大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月30日 | 写詩・写歌・写俳

<819> 十一月の終わりに際して

        往く秋や ABCD それぞれに

  古書を繙いていると、春正月(はるむつき)、夏四月(なつうづき)、秋七月(あきふみづき)、冬十月(ふゆかむなづき)と書かれているのを見ることがある。これは、即ち、旧暦(太陰太陽暦)の暦法によるもので、立春の二月五日ごろが一年のスタートになり、ここが春正月の始まりであるから、四月は夏で、夏の始まりはここ、即ち、現在の五月五日ごろの立夏からということになる。従って、旧暦では、現在の八月五日ごろが立秋になり、七月は秋ということになる。また、立冬は現在の十一月五日ごろで、旧暦で言えば、十月は冬ということになるわけである。

  所謂、立春、立夏、立秋、立冬は旧暦、つまりは、暦の上のことで、現在用いている新暦(太陽暦)より約一ヶ月遅れのずれを生じている。新暦を用い始めたのは案外歴史が浅く、近代になってからで、それまでは旧暦を用いていたので、古文書に触れるときはこのことに注意しないといけない。俳句の季語などは多く旧暦によっているから、確かめる必要がある。

  ところが、最近はこの旧暦と新暦が絡み合って、この季語なども実に怪しくなっている。菊は重陽の節句に言われるように旧暦の九月九日で、現在の新暦に合わせれば、十月九日ということになるが、菊の花の実感は文化の日の十一月初旬ごろであるから、日月のずれを感じる。これに最近は温暖化の影響が私たちの感覚に加味されて来ているので、実にややこしくなっている。

  今年は十月にも夏日があったから一層感覚がおかしくなる。紅葉の季語は秋であるが、大和の平地では今が黄葉の真っ盛りである。今日は十一月の最後の日。明日からは師走である。無季俳句というのもあるが、季語を論法とする俳句では、芭蕉のような紀行文に添えたり、吟行と称してドキュメントして詠む作句などはどのような位置付けになるのだろうと思われて来る。日付からすれば、冬であるが、句に詠まれるものは秋という具合になる。これでよいのだろうか。

  師走の紅葉を写生してドキュメント的に作句したとして、これを俳句はどのように捉えるのであろうか、師走という日付で詠んだ紅葉は秋とは言えないから、季語の論法で言えば、このような句は成り立たないということになる。明日、師走を迎えるに当たって、以上のようなことが思われたのであった。今日の大和は小春日和の暖かな一日で、天理市に所用で出かけたが、今、街路樹の銀杏が黄葉した葉を散らしているところで、写真にした。その黄葉の下ではいろんな人々の姿が見られた。私はこの風景を「往く秋」と表現したのであるが、どうなのであろうか。

                                

                           *                             *                             *

  黄葉した銀杏を見ていたら、市民から募ったボランティアの人たちがやって来て歩道に積もった落葉を掃き始めた。乳母車の母子が通り過ぎて行く。赤いヘルメットのバイクが走り、赤色灯を点滅しながら救急車が息せき過ぎて行った。銀杏は何かを告げるように天に向って伸びていた。ボランティアの人たち、乳母車の母子、バイクの人、救急車の人。そして、私も、みんな思い思いに存在し、移りゆくこのかけがえのない時を過ごしている。冒頭に掲げた俳句の「ABCD」の「D」は「ABC」を含むみんなという意味を持たせたつもりなので、「D」を「みな」と読んでいただいてもよかろうかと思う。明日は師走。

  


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2013年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<818> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (49)

        [碑文]       秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曾目 御念從者                                         鏡王女

 鏡王女(かがみのおおきみ)の歌碑については、この項の(47)で、生駒郡三郷町立野の大和川右岸、JR大和路線三郷駅近くに建てられている『万葉集』巻八の1419番の「伊波瀬乃社之 喚子鳥」の歌碑をとり上げたが、今回は、桜井市忍阪(おっさか)の舒明天皇陵域内の鏡女王の墳墓に向かう道のせせらぎ脇に建てられている冒頭にあげた碑文の歌碑に触れてみたいと思う。

