<884> 節分の追儺式に寄せて
追儺会や 鬼に扮して ゐるは誰
三日の今日は節分。太陰太陽暦の旧暦で言えば、今日が大晦日。新年を迎えるための厄払いに当たる追儺式(ついなしき・おにやらい)が行なわれて来た。この習わしは太陽暦の新暦になってからも続けられ、今日に至っている。で、今日は厄である鬼の退散を願って、「福は内 鬼は外」の豆撒きが行なわれ、大和地方でも、各地の社寺などで、この鬼追いと招福の声が聞かれた。
以前に触れたかも知れないが、節分の追儺式の主役である鬼について、ここで、いま少し触れてみたいと思う。鬼は「鬼畜」とか「鬼のような」とか言われ、人倫に悖るものの象徴として捉えられ、厄病神のように敬遠され、追儺式でも暴れ回り、その果ては追い払われる役回りにある。
だが、不思議にもこの鬼というのは憎めないところがあり、哀れにも思えるところがある。これはどうしてなのだろうか。思い巡らせるに、鬼は西洋の悪魔と根本的な違いがあり、この点の感じ方によるのではないかと思われる。いわゆる、西洋の悪魔というのは絶対的な神の対極にある悪神の存在で、神に向っても居丈高に振る舞うところがある。これに対し、私たちがいうところの鬼は人間の延長線上にあって、神の前ではひれ伏さなくてはならない人間の位相に等しい人間的な存在である。いわゆる、鬼は人間の成れの果てで、西洋の悪魔とはこの点が違う。言わば、悪魔は絶対の存在であって、私たち人間を受け入れない存在であるが、鬼は人間が様々な因果の果てに至った相対にある悪人の存在で、その因果の捉え方によっては、憐憫をもって迎えられるところがある。ゆえに、親しみももたれるわけである。
また、「福は内 鬼は外」の鬼には、大きく分けて二通りあることが言える。即ち、一つは、内側にいて私たちに障って来る鬼であり、一つは、外側にいて攻撃を加えて来る鬼である。概して、外側の鬼は敵対してあるため、わかりやすいところがあるが、内側の鬼は自分の心身に棲みついて馴れている鬼であるから自覚し難い鬼と言ってよい。この内側の鬼は、例えば、貪欲な性状を有し、仏教でいうところの煩悩を纏うもので、その存在はわかり難い。このわかり難さにあって、誰もが多少は自分の心身の中に飼い馴らしているのがこの鬼である。そういうことにもよって、鬼は憎めない、ときには親しささえ感じさせる存在としてあることが言える。
また、悪魔というのは、追い払って消え去ることはあるものの、決して改心しない存在であるが、鬼はよく退治されて改心し、よい鬼になることがある。ここにも鬼が憎めず、親しみの持たれる理由がある。例えば、修験道の祖である役行者(小角)につき従って行者の前後を守る前鬼と後鬼の鬼が語られるが、この鬼は改心して行者を信奉するようになった鬼である。
今日は、奈良・興福寺の追儺式に出かけたが、この追儺式にも鬼の登場が見られた。午後六時半から東金堂で一年の無事を願う法要が営まれた後、午後七時過ぎからおにおいの追儺式が行われ、赤、青、黒の三匹の鬼が登場し、酒を飲んで暴れ回っているところへ仏を守る四天王の一武神である毘沙門天(多聞天)が現われ、この三匹の鬼を退治し、最後に大黒天が登場して幸せをもたらす福豆を参拝者の観衆に向かって撒いた。これは新年に幸せをもたらすという舞台設定であるが、私の目には、退治された鬼たちが毘沙門天と仲良く引き上げて行く姿に鬼の改心が見て取れ、鬼の存在が思われたのであった。 写真は追儺式で気炎を上げる赤、青、黒の鬼と追儺式の最後に登場し、幸せの豆を撒く大黒天(いずれも興福寺の東金堂で)。