大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年06月30日 | 祭り

<667> 石上神宮の神剣渡御祭 (でんでん祭り) と 夏越の茅の輪くぐり

       いつの世に あれど 違はざる願ひ 夏越しに数多の 人が集へる

 早いもので、今年も半分過ぎた。六月三十日は夏越の大祓(おおはらい)の日で、各地の社寺で茅の輪くぐりが行なわれた。天理市布留町の石上神宮では神剣渡御祭(でんでん祭り)の御田植祭が行なわれ、引き続いて、夏越の大祓式の茅の輪くぐりの神事が行なわれた。今年は三十日が日曜日と重なって、参拝者も例年になく多かったようである。

                                                         

 神剣渡御祭は石上神宮の御神体である神剣が近くの末社、神田神社(こうだじんじゃ)に渡り、そこの境内でお田植えの神事と行事に臨むもので、神剣(代理の国宝七支刀のレプリカ)を中心に神官やお田植えの神事を行なう一行が列をつくって歩いた。お田植えの神事は、砂が敷かれた境内の中央に注連を張り、その中で、お田植えの所作が順次行なわれた。作男と牛役、早乙女らが登場し、ユーモラスな掛け合いが飛ぶとともに艶やかな所作も披露された。

                                           

 米は八十八の手間をかけてはじめていいものが出来る。それだけ苦労がいるので、昔からその苦労を紛らわせるのにユーモラスなことも仕事の合間に見られた。今日の所作にも繋がっている。元気の「気」という字は旧字で「氣」と書くが、この字には米が加わっている。米は元気の基にあるもので、日本の文化の基になっている。御田植祭の挨拶で宮司はこのような意味のことを語った。

 また、今後もこの神事をずっと続けて行きたいとも述べた。各方面で欧米化が進み、文化の侵食現象が著しい昨今の事情の中で、日本の伝統的文化を引き継いでいる聖域の神社にして、斯くいう状況は迫り来たっているのかとも思われたことではあった。毎年同じことをやって、或るは千年を重ねている。これが伝統で、この伝統こそが無事の実例であり、この実こそが信に通じることを宮司の言葉とともに噛みしめたことではあった。

                                                        

 神剣渡御祭が終わった後、大祓式の茅の輪くぐりが行なわれ、今年の後半、夏の暑さを凌いで、無事にこの一年が越えられますようにと参拝者は拝殿に手を合わせたのであった。因みに、この神剣渡御祭を「でんでん祭り」と呼ぶのは、渡御に際し、太鼓を打ち鳴らしながら歩くため、その音によると言われる。また、神剣渡御祭の御田植祭は一月から行なわれている大和の御田植祭(おんだ祭り)の殿に当たる恒例の行事である。      水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり

 


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2013年06月29日 | 写詩・写歌・写俳

<666> 最近の世の中

      一人は一人の思い 二人は二人の思い そして 千人は千人 万人は万人の思い

         ところで 万人は一人一人の万人で そこにあるのは 一人一人の 万人の 思いだ

 この間、宇陀市の鳥見山に登って、帰りに見晴らしのよい展望台で弁当にしていたら、私とほぼ同じ年格好の男性三人がやって来て、やはり弁当を開いた。別ルートを歩いていたのだろう。途中で遇ったグループではなかった。三人は弁当を開くと話を始め、話は弾んで、弁当の休憩時、途切れることはなかった。

 女同士はよくわからないが、男というのは政治向きの話が好きだ。これは私にも言えようか。三人の話はこの政治向きになり、煩わしいとも思うことなく、耳を傾ける仕儀になった。話というのは概ね次のようであった。

 まず、アベノミクスについて切り出した。国民に期待感を持たせるのはいいけれど、と前置きして、このまま順調に事は運ぶのだろうかという話になった。世界を相手のことだからそんなに容易いことではないというのが三人の一致した意見のように聞こえた。

