<907> 万葉の花 (117) はり (榛、波里) = ハンノキ (榛の木)
青空に 榛の木は花 咲かせゐる
いざ兒ども大和へ早く白菅の眞野の榛原手折りて行かむ 巻 三 ( 280 ) 高市黒人
住吉の遠里小野の眞榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく 巻 七 (1156) 詠人未詳
集中に「はり」と見える歌は十四首で、原文によると、「榛」が十二首、万葉仮名表記の「波里」が二首見える。「榛(はり)」は現在のハンノキ(榛の木)と見られており、ハンノキはハリノキが転じたものと言われる。
ハンノキはカバノキ科の落葉高木で、大きいもので幹の直径が数十センチ、高さが二十メートルほどになる。北海道から沖縄まで全国的に自生し、南千島、ウスリー、朝鮮半島、中国、台湾あたりにも見られ、湿地を好んで生える。樹皮は紫褐色で、薄くはがれる特徴があり、枝は褐色で滑らかである。葉は卵状長楕円形で、側脈がはっきりしていて鋸歯があり、先端が鋭く尖り、互生する。新緑は瑞々しく、秋に黄葉する。
花は雌雄同株で、冬から春にかけて咲く。大和では二、三月ごろに見られ、まだ葉の見られない枝の先ごとに雄花序を垂れ下げ、よく目につく。雌花は赤紫色で、雄花序の下方に多いもので数個つける。果実は卵状楕円形の堅果で、熟すと濃い褐色になる。昔はこの堅果を灰にして、摺り染めに用いた。建築材や家具材にも用い、万葉当時から親しまれていたことが『万葉集』の歌からうかがえる。では、集中に登場するハンノキの「はり」の歌を見てみよう。
冒頭にあげた高市黒人の280番の歌のように「榛原」(はりはら)と用いられている歌が九首にのぼり、「眞野の榛原」や1156番の歌の「住吉の遠里小野の眞榛」のように地名をともなっている歌が十三首に及ぶ。その地名は眞野(神戸市東尻池町)、住吉(大阪市住吉区)のほか、綜麻形(へそがた・滋賀県栗東町)、引馬野(ひくまの・愛知県御津町)、島(奈良県明日香村島ノ庄)、伊香保(群馬県伊香保町)と見え、眞野は四首、住吉は三首、島と伊香保は二首、綜麻形と引馬野は一首に登場する。
これらの地は「榛」(はり)でよく知られていたのだろう。この地名を概観するに、当時、ハンノキは各地に見られ、親しみをもって接しられていたことがうかがえる。黒人の280番の歌はそれを物語るもので、歌は「さあみんな大和へ早く行こう。真野の榛原の榛を手折って」という意であるが、旅の帰途に詠んだことは次の281番の「白菅の眞野の榛原往くさ来(く)さ君こそ見らめ眞野の榛原」という黒人の妻の歌で察せられる。
妻の歌は「白菅が生える真野の榛の原を行きにも帰りにもあなたこそは御覧になることが出来る」、でも、家にいる私には見ることは出来ないと暗には言っている。この夫婦の会話の歌にも登場するくらいに、当時、「榛」(はり)のハンノキはよく知られ、親しまれていたのである。また、この両歌からは湿地に生える白菅がともなわれている点で、「榛」(はり)が湿地を好むハンノキであることを示していると言える。そして、当時、ハンノキが群生し、榛原を形成していたこともうかがえるわけである。この榛原は自生によるというよりも、利用するために植えられていたものかも知れない。奈良県の宇陀市に榛原(はいばら)の地名があるが、このハンノキの榛原(はりはら)が見られたのであろう。
次に1156番の歌であるが、この歌は雑歌の項に見え、「住吉の小野の榛で摺り染めにした衣は盛りを過ぎてゆく」という意で、色褪せて行く摺り染めを自分の身になぞらえ、盛りを過ぎて行くことへの喩えとして詠んだものとの解釈もある。それはともかく、この歌のように、摺り染めに関する歌が十四首中、九首にも及ぶことが思われる。これは平安時代初期の『延喜式』にも「榛摺一疋」とあるように、当時、「榛」(はり)による摺り染めは「榛摺」と呼ばれ、ハンノキの堅果が染めに用いられていたため、誰もが知る木になったと察せられる。
榛摺は黒摺の一種で、中国から伝来した染めを応用したものと言われ、ハンノキの果実から出来る黒灰を用いて摺ったもので、堅果が熟す秋以降でないと摺れなかった。で、巻七の1260番の歌の「時じくに斑の衣着(き)欲しきか島の榛原時にあらねども」(いつもまだらの衣が着たいなあ、今はその季節ではないが)と詠んでいるわけである。また、榛摺はまだらに染まるのが特徴の摺り染めだったようで、この歌にもそれが詠まれている。ほかには、大伴家持の長歌から東歌まで、つまり、貴族から庶民にいたるまで、この「榛」(はり)のハンノキはよく知られ、親しみをもって見られていたことが、これらの万葉歌からは察せられる。
なお、『古事記』には雄略天皇の条に、天皇が葛城山に登ったとき、大イノシシに出会い、そのイノシシを鏑矢で射たが、手負いのイノシシが襲って来て、「榛」(はり)のハンノキに登って難を逃れた歌が見られる。 「やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪(やみしし)の 唸(うた)き畏(かしこ)み 我が逃げ登りし 在丘の 榛の木の枝」。これがその歌で、ここにもハンノキの一面が見て取れる。
また、咲く花が多く見られる年は豊作になるという言い伝えがあり、いつごろ言われるようになったかは定かでないが、これもハンノキの一面で、田の畔などに植えられたことによるのだろう。これには豊作の予祝に用いられたことがうかがえる。近代の詩歌では、薄田泣菫の「望郷の歌」に「わが故郷は、赤楊(はんのき)の黄葉(きば)ひるがへる田中路」 と詠われ、秋の黄葉が印象に残ることを言っていると知れる。
これは、持統天皇の行幸に随行して詠んだ長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の巻一の57番の歌の「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」 (引馬野に色づいている榛の木の原に入って、榛を乱して衣に美しい黄葉の色を移しなさい。旅の記念に)に通じるところで、秋の時期のハンノキが思われる。持統天皇のこのときの行幸は大宝二年(七〇二年)十月のことであるから。この歌で「にほふ」と詠んだのは初夏の新緑ではなく、秋の黄葉と知れる。ハンノキが多く生えるところでは枝々が入り乱れて見える。 写真は高々と花を咲かせて立つハンノキ(左)。枝ごとに花が見られるハンノキ(中)。ハンノキの花。垂れ下っているのが雄花で、雄花序の枝元の右側の方についているのが雌花。この咲くじきまで枝に残っている堅果が見られる。この果実が染料に用いられた(右)。