大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1182> 放射冷却現象の朝

         あをがきの冬の大和のそのすがた放射冷却現象の霧

      その昔も 見しものならむ 朝霧の 帯なす青垣国中の景

      霧の帯 山裾おほひたる朝は 大和国中 晴れわたりゆく

 昨日は雨。今朝は一転、よく晴れて、冷え込んだものと思われる。無風状態で、朝方、放射冷却現象の霧が青垣の山裾を帯状に被って白く見えた。工場の煙突から出る煙は真っ直ぐ立ち上っていた。これは風のないことを示すが、こうした自然現象はその昔(かみ)の人も見ただろう。

                             

  放射冷却現象の霧は地表の物が電磁波を放射し、これによって地表の気温が下がり、上空の大気との気温差が生じることによる。標高千メートルから四百メートル前後の山に囲まれた青垣の大和国中(くんなか)では、この放射冷却現象の朝霧がくっきりとして見える日がある。今朝がまさにその日であった。時雨も晩秋のころから冬にかけてのものであるが、この放射冷却現象の朝霧も晩秋から冬にかけての自然現象である。 写真は帯のように白く被う放射冷却現象による朝霧 (後方は天理市方面の青垣の山並)。


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2014年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1181> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (86)

          [碑文1]             宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに                          『万葉集』  巻 一 ( 7 5 )  長 屋 王

          [碑文2、3]          佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ                    『  同  』 巻 三  ( 3 0 0 )   同

         [碑文4]               うまさけ三輪のはふりのやまてらすあきのもみぢはちらまくをしも                 『   同   』 巻 八 ( 1 5 1 7 )  同

  今回は悲運の皇子長屋王の万葉歌碑を見てみたいと思う。長屋王は天武天皇の長男高市皇子を父とし、天智天皇の娘である御名部皇女を母に持つ。正妃は天武天皇の次男草壁皇子(母は持統天皇)と天智天皇の第四皇女である元明天皇の間に生まれた吉備内親王である。天智と天武は兄弟であるから、長屋王は天皇家の濃い血筋にあることがわかる。この血筋が長屋王にはかえって影響し、悲劇を招く災いになったと言えるかも知れない。

  養老二年(七一九年)従二位、右大臣。神亀元年(七二四年)正二位、左大臣に昇り、同五年(七二八年)に皇太子の基(もとい)王(聖武天皇の第一皇子・母は光明子)が幼くして亡くなり、藤原氏は藤原不比等の娘である光明子を皇位継承権のある皇后に立てようとした。長屋王はこの立后に反対し、藤原氏と対立、長屋王の変によって同六年(七二九年)、妻子もろとも自害して亡くなった。五十四歳だった。その後、光明子は天皇家以外で初の皇后となり、藤原氏の地位を盤石にした。

 長屋王は詩歌を好み、平城宮近くの自邸佐保の楼に天皇、皇后をはじめ多くの貴族を招いてよく詩宴を催したと言われる。その宴席で披露された漢詩を集めてまとめたものが我が国最古の漢詩集とされる『懐風藻』である。で、長屋王は『万葉集』に短歌五首と『懐風藻』に漢詩三篇を遺している。

 以上が長屋王の概要である。言わば、父の高市皇子が持統、草壁、文武の血筋の影響を受け、天皇の地位をうかがうことが出来なったが、長屋王も一級の血筋にありながら聖武、光明子の藤原氏の血筋に阻まれ、その道を叶えることが出来なかったのである。これらのことを踏まえて歌碑の歌を見てみたいと思う。

                       

 碑文1の歌は、『万葉集』巻一の「雑歌」の項に見える(75)の歌で、原文では「宇治間山 朝風寒之 旅尒師手 衣應借 妹毛有勿久尒」とある。宇治間山は明日香村から芋峠(妹峠)を越えて吉野に入ったところの千股山ではないかと言われている。この峠越えは持統天皇の吉野行幸の際にも用いられたと思われる。歌は「宇治間山の朝風が寒い。旅なので、私に衣を貸してくれる妻もいない」という嘆きの歌であるのがわかる。歌碑はこの峠を越えた吉野町千股(ちまた)のスマイルバス上千股バス停近くの公民館広場の一角に建てられている。