 経済は生きもので、生きものはしたたかなので、机の上の理論通りにはなかなか運ばない。我が国がよい方向に向えば、往々にしてどこかの国がおかしくなる。ともに満足な発展が出来れば言うことはないが、それがそう行かないのが常の世界である。

 そのうち、寡黙を通していた一人が突然口を開いた。どうも近ごろおかしい。いつの間にこんな風な世の中になったのか。株価の乱高下を見ていると、そう思えて、何か空恐ろしいような気持ちになる。もっと足が地に着いた経済運営がなされないと、これはよくない、とそんな風に語り出した。

 何か国全体で博打をしているような気がする、と彼は言った。それも国が率先して博打に手を染めている。そんな感じだ、と彼は続けた。これではいけないと思うが、国民の大半は「よし」として、支持している。そりゃあ、株価の上がることは悪くない。しかし、それが経済の発展による自然なすがたで現われているのなら何も言うことはないが、現況はそうなっていない、と彼は言い切った。

 日銀がじゃぶじゃぶ御札を出して、株価操作の担い手になっているのは異様な光景だ。日銀が国債を買うというのも不思議な気がするが、国の借金を増やすばかりで、そこのところの手当てが出来ていない。今回の政策ではここへの対応が忘れられたように抜け落ちている。諸事情の根源は国の大借金にあることを、国の運営に当たっている連中にもっと危機感をもって考えてもらわなくては困るとも彼は言う。ここのところが肝心な箇所であるが、政府はこれに触れない。

 これで将来が約束出来るのだろうか。無理じゃあないか。日銀が出すそのお金だけれど、どこへどのように流れて行くのか。それがわかれば少しは気分も落ち着くはずであるが、それが国民にはとんとわからない。ここも問題である。で、彼はなおも続けた。

                               

 思うに、多分、大半は海外へ流れて行くのだろう。株価の乱高下はそれをよく物語っている。株価を吊りあげるのは海外の投資家で、それにつられて一般の投資家が買いに向う。その上がった株を投資家は売り抜けて次なるターゲットに向う。そうすると、株価は下がって、一般投資家はあわてふためくことになる。これが株式の今日的な現象である。

 こういうのを繰り返してプロの投資家は利ざやを稼ぐ。それが億兆円単位になる。そこで稼いだ利ざやはどこに流れて行くのだろう。多分、米国辺りに納まるはずだが、今後は、経済が危機的状況にある欧州に向うのではないか、彼はそのように予測する。

 世界のすべてにおいてリーダーシップを取りたがっている米国に良心というものがあるならば、お金の流れは欧州に向うはずである。だが、ここに立ちはだかるのが中国であり、韓国であり、新興国であろう、と彼は続けた。日本はこういう世界情勢の中で、各所に対応しなくてはならないから軽々に事を運ぶわけにはいかないだろう。TPPにしても言える、と彼は言った。

 そこで、景気が思うに任せないのに、株価が上がるという現象をどう見るかだが、これは思惑買いに走らせる政治的操作のほかに考えられるところがない。この一見わかったような政治による操作を国自体が行ない、国自体が乗っかって国民の一喜一憂の種になっている。これは実に恐ろしいことなのだが、儲かるという言葉にみんな弱く、その言葉に酔わされる。

 お金というのはより大きい方へ流れて行くが、お金の求心力は確かにそのようである博打をするなら大金を持ってなすべきであるが、やっている本人が大金だと思っていてもそれに勝る大金に吸い取られて行く。一千万とか二千万は個人にとって大金だが、株を運用し、操作しているプロの投資筋にしてみれば、日常茶飯の微々たるものなのだ。

 しかし、その微々たるも昔から言われる。「塵も積もれば」で、世の中をおかしくもするし、国を危うくもする。それは国民を困らせることになり、福島第一原発事故に重なる懸念が、今回の政策にはつきまとって来ると言える、と彼は持論へと口舌を激しくした。

