大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月28日 | 植物

<909> 早春の花二題

   日の光 求めて開く 早春花

         クロッカス 一斉に咲く 暖かさ

    咲き出づる 花の勢ひ クロッカス

 早春の花二つ。クロッカスとヒヤシンス。クロッカスはアヤメ科の秋植え球根の草花で、欧州南部ギリシャ辺りの原産。我が国で見られるものは園芸種で、花サフランと呼ばれている。早春のころ、葉の開出とほぼ同時に咲く花は、黄、紅、青、紫、白色、または紫色と白色のしぼりなどが見られ、黄色系は花が小ぶりで、かわいらしい。クロッカスの仲間は、日当たりのよいところを好み、フクジュソウのように日がかげったり、雨の日などには花を閉じる。公園や民家の庭先などで見かける。クロッカスの名は、ギリシャ神話の美青年クロコスによると言われる。

           

        カタログの 第一頁 ヒヤシンス

    ヒヤシンス 足を止め みな 見て行ける

 ヒヤシンス(風信子)はユリ科のこれも同じく秋植え球根の草花で、欧州南部から中近東付近の原産。我が国には江戸時代末に渡来した。早春のころ花茎の上部に花冠の裂けた花を咲かせる。花は青紫、紅、黄、白色など多彩である。ヒヤシンスの名は、ギリシャ神話の美少年ヒュアキントスによると言われる。 写真は左がクロッカス、右がヒヤシンス。 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月27日 | 祭り

<908>

      雛人形 娘思ひて 取り出せる

          ひんやりと  

             まだこの部屋は寒いけど

       春は日差しに見えている

       もうすぐ節句の雛まつり

       母さん何も言わないが

       雛人形を取り出して

       いつの間にやら飾ってる

             離れて暮らす娘(こ)を思い

           雪洞つけて 桃の花

       今年も飾ったお雛さま

       仲よく並ぶ男雛と女雛

       ささやかだけど 母さんの

           思いの丈がほの見える

       母さんあなたは 母さんだ

           やはり 天下の母さんだ

           歌を聞かせてくれるかな

       雄雛雌雛にあやかって

       春よ 来い来い 早く来い

                                                           

  季は移ろい、雛祭りが近づいて来た。吉丸一昌作詞、中田章作曲の「早春賦」の気節である。「春は名のみの風の寒さや。谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず。時にあらずと 声も立てず。」と。大正年代から歌われている唱歌である。この気節より春は始まる。思えば、この歌詞は日本の自然の小景を言っている。「時にあらず」だけれども、春は直ぐそこまで来ている。

  そして、高野辰之作詞、岡野貞一作曲の「春が来た」になる。「春が来た 春が来た どこに来た。山に来た 里に来た、野にも来た」と。この歌も明治の終わりから歌われている唱歌である。「花が咲く 花が咲く どこに咲く。山にさく 里にさく、野にもさく」となり、「鳥がなく 鳥がなく どこに鳴く。山で鳴く 里で鳴く、野でも鳴く」となる。 写真は今年も飾った雛人形。大きい方は博多人形、小さい方は山口県の大内人形の雛人形。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月26日 | 万葉の花

<907> 万葉の花 (117) はり (榛、波里) = ハンノキ (榛の木)

        青空に 榛の木は花 咲かせゐる

   いざ兒ども大和へ早く白菅の眞野の榛原手折りて行かむ                          巻 三 ( 280 )    高市黒人

    住吉の遠里小野の眞榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく                            巻 七 (1156)   詠人未詳

 集中に「はり」と見える歌は十四首で、原文によると、「榛」が十二首、万葉仮名表記の「波里」が二首見える。「榛(はり)」は現在のハンノキ(榛の木)と見られており、ハンノキはハリノキが転じたものと言われる。 