 碑文2、3の歌は、巻三の「雑歌」の項に見える「長屋王、馬を寧楽山に駐めて作る歌二首」の詞書による(300)の歌で、原文表記では「佐保過而 寧楽乃手祭尒 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣」とある。佐保は奈良市法蓮町辺りで、寧楽山(平城山・奈良山)の佐保丘陵の麓の一帯をいう。手向は旅の安全を祈って道の神に幣を手向けることで、歌は「佐保を過ぎて奈良山にかかり、手向に幣を置くのは妻をいつも目から離さず、見ていたいという気持ちからだ」という意になる。

 これは一首目の歌で、二首目の(301)の歌は、「磐が根のこごしき山を越えかねて哭(ね)には泣くとも色に出でめやも」というもの。原文では「磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尒將出八方」とあり、その意は「岩のごつごつした山を越えることが出来ずに声を出して泣くことがあっても、恋しい妻のことを決して出したりはしないつもりだ」ということになる。

 この碑文2、3の歌碑は奈良市歌姫町の添御県坐(そえのみいます)神社境内と同市佐保台西町のJR平城山駅前に建てられている。これらの歌碑に関わる三首は難渋する峠越えの心細い旅の途次に妻を思いながら詠んだもので、後に家族もろとも自害して果てる運命を思わせる心持ちに重なり、私には悲痛な歌に思えて来る。行く手を阻む峠の岩根は人生の行く手にもあって、塞ぎ、超え得なかった。

 次に碑文4の歌は、巻八のこれも「秋の雑歌」の項に見える(1516)の歌で、原文では「味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉乃 散莫惜毛」とある。祝(はふり)は神職の意で、「三輪の神の山を照り映えるほどに彩っている秋の黄葉の散るのが惜しまれる」ということになる。この歌碑は桜井市の大神神社の境内に建てられている。

 今一首、巻三の(268)の歌があるが、この歌は「明日香より藤原の宮に遷りし後、この歌を作るか」という左注があるように、持統天皇八年(六九四年)藤原遷都があった十九歳のときの望郷の歌で、「わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて」というもの。原文は「吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而」とあり、その意は「あなたの古い家のある明日香の里には千鳥の鳴いているのが聞こえる。美しい庭泉を求めかねて」という具合である。

 この二首も、長屋王の思いに任せない心持ちの現れが見えるような歌であるのがわかる。『万葉集』の五首を総じてみても、恋歌などはなく、華やかな詩宴とは裏腹に、憂愁を纏った気息の歌である印象を受ける。これは長屋王の生立ちによるものであろうか、それとも環境によるものであろうか。おのがじしの抒情歌である短歌はその人の人となりを表わすと思えて来る。写真は左から吉野町千股の「宇治間山」の歌碑、歌姫町の添御県坐神社境内の「佐保過ぎて」の歌碑、JR大和路線平城山駅前の「佐保過ぎて」の歌碑、大神神社境内の「うまさけ三輪」の歌碑。  落葉踏み 歌碑を求めて 吉野路へ

 

 

 

 


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2014年11月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1180> 柚子実る

       柚子の実や 我が家の色に 加へけり

 消費税が上がる前、十年十万キロ超走った車を買い換えてホワイトにした。家もリホームして壁面を明るいベージュ系の色にした。四年ほど前、苗木を買って植えていた柚子が今年はじめて実をつけた。これについては、このブログの六月十二日に「柚子」の項で触れた。わずか二個であるが、待望の実をつけた。そのときはまだ葉っぱと同じ濃い緑色だったが、五ヶ月を経て黄色の勝った橙黄色に色づき、このほど収穫した。で、黄色も今年の我が家色という気分になった。

                                                 

 「桃栗三年柿八年柚子は九年で生りかねる」というから初生りは、わずか二個ながら、めでたいと思う次第である。檸檬ほどではないが、柚子は樒柑よりも黄色が勝っている。もぎたては艶やかな質感があって新鮮さが感じられる。写真は収穫した柚子の実。今年初生りの二個。 では、この柚子に関して、またの一句。  柚子の実に 幸せの色 見てゐたり 


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2014年11月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1179> 落葉の道を行く

       落葉敷く 吉野への道 晴れゆけり

 今日は明日香村の栢森から妹峠(芋峠・小峠)越えに吉野町の千股(ちまた)まで、俳句五句を課してドライブし、近辺を歩いた。どこの山も黄(紅)葉が真っ盛りで、麓には穫り入れを終えた田んぼが広がり、初冬の風情である。まだ秋を感じさせるところもあるが、句立ては冬である。

