大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月31日 | 万葉の花

<2405> 万葉の花 (138) は じ (波自) = ヤマハゼ (山櫨)

       平成のゆく夏抒情歌の日本

 ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より 波自弓を 手握り持たし 真鹿児矢(まかごや)を手挟み添へて 大久米の 大夫健男(ますらたけを)を 先に立て 靭(ゆき)取り負(おほ)せ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国覓(くにまぎ)しつつ ちはやぶる 神を言(こと)向け 服従(まつろ)へぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へ奉りて 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と 言立てて 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名そ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴(とも)                  巻二十 (4465)   大伴家持

 この長歌は、詞書に「族(やから)に喩(さと)す歌一首 短歌を併せたり」とあり、短歌二首を含み、左注に「右は、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)宿祢解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作れり」とある。

 政権の権力闘争が燻っていた天平勝宝八年(七五六年)、実権の座にあった藤原仲麻呂に反目していた淡海三船が朝廷を誹謗したとの讒言があり、出雲守の大伴古慈斐が連座したとして三船とともに衛士府に拘禁される事件が起きた。どうも仲麻呂による当を得ない告訴だったようで、二人は三日後に放免されたが、このとき大伴一族の危機を覚えた家持はこの長歌と短歌二首をもって一族に訴えたのである。

 家持は権力争いには与さず、アウトサイダー的存在ではあったが、生真面目に仕事をし、部下思いの篤いところが万葉歌の端々に見える人物の印象がある。その印象は家持が大伴氏の長としてあったこと、そして、地方任官も辞さない朝廷への恭順の念が強かったことにもよる。この恭順の念と長としての一族への思いがこの諭しの歌を生んだと見ることが出来る。

 その家持の朝廷に対する恭順の思いは、古来より皇祖とともにある大伴の名誉と信頼が揺るぎなくあったからで、その矜持によってこの一連の歌は発せられたとうかがえる。詞書の「諭す」という言葉が、家持の並々ならぬ心情を伝えている。仮に家持が三船らに同調し、次に起きる橘奈良麻呂の乱に連座していたら『万葉集』はこの世になかったかも知れない。

 その意味においてこの長歌並びに短歌二首を見れば、この一連の歌は記念すべき歌ということになる。言わば、血気に踊らされない礼節の人家持の人物像がよくあらわされた歌と見ることが出来る。この長歌と短歌二首は一族の私的な関係性によって詠まれた歌であるが、公的にも影響した歌ではなかったかと思える。では、長歌の意を見てみたいと思う。岩波書店の『日本古典文学大系』は次のように大意をまとめている。

 「(わが大伴氏は)、天の磐戸を開いて高千穂の嶽に天から降下された皇祖、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御代から、梔弓(はじゆみ)を手に握り持ち、真鹿児矢を手挟み加えて、久米部の勇士を先に立たせ、靭(ゆき)を負わせ、山や川の磐根を踏みしだき、踏み通って国土を求めて東征し、荒々しい国つ神を服従させ、服従しない人々をも和らげ、掃き清めてお仕え申上げ、神武天皇が大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱を立派に立て、天下をお治めになられたというが、その皇位の継承者として、相継いで生れて来られた大君の御代御代、隠すことない赤心を天皇のお側に尽くして、お仕え申上げて来た祖先伝来の官職であるぞと、特に言葉をかけてお授け下さった立派な清い家名である。これこそ子孫が将来、幾世もうけ継ぎ、見る人は次々に語りつたえ、聞く人は鏡と仰ぐべき、朽ちさせてはならない、汚れのない立派な家名である。ゆめ、おろそかに思って、かりそめにも、祖先の名を絶ってはならない。この大伴氏と名を負った大夫たちよ」と。

 これは大伴氏の遠祖、天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して弓矢を携えて先駆けをつとめ、大いに働いたという『古事記』、『日本書紀』の伝承をあげ、祖先の功績を回顧し、大伴の誇るべき名を断つようなことがあってはならないと、一族を諭したということである。

 以上、前置きが長くなったが、この長歌の中に出て来る「はじゆみ」の「はじ」がここでは問われるところの本題である。原文では「波自由美」と万葉仮名の当て字が用いられているが、この「はじゆみ」は『古事記』と『日本書紀』の天孫降臨に際する天忍日命が持っていた弓であることは明らかで、これらを総合して考える必要がある。『古事記』では「天之波士弓」、『日本書紀』では「天梔(はじ)弓」と原文表記に見える。

