大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月31日 | 写詩・写歌・写俳

<881> 食について (2)

      生きるとは食ふこと つまり あるは牛を 食らひて我らは 生きゐるところ

 で、なお思うに、雑食性の人間は、この世にある生きとし生けるものの多くをして自分の命の糧にしている。そして、人間ほど利口な動物はなく、それゆえに、まずは他の動物の食の対象になることはない。ということは、生きとし生ける生きものの中で、頂点に位置することが出来る。こうした人間の立場は権力者に等しく、自らの意志によって自由に何でも出来るから、他の生きものに対し、厳しくもやさしくもなれ、ときには横暴にもなる。この状況は、他の生きものにとって、人間ほど厄介な生きものはないということになる。このことに人間自身が気づいて「拙い」と思うことも往々にしてあることは、童話『よだかの星』が語るところと知れる。

 つまり、人間というのは、生きものの頂点にある優位性において気ままに出来る立場にあると言えるが、もし、他の生きものの不幸の上にその生を成り立たせているとするならば、これは生として完璧に幸せな状況とは言い難いと思える。こうした優位性に乗っかった立場の私たち人間に対し、蜜蜂の営みを見るに、蜜蜂ほど幸せな営みはなかろうと思えて来るときがある。花を撮影しているとき、よく見かけるその姿に見るべきものがある。つまり、次のように見える。

 咲く花は自分が子孫を残すために、蜜を出し、その蜜によって蜜蜂を誘い、その蜜蜂によって雄蘂から雌蘂に花粉を運んでもらう。蜜蜂はほかの生きものの命を奪うのではなく、花が出す蜜を自分の命の糧にしながら花の営みを助ける働きをしている。つまり、蜜蜂の営みはほかの生きもの(草木)の命を生み出すのに役だっている。植物学者の牧野富太郎は言っている。「もしも昆虫が地球上におらなくなったら、植物で絶滅するものが続々とできる」と。この言葉は蜜蜂の有益性を言っている言葉であるが、言わば、そこに展開している生の関わりは持ちつ持たれつで、この点からすれば、蜜蜂と花の関係性は、人間と他の生きものとの関係性よりも幸せであるということが出来る。

                                                                         

 そこで、更に思うのであるが、私たちは日々、美食を重ね、自分の口に合わないものは食わずに捨ててかかる。これは贅沢のなにものでもなく、現代にはこの贅沢が蔓延し、それが当たり前のようになって気づかずにいる。反面、地球上には飢餓に苦しんでいる者も多く、それを思うと、贅沢は罪ですらあるように思えて来る。罪には罰が付きものであるからは、罪な贅沢を身につけた現代人に罰が下らないはずはなく思われるが、成人病のごときがその罰と言えるかも知れない。

 これは、生きものの頂点にある人間として考えなくてはならないことであるが、人間は人間本意の考えに沿うから、この問題は解決し難いと言える。思うに、こういう現代人にはサバンナのライオンの営みを見せるのがよいように思われる。ライオンは自分の身を養うだけの狩りしかしない。ライオンのこの営みは互いの生の尊厳に通じている。欲望を欲しいままにする現代人にはそこに大きな逸脱が見られる。

 食うものは自分を養う最低限のところでよい。ところが、何でも欲しいままに出来る現代人は、毎日食い散らして飽きず、口に合わないものがあれば、容赦なく捨ててかかる。これは生きとし生けるものの生きる営みの原則に反する。これを突き詰めて言えば、現代人の食に対する感謝の念が足りない証を言っているものである。  写真は大待宵草の花に花粉を運ぶ蜜蜂と牧野富太郎の『植物知識』。 ~ 次回に続く ~

 


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2014年01月30日 | 写詩・写歌・写俳

<880> 食のことについて (1)

     生きるとは ものの命を奪ひその命によりてながらふること

 四月になると、野山には色とりどりの花が咲く。その花に誘われて歩いた日のこと。岡の斜面に二輪草が群生し、白い花を咲かせているので駈け上ってみると、少し窪みになった草の中で烏蛇が蛙を捕まえ、食べようとしているのが見えた。蛇は口を開け、蛙を飲み込もうとしているところで、蛇の口から蛙の足が二本覗いていた。蛙はもう観念しているに違いない。そのとき、ふと、見なくていいものを見てしまったような気がして、その日一日、生きものについて考えることになった。

