大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月29日 | 吾輩は猫

<209> 吾輩は猫 (21)    ~<207>よりの続き~
         皓々と 照る月のもと 思ふなり 一躯この身の 艶やかなるを
 この一躯たる切なくも涙ぐましい存在の猫にして言える。幾らお金を積んでもこの天道の時のうちにあり、時を買い、 時を支配することなど決して出来ず、 永遠などということはあり得ず、 命あるものはみな遂には尽きて死に至る。そして、すべてのものにわけ隔てなく神さまはあり、その死してゆく身命を神さまは掬いまします。ゆえに、先生の猫にうかがい知る死後硬直の後の太平が、果たして吾輩にははっきりと想像出来る。
 梅原先生は「死は一切を浄化する」(『古典の発見』)と述べる。これは取りも直さず神さまの偉大さを物語るものにほかならない。つまり、天地長久、 神さまのまにまにある生きとし生けるものの生はみなこのゆえをもって同じ位相にあると知れる。「天は、人の上に人を作らず、 人の下に人を作らず」と述べた諭吉先生の有名な言葉などにも思いがゆくが、 とにかく、この世のすべての現象は神さまに導かれてあるものと吾輩は思う。
 今まさに静謐の気を漲らして中天に月は照る。その皓々たる月の光を浴びながら吾輩は考えを巡らせている。 まこと冷えまさる今宵。この冷えもまたよし。 身を引き締める心のありさま。まずは、これらのことを念頭に置いてもらって以下にあげる吾輩「ふうた」の思いとしての呟きの歌を聞いてもらおう。 愚痴っぽく哀れに感じられる歌もあるかとは思うが、 吾輩にとっては決して愚痴などではなく、生きる姿勢の現われであり、そのように解してもらえればよいかと思う。では、以下二十四首。

   紋白蝶(もんしろ)を 追って駈けたる 花のもと 青空までも 跳びたる記憶
   見ゆるなり 思ひに夢の 添ふべくも 桜が咲いて また春が来ぬ
   これやこの 秋に劣らぬ 春の月 おぼろ嬉しと 誰かも言へり
   生きざまの 一つの形 たとふれば ここに一生(いちせい) 階(きざはし)の上
   遂げ得ざる まま来し身とは 思ひとは 生の行方の 路地にあるなり
   如何なるが 飢ゑか知らざる 飢餓論と 青い鳥なる 幸福論と
   テレビを見 涙を浮かべ ゐるものの 今宵春宵 人間の家
   事件(こと)に人間(ひと)の ありて論評 酣な テレビトークの 姦しき声
   哀れなる 欠片のニュース 聞きながら 食卓囲む 人間家族
   多弁への もしや抵抗 かも知れぬ 黙しながらの 考察がある
   人間と いふ不可思議な 生きものと 居を同じくし 今日も暮らせる
   ともに生き ともに長らふ ことの意義  未来は不確か なればこそなれ
   飼ひ猫と 言はれて蔑まれゐるも よけれこの世は もちつもたれつ
   野良猫と 言はれて蔑まれゐるも よけれこの世の しがらみのなか
   さまざまな 声を聞くなり 猫ゆゑに 聞こゆることの ありありとあり
   向日葵は 羨望の花 明るくも 太陽(ひ)に愛されて 高々と咲く
   人間の 罷り通りて ゆく合理主義に翻弄 されゆく野生
   平等に あるべき生を 言はむとし 虎になりたる 欄(おばしま)の夢
   放浪記 などは流行らぬ 時代とや 癒されぬ身は 如何にあるべき
   猫の身の 生の一端 ここにあり 向かふ三軒 両両隣
   ロボットが 「おかへりなさい」の 日が来るか 花一匁で 「さらば」か吾ら
   言はずとも  時は過ぎゆく ものなれり 老いたる先に あるものは何
   纏はりて ありし思ひも 靄のごと うむ不束に 生きて来しかな
   まるき背を 暖めてゐる 老のあり この身も同じ 陽の暖かさ
 まことに拙い歌で失礼。では、またいつかお目にかかれる日まで、諸兄諸氏にはお元気で、さようなら。   (完)