は雑誌『短歌研究』二〇〇八年九月号に掲載された新人賞次席作品「図書館余聞」の中の一首で、私にはよく解る歌で、記憶に残った。ビルが建つのとは真逆の光景を詠んだ歌であるが、この歌が問いかけるところは案外はっきりしている。私たちは右肩上がりにばかり目を奪われて、溢れる「風光」を忘れ去っていたのではないか。それをこの歌は思い起こさせてくれた。

 思えば、車ばかりに頼って来た物流を鉄道に戻してはどうかという意見が最近出ている。排気ガスによる二酸化炭素の放出を少なくし、地球温暖化の防止にも役立つという次第で、車社会の最先端であるアメリカですら、鉄道事業の話が持ち上がっているほどの時代になっているのである。人口減少の兆しもある中で無闇やたらに道路ばかりを造る時代は終わった。老婆心ながら言えば、以下のごとくである。

 造くれば、そこには維持が必要になり、維持費がかかる。こいうことをずっと続けて行くことこそ未来につけを残すことになる。行政が身の丈をわきまえず、無闇に借金して、今の状況をつくり上げて来た。原発にも言えるが、良くなければ止めるということも勇気であり、信念に基づいて、そこには知恵が絞り出されなくてはならない。我が国の状況は知恵と勇気の試されている時代になっている。眺望の一変には膨大な借金の山が隠れていることを忘れてはならない。 写真は橿原市の京奈和道入口付近。

                        


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2012年06月26日 | 万葉の花

<298> 万葉の花 (15)  ひさき (久木、歷木)=アカメガシワ (赤目柏)

      少年の 声がするなり 夏木立

    ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く           巻 六 (925) 山部赤人

 「ひさき」は集中の四首に見え、赤人が聖武天皇の吉野行幸に際して詠んだこの925番の歌で殊によく知られる。この歌は長歌の反歌二首中の一首で、夜の歌である。今一首の反歌はこの歌の前に置かれている924番の歌で、「み吉野の象山のまの木ぬれにはここだもさわぐ鳥の声かも」とあり、こちらは昼の情景を詠んだ歌で、二首は昼と夜が対応する形に配され、ともに鳥の鳴き声が登場する歌になっている。象山は行幸のあった吉野離宮の背後にある山である。

 この二首は従来叙景歌として名を馳せ、鑑賞されて来たが、叙景の歌とする見解に対し、925番の歌で疑義を呈する論が現われた。疑義は、この歌の情景描写について、単なる写生にしては不自然であるというもので、この歌の解釈に新展開を見せたのであった。これは『赤人の諦観』(梅原猛著)によるもので、ここにひさきが関わって来るという次第である。『赤人の諦観』によれば、ぬばたまの真っ暗な夜にひさきが生える川原が実際に清いとして目に出来るかどうかということで、そこのところが疑義として指摘されるわけで、この歌は夜の川原の実景を写生して詠んだものではなく、昔の行幸を懐かしんで詠んだ心象の歌であるというのである。

 昔の行幸とは、柿本人麻呂が長短歌を奉上した持統天皇の吉野行幸のことで、そのときの行幸を思い、にぎやかに楽しく過ごしたであろう当時の人々(大宮人)を思い浮かべながらその姿(霊)に和して詠んだのだという。つまり、924番の歌の鳥も、925番の歌の千鳥も、行幸を楽しむその昔の人々(大宮人)の姿に重ねたもので、その中に人麻呂も交じり、昼となく夜となく楽しいときを過ごしたことを想像して詠んだのだという。よって、実景とは言い難い歌としても、そこに歌は成り立つというわけである。

 この二首の反歌をともなう長歌は吉野の離宮を讃えたもので、持統天皇のころからずっと続いて来た吉野への行幸が、これからも永久に続くことを寿ぎ願う気持ちによって作られた。で、その意を汲む形で反歌の二首も詠まれ、昔の人々(大宮人)が行幸を楽しむ姿(霊)とともにあるその吉野行幸を寿いでいるわけであるが、反歌の二首は、柿本人麻呂への尊崇の念によって人麻呂の霊をも慰める歌になっているのだという。