 春は美しい花を色とりどりに咲かせるが、花が咲けば、その花に虫たちが集まり、その虫たちを狙って蛙が現れ、その蛙を狙って蛇が登場し、終には、蛇と蛙のごときドラマが展開されることになる。二輪草は何も知らぬげに春の日差しの中で風に揺られながら気持ちよさそうに咲いているけれども、蛇と蛙のドラマに関わりがないとは言えない。

 柳田國男は『野鳥雑記』の翡翠と金魚の話の中で、「物の命を取らねば生きられぬものと、食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の裁決に御迷いなされた。終には御自身の股の肉を割愛して、飢え求むる者に与え去らしめたというがごとき、姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかったのである」と言っている。 このブログの「<12>ケイトウとセセリチョウとカマキリ」の項参照。

  また、宮沢賢治は『よだかの星』の中で、「あゝ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのたゞ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。あゝ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢ゑて死なう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだらう。いや、その前に僕は遠くの遠くの空の向ふに行ってしまはう」と夜鷹に言わせている。これはまこと切ない。だが、これが生きとし生けるものの生きて行くということである。

                                                                          

 で、何と言っても、まず、第一に食わなければ生きて行けない。それも、生きているものを食わなければならない。つまり、生きているものの命を奪うか、傷つけるかして行かなければならない。そこには、食うものと食われるものの二つの命、つまり、生きとし生けるもの同士の平穏ならざる衝突が生まれることになる。その衝突の図が生の厳然たる証であり、日々の営みを示すものでありながら、私たちはその日々においてそれを気にも止めず、当たり前のこととして営んでいるということなのである。

 蛇が蛙を飲み込む光景に、この理不尽とも言えるような生の現実を突きつけられ、その営みから生じる衝突が生きとし生けるものの厳然たる宿命としてあることに気づかされ、この宿命を避けては生きて行けない私たちであることに思いが至ったから、見なくてもいいものを見たような気持ちになったのではなかろうか。で、『野鳥雑記』や『よだかの星』に思いが行ったのは、この宿命と言ってもよい現実と私の理路の間に調整しがたい気持ちの横たわりが感じられたからではないか。

 ここで、指摘されるこの事態を、私たちはいかに受け止めるべきかということが問われるわけで、ここに一つの課題が突きつけられることになる。そして、思うのであるが、そこに答えを得んとするなら、それは生きて行くために毎日摂っている食への感謝、つまり、食われて果てるものへの思いがなくてはならないということが思われて来ることになる。蛇は食われて命を失う蛙に感謝しなければならない。私たち生きとし生けるものはみな感謝の念を持って食べ、そして、生きなければならない。

  では、日々、私たちが奪って、食っているものの命とはどういうものなのであろうか。それは、単にタンパク質とかカルシュームとか炭水化物とか、そういう物質的な意味のものだけではなく、そのものの精神、つまり、魂までも含めた総体としてあるものに違いない。夜鷹が「僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ」というような気持ち、鷹が夜鷹を食うということは、そういう夜鷹のつらい気持ちまでも食うということである。

 卵を抱く蟹は美味なものだが、その蟹は生まれて来る子を楽しみにしているはずで、その蟹を捕って食うということは、その蟹の楽しみな夢までも奪い取って食うことになる。蟹にしてみれば、楽しみを奪われるのであるから、その楽しみに比例する悲しみがそこには生じるわけで、食うものはその蟹の楽しみと悲しみをも同時に食うということになる。生の営みはそれで終わりではなく、その蟹を食った者の中で蟹は生きることになる。とするならば、蟹の楽しみや悲しみもその食った者に引き継がれて行く。これが自然の道理ではないかと思われる。

 そういう理屈で、牛を食うものは牛の肉のみならず、牛の総体魂までも食うということになる。で、食われたものは食ったものの中で働きとなり、良くも悪くもみなそこに生かされることになる。でなければ、食われて果てるものたちは浮かばれず、この世の生きとし生けるものの公平は欠け、生のバランスは失われ、その営みは凄惨なものになってしまう。自然は絶対に公平にバランスされているはずで、公平に見えないのは、私たちにそれを見る力が足りないだけのことではないかと思われる。 写真はニリンソウと『宮沢賢治全集』。    ~次回に続く~

    牛を食ふものは その肉のみならず 牛の総体 魂までも 


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2014年01月29日 | 写詩・写歌・写俳

<879> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (58)

       [碑文1]         神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに                                             大伯(大来)皇女

