大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年10月31日 | 創作

<3214> 作歌ノート  ジャーナル思考 (三)

                汗を拭ひつつ氷屋が挽く氷社会派記者の昭和史の記事

 社会の正義を担い働く記者たちは、日夜を問わず駆け回る。彼らが耳目にする情報はニュースとなって読むもの読者の知性と感性に触れ、或るは悲劇の色濃い中で伝えられる。こうして構築され語られるニュースは、いつしか歴史のライブラリーに納められるのであるが、ときにはそのライブラリーを開き、納められた実録を引っぱり出して、検証することも求められる。

                   

 例えば、社会派記者の昭和史の記事。それは、忘れてはならないことを読者の目に甦らせ、意識の端に引きつけ、また印象づける。時代が過ぎ、郷愁を纏うようなものであっても、実録を引き出して検証することは大切なことである。今年の夏はことのほか暑かった。あの年の夏も暑かった。記事は、この暑さの中にあって、より一層の思いをもって読まれたはずである。 写真は一九七五年と七六年のスクラップブックの紙面切抜きの一部(本文及び歌とは関係しない)。

   自らの影を踏む群昭和史を遡り悲愴の在処を強ひる

       「戦」といふ文字に浮き立つ死生観戦前戦中戦後「戦」とは

    戦ひに赴かざりしものもみな傷口深くありけむ戦後

    停留所脇の緋カンナ昭和史の戦後における声を伴ふ

    昭和史の戦前戦中戦後編昔を今に咲きゐるカンナ

        昭和史に戦前戦中戦後あり「戦」の言葉にモノクロ写真

        降りしきる雪に神殿昭和なる戦前戦中戦後が纏ふ

        昭和史を辿ればそれは激動の昭和と言へる大戦もあり

       「激動の昭和」を言へば「戦昭和」戦前戦中戦後なる「戦」

    天皇の崩御と父の死がありて一つの時代終はりたるなり

        天皇の崩御と昭和 大いなる凡庸なほも思考を遂げず

    時は過ぎ 時は流れて昭和ゆく九千の心に寄り寄られつつ

    斯くありし一つの時代終はりたりその感慨の延長に今

    時は過ぎ 時は流れて昭和往き我らは今にありけるところ

    蘇ることなどあるな昭和なる軍靴の音の高鳴りなどは


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年10月30日 | 写詩・写歌・写俳

<3213>  余聞 余話 「第71回奈良県美術展覧会」に寄せて

  第71回奈良県美術展(奈良県展)が二十九日(木)に奈良市の県文化会館で始まり(十一月一日まで)、鑑賞に出かけてみた。展示作品は公募による作品のほか審査員、参与、招待者、無鑑査等合わせて、日本画48点、洋画136点、彫刻34点、工芸62点、書芸123点、写真104点が例年通り部門ごと展示されていた。

 各部門の最高賞である県展賞は次の通り。

▷ 日本画 「川 2020.5-2」 神先智子 (審査員評: 写実性と抽象性は、そのバランスが大切であり、難しい表現上の問題を孕んでいる。箔の仕事、その下の岩絵具の仕事を生かし、見事にそれを解決した魅力ある作品である)。

▷ 洋画 「ガラスの中の風景(梅田)」 井上麻菜 (審査員評: 日常のさりげないビルの一隅を造形としてトリミングし、作品に仕立てています。ガラスの質感を良く表現し、都市の印象を交錯させています。今一つ、欲を言えば手前の空間をやや、暗く表現すれば、より一層、外のテーマである反射した世界が際立つのではないだろうか)。

         

▷ 彫刻 「台地の家」 豊永秀男 (審査員評: 固い素材を使って雄大な台地がうまく表現されています。カッティングの大胆さが繊細な造形をひきたたせています。昨年に続いての県展賞です。今後の作品にも期待します)。

▷ 工芸 「冬の音」 堀野嘉子 (審査員評: おおらかな造形性と器面の繊細なレリーフ状の表現とが力強く、存在感のある作品に仕上がっています。また、陶芸の特性でもある土の面白さも充分に生かされた秀れた作品です)。

            

▷ 書芸 「百人一首」 片岡尚子 (審査員評: 百人一首を一つの作品によくまとめている。似た作品の多い中、安定した美しさが目にとまった。まず、全体の流れが美しい。墨の潤渇も自然にうまれ、何か見てホッとするものを感じます。中央にもう少しの暢(の)びやかさが欲しいとも思います)。

▷ 写真 「凛とした朝」  金池良通 ( 審査員評: 凛とした冬の朱雀門の写真です。手前の色づいた草の色も良く、降霜の朝の冷たさ、太陽の暖かさも伝わり、雄大な写真になっております。歴史的な時の流れも表現されており、県展賞に相応しい作品です。大きくするとより強い作品になるでしょう )。

 新型コロナウイルス禍の状況にあり、訪れた鑑賞者はみなマスク姿であったのが印象的だった。  写真は県展賞の作品。上段左から日本画、洋画、工芸、書芸(部分)、写真。下段左は彫刻、右は鑑賞する人たち。

   絵にも見ゆ明るきものと暗きもの公募展なる一つの世界

 [追記] 県展の公募展を見て思うのであるが、会期が非常に短く、作品の鑑賞がごく限られたものになっている感がある。それでも県展の権威は応募者にとって一つの励みで、例年多くの作品が出される。優れた作品には賞が贈られて顕彰され、応募者には県展の権威によるこの賞が励みになり、賞に与ることが一つの希望のようになっているところがうかがえる。