 野菜では大根、白菜、葱。花では山茶花、菊、葉牡丹。果実では柿、樒柑などが目につく。色づくもみじはさまざま、万葉時代は黄葉の表記が主流だった。山の自然木は紅葉するものよりも黄葉するものが多く、落葉樹の多い雑木林では主に黄葉によって彩られる。自然を対象に詠んでいる歌の多い万葉歌が紅葉よりも黄葉の表記を用いているのは当然と言ってよかろう。

                      

 妹峠越えはその昔、持統天皇が吉野離宮への行幸の際に通った道だと言われ、その山道は今も残っている。以下は即席の六句である。 写真は左から落葉が敷き詰められた妹峠越えの道、落葉の道に引く自分の影、雑木の黄葉。

          落葉敷く 数限りなき 命かな                西日差し 落葉踏み行く 影踏み行く             遠山に 冬日射しゐる あたたかさ

        恩寵の 冬日に猫の 真ん丸な              落葉して 明るき道を 山里へ                 にぎやかで 少しさびしき 落葉かな   


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2014年11月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1178> 光 景

           視野にして喪服の男女席を占む 誰の不幸か幸せが見ゆ

 客の少ない真昼の喫茶店。何処に不幸があったのか。私の視野に喪服の男女が向かい合って席を占めた。二人は夫婦のようでもあり、兄妹のようでもあった。二人は席に着くなり喋り始めた。笑いはなかったが、その姿は不思議なほど和やかで幸せそうに見えた。自分に直接関わりのない人の死に触れて気持ちの一致するところがあったのか。二人の様子に何か心の奥にあるものを見るようで、喪服が印象的であった。店主らしい女性が飲み物を運んで行った後もなおしばらく二人は話を弾ませていた。

   数人の喪服の男席を占め ゴルフコンペの話を始む

 すると、しばらくして、今度は喪服の男数人が入って来た。近くにセレモニーホールがあり、告別式が終わった直後と思われる。葬儀の身内は火葬場に向かう車の中であろう。悲しみの中にあることは想像出来た。男たちは騒々しいほどのにぎやかさで、私の近くに席を取った。愁傷の気分など微塵もなく、告別の悲しみには縁遠い雰囲気にあった。飲み物が運ばれてからは、もっぱらゴルフコンペの話に終始し、会話は弾んだ。     

      人生はそれぞれなりき 焼香の黙するものの列を思へば

 告別式の会場は余程近いのであろう。また、しばらくして、やはり喪服の年寄り二人が入って来た。ともに七十歳前後に見える。店内はそれほど広くない。で、今度は私のすぐ後ろ側の席に座った。二人は告別で四十分ほど束縛されたことが気に障ったのか、座った途端、式運営の不平を漏らし始めた。「あれだけの人数やったら三列で焼香せなあかんわな」と一人が言えば、一人は「冷えたなあ」という。自治会の代表か、そんな感じがあった。で、会話にはついに故人の話題は出なかった。

                             

  人の死に関わる告別というのは、日々あるものではないが、いつかある。日ごろのあわただしさの中では、意識にも留めない人生への思いというようなものがこの告別にはある。死に際してその人の人となりや人生を思い起こし、自分のそれに重ねてみたりする。それをことさらに述べるのは障りで、心の内に留め置くことがよいのかも知れないが、店内の三者三様を何とはなし見ていると、世の中というものはこうしたものかも知れないという思いに至り、ふと、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』(郡司利男訳)を思い出した。辞典の中に、「幸福(名) 他人の哀れな境遇を静観するうちに込み上げてくる、気持のよい感覚」というのがあるが、この定義を思い出したのである。

  誰でも他人の不幸に同情しないものはない。だが、その不幸が自分に関係なければ、自分の立場に何ら変わりがないのに、同情の反面、自分の立場に気分のよいものが宿って来たりして、高揚するようなことがある。これはほとんどの人に当てはまるものであろう。アンブローズ・ビアスは逆説的言葉で真に迫っている。傍観者の利己主義は火事場の野次馬によく現れていると言える。店内の喪服客の光景は野次馬ではないが、消極的ながらも、他人の不幸に関わりながら存在するおのがじしの光景として見えたのであった。 写真はイメージで、群衆。