        [碑文2]          うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟世(いろせ)と我が見む                                                 

  前回は悲劇に見舞われた大津皇子(おおつのみこ)の詩歌の碑に触れたが、今回は大津皇子の死に衝撃を受け、皇子への愛の挽歌を遺した姉の大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)の歌碑に触れてみたいと思う。まずは、大伯(大来)皇女について。皇女は天武天皇を父とし、母は天智天皇の娘の大田皇女で、天智天皇と天武天皇は兄弟であるから、母娘は従姉妹の関係にもあり、この時代の骨肉関係が知られるところで、大津皇子には同母姉に当たる。

 大伯(大来)皇女は、斉明天皇七年(六六一年)、身重の大田皇女が新羅遠征に同行し、筑紫に向かっていたとき、岡山県瀬戸内市邑久の大伯の海上において生まれたのでこの名があるという。因みに、大津皇子は天智天皇二年(六六三年)、遠征先の那大津(博多)の地で生まれたのでこの名があるという。この二人の出生地を思うと、母である大田皇女の行動力が察せられるが、皇女は天智天皇六年(六六七年)に病没した。この母の死は二人にとって大きい後ろ盾をなくしたに等しく、大津皇子の悲劇にも影響したと思われる。

 天武天皇の代になって、伊勢神宮に仕える斎王制度が確立し、一代一未婚の皇女がこの任に当たるため、大伯(大来)皇女が初代の斎宮に任じられ、天武天皇二年(六七三年)、皇女は泊瀬において潔斎の後、翌年(六七四年)の秋、伊勢神宮に赴いた。爾来、滞りなく斎宮の役目を果たしたが、父の天武天皇が薨去した朱鳥元年(六八六年)、二人の身に悲劇が襲い、大津皇子は死にやられ、大伯(大来)皇女は斎宮の任を解かれたのであった。

 死にやられた大津皇子の事件については前回の皇子の詩歌碑の項で触れたので、ここでは省くが、天皇薨去の一ヶ月も経たないうちに謀反の罪で死を賜った大津皇子には、母大田皇女のいないことが響いたと言わざるを得ないように思われる。この皇子の死によって大伯(大来)皇女にも火の粉が及び、皇子が死を賜った朱鳥元年(六八六年)十一月十七日、斎宮を退き、帰京したのであった。

         

  『日本書紀』は、これを「伊勢神祠(いせかみのまつり)に奉れる皇女大来、還りて京師(みやこ)に至る」と短く伝えているが、『万葉集』はこの大津皇子との関わりにおける皇女の歌六首を巻二に収め、そのときの非情の経緯と悲痛なる皇女の心情とを伝えている。以下にその六首を詞書並びに左注とともにあげ、碑文の歌碑にも触れてみたいと思う。まず、巻二の相聞の項に二首ある。

  この二首は、大津皇子が、天皇薨去の年の秋、単身伊勢を訪れ、大伯(大来)皇女に会い、帰途につくとき、皇女が見送りに出て詠んだ歌で、「大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御作歌二首」という詞書をもって見られるものである。まず、105番の歌に「わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし」とあり、続く106番の歌に「二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ」とある。

  このとき、姉弟二人がどんな会話を交わしたか不明であるが、このときの皇子の伊勢行きが『日本書紀』に見えないことや詞書の「竊(ひそ)かに」というような言葉づかいが見られることから、皇子の伊勢神宮への単独行動が罪に問われる因になったのではないかというような見解も示されるところとなっている。だが、皇子はこのとき既に死にやられることを察していたのではないかと思われる。聡明な皇子にして思うに、この伊勢への旅は最愛の姉に一目会っておきたいという一心によるものではなかったかと想像される。

  次は、皇子が死を賜り、十三歳から十三年間務めて来た斎宮を解任されて上京するときの歌で、この歌は巻二の挽歌の項に見える。「大津皇子薨(かむあが)りましし後、大来皇女伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時の御作歌二首」の詞書を有し、碑文1の163番の歌、「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」と詠われ、次の164番の歌では「見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに」とある。皇子の既にこの世にないその悲しみと絶望を抱いて皇女は都に向ったのであった。

  そして、帰京後、皇子の亡骸をニ上山に移し葬るとき詠んだとされる歌が二首続く。この二首にも詞書が見え、「大津皇子の屍を葛城の二上山(ふたかみやま)に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首」とあって、碑文2の165番の歌で「うつせみの人にある我や明日よりは二上山を弟世(いろせ)と我が見む」と詠み、166番の歌で「礒のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに」と詠んだ。