              

 『日本書紀』の「梔(はじ)」が今一つわかり難いが、ハジは櫨で、ハゼとも言われ、この木で作った弓は優れた弓だったようで、この点から今日言われているヤマハゼ(山黄櫨)、或いは、ヤマハゼに極めてよく似るヤマウルシ(山漆)があげられている。ともにウルシ科ウルシ属で、ほかにも同属にはリュウキュウハゼのハゼノキ(黄櫨)や中国原産のウルシ(漆)があるが、これらは栽培目的で導入されたものが野生化して今にあるもので、神代の昔から存在していたとは考え難く、ヤマハゼ乃至はヤマウルシであるとされている。

 これに加え、ヤマハゼには「ネバノキ」、「ヤマアヅサ」等の地方名があり、弓材に適している名であることなどからヤマハゼが第一候補として見られ、ヤマウルシもヤマハゼと呼ぶ地方があり、よく似るところからこちらも弓にしたと見られるわけである。因みにヤマハゼは実からロウが採れ、ヤマウルシは樹皮からウルシが採れる。だが、今日ではハゼノキとウルシの方が生産性がよいため、こちらが植えられ、ヤマハゼとヤマウルシは雑木然として見えるところとなっている次第である。 なお、『万葉集』にはじの見える歌はこの一首のみである。

 ヤマハゼは高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵状長楕円形で、鋸歯はなく、先はやや尖る。小葉の裏面は緑白色。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序に黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームがある。実は核果で、秋が深まるころ黄褐色に熟す。本州の関東地方以西、四国、九州、沖縄に分布し、国外では、朝鮮半島、中国、台湾などに見られるという。心材は鮮黄色で染料に用い、辺材は淡灰白色で寄木細工などに用いられる。

 ヤマウルシはこれも高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵形から楕円形で、成木の葉には鋸歯がなく、先が急に尖る。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序を垂れ下げ、黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームもある。実は核果で、秋に熟す。北海道、本州、四国、九州に分布し、国外では朝鮮半島、中国、南千島などに見られるという。樹液に触れるとかぶれる。 写真は果期のヤマハゼ(左)と花期のヤマウルシ(右)。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月27日 | 植物

<2401> 大和の花 (568) ハルノタムラソウ (春の田村草)                               シソ科 アキギリ属

                                              

 シソ科に春、夏、秋を冠したタムラソウ(田村草)の名を有する多年草が見られる。ここではそのアキギリ属の多年草と属名になっているアキギリ(秋桐)を見てみたいと思う。まずはハルノタムラソウから。本種はやや湿った谷間の岩上や木陰に生え、断面が四角い茎を直立させ、10センチから20センチの高さになる。葉は1、2回羽状複葉で、長い柄を有し、基部に集まって対生する。小葉は卵形から楕円形で、側小葉より頂小葉の方が大きい。縁には鋸歯があり、表面にはまばらに毛が生える。

 花期は4月から6月ごろで、茎の先の部分に白色の唇形花を数段に輪生する。花冠は長さ8ミリほど。萼は長さ5ミリほど。花が散った後も残る。本州の紀伊半島、四国、九州に分布する日本の固有種で、襲速紀要素系植物の分布域に重なる。大和(奈良県)では分布が南部に限られ、「北限か」と言われ、個体数が少なく、希少種にあげられている。 写真はハルノタムラソウ(十津川村の玉置山)。   人間は感性と知性の存在

<2402> 大和の花 (569) ナツノタムラソウ (夏の田村草)                               シソ科 アキギリ属

                     

  山地の林縁や木陰の草地などに生える多年草で、ハルノタムラソウと同じく、断面が四角形の茎を直立させ、草丈は20センチから50センチほどになる。葉は普通1、2回羽状複葉で、小葉は卵形から楕円形。側小葉より頂小葉が大きく、表面にまばらな毛、縁には鋸歯が見られる。葉柄は3センチから7センチほどで、対生する。

