<666> 最近の世の中
一人は一人の思い 二人は二人の思い そして 千人は千人 万人は万人の思い
ところで 万人は一人一人の万人で そこにあるのは 一人一人の 万人の 思いだ
この間、宇陀市の鳥見山に登って、帰りに見晴らしのよい展望台で弁当にしていたら、私とほぼ同じ年格好の男性三人がやって来て、やはり弁当を開いた。別ルートを歩いていたのだろう。途中で遇ったグループではなかった。三人は弁当を開くと話を始め、話は弾んで、弁当の休憩時、途切れることはなかった。
女同士はよくわからないが、男というのは政治向きの話が好きだ。これは私にも言えようか。三人の話はこの政治向きになり、煩わしいとも思うことなく、耳を傾ける仕儀になった。話というのは概ね次のようであった。
まず、アベノミクスについて切り出した。国民に期待感を持たせるのはいいけれど、と前置きして、このまま順調に事は運ぶのだろうかという話になった。世界を相手のことだからそんなに容易いことではないというのが三人の一致した意見のように聞こえた。
経済は生きもので、生きものはしたたかなので、机の上の理論通りにはなかなか運ばない。我が国がよい方向に向えば、往々にしてどこかの国がおかしくなる。ともに満足な発展が出来れば言うことはないが、それがそう行かないのが常の世界である。
そのうち、寡黙を通していた一人が突然口を開いた。どうも近ごろおかしい。いつの間にこんな風な世の中になったのか。株価の乱高下を見ていると、そう思えて、何か空恐ろしいような気持ちになる。もっと足が地に着いた経済運営がなされないと、これはよくない、とそんな風に語り出した。
何か国全体で博打をしているような気がする、と彼は言った。それも国が率先して博打に手を染めている。そんな感じだ、と彼は続けた。これではいけないと思うが、国民の大半は「よし」として、支持している。そりゃあ、株価の上がることは悪くない。しかし、それが経済の発展による自然なすがたで現われているのなら何も言うことはないが、現況はそうなっていない、と彼は言い切った。
日銀がじゃぶじゃぶ御札を出して、株価操作の担い手になっているのは異様な光景だ。日銀が国債を買うというのも不思議な気がするが、国の借金を増やすばかりで、そこのところの手当てが出来ていない。今回の政策ではここへの対応が忘れられたように抜け落ちている。諸事情の根源は国の大借金にあることを、国の運営に当たっている連中にもっと危機感をもって考えてもらわなくては困るとも彼は言う。ここのところが肝心な箇所であるが、政府はこれに触れない。
これで将来が約束出来るのだろうか。無理じゃあないか。日銀が出すそのお金だけれど、どこへどのように流れて行くのか。それがわかれば少しは気分も落ち着くはずであるが、それが国民にはとんとわからない。ここも問題である。で、彼はなおも続けた。
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思うに、多分、大半は海外へ流れて行くのだろう。株価の乱高下はそれをよく物語っている。株価を吊りあげるのは海外の投資家で、それにつられて一般の投資家が買いに向う。その上がった株を投資家は売り抜けて次なるターゲットに向う。そうすると、株価は下がって、一般投資家はあわてふためくことになる。これが株式の今日的な現象である。
こういうのを繰り返してプロの投資家は利ざやを稼ぐ。それが億兆円単位になる。そこで稼いだ利ざやはどこに流れて行くのだろう。多分、米国辺りに納まるはずだが、今後は、経済が危機的状況にある欧州に向うのではないか、彼はそのように予測する。
世界のすべてにおいてリーダーシップを取りたがっている米国に良心というものがあるならば、お金の流れは欧州に向うはずである。だが、ここに立ちはだかるのが中国であり、韓国であり、新興国であろう、と彼は続けた。日本はこういう世界情勢の中で、各所に対応しなくてはならないから軽々に事を運ぶわけにはいかないだろう。TPPにしても言える、と彼は言った。
そこで、景気が思うに任せないのに、株価が上がるという現象をどう見るかだが、これは思惑買いに走らせる政治的操作のほかに考えられるところがない。この一見わかったような政治による操作を国自体が行ない、国自体が乗っかって国民の一喜一憂の種になっている。これは実に恐ろしいことなのだが、儲かるという言葉にみんな弱く、その言葉に酔わされる。
お金というのはより大きい方へ流れて行くが、お金の求心力は確かにそのようである。博打をするなら大金を持ってなすべきであるが、やっている本人が大金だと思っていてもそれに勝る大金に吸い取られて行く。一千万とか二千万は個人にとって大金だが、株を運用し、操作しているプロの投資筋にしてみれば、日常茶飯の微々たるものなのだ。
しかし、その微々たるも昔から言われる。「塵も積もれば」で、世の中をおかしくもするし、国を危うくもする。それは国民を困らせることになり、福島第一原発事故に重なる懸念が、今回の政策にはつきまとって来ると言える、と彼は持論へと口舌を激しくした。
米国は金融の行き詰まりで、リーマンショックという恐慌に陥ったが、そのとき、救いの手を差し伸べたのが皮肉にもこの金融のプロたちであった。だが、それだけで、経済を立て直したわけではない。経済は地道な政策により、実質面の努力があったことによって、それが偶然にも一致したのである。
一人の口舌は以上のごとくであったが、この講義を聴くような口舌には何か頷かされるところがあった。博打とはよく言ったものである。言わば、国自体が博打に加担していると言ってよかろうか。博打はやくざの世界のものという印象は昔語りでしかないか。このごろ、世の中自体がやくざな世界になっているのかも知れないとも思えるのである。
このやくざな世の中のなりゆきは、ささやかに暮らしている者をもその渦中に巻き込んで行く気配がある。三人の話はなお続き、憲法にも及んだが、この憲法については、また、いつか触れてみなければならないと思っている。 写真はイメージ。