  この166番の歌には左注があって、次のように言っている。「右一首、今案(かんが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし、疑はしくは、伊勢の神宮より京に還る時、路のへに花を見て感傷哀咽してこの歌を作るか」と。皇女の帰京は十一月だったので、馬酔木に花はないからこの左注は誤りであるとする指摘がなされている。

 だが、馬酔木という木は、秋には既に花芽をつけていることが一点、歌に「生ふる馬酔木」とあり、「咲ける馬酔木」とは表現していないことが一点、それに、移葬のときであれば、「見すべき君」は棺の中に存在するわけで、馬酔木の花を手折って供えることが出来る。左注はこの点に照らし疑問を呈したと考えられる。で、左注の疑問符の見方に私は賛同するものである。つまり、166番の歌は、帰京の際、道の辺に馬酔木の花芽のついた枝を見て、感傷哀咽して詠んだと見る次第である。

  以上が大伯(大来)皇女の弟大津皇子に思いを馳せた六首であるが、この中の挽歌163番の歌と165番の歌が大和の地において碑になっているわけで、碑文1の163番の歌は『懐風藻』に載せられている皇子の五言絶句に添えられ、桜井市吉備の春日神社境内に見え、これは前回の皇子の項でとりあげた通りである。

  一方、碑文2の165番の歌は、葛城市當麻の健民グラウンド近くと、桜井市吉備の吉備池の堤上二箇所に見られ、ともに大津皇子に縁の地であることがわかる。この歌碑の歌を含め、『万葉集』に大伯(大来)皇女の歌は大津皇子に寄せて詠んだこの六首以外にないが、この六首は『万葉集』を代表する愛の歌と言ってよく、『万葉集』が殊に愛を歌い上げた恋歌と挽歌の詞華集である特徴を言うに欠かせない歌として感銘深き歌群であることが言える。

 写真は左から葛城市當麻に見られる碑文2の歌碑と桜井市の吉備池の堤に見られる同じ歌の歌碑。次は吉備池近くの春日神社の境内に見られる大津皇子と大伯(大来)皇女の詩歌碑の文面、右端は大津皇子の墓がある二上山(右が雄岳)。   二上(ふたかみ)は 二つ並んで 冬の色

 


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2014年01月28日 | 写詩・写歌・写俳

<878> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (57)

     [碑文1]     足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二                                                大津皇子

     [碑文2]     百(もゝ)伝(つた)ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(かく)りなむ                            同

    [碑文3]     金烏臨西舎 鼓聲催短命 泉路無賓主 此夕離家向                                                            同

 碑に刻まれているこれらの短歌や漢詩は、悲劇の皇子として知られる大津皇子(おおつのみこ)の作で、碑文1、2の短歌は『万葉集』、碑文3の漢詩は『懐風藻』に収められているものである。碑文1の短歌は、巻二の相聞の項に見える102番の石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈った原文表記の歌で、「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」 と語訳されている。

 碑文3の漢詩は「五言・臨終・一絶」として見え、「金烏(太陽)は既に傾き、西の家屋に照り、時を告げる鼓の音は死を前にした短い命を急き立てる。黄泉への旅路は主も客もなく、ただ一人である。この夕べ、家を離れ、その黄泉への旅に向う」という意で、死を目前にして作られたものであるのがわかる。ただ、この漢詩は大津皇子に同情した別人が皇子になり代わって作ったものであるとする見解も見える。どちらにしても、悲痛極まりない詩である。碑文2の短歌は、これも悲痛な歌で、この漢詩の反歌のような趣がうかがえる。「百伝ふ」は磐余にかかる枕詞で、皇子には日ごろから見ている鴨であるが、その和やかな鳴き声に比して死にやられる身の辛さがこの歌には滲んでいる。

                       

 これらの詩歌を理解するには、大津皇子と皇子の時代を知らなくてはわからないので、以下、そこに触れてみたいと思う。大津皇子は、天武天皇と天智天皇の娘である大田皇女の皇子であるが、天武天皇には『日本書紀』に記されているだけで十人の妻があり、大田皇女と鵜野皇女(後の持統天皇)、大江皇女、新田部皇女の四人が天智天皇の娘で、ほかに、藤原鎌足の娘(氷上娘・五百重娘)や蘇我赤兄の娘(大ぬの娘)があり、宮女の額田王、尼子娘、かじ媛娘の名も見える。