 ここで思われるのが、言葉の数に制約のある短歌で、短い詩形ゆえにその制約によって、言いたいことが十分に伝え得ないということが生じることになる。で、この十分でない短歌の舌足らずなところが逆に、短歌の内容を深いものにするのであるが、そこにはいろいろな見解や解釈が生ずることになり、読む者を惑わせるということにもなるわけで、万葉歌においても上述のような状況が生まれて来ることになる。

 このことを念頭にひさきを見るに、これについては、アカメガシワ説、キササゲ説、雑木説などがあって、今のところアカメガシワ説が有力視されている状況になっている。ひさきにアカメガシワをあてる説は、源順の『倭名類聚鈔』(九三八年)に「唐韻云楸(音秋漢語抄比佐木)木名也」とあるのに加え、貝原益軒の『大和本草』(一七〇九年)に楸樹を赤目柏と記載されていることによるが、私もこの説に賛同する一人である。

 写真のアカメガシワは左の三点が行幸のあった吉野川の宮滝付近から三キロほど上流にある川上村の渓谷沿いで撮影したもので、この川筋にアカメガシワの多いのが指摘出来る。キササゲは中国原産で自生する樹木ではなく、野生化したものがあったとしても、アカメガシワの比ではなく、今もあまり見られない点も含め、否定的要因たり得ると言える。

 また、雑木とする見方は、巻十二の柿本人麻呂歌集の歌に「度會の大川の邊の若歷木(わかひさき)わが久ならば妹戀ひむかも」(3127)とあり、この一首に「若歷木」が同音で次の言葉「わが久ならば」を導くものとして「ひさき」と読ませる箇所があり、このことから、歷木は櫪に等しく、ブナ科のクヌギであって、この歌を単純に考えれば、ひさきはクヌギの類ということになることが指摘される。

 しかし、クヌギは櫪のみでなく、檪、椚、橡の表記があり、『万葉集』ではクヌギをつるばみと称して、橡の字をあてていることから察するに、クヌギは橡で、万葉人は本来クヌギであるべき歷木をひさきと見たのではないかということが想像される。この考えからすれば、歷木イコールひさきで、、歷木とアカメガシワが一致することになるわけである。

 仮に、ひさきが雑木ということであっても、川辺に生える樹木としては、クヌギというより、その植生上、アカメガシワが最適で、アカメガシワが中心に考えられると言える。アカメガシワはトウダイグサ科の落葉高木で、大和には非常に多く、低地から山岳に至るまで見られ、樹高は大きいもので十五メートルほどになるが、川原などに生えるものには低木状のものも見られる。殊に渓谷沿いに多く、若芽が赤く、葉がカシワの葉のように大きいのでこの名がある。

 地方名の菜盛葉や御菜葉も大きな葉に食物を載せたことによるもので、昔の人の知恵が思われる。樹皮を乾燥させ、煎じて胃潰瘍に用い、腫れものの患部を洗うためにも用いた。造作もない木であるが、昔の人には重宝な木であったに違いなく、その名は知悉されていたと思われる。雌雄別株の花は地味であるが、花序は雌花の方にボリュームがあり、花は目につき、わかりやすい木である。

 もちろん、ひさきがアカメガシワとする説が有力とは言え、これは推論にほかならず、推論は推論の域を出るものではない。しかし、こういう場合は説(推論)がいかに多くの人に認められるかどうかであり、認められればそこに論というものは納まりゆくわけで、ひさきがアカメガシワであることもこの納まりのうちにあると言えるだろう。 写真は左から渓谷で茂るアカメガシワと雌花に雄花(川上村で)。右端の写真は奈良市の猿沢の池で見かけたアカメガシワ。池の中に置かれた丸太に生えた若木で、花によるところ雄株である。