大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年12月06日 | 写詩・写歌・写俳

<1439> 推敲について

        人生はあるは推敲さもあらむ定め難きを負ひゆく定め

 詩歌を成さんとする者に推敲ということがある。推敲を辞書で引いてみると、次のような逸話が起源であるという。唐の時代に賈島(かとう)という詩人がいて、「僧推月下門」(僧は推す月下の門)の詩句を得たが、「推」(おす)を改め、「敲」(たたく)にしようかと惑い、名文家で知られる韓愈(かんゆ)に問うて「敲」に決めた。この故事により、詩文を作るのに言葉をいろいろと考え練ることを推敲というようになったという。

 推敲は詩歌を作る上において誰もが経験することで、大切なこととしてある。少々詩歌に携わっている身の私にもこの推敲はよく理解出来ると言ってよい。言わば、言葉の取捨選択は推敲によってなされるが、時を隔てて詩文を練り改めることもあり、このようなときなどにもこの推敲という言葉は用いられる。

  短歌の推敲でよく知られるのは、勅撰第八代集に当たる『新古今和歌集』の主催者後鳥羽院がある。院はこの『新古今和歌集』の完成に際し、完璧を期すため削除、精選に当たり、これに生涯を費やした。隠岐の島への流竄の後も崩御するまで『新古今和歌集』の切り継ぎを行ない続け、隠岐本と称せられる『新古今和歌集』を成したのであった。院にとって歌はそれほど重要なもので、人生そのものの観がその推敲にはうかがえる。

                

  近代短歌で言えば、斎藤茂吉の推敲がよく知られる。例えば、大正二年(一九一三年)三十一歳のとき刊行した処女歌集『赤光』は同九年(一九二〇年)三十八歳にして定本とすべく改作と削除、精選を行ない、「死にたまふ母 其の一」の中の一首「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞいそぐなりけれ」を「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」と改めるなどしている。これは、所謂、推敲の結果であり、茂吉の三十一歳から三十八歳の人生に重ねて推敲があったことを物語る。

 俳句でよく知られるのは、松尾芭蕉の『奥の細道』の中の推敲である。例えば、立石寺の一句、本文では「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」とあるが、初案、再案は「山寺や石にしみつく蟬の声」(曽良書留)、「淋しさの岩にしみ込せみの声」(木枯)、「さびしさや岩にしみ込蟬のこゑ」(初蟬)とあるのがうかがえる。

 また、象潟での一句は、本文で「象潟や雨に西施がねぶの花」とあるが、初案、再案等は「象潟の雨や西施がねむの花」(曽良書留)、「象潟の雨や西施が合歓の花」(泊船集など)、「きさがたのあめや西施がねぶのはな」(真蹟懐紙)という具合で、推敲の末に本文の句が成り立っているのがうかがえる。まだ、ほかの句にもこの推敲の結果は見える。

 近代では、正岡子規の名句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」にもうかがえる。初案では「柿食へば鐘が鳴るなり東大寺」だったというのがもっぱらの見解であるが、これも一種推敲の形跡を思わせる。この句は、また、夏目漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の真似句という評もあるが、古来より見られる本歌取りということか。しかし、本歌取りも推敲の一端と見なせる。

 ということで、推敲には年月を隔てて行なう推敲があり、その良し悪しがよく議論されることがある。私も、若くして作った歌を遥かな年月を隔てて推敲に及ぶことがある。こういう場合、最初の歌の瞬発的な輝きを持った表現に推敲して得た改作の表現を比べ、推敲後の表現は最初の表現に及ばないとする見解がある一方、人生の時を重ねて及ぶ推敲の結果にある改作された表現の方が歌に深みが加わるのでよいとする推敲称揚派の見解があるのを承知している。

 どちらも一理あって、ケース バイ ケースだと思われるが、私の場合で言えば、推敲なく歌が成り立たつ作品は稀であると言ってよい。ただ、推敲に当たっては、当時の思いというか、心情をなるべく汲むように心がけている。瑕疵はともかくとして、表現上あまりにも稚拙なものについては、惜しまれるものながら削除することもある。総じて言えば、詩歌における推敲は、詩歌に等しく人生そのものであると私には思えるのである。 写真はイメージで、青空。

     推敲の後先見ゆる歌ノート思ひはひとり負ひゆく定め

  青空は歌を欲してゐるごとし雲出で来れば推敲のとき