 鏡王女は天智天皇に愛され、のちに、藤原鎌足の正妻となり、興福寺の建立を手がけたことで知られる。額田王の姉で、藤原不比等の生母であるとの説も聞かれ、『万葉集』に四首を残す万葉歌人である。天智天皇とは相聞の贈答歌が一首あり、後で詳しくは触れるが、冒頭の原文による碑文の92番の歌がその歌である。藤原鎌足とはこれも相聞による贈答歌が一首。また、額田王に対しては普段の会話の応答のような歌が一首見られ、今一首は「伊波瀬乃社之 喚子鳥」の歌で、これは亡くなった鎌足に寄せて詠んだものと言われ、四首とも男性に思いを抱いて詠んでいる特徴が見られる。

  ところで、鏡王女の名は『万葉集』の記述によるもので、ほかには『日本書紀』に鏡姫王、『興福寺縁起』と『延喜式』に鏡女王の名が見え、みな「かがみのおおきみ」と称せられ、同一人物であるという説と別人であるという説とがあり、定かでないところがある。加えるに、舒明天皇の近親であるとか、鏡一族の出身者であるとかの推察もなされ、鏡女王の墳墓が舒明天皇の押坂陵の傍にあるというのも推理における一つの焦点になっているところがうかがえる。

                            

  で、万葉のこの時代の検証はなかなか難しいところがあるが、そこが逆に推理や想像をかき立てられるところとなっている。思うに、『万葉集』に見える鏡王女は、その歌から天智天皇、藤原鎌足、額田王に関わりがあり、『日本書紀』に見える鏡姫王は、亡くなる前日に天武天皇の見舞いを受けた記事があり、『興福寺縁起』や『延喜式』に見える鏡女王は、鎌足の正妻で、不比等の生母と見え、墳墓については、「鏡女王押坂墓」の記述が見え、舒明天皇の押坂陵に近い墳墓が鏡女王の墳墓に比定されているところから、鏡王女は鏡姫王や鏡女王と同一人物で、資料によって「王女」の部分が「姫王」あるいは「女王」とされたのではないかと考えられる。

  こう見ると、鏡王女は生年未詳であるけれども、亡くなったのは『日本書紀』の天武天皇紀の記事により、天皇が鏡姫王を見舞った次の日に亡くなったとあるから、天武天皇十二年七月六日(六八三年八月三日)となり、鏡王女の天智天皇との相聞問答歌の歌碑が舒明天皇陵の域内に当たる鏡女王の墳墓への道の傍に建てられているのも了解出来ることになる。

  この忍阪の歌碑を訪ねてみると、歌の説明には鏡王女の名が見えるのに対し、墳墓には『延喜式』の「鏡女王押坂墓」とあるによる「鏡女王忍阪墓」の墓碑が建ち、古文献を忠実に反映しているところがうかがえる。ここでも碑の建立者は鏡王女と鏡姫王、鏡女王を同一人物と見ているのがわかる。

 碑文の歌は、天智天皇が近江の大津に宮を開いていたとき、鏡王女に贈った「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」の歌(巻二・91)に和(こた)へ奉った歌で、歌碑は冒頭にあげたように原文表記によっている。語訳によれば、「秋山の樹の下隠り逝く水のわれこそ(ま)さめ御思(みおもひ)よりは」となり、「秋の樹の下隠れの流れが水かさを増すように、君(天皇)がお思いくださるよりも私の方がもっと君(天皇)のことを思っていることですよ」という意であるのがわかる。「樹の下隠り」は自分の心に秘めている気持ちを比喩した表現である。