 米国は金融の行き詰まりで、リーマンショックという恐慌に陥ったが、そのとき、救いの手を差し伸べたのが皮肉にもこの金融のプロたちであった。だが、それだけで、経済を立て直したわけではない。経済は地道な政策により、実質面の努力があったことによって、それが偶然にも一致したのである。

 一人の口舌は以上のごとくであったが、この講義を聴くような口舌には何か頷かされるところがあった。博打とはよく言ったものである。言わば、国自体が博打に加担していると言ってよかろうか。博打はやくざの世界のものという印象は昔語りでしかないか。このごろ、世の中自体がやくざな世界になっているのかも知れないとも思えるのである。

 このやくざな世の中のなりゆきは、ささやかに暮らしている者をもその渦中に巻き込んで行く気配がある。三人の話はなお続き、憲法にも及んだが、この憲法については、また、いつか触れてみなければならないと思っている。 写真はイメージ。


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2013年06月28日 | 写詩・写歌・写俳

<665> 降ったり止んだり

       降ったり 止んだり

      この世は 気まま

      ときには泣きたい こともある

      そうだ そうだ そううだよな

      泣きたいときには 泣けばいい

      泣いて気持が 晴れるなら

      だけど 降ったり止んだりは

      どんなにしても 尽きぬもの

      この世は 気まま 明日もまた

      雨かも知れぬが その後は

      再び晴れとはなる 気まま

      この世の定め このことは

      誰が何と 言ったって

      降ったり止んだり 果てはない

      君にも そして 私にも

      果てのないのが この世の気まま

      ただ これだけは 言えること

      扉はいつも 開かれて

      君が 私が 如何なるも

      明日は必ず やって来る

      それも気ままに やって来る

      降ったり 止んだり

      この世は 気まま

      気ままなこの世に 生きている

 「この世ではとにかく粛々と一生懸命に生きることだ」とマルハナバチが言った。「多少は辛抱も必要だ」とシジミチョウが言った。「辛いことのある中で、幸せは見出すものだ」とナツアカネが言った。風に少したじろいで、雨に我慢の姿もあるが、概してこの世は情けの世界。生きとし生けるものはみな、そこここにあり、それぞれに、そして、それなりに生きている。君も、私も、みなすべて、情けの間(はざま)に生きている。

                                 

  達者なことは何よりだ。けれども達者でないものも。そう、そのことだ。それやその、辛さにあって頑張るも、この世の中の一つの姿。すべてのものに神はあり、気ままなこの世に見え隠れ。マルハナバチに万歳を、シジミチョウにも万歳を、ナツアカネにも万歳を。すべてでつくるこの世だから、小さいものにも万歳を。辛いものには情けの心。情けの心に万歳を。辛さの中にも安らぎを。その安らぎに万歳を。みなみなこの世に生きている。気ままなこの世に生きている。


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2013年06月27日 | 写詩・写歌・写俳

<664> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (27)

         [碑文]   ふぢはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる                    會津八一 (秋艸道人)

  この歌は「法華寺本尊十一面観音」の題詞によって歌集『鹿鳴集』の「南京新唱」に所収されている。これ以前にも小歌集『南京新唱』に見える八一の代表作の一首である。いつごろ詠まれたものかはっきりしないが、彼が奈良を訪れた明治四十一年(1908年)から小歌集『南京新唱』が出された大正十三年(1924年)の間であろうと言われている。法華寺は平城宮跡の東に隣り合わせる奈良市法華寺町の一角にあるお寺で、聖武天皇の妃、光明皇后のお寺として知られる門跡尼寺である。

  このお寺は光明皇后の父である藤原不比等の邸宅だったのを、不比等の没後、皇后が相続し、宮寺にしていたが、仏教に篤く帰依していた聖武天皇が全国各地に国分寺と国分尼寺をつくるに際し、東大寺を建てて国分寺の中心である総国分寺とし、四天王護国之寺としたのに合わせ、法華寺を総国分尼寺とし、法華滅罪之寺と呼ぶに至り、皇后を中心とし、唐風呂(空風呂)の浴室を建てるなどして困っている病の庶民を救い、慈悲を施したという謂れのあるお寺である。