 ハンノキはカバノキ科の落葉高木で、大きいもので幹の直径が数十センチ、高さが二十メートルほどになる。北海道から沖縄まで全国的に自生し、南千島、ウスリー、朝鮮半島、中国、台湾あたりにも見られ、湿地を好んで生える。樹皮は紫褐色で、薄くはがれる特徴があり、枝は褐色で滑らかである。葉は卵状長楕円形で、側脈がはっきりしていて鋸歯があり、先端が鋭く尖り、互生する。新緑は瑞々しく、秋に黄葉する。

  花は雌雄同株で、冬から春にかけて咲く。大和では二、三月ごろに見られ、まだ葉の見られない枝の先ごとに雄花序を垂れ下げ、よく目につく。雌花は赤紫色で、雄花序の下方に多いもので数個つける。果実は卵状楕円形の堅果で、熟すと濃い褐色になる。昔はこの堅果を灰にして、摺り染めに用いた。建築材や家具材にも用い、万葉当時から親しまれていたことが『万葉集』の歌からうかがえる。では、集中に登場するハンノキの「はり」の歌を見てみよう。

                                                           

  冒頭にあげた高市黒人の280番の歌のように「榛原」(はりはら)と用いられている歌が九首にのぼり、「眞野の榛原」や1156番の歌の「住吉の遠里小野の眞榛」のように地名をともなっている歌が十三首に及ぶ。その地名は眞野(神戸市東尻池町)、住吉(大阪市住吉区)のほか、綜麻形(へそがた・滋賀県栗東町)、引馬野(ひくまの・愛知県御津町)、島(奈良県明日香村島ノ庄)、伊香保(群馬県伊香保町)と見え、眞野は四首、住吉は三首、島と伊香保は二首、綜麻形と引馬野は一首に登場する。

  これらの地は「榛」(はり)でよく知られていたのだろう。この地名を概観するに、当時、ハンノキは各地に見られ、親しみをもって接しられていたことがうかがえる。黒人の280番の歌はそれを物語るもので、歌は「さあみんな大和へ早く行こう。真野の榛原の榛を手折って」という意であるが、旅の帰途に詠んだことは次の281番の「白菅の眞野の榛原往くさ来(く)さ君こそ見らめ眞野の榛原」という黒人の妻の歌で察せられる。

  妻の歌は「白菅が生える真野の榛の原を行きにも帰りにもあなたこそは御覧になることが出来る」、でも、家にいる私には見ることは出来ないと暗には言っている。この夫婦の会話の歌にも登場するくらいに、当時、「榛」(はり)のハンノキはよく知られ、親しまれていたのである。また、この両歌からは湿地に生える白菅がともなわれている点で、「榛」(はり)が湿地を好むハンノキであることを示していると言える。そして、当時、ハンノキが群生し、榛原を形成していたこともうかがえるわけである。この榛原は自生によるというよりも、利用するために植えられていたものかも知れない。奈良県の宇陀市に榛原(はいばら)の地名があるが、このハンノキの榛原(はりはら)が見られたのであろう。

  次に1156番の歌であるが、この歌は雑歌の項に見え、「住吉の小野の榛で摺り染めにした衣は盛りを過ぎてゆく」という意で、色褪せて行く摺り染めを自分の身になぞらえ、盛りを過ぎて行くことへの喩えとして詠んだものとの解釈もある。それはともかく、この歌のように、摺り染めに関する歌が十四首中、九首にも及ぶことが思われる。これは平安時代初期の『延喜式』にも「榛摺一疋」とあるように、当時、「榛」(はり)による摺り染めは「榛摺」と呼ばれ、ハンノキの堅果が染めに用いられていたため、誰もが知る木になったと察せられる。

  榛摺は黒摺の一種で、中国から伝来した染めを応用したものと言われ、ハンノキの果実から出来る黒灰を用いて摺ったもので、堅果が熟す秋以降でないと摺れなかった。で、巻七の1260番の歌の「時じくに斑の衣着(き)欲しきか島の榛原時にあらねども」(いつもまだらの衣が着たいなあ、今はその季節ではないが)と詠んでいるわけである。また、榛摺はまだらに染まるのが特徴の摺り染めだったようで、この歌にもそれが詠まれている。ほかには、大伴家持の長歌から東歌まで、つまり、貴族から庶民にいたるまで、この「榛」(はり)のハンノキはよく知られ、親しみをもって見られていたことが、これらの万葉歌からは察せられる。