 天皇の歌は「大和の大島の嶺に家があったなら、あなたの家をいつも見ていられるのに」という意で、「大島の嶺」は生駒山系の高安山かと言われている。この歌から、鏡王女はこのときいずこに住まいしていたのであろうかということが思い巡らされるわけであるが、後に鎌足の妻になることもあわせ、いろいろと推察されるところである。

 写真は左から鏡女王の墳墓に向う道のせせらぎ脇に置かれた鏡王女の万葉歌碑。中央は舒明天皇陵の奥に位置している鏡女王の墳墓の杜。右は鏡女王の墳墓に建つ「鏡女王忍阪墓」の石碑。   古歌の道 落葉踏みつつ 訪ね行く

 

 


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2013年11月28日 | 写詩・写歌・写俳

<817> ジレンマの光景

         ジレンマが生じている

        矛盾が生じている

        如何に対処すべきか

        大いに悩むのもよい

        達観するのもよかろう

        だが どちらにしても

        私たちは みな

        このジレンマと矛盾の

            生の真っただ中にいる

    奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき                                                                     猿丸大夫

 この歌は『百人一首』でお馴染みの猿丸大夫の歌である。第一番の天智天皇から第七番の阿倍仲麻呂までが奈良時代以前の詠み人とされ、第五番のこの歌も奈良時代ころの歌と思われる。猿丸大夫というのは猿と一緒に諸国を巡っていたされる下級の宗教者につけられた名とされ、出典の『古今和歌集』には「よみ人しらず」として「秋歌上」に登場を見る。

  奥山は里山よりも奥に当たる深山(みやま)を言うもので、この歌では、奈良の春日奥山辺りが連想される。このほど紅葉の奈良公園を歩いていたら、この歌と同じような雰囲気の鹿に出会った。深まりゆく秋の雰囲気が感じられたのでカメラに収めたのであったが、このとき、奈良公園周辺の鹿を処分して頭数制限をするという方針を奈良県が出したというニュースを思い出した。

  奈良公園の鹿は国の天然記念物として保護され、無闇に捕獲することは出来ない。このような状況下にあることから、鹿は年々頭数を増やし、周辺地にも出没し、田畑などに被害を及ぼすに至って、近隣住民から訴える声が発せられるようになった。また、国の特別天然記念物に指定されている春日山原始林でも鹿の食害によって生態系に悪影響を及ぼす心配があると指摘されるようになった。

  このため、奈良県は捕獲や避妊処置などによって鹿の頭数管理を徹底する方針を打ち出し、このほどニュースにとり上げられた次第である。つまり、鹿を選別して捕獲、または避妊して、頭数を減らすというものである。人間と同じように鹿にもいろいろいて、観光客にすり寄ってエサの煎餅を日がな一日ねだっているようなのがいるかと思えば、人間嫌いでもなかろうが、公園外や山の中にエサを求めて入り行く鹿もいる。果たして、この保護されている天然記念物の鹿をどのように選別し、どのように処置してゆくのだろうか。

                                              

  この奈良公園の鹿について考えを巡らしていたら、ふと、「ジレンマ」という言葉が思い浮かんで来た。この間、仁徳天皇のかまどの煙の歌に触れ、かまどの煙が民の生活のバロメーターで、民の豊かさ、言わば、幸せの度合いを示すものとしてあることを述べたが、同じ民の豊かさをもってある煙でも、中国では悩みの種になっていることが思われた。

  中国の場合は、経済的発展にともない生活が豊かになって煤煙が増えたもので、確かにその煤煙は民の豊かさを示すものであるが、煤煙は人体によくない状況を生み出すというから困りものである。鹿の保護は観光立県、立市を推進する奈良県や奈良市には必要欠くべからざる動物で、手厚くその保護を行なって来た。結果、鹿が増え、弊害を及ぼすようになったわけで、中国の煤煙の問題に似ると言える。煙を減らすには、経済活動を控えるか、煤煙防止の技術的開発を進めるかであるが、一朝一夕には運ばないから、住民は我慢するしかないことになる。所謂、これは中国のジレンマで、鹿の問題は奈良のジレンマということになる。