 しかし、その作品自身はほんのわずかな期間お披露目されるのみで終わる。展覧会とはそうしたものであるが、展示された作品群を拝見するに、これではもったいない気がする。そこで思われるのであるが、各部門で入賞を果たした作品を一般人がよく訪れる公共施設、例えば、病院とか会館のようなところに一年間展示し、次期県展の作品と入れ替えるようにすれば、県展の幅も広がり、作品ももっと意義あるものになり、応募者の励みも増すことになる。いかがであろうか。

 また、思うに、一つの区切りに入選作品の回顧展を開くのも、県展の歩みや奈良県の一般に普及している文化の変遷を辿る意味においても意義あるものとしてみなせる。作品の紛失などが考えられるが、全部揃わなくても、美術による時代の変遷をうかがうことが出来よう。県展の歴史を辿る時代の作品群による回顧展はこうした意味において意義あるものと思える。

 


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2020年10月29日 | 植物

<3212> 大和の花 (1132) ヌカキビ (糠黍)                                           イネ科 キビ属

                                              

 田の畦や池辺、道端などの湿り気のあるところに生える1年草で、細くしなやかな茎を直立し、高さが30センチから1.2メートルほどになる。葉は長さが5センチから20センチほどの線形で、葉舌は短い膜質。茎も葉も無毛であるが、葉耳の部分に毛がある。

 花期は7月から10月ごろで、茎の上部に細くしなやかな枝を横に伸ばし、長さが15センチから30センチの円錐花序を形成し、小穂を垂れ下げる。小穂は長さが2ミリほどの長卵形で、緑紫色を帯びる。小穂には小花が2個。1個は退化し、実は広楕円形で、突起がある。

 ヌカキビ(糠黍)の名は、ごく小さな小穂を糠に擬えたことによるという。北海道、本州、四国、九州、西南諸島に分布し、朝鮮半島、中国、ウスリー、インド、インドシナ、オーストラリアなどに見られるという。大和(奈良県)では普通。 写真はヌカキビ。   秋晴や子らの帽子の銀杏色


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2020年10月28日 | 創作

<3211> 写俳百句 (1)   エノコログサ

              夕映えにえのころぐさの合唱歌

             

 一概には言えないけれども、春と秋では野山の草花に何となく雰囲気の違いが感じられる。多分、夏に向かう春と冬に向かう秋との感覚的違いによるのだろう。野原一面に見られる春のタンポポと群生する秋のススキを見るに、黄色の頭花と銀白色の花穂には、色彩だけでなく、春と秋の季感が微妙に影響しているところがうかがえる。

   朝陽が似合うタンポポの花と夕陽が似合うススキの花穂。この違いの不思議、これは四季の巡りにあってその春と秋の概況の違いに起因する気がする。ススキと同じイネ科のエノコログサにも言える。エノコログサも夕陽に映える花穂に定評がある。歌で言えば、タンポポには独唱歌の趣があり、ススキやエノコログサには合唱歌がイメージされる。  写真は夕陽に染まり、輝くエノコログサ。

 [ 註 ]  この頁より写真と俳句を組み合わせ、これに短文を添える一般に言われるところの「写俳」を試み、ときにより掲載し、百句を目標に進めて行きたいと思う。出来るかどうか。とにかく、スタートしてみたい。


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2020年10月27日 | 写詩・写歌・写俳

<3210>  余聞 余話 「秋の寸景」

       秋深む古塔も見えて静かなり

 何においても表があれば裏がある。大体私たちは表に接して満足し、裏を見ようというようなことはあまりしない。よほどの興味がなくては裏を見ることはない。裏は表の姿を保ち支える側にあり、表と対抗する姿にはないのが普通で、裏を見せないようにしているところもうかがえる。

   ところで、東大寺大仏殿、本尊の盧舎那仏、大仏さんは、表だけでなく、周囲、つまり、裏にも回って後姿に接し、拝観出来るようになっている。大仏さんの光背は表のどっしりとした大らかな坐像の姿を支えている。大仏さんの裏側に回ると、そうした裏の姿があって表のどうっしりとした感動の姿があると認識される。

                         

 もちろん、大仏さんは一つの例で、この表裏のことは何処にもある。観光地にも言えよう。旅行者は事前の情報に従って観光コースの表を見て回る。つまり、訪れる観光客には大概において裏側に触れることがないように設定されている。もちろん、その表のみで満足するのであればそれでよいのだろうが、少しもの足りなさが私などには生じて来る。旅が旅先の地に触れて風土を感じることの心地よさに至るのを思うに、表だけでなく裏にも触れられれば、旅情も深まるということになる。

 この間、斑鳩三塔を巡り、法輪寺で少し周囲を歩き、裏の池の方まで足を伸ばした。そうしたら表とは違った飾らない秋の里の風景がそこにはあった。この写真がそれであるが、この風景には普段の穏やかな暮らしの中で、今まさに収穫を終え、深み行く秋の時が感じられた。そして、後方には古塔法輪寺の三重塔が木々に囲まれ立っていた。 写真は斑鳩の里の秋(後方は法輪寺の三重塔)。