                     

  本尊は十一面観世音菩薩立像で、この立像は皇后を模して作られたと伝えられる像高一メートルの榧(かや)の一木造りで、平安時代初期の弘仁仏と言われ、国宝である。現在は、昭和四十年(1965年)にこの像を模って作られた白檀の分身像が置かれ、本尊の国宝仏は秘仏とされ、一般には特別開扉のときにしか対面することが出来ないことになっている。

  この十一面観音菩薩立像は、頭部に衆生の十(全て)の煩悩に対処する十一の化仏を配し、中央頂部の化仏は仏果を表すとされ、ハスの蕾と若葉を光背にし、蓮華座に立ち上がって、右足を座から踏み出し、救いを求める者の許へ赴かんとするような動きが表現されていると言われる。また、救いを行なう右手が膝の辺りまで長く伸びているのが特徴としてあるが、美貌の皇后を写したと言われるだけあって、その尊顔は目鼻立ちがはっきりとし、ふくよかな女性らしさが見られ、殊に赤い唇は官能的ですらあり、八一にはこの唇が印象に残ったのであろう。

 『南京新唱』には法華寺における皇后に関する歌が「法華寺温室懐古」と題して、この碑文の歌に続いて三首連ねられ、「ししむらは ほねもあらはに とろろぎて ながるるうみを すひにけらしも」とあるように、浴室の唐風呂(蒸し風呂)によって病の人々を助けた慈悲深い皇后の姿が詠まれており、ここにも十一面観音と同様に、皇后の一種異様とも言える美しい唇が表現されている。つまり、この歌は骨があらわに見える弱り切った病人の体から出る膿を皇后がその美しい唇で吸い取る姿を想像して詠んだものである。

  言わば、「ふじはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく」というこの碑文の歌の表現は、八一がこの国宝仏を拝し、光明皇后自身に接しているごとく魅惑されたことを証するもので、八一にはこの立像の由来を事前に聞き及んで知っていたからこそこのように詠むことが出来たと言える。仏像における現代の知識では常識になっているこの逸話であるけれども、この歌は歴史に造詣の深いゆえに生まれた八一の成果の歌と言ってよいように思われる。

  この点、「ふじはらの おほききさき」という表現にも、八一の歴史に造詣の深いところが見てとれると言ってよい。この表現は、光明皇后の系譜をして言っている言葉と知れる。要は、藤原氏の世を開いた皇后という認識が八一にはあったからで、この一首は単に仏像の評価のみに止まる歌ではないことが思われる次第である。

  光明皇后は藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇は文武天皇と不比等の娘宮子(光明皇后の異母姉)の間の第一皇子で、平たく言えば、聖武天皇と光明皇后は不比等を仲立ちとする甥と叔母の関係に当たり、我が国初の人臣皇后、即ち、皇室以外からの皇后で、以後、平安時代に至り、藤原氏の時代をつくるさきがけになった人物である。所謂、「ふじはらの おほききさき」(藤原の大いなる皇后)の表現は、以後において隆盛を極める藤原氏の基になった皇后であることと人民への大いなる温もりを具えた慈悲深い偉大な皇后という二つの認識が八一の中にあったからだと思われる。

 この歌碑は、本尊の十一面観音菩薩立像に分身像が作られた昭和四十年(1965年)に大和の写真家入江泰吉、光枝夫人によって建てられたもので、門跡寺院を表す五本の白い横筋が入った境内の筋塀を背にした植え込みの中に見られる。 写真は法華寺の本堂と八一の歌碑。           六月や 雨も日照りも 堂の庭

 


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2013年06月26日 | 万葉の花

<663> 万葉の花 (98)  ひし (菱)=ヒシ (菱)

