<878> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (57)
[碑文1] 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二 大津皇子
[碑文2] 百(もゝ)伝(つた)ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(かく)りなむ 同
[碑文3] 金烏臨西舎 鼓聲催短命 泉路無賓主 此夕離家向 同
碑に刻まれているこれらの短歌や漢詩は、悲劇の皇子として知られる大津皇子(おおつのみこ)の作で、碑文1、2の短歌は『万葉集』、碑文3の漢詩は『懐風藻』に収められているものである。碑文1の短歌は、巻二の相聞の項に見える102番の石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈った原文表記の歌で、「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」 と語訳されている。
碑文3の漢詩は「五言・臨終・一絶」として見え、「金烏(太陽)は既に傾き、西の家屋に照り、時を告げる鼓の音は死を前にした短い命を急き立てる。黄泉への旅路は主も客もなく、ただ一人である。この夕べ、家を離れ、その黄泉への旅に向う」という意で、死を目前にして作られたものであるのがわかる。ただ、この漢詩は大津皇子に同情した別人が皇子になり代わって作ったものであるとする見解も見える。どちらにしても、悲痛極まりない詩である。碑文2の短歌は、これも悲痛な歌で、この漢詩の反歌のような趣がうかがえる。「百伝ふ」は磐余にかかる枕詞で、皇子には日ごろから見ている鴨であるが、その和やかな鳴き声に比して死にやられる身の辛さがこの歌には滲んでいる。
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これらの詩歌を理解するには、大津皇子と皇子の時代を知らなくてはわからないので、以下、そこに触れてみたいと思う。大津皇子は、天武天皇と天智天皇の娘である大田皇女の皇子であるが、天武天皇には『日本書紀』に記されているだけで十人の妻があり、大田皇女と鵜野皇女(後の持統天皇)、大江皇女、新田部皇女の四人が天智天皇の娘で、ほかに、藤原鎌足の娘(氷上娘・五百重娘)や蘇我赤兄の娘(大ぬの娘)があり、宮女の額田王、尼子娘、かじ媛娘の名も見える。
これらの妻に十人の皇子があり、その名は新田部皇子(母は五百重)、穂積皇子(母は大ぬの)、高市皇子(母は尼子)、忍壁皇子・磯城皇子(ともに母はかじ媛)で、これらの皇子は天智天皇の娘の子ではない皇子で、皇統の対象外と目される立場にあった。因みに、額田王と氷上娘に皇子はなかった。
で、皇統を継ぐ資格を得て見られていたのは、次の五皇子で、鵜野皇女の姉大田皇女の子である大津皇子と鵜野皇女の子である草壁皇子、大江皇女の子である長皇子と弓削皇子、新田部皇女の子である舎人皇子がいたが、序列から、長女の大田皇女の子である大津皇子が一番で、鵜野皇女の子である草壁皇子が次にあった。
ところが、天智天皇が亡くなって、大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の子である皇太子の大友皇子が政権を賭けて戦った壬申の乱で大海人軍が勝利し、大海人皇子が天皇になった。ところがこのとき、大田皇女は既に病没していたため鵜野皇女が立后し、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)となって天皇を支え、政治を進めて行った。これに沿って、大津皇子は退けられ、草壁皇子が皇太子に立てられたのであった。
大津皇子は幼少のころより学問を好み、成長するに従って文武に秀でた才を発揮したと言われ。誰からも愛される人格の持ち主であったと『日本書紀』も『懐風藻』もともに伝え、絶大な人気を得ていた。これに対し、一つ年長の草壁皇子は病弱であったためか、皇太子でありながら天武天皇を継いで即位することが出来なかった。だが、我が子の可愛さは世の常で、草壁天皇に執着した鵜野讃良皇后の意向は止まることがなく、大津皇子の死にやられる事件が起きることになる。これが凡その見解と言えるが、事件の起因についてはいろんな説が出ているのは他に比して見てもあることと言える。