  これらの妻に十人の皇子があり、その名は新田部皇子(母は五百重)、穂積皇子(母は大ぬの)、高市皇子(母は尼子)、忍壁皇子・磯城皇子(ともに母はかじ媛)で、これらの皇子は天智天皇の娘の子ではない皇子で、皇統の対象外と目される立場にあった。因みに、額田王と氷上娘に皇子はなかった。

  で、皇統を継ぐ資格を得て見られていたのは、次の五皇子で、鵜野皇女の姉大田皇女の子である大津皇子と鵜野皇女の子である草壁皇子、大江皇女の子である長皇子と弓削皇子、新田部皇女の子である舎人皇子がいたが、序列から、長女の大田皇女の子である大津皇子が一番で、鵜野皇女の子である草壁皇子が次にあった。

  ところが、天智天皇が亡くなって、大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の子である皇太子の大友皇子が政権を賭けて戦った壬申の乱で大海人軍が勝利し、大海人皇子が天皇になった。ところがこのとき、大田皇女は既に病没していたため鵜野皇女が立后し、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)となって天皇を支え、政治を進めて行った。これに沿って、大津皇子は退けられ、草壁皇子が皇太子に立てられたのであった。

  大津皇子は幼少のころより学問を好み、成長するに従って文武に秀でた才を発揮したと言われ。誰からも愛される人格の持ち主であったと『日本書紀』も『懐風藻』もともに伝え、絶大な人気を得ていた。これに対し、一つ年長の草壁皇子は病弱であったためか、皇太子でありながら天武天皇を継いで即位することが出来なかった。だが、我が子の可愛さは世の常で、草壁天皇に執着した鵜野讃良皇后の意向は止まることがなく、大津皇子の死にやられる事件が起きることになる。これが凡その見解と言えるが、事件の起因についてはいろんな説が出ているのは他に比して見てもあることと言える。

  即位後十四年を経た朱鳥元年(六八六年)に天武天皇が薨去すると、その後継を巡る事件が起きるべくして起きたのである。それが、つまり、謀反の嫌疑をかけられて死にやられた大津皇子の悲劇であった。それは、前述したように、草壁皇子を天皇にしたい鵜野讃良皇后の意によるものであったろう。一つには『万葉集』巻二の107番の碑文1の相聞歌の相手、石川郎女を巡る恋の争いがあったとされる。石川郎女は、この大津皇子の歌に対し、「吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを」と108番の歌で返している。まこと、相思相愛の相聞であることがうかがえる。

  これに対し、「大名兒を彼方(をちかた)野邊に刈る草の束の間(あひだ)もわれ忘れめや」(『万葉集』・110)と草壁(日並)皇子が詠んでよこした歌には返歌しなかったと見え、『万葉集』には返歌は載っていない。石川女郎(郎女)が草壁皇子を袖にしている様子がうかがえる。しかし、この一連の相聞には今一首、「大津皇子、ひそかに石川女郎(郎女)に婚(あ)ふ時、津守連通その事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りましし御歌一首」という詞書を持つ大津皇子の歌が見られる。巻二の109番の歌で、「大船の津守の占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し」とあって、意味深長なこの歌によってこの恋が策謀によるものではないかということが疑問符をもって言われたりしている。

  即ち、この一連の歌からすれば、この恋は大津皇子の勝利のように思われるけれども、占いが登場するところなどを考えると、この恋自体が仕組まれたものではなかったかということが言えるわけである。しかし、恋の条くらいで大津皇子が見舞われる悲劇が起きるはずはなく、事件の本質にこの恋の条は付加されるくらいのものであったと言ってよかろうと思われる。

  事件の本質は明らかに後継争いにあったとされるのが大方の見方で、それは、天智天皇の第二皇子である親友の川島皇子の密告によって謀反の嫌疑をかけられ、死にやられたものと言われる。『日本書紀』には、皇子大津の謀反が発覚したので逮捕し、これに連座したもの三十人余を捕えて、翌日、皇子大津に訳語田(をさだ)の家で死を賜らせたとある。ときに大津皇子二十四歳。このとき天智天皇の娘で、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、はだしで走り出て、寄り添い殉死したという。このとき見るものみなすすり泣いたと紀は伝えている。