  なお、『古事記』には雄略天皇の条に、天皇が葛城山に登ったとき、大イノシシに出会い、そのイノシシを鏑矢で射たが、手負いのイノシシが襲って来て、「榛」(はり)のハンノキに登って難を逃れた歌が見られる。 「やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪(やみしし)の 唸(うた)き畏(かしこ)み 我が逃げ登りし 在丘の 榛の木の枝」。これがその歌で、ここにもハンノキの一面が見て取れる。

  また、咲く花が多く見られる年は豊作になるという言い伝えがあり、いつごろ言われるようになったかは定かでないが、これもハンノキの一面で、田の畔などに植えられたことによるのだろう。これには豊作の予祝に用いられたことがうかがえる。近代の詩歌では、薄田泣菫の「望郷の歌」に「わが故郷は、赤楊(はんのき)の黄葉(きば)ひるがへる田中路」 と詠われ、秋の黄葉が印象に残ることを言っていると知れる。

  これは、持統天皇の行幸に随行して詠んだ長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の巻一の57番の歌の「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」 (引馬野に色づいている榛の木の原に入って、榛を乱して衣に美しい黄葉の色を移しなさい。旅の記念に)に通じるところで、秋の時期のハンノキが思われる。持統天皇のこのときの行幸は大宝二年(七〇二年)十月のことであるから。この歌で「にほふ」と詠んだのは初夏の新緑ではなく、秋の黄葉と知れる。ハンノキが多く生えるところでは枝々が入り乱れて見える。 写真は高々と花を咲かせて立つハンノキ(左)。枝ごとに花が見られるハンノキ(中)。ハンノキの花。垂れ下っているのが雄花で、雄花序の枝元の右側の方についているのが雌花。この咲くじきまで枝に残っている堅果が見られる。この果実が染料に用いられた(右)。

 

 

 

 


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2014年02月25日 | 写詩・写歌・写俳

<906> 同 居

       春霞  濃くなるほどは 大和なり

 今日二十五日は三月並の陽気になり、奈良盆地の大和平野は周囲の青垣の山並も見えなくなるほど濃い霞に被われ、いよいよ春を迎えたという感じになったが、山間部ではまだ残雪が消えず、日蔭ではつららも見られるといった具合で、冬と春が同居している時期であるのがわかる。これから四月にかけて、寒暖を繰り返しながら春本番を迎える。大和は盆地なので、気温が上昇すると、風のない日は塵を含んだ大気が淀む。だから春になると昼間に濃い霞が発生することになる。最近は、中国方面から黄砂に混じって煤煙や排気ガスが飛来し、この時期にはスギ花粉なども飛散し、昔のような情感に添い来る類の霞と違って、人体に影響しかねないとあって、予防的措置が必要なほどイメージが悪くなった。けれども、これは人間が原因の現われで、自業自得と言わざるを得ないところがある。

 ソチの冬季五輪が終わって、閉会式の会場は世界が一つになったような雰囲気に包まれたが、ごく限られたアスリートによるほんの一時の光景であったようにも思われる。ほんの一時でも世界が一つに見えることは意義のあることだが、すぐ隣のウクライナではロシア派とEU派が激突して騒乱状態に陥っている。五輪会場のように世界はみんな仲好くなれるのに、何故か対立して、喧嘩をする。みんな一緒に進歩すればいいのに、それが出来ず、上下を生み、左右を生み、貧富を生み、差別を生む。何故だろう。国内に目を転じると、春は暖かく、陽気になれる気節だが、消費税増税という国による国民への締め付けが厳しくなる。思うに、年寄りと子供をいたぶるような国政を行なわなければならない国はまともな国ではなく、幸せな国とは言えない。

              