  中国の問題はさて置き、鹿の問題は、相手が愛されるべき生きものであるという悩ましさがある。この選別して鹿を減らすという奈良県の方針に対し、鹿の愛護会などはどのように考えているのだろうか。かつて、矢に射られた矢鴨がニュースになったことがあったが、そのとき、ある論評子は、この世の中を評して「焼きとり屋で矢ガモ救出を論じるような矛盾を引きずっている。人間社会そのものがカリカチャ(戯画)だからだろう」という風に評していた。

  皮肉な言いであるが、人間は人間の裁量によってことを運ぶ。痛々しく見える矢鴨であろうと、鹿が天然記念物であろうとなかろうと、そこに生きものの命が存在しようとしまいと、その裁量の判断は人間の都合によって行なわれ、ことを処置してゆく。これが現実への対応で、これもこの間、触れたところであるが、人間本意の合理主義によって、ことを行なってゆくということになる。

  ここに悩みが生じないはずはないが、この合理主義がことを進めてゆく決心を促す。人間と接して生きて行かなくてはならない奈良公園の鹿のような生きものたちにとってこれは恐ろしい状況であるが、人間の合理主義は手のひらを返したように凶器を振るって鹿たちに向う。片方の手でエサを与えながら、片方の手に殺意の斧を隠し持つ。果して、論評子の言うカリカチャ(戯画)というのは当を得た言葉に思えて来る。しかし、これも仕方ないのであろうか。現実はみな合理主義に委ねられている。 写真は紅葉真っ盛りな中の鹿。奈良公園で。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月27日 | 写詩・写歌・写俳

<816> 大和寸景 「紅葉の奈良公園にて」

      ひとときを みな紅葉に 与かれり

 紅葉(黄葉)真っ盛りの奈良公園で、結婚式場から飛び出して来たような新婚カップルが現われ、紅葉(黄葉)やシカを入れて写真を撮り始めた。遠くで見ていると、映画かテレビドラマ、あるいはCMのロケーションかと思われるほどで、この光景は春のサクラが咲くころにも見たことがある。

 新婚カップルに加え、カメラマンなど撮影スタッフが三人ほどついてやって来た。あらかじめ撮影場所を探しておいたのだろう。場所を決めるのにもたつくことはなく、てきぱきとして見えた。シカと一緒に撮影するときはスタッフがシカにエサを与えて巧みに誘導していた。相当手なれている様子がうかがえた。

                        

 みんな珍しいと見えて、通りかかる人ごとにこのカップルの姿をスナップしていた。私もその一人であったが、スタッフの言葉が日本語でなく、中国語のようだったので、どこの国から来たかということを聞いてみた。だが、言葉が通じなかったか、それとも答えたくなかったか、話はそれ以上進まなかった。

 想像するに、新婚旅行先でウエ―ディングドレス姿の記念写真を撮るのが人気になっているのだろう。わざわざ衣装を用意し、スタッフを組んで撮影に来るということは、この撮影が一つのビジネスになっているのに違いない。言わば、奈良公園は新婚カップルの撮影にぴったりなのだろう。背景に申し分はなく、場所代はかからないし、自由に撮影出来ることがあげられる。これほど撮影に適った場所はなかろうという気がする。

 それに、このスタッフを含む新婚カップルは、奈良にとって泊まりがけで来てくれるお客さんであるから、この撮影の光景は、言わば、持ちつ持たれつの光景かと思われる。それにしても、ドレスの純白というのは映えて見えるものである。写真左はシカと一緒に写真を撮る新婚カップル。右の二枚は黄葉真っ盛りのイチョウをバックに写真の撮影をする新婚カップル。いずれも奈良公園で。

 

 