  このようにまでして我が子草壁皇子に肩入れしなければならなかった母親としての鵜野讃良皇后の執念は、しかし、実ることなく、病弱であった草壁皇子は即位することなく、その三年後、二十八歳にして世を去った。で、皇后自らが即位し、持統天皇となって、草壁皇子の忘れ形見である軽皇子(後の文武天皇)の成長を待つことになったのである。

                                                               

  大津皇子の碑文の詩歌はこの悲劇を語るもので、『万葉集』には、大津皇子の同母姉で伊勢神宮の斎宮だった大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)の詠んだ大津皇子を悼む挽歌が見え、この挽歌も歌碑になっている。これについては次回に触れたいと思う。

  なお、碑文1の石川郎女への相聞の歌碑は大津皇子の墳墓がある二上山の麓の葛城市當麻町の当麻寺近くに建てられている(写真上段左端)。碑文2の悲歌の歌碑は二箇所に見られ、一つは桜井市吉備の吉備池の堤上に建てられ(写真上段左から三番目)、一つは橿原市東池尻町の御厨子観音と称せられる妙法寺近くに建てられている(写真上段左から二番目)。また、碑文3の漢詩の碑は「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」という大伯(大来)皇女の歌が添えられ、吉備池の傍の春日神社境内に建てられている(写真上段右端)。

  大和三山の香具山の東から桜井市にかけての辺り一帯は大津皇子が住まいしていたとされる磐余(いわれ)の地で、古道の磐余道で知られる田園地帯である。今も昔ながらの集落が点在し、溜池の多いところである。下段の写真は桜井市吉備の吉備池(後方に大津皇子の墓があるふたこぶラクダの二上山が遠望出来る)と二上山雄岳の大津皇子の墳墓。西面しているのが意味深長である。  吉備池の 鴨二羽 仲のよささうな


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2014年01月27日 | 写詩・写歌・写俳

<877> 孤独のすすめ

    雁の絵の雁の羽ばたき 雨の日の 風の日の 淋しかる日の君の

      言葉たらんとしてある言葉を信ずるなかれ

     思ひたらんとしてある言葉のみを信ずるべし

 私には理解者がいないとあなたは嘆くか。孤独はかくして生まれるが、厳しく淋しい中で孤独は誇らしいものである。信念を持って歩きたまえ。あなたの道は険しいが、そうすれば、きっと開かれたものになろう。

 見え隠れする理解者の言動などが何になろう。あなたが期待する理解者はどれほどあなたに応え得るか。期待する理解者ほど当てにならないものはない。身勝手にして、平気であなたを裏切る。孤独自身があなたの一番の理解者である。もちろん、この孤独を曲解してもらっては困る。ここで述べたい孤独というのは、内に籠るという意味の孤独ではない。

 友よ、誇らしい孤独者であれ。思想、そう、巨視的眼差しをもってあること。人格、そう、孤独を分かつものとしてあるところ。そして、すべてを包み込む、そう、愛する器たらんこと。それでよい。これだけ揃えば、友よ、言うことはない。さあ、行きたまえ。

                                  

 あなたは感じるはずである。雨の日も、風の日も、雪の降る日も、淋しさがつのる日も、雁の絵の雁の羽ばたきが天を指してただ一羽。そう、昇り行く姿に孤高の精神を見、画家がこの雁に憧れをもってあったことを。友よ。孤独を抱いて行くべくあれ、そして、誇らしい孤独者であれ。それが、あなたの自然体としてあるならば、言うことはない。友よ、孤独は悪くない。そのことを雁の絵は教えている。

     なめらかに添ひ来るものを恐れゐよ心の襞を過る言葉も

     弾む声その足る声のさ中にてニーチェの声す友よ孤独を

 友よ。私たちの周りには、心を惑わせるものが多い。言葉もその一つである。言葉たらんと欲する言葉、例えば、滑らかに添い来る言葉、その言葉に気をつけよ。そして、思いとしてある言葉。例えば、心から弾んで出る声としてある言葉、この言葉に偽りはない。友よ、そこを見極めよ。私は『旧約聖書』の「詩篇」の言葉を思い起こす。

      悪しきものの謀略に歩まず

      罪人の道に立たず

      あざけるものと座を同じくせぬ

      その人に幸あれ                      (関根正雄訳)

 そして、友よ、雁の絵の羽ばたく雁とともに行くべくあれ。如何なる孤独も信念を曲げずにあるものは美しい。友よ、美しく羽ばたくべくあれ。写真はイメージで、羽ばたく鳥。