即位後十四年を経た朱鳥元年(六八六年)に天武天皇が薨去すると、その後継を巡る事件が起きるべくして起きたのである。それが、つまり、謀反の嫌疑をかけられて死にやられた大津皇子の悲劇であった。それは、前述したように、草壁皇子を天皇にしたい鵜野讃良皇后の意によるものであったろう。一つには『万葉集』巻二の107番の碑文1の相聞歌の相手、石川郎女を巡る恋の争いがあったとされる。石川郎女は、この大津皇子の歌に対し、「吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを」と108番の歌で返している。まこと、相思相愛の相聞であることがうかがえる。
これに対し、「大名兒を彼方(をちかた)野邊に刈る草の束の間(あひだ)もわれ忘れめや」(『万葉集』・110)と草壁(日並)皇子が詠んでよこした歌には返歌しなかったと見え、『万葉集』には返歌は載っていない。石川女郎(郎女)が草壁皇子を袖にしている様子がうかがえる。しかし、この一連の相聞には今一首、「大津皇子、ひそかに石川女郎(郎女)に婚(あ)ふ時、津守連通その事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りましし御歌一首」という詞書を持つ大津皇子の歌が見られる。巻二の109番の歌で、「大船の津守の占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し」とあって、意味深長なこの歌によってこの恋が策謀によるものではないかということが疑問符をもって言われたりしている。
即ち、この一連の歌からすれば、この恋は大津皇子の勝利のように思われるけれども、占いが登場するところなどを考えると、この恋自体が仕組まれたものではなかったかということが言えるわけである。しかし、恋の条くらいで大津皇子が見舞われる悲劇が起きるはずはなく、事件の本質にこの恋の条は付加されるくらいのものであったと言ってよかろうと思われる。
事件の本質は明らかに後継争いにあったとされるのが大方の見方で、それは、天智天皇の第二皇子である親友の川島皇子の密告によって謀反の嫌疑をかけられ、死にやられたものと言われる。『日本書紀』には、皇子大津の謀反が発覚したので逮捕し、これに連座したもの三十人余を捕えて、翌日、皇子大津に訳語田(をさだ)の家で死を賜らせたとある。ときに大津皇子二十四歳。このとき天智天皇の娘で、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、はだしで走り出て、寄り添い殉死したという。このとき見るものみなすすり泣いたと紀は伝えている。
このようにまでして我が子草壁皇子に肩入れしなければならなかった母親としての鵜野讃良皇后の執念は、しかし、実ることなく、病弱であった草壁皇子は即位することなく、その三年後、二十八歳にして世を去った。で、皇后自らが即位し、持統天皇となって、草壁皇子の忘れ形見である軽皇子(後の文武天皇)の成長を待つことになったのである。
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大津皇子の碑文の詩歌はこの悲劇を語るもので、『万葉集』には、大津皇子の同母姉で伊勢神宮の斎宮だった大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)の詠んだ大津皇子を悼む挽歌が見え、この挽歌も歌碑になっている。これについては次回に触れたいと思う。
なお、碑文1の石川郎女への相聞の歌碑は大津皇子の墳墓がある二上山の麓の葛城市當麻町の当麻寺近くに建てられている(写真上段左端)。碑文2の悲歌の歌碑は二箇所に見られ、一つは桜井市吉備の吉備池の堤上に建てられ(写真上段左から三番目)、一つは橿原市東池尻町の御厨子観音と称せられる妙法寺近くに建てられている(写真上段左から二番目)。また、碑文3の漢詩の碑は「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」という大伯(大来)皇女の歌が添えられ、吉備池の傍の春日神社境内に建てられている(写真上段右端)。
大和三山の香具山の東から桜井市にかけての辺り一帯は大津皇子が住まいしていたとされる磐余(いわれ)の地で、古道の磐余道で知られる田園地帯である。今も昔ながらの集落が点在し、溜池の多いところである。下段の写真は桜井市吉備の吉備池(後方に大津皇子の墓があるふたこぶラクダの二上山が遠望出来る)と二上山雄岳の大津皇子の墳墓。西面しているのが意味深長である。 吉備池の 鴨二羽 仲のよささうな