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2013年11月26日 | 創作

<815> 幻想短歌 「若狭恋歌」 (2)     ~<814>よりの続き~

        まさるとも劣らぬものを名に負へる美しきかな白百合の花

  彼女はこのころから夫と同じ肺の病に罹り、学業半ばにして退学を余儀なくされた。その後、姉の嫁ぎ先の京都で療養につとめたが、父の危篤の報により故郷に帰った。間もなく父が亡くなると、その父を追うように彼女も病を悪化させ、「わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく」の歌などを『明星』に発表し、その一年後の春、二十九年の短い生涯を閉じたのであった。「髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)を伏せつつ君をこそ思へ」(『恋衣』)と詠んだように、白百合の花に愛着を示した。では、彼女、山川登美子に寄せて詠んだ「若狭恋歌」一連の歌を披露したいと思う。  写真はイメージ。

                                                

  陽に漱ぐ若狭より来し君ゆゑに 心とはなる我が身なりけり

  宵山の人の流れの藍深き中に紛れて恋歌一首

  扇より零れし笑みを夏病の眼のうちに掬ひしは恋

  もみぢ葉の音楽堂へ続く道 往き往きて我が恋歌の道

  具象派も抽象派もみな君の目のやさしさに逢ひ伴はれゆく

  理不尽に君を誘ふ一行は自負の言葉を点睛に置く

  男ゆゑかくは歌はじ されど恋 されど恋歌 切なくぞある

  如月の月下を奔る馬の目の水晶宮をともに歩まむ

  旅を来しものの眼に映るもの 今宵の灯火は春を点せり

  一枚の切符を求む 行き先きは君の歌冠のふるさと若狭

  恋の子が恋に寄せたる恋の歌 おぼろ月夜の花の下道

  君の歌 光の中に見えしとき 心に点す若狭なりけり

  ひとひらの花に始まる繚乱を君に贈らむ 若狭恋歌

  恋ひ恋ひて恋に死すてふ恋のあり 花野の君の手枕の中

  記し置きし約束のメモ雨に濡れ 菖蒲の色に滲みつつあり  

  寄する恋 寄せては返す波に寄せ 思ひははるか夢路の若狭

  随身の一睡の夢 その夢の花にもの問ふ恋もあるかな

  清水へ祇園をよぎることなども されど今宵の君は美し

  アカシアの花咲くころのボ-ト祭 恋よまされと水辺の光

  愚かなる恋と言ひやるものもあれ さはれ言葉の中なる翼

  我が机上のそのわづかなるスペ-スに込めて生まれし恋歌一首      

  霧深き山に向かひて入りし鷺、鷺のすがたはすなはち君の

  おもふ身のこれやこの身の燃ゆるべく 篝が闇を焦がす火祭

  紫陽花の花に寄り寄る恋の言ひ 赤き雨傘一つ行かしむ

  ひとすぢの紅ひくはるかなる若狭 いまひとたびの歌も恋歌

  雪降らば閉ざさるる国ゆゑにして 若狭は春の陽を恋ふる国

  春が来て若狭の国を訪ふこころ 眺めのうちに君を置きて

  少女子のそこにありける君ゆゑに しぐるる海も鴫立つ磯も

  余呉の湖あたりか知らず夜の闇 ひとり向かへる若狭なりけり

  吹雪きしがこころ温めゐる恋の若狭なりけり恋しき若狭

  降り積もる雪になかばを埋めながら薄紅梅のほのかなる紅 

  遙かなる星の光に触れてゐる寒林の闇の中の目頭

  あの虹の色に加ふるものあらば 夢の移り香とこそ言はめ

  緋連雀 悲恋啄む夢にゐて 君の移り香かすかなるかも

  若狭とは 恋恋恋の 恋の果て 果て果て果ての白百合の花

  「遠敷郡」(をにゅうぐん)ああ麗しき語感かな 春を告げ来る遠敷明神

  一首得てもって加へて言ひやるに すなはち恋の若狭なりけり

  身は心を入れてありけり 我が身には心に永久の白百合の花