 春霞は暖かな陽気に生ずるものであるが、昨今の霞は昔のようなのどかなものがなく、危険因子を孕んでいる。これは、飛躍し過ぎた例事かも知れないが、危険因子を孕んでいるということで言えば、経済成長オンリーの政策のみしか打ち出せない政治状況に似ていると言える。それも視界不良にしてである。年金資金で博打を打つようなことも聞かれるが、これにも言えることで、いい加減にしろ、と言いたい。やるのであれば、博打で損をしたとき、責任を取って、その穴埋めが出来る方途をきっちりしてからやるべきである。その運用に自信があるのであれば、自分たち、つまり、公務員の年金資金で運用すればよい。

  だが、それが出来ない。それは、自信がなく、反対されるからである。言わば、これは原発と同じことである。そんなに必要なのであれば、東京の近くに原発を造ればいい。これは普天間の米軍基地にも言えることであるが、どちらも東京近くに置くことは出来ない。出来ないものを国民に回し、地方に押しつける。実に見え透いた卑怯千万なやり方である。年金の運用で言えば、博打というものは、勝ったときだけ、幾ら幾ら儲けたと言って吹聴する。安倍首相の答弁はそれに等しい。損をしたときは口をつぐんで黙ってしまうのが通例である。所詮、博打は損をするように出来ている。損をしても遊びならば、納得されようが、年金資金で遊ばれては困る。博打を国が率先してやることか。いい加減にしろという声は私だけではないはずである。ましてや、企業年金で運用損に陥った前例がある。なのに何故やるのかと言いたい。

  春霞から妙な方に話が行ってしまったが、所謂、視界不良に加え、昨今の霞にはリスクの危険因子が含まれているということによる。つまり、信頼に遠く、安心出来ないという側面が春霞にも国政の状況にも見え隠れするからである。自然というのは私たちに教えているところがある。これを謙虚に受け止めるかどうかは私たちにかかっている。 写真は木の根から垂れ下るつらら(左)と濃い春霞に霞む大和平野。後方の山並は全く見えない状況の一日だった。

 


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2014年02月24日 | 植物

<905> フクジュソウ ( 福寿草 )

        福寿草 老爺出で来て 咲いとるよ

  五條市西吉野町津越のフクジュソウを見に出かけた。今年は積雪量が多く、今も雪は解けずに残ってフクジュソウの自生地はまだ雪化粧のままだった。だが、日のよく当たるところでは土が表面に現われ、咲き始めたフクジュソウが見られた。まだ、ほとんどはつぼみで、これから順次咲くだろう。中には雪を割ってつぼみを開きかけた花も見られた。

 フクジュソウはキンポウゲ科の多年草で、北国に多く、大和での自生は珍しく、津越のフクジュソウは奈良県の天然記念物に指定されている。なお、奈良県のレッドデータブックによると、自生のフクジュソウは絶滅寸前種にあげられている。この辺りでは春一番に咲く花で、地元の人には待ち遠しい花である。艶のある黄金色の花は日が当たると開き、日が沈むころには閉じ、雨の日は開かない。

              

 写真は二十四日、津越の自生地で撮影したもの。花には光沢があり、天気のよい日はコントラストがつき過ぎてどぎつい写真になる。かと言って、曇天のときに撮ると、花びらなどにめりはりがなくなってインパクトに欠ける写真になる。言わば、フクジュソウの花は写真を撮るのに案外難しい花であることが言える。

 ところで、フクジュソウには様々な名があるので、ここで少しその名をあげてみたいと思う。例えば、元日草、歳旦草、正月花、朔日草(ついたちそう)、報春花、賀正蘭、長寿菊、側金盞花(そくきんせんか)、福人草、福神草、雪蓮(ゆきはちす)等々、毒草なのに、みんなめでたい名ばかりである。これは花の咲く時期が旧暦の正月ごろに当たるためだが、花言葉も「幸せを招く」とあるから和名と似たようなイメージで捉えられているかと思う。  春はほら そこまで来てる 日の光