大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月03日 | 祭り

<884> 節分の追儺式に寄せて

     追儺会や 鬼に扮して ゐるは誰

 三日の今日は節分。太陰太陽暦の旧暦で言えば、今日が大晦日。新年を迎えるための厄払いに当たる追儺式(ついなしき・おにやらい)が行なわれて来た。この習わしは太陽暦の新暦になってからも続けられ、今日に至っている。で、今日は厄である鬼の退散を願って、「福は内 鬼は外」の豆撒きが行なわれ、大和地方でも、各地の社寺などで、この鬼追いと招福の声が聞かれた。

 以前に触れたかも知れないが、節分の追儺式の主役である鬼について、ここで、いま少し触れてみたいと思う。鬼は「鬼畜」とか「鬼のような」とか言われ、人倫に悖るものの象徴として捉えられ、厄病神のように敬遠され、追儺式でも暴れ回り、その果ては追い払われる役回りにある。

 だが、不思議にもこの鬼というのは憎めないところがあり、哀れにも思えるところがある。これはどうしてなのだろうか。思い巡らせるに、鬼は西洋の悪魔と根本的な違いがあり、この点の感じ方によるのではないかと思われる。いわゆる、西洋の悪魔というのは絶対的な神の対極にある悪神の存在で、神に向っても居丈高に振る舞うところがある。これに対し、私たちがいうところの鬼は人間の延長線上にあって、神の前ではひれ伏さなくてはならない人間の位相に等しい人間的な存在である。いわゆる、鬼は人間の成れの果てで、西洋の悪魔とはこの点が違う。言わば、悪魔は絶対の存在であって、私たち人間を受け入れない存在であるが、鬼は人間が様々な因果の果てに至った相対にある悪人の存在で、その因果の捉え方によっては、憐憫をもって迎えられるところがある。ゆえに、親しみももたれるわけである。

      

 また、「福は内 鬼は外」の鬼には、大きく分けて二通りあることが言える。即ち、一つは、内側にいて私たちに障って来る鬼であり、一つは、外側にいて攻撃を加えて来る鬼である。概して、外側の鬼は敵対してあるため、わかりやすいところがあるが、内側の鬼は自分の心身に棲みついて馴れている鬼であるから自覚し難い鬼と言ってよい。この内側の鬼は、例えば、貪欲な性状を有し、仏教でいうところの煩悩を纏うもので、その存在はわかり難い。このわかり難さにあって、誰もが多少は自分の心身の中に飼い馴らしているのがこの鬼である。そういうことにもよって、鬼は憎めない、ときには親しささえ感じさせる存在としてあることが言える。

 また、悪魔というのは、追い払って消え去ることはあるものの、決して改心しない存在であるが、鬼はよく退治されて改心し、よい鬼になることがある。ここにも鬼が憎めず、親しみの持たれる理由がある。例えば、修験道の祖である役行者(小角)につき従って行者の前後を守る前鬼と後鬼の鬼が語られるが、この鬼は改心して行者を信奉するようになった鬼である。

 今日は、奈良・興福寺の追儺式に出かけたが、この追儺式にも鬼の登場が見られた。午後六時半から東金堂で一年の無事を願う法要が営まれた後、午後七時過ぎからおにおいの追儺式が行われ、赤、青、黒の三匹の鬼が登場し、酒を飲んで暴れ回っているところへ仏を守る四天王の一武神である毘沙門天(多聞天)が現われ、この三匹の鬼を退治し、最後に大黒天が登場して幸せをもたらす福豆を参拝者の観衆に向かって撒いた。これは新年に幸せをもたらすという舞台設定であるが、私の目には、退治された鬼たちが毘沙門天と仲良く引き上げて行く姿に鬼の改心が見て取れ、鬼の存在が思われたのであった。 写真は追儺式で気炎を上げる赤、青、黒の鬼と追儺式の最後に登場し、幸せの豆を撒く大黒天(いずれも興福寺の東金堂で)。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月01日 | 祭り

<152> 粥占い (筒粥祭り)
        豊凶を 占ふ 筒粥祭りかな
  二月一日の未明、奈良市石木町の登彌(とみ)神社で作物の豊凶を筒粥で占う筒粥祭りがあった。登彌神社は奈良市の南西部、富雄川の近くに鎮座する高祖霊神(たかみむすびのかみ)を祭神とする式内社で、 毎年二月一日に奈良県の無形民俗文化財に指定されている筒粥による「粥占い」の神事(筒粥祭り)が行われ、七月七日、九月七日、 十月八日には豊作祈願と収穫の感謝を込めて「湯立て」の神事も行われる。
      
  今日は冷え込みの厳しい中、氏子や神官、地元の自治会関係者らが未明から神社に参集し、大釜に米と小豆と水を入れ、これに長さを二十センチほどに切り揃え、凧糸でスダレのように連ねた節のない親指の太さほどの竹筒を丸めて入れ、マメの木で焚きつけた火で二時間ほど炊いて、小豆粥を作った。
  神事は午前六時ごろから始められ、まず、炊き上げられた小豆粥の中から竹筒を取り出し、 神前に供えた後、神官や年番の氏子総代らによって竹筒が割られ、中に入っている米粒と小豆の多少を見分け、占った。多く入っていれば上で豊作、少ないのは下とされ不作ということで、上上・上・中ノ上・中・中ノ下・下・下下の七階級に分けて豊凶を占うもので、コメの品種から占われた。

  今年は竹筒三十八本が入れられ、三十七品目について占った。一本は予備という。 占いの結果は拝殿に貼り出され、地元の農家の人たちがメモしていた。今年の上、つまり、豊作と出たのはコメのあすかみのり、秋津穂、たかさご餅、野菜類の小豆、キュウリ、超促成イチゴ、ヤマノイモ、ナスだった。 
占いが終わるころにはすっかり夜も明け、 参拝者は炊き上がった小豆粥を相伴にあずかり、祭りは午前八時過ぎに終了した。 この粥占いは全国的に行なわれているが、いつごろ始められたかははっきりしないようである。 だが、 登彌神社では粥を炊く大釜に元禄八年の銘があることから、江戸時代には既に行われていたのではないかという。