        点々と 願ひ点して 菱の花

   君がため浮沼(うきぬ)の池の菱採るとわが染(し)めし袖濡れにけるかも                巻 七 (1249) 柿本人麻呂歌集

  豊國の企玖(きく)の池なる菱の末(うれ)を採(つ)むとや妹が御袖濡れけむ            巻十六 (3876) 白水郎 (あま)

 『万葉集』にひし(菱)の見える歌は巻七と巻十六の二首で、上にあげた1249番の柿本人麻呂歌集の歌と3876番の白水郎の歌がそれである。ひし(菱)は現在のヒシ(菱)に等しく、我が国原産のヒシ科ヒシ属の一年生水草で、全国的に分布し、各地の池や沼に生え、大和でもよく見かける。水底に落ちた実が発芽して、茎を水面に伸ばし、葉を放射状に広げる。中空で膨れた葉柄が浮き袋の役目を果し、葉を水面に浮かべる。群生することが多く、夏の終わりから秋にかけて、直径一センチほどの白い四弁花を葉腋から水面に出し、点々と咲かせる。

                              

 果実は刺のある堅果で、形が拉(ひし)いで見えることや水面に浮かぶ葉が三角状菱形であるなどによってヒシ(菱)と名づけられたと言われる。堅果は秋に実り、食用や滋養強壮の薬用に昔から採取されて来た。ここにあげたニ首にもこの堅果を採取するときの様子が詠まれているのがわかる。

 また、ヒシは記紀にも応神天皇の条の歌謡に登場し、『古事記』では歯並びに喩え、「歯並(はな)みは 椎菱如(な)し」と、シイの実やヒシの実のような歯並びであることを言っている。一方、『日本書紀』にはヒシの茎が長く伸びていることを比喩に用いている。花には関心が持たれず、もっぱら、実や茎葉のことが詠まれ、花の登場は見られない。

 では、ヒシの登場する二首を見てみると、まず、人麻呂歌集の1249番の歌は、雑歌の項の「羇旅にして作る歌九十首」中に見える歌で、「あなたのために深い泥の沼でヒシの実を取ろうとして、私の染めによって作った着物の袖を濡らしてしまったことです」という意に取れる。竹の棒か何かでヒシの株を岸に引き寄せ、手でその実を取っている様子が見えるような歌である。

 次に、白水郎の3876番の歌であるが、「豊國の企玖の池のヒシの実を取るというので、吾が妻の袖は濡れたろうか」という意で、1249番の歌と大方変わりないが、こちらは夫、つまり、男の歌であるのがわかる。思えば、ヒシは果実、ジュンサイは若芽、アサザやヒツジグサは花、そして、ハスは根茎と、水生植物はそれぞれの特徴をして、昔から利用され、あるは食用や薬用、または髪飾りなどに用いられて来たことがわかる。

 思えば、不思議なもので、同じ水生植物で、浅い池沼に生育するものながら、ジュンサイやアサザは多年草であるのに対し、このヒシは一年草で、毎年、種子によって種を繋ぎ、その命脈を今に保って来ているのである。

  どちらも、遠い昔から命の更新を繰り返しながら命脈を保ち、今日に至っているわけであるが、多年生の方が、一年生よりも種を繋いで行くのに有利であることを思えば、同じ万葉植物ながら、ヒシよりもジュンサイやアサザの方がより困難を切り抜けて来た植物である可能性が強く、ヒシよりジュンサイやアサザの方が古い歴史を持った植物であることが思われる。

 ただ、水生植物に現代の環境は厳しく、『万葉集』に登場を見る水生植物にも言える。例えば、大和におけるアサザは絶滅寸前種であり、ジュンサイは絶滅危惧種にあげられ、ヒシやサンカクイやハスなども野生するものは少なくなっているのが現状である。これは土地の整備などによって水生植物が生育する水辺が失われて来たことに連動している。写真のヒシは奈良市佐紀町の磐之媛命陵のお濠で撮影したものであるが、最近、西洋スイレンが繁茂してヒシは姿を消してしまった。