 花期は5月から8月ごろで、茎の先端部に濃青紫色の唇形花をまばらに輪生する。花冠は長さ8ミリから10ミリで、萼は鐘形で2唇形。花はアキノキリンソウに似るが、雌しべが花冠より長く伸び出す特徴がある。日本の固有種で、神奈川県から近畿地方の太平洋側に分布し、大和(奈良県)では暖温帯上部から冷温帯域に見られるという。だが、生育地も個体数も少なく、絶滅危惧種にあげられている。山上ヶ岳から大峯奥駈道を南に向かって歩くと出会える。 写真はナツノタムラソウ(大峰山脈の尾根筋)。                    過去があって 現在はあり 現在があって 未来は開けゆく

<2403> 大和の花 (570) アキノタムラソウ (秋の田村草)                                  シソ科 アキギリ属

                          

 棚田の畦や山足の草むらなどに生える多年草で、断面が四角形の茎が伸びて高さが20センチから80センチほどになる。葉は普通1、2回羽状複葉で、小葉は広卵形から狭卵形。縁には鋸歯が見られ、長い柄を有し、対生する。

  花期は7月から11月ごろで、上部で分枝する枝の先に淡青紫色の唇形花を何段かに輪生する。イヌゴマに似るが、本種の花は青味が強い。本州、四国、九州、沖縄に分布し、東アジアに広く見られるという。大和(奈良県)では各地で普通に見られる。なお、タムラソウ(田村草)の語源は不明。 写真はアキノタムラソウ(矢田丘陵ほか)。   万能でない生に 懐疑はついてまわる

<2404> 大和の花 (571) アキギリ (秋桐)                                          シソ科 アキギリ属

                         

 やや湿り気のある山地の木陰などに生える多年草で、茎が地表を這って群生することが多い。高さは20センチから50センチほどになり、長さが6センチから10センチの三角状鉾形の葉は先が尖り、縁には鋸歯が見られる。葉には長い柄があり、対生する。

 花期は8月から10月ごろで、枝先に紅紫色の唇形花が集まってつく。花冠は長さが2センチから4センチほどで、仲間の中では大きく、上下に口を開けて咲く。下唇は垂れ、直立気味に開く上唇部分から糸状の雌しべが長く外に伸び出し、先端部で⒉分する。雄しべは花冠の内にあり、花冠の内面には長毛が生える。

  本州の秋田県から近畿地方にかけて分布する日本の固有種で、大和(奈良県)では山足や山道の傍などでときおり見かける。アキギリ(秋桐)の名は秋に咲くキリに似た花に因む。 写真はアキギリ(金剛山)。花はママコナに似るが、花冠より雌しべが長く伸び出すので判別出来る。ママコナは花の内側に白い米粒のような突起が2個見える。   平成のゆく夏毛虫が這ってゐる

 

 


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2018年07月26日 | 植物

<2400> 余聞、余話 「野生の花の撮影に寄せて」

     何処に生れ何処を渡りて来し風か頬に吹く風花に吹く風

 自然に生える植物の花は移ろう時の存在で、その花との出会いはまさにタイミングである。殊に日本のような四季の国ではこのタイミングが求められる。春に秋咲く花を求めても叶えられず、冬に夏の花を求めることはないものねだりに等しい。これは花が時の存在であるという証にほかならない。しかし、これは花を咲かせる植物自体が存在してはじめて成り立つ話で、殊に山野に咲く野生の花との出会いは所も大きく関わっている。つまり、自然の中で咲く花は時と所の産物であると言ってよい。

 山の花を写真にする目的で山に出向くときは、偶然の出会いもさることながら、この時と所に照準を合わせて登る。長年山に出向いていると、いつどこにどのような花が咲き、見られるかがわかるようになる。しかし、咲き誇るベストの花に出会うことは結構難しい。というのは、その年の天候によって開花が早くなったり、遅くなったりするからである。こうした自然の移り気にあっては想定外も往々にして起き、そのタイミングは悩ましいということになる。また、植生によっては木本や多年草のような植物でも消え失せてその姿が見えないということも起きる。ので、期待をもって出かけると、ときに裏切られることになったりする。

           

 そんな山野の花を訪ねる旅を重ねるうち、知らず知らずの間に、よく見られるポピュラーな花は、いつでも撮影出来るという気分も加わり、余程印象深い花でなければ敬遠してかかる。という具合で、これに対し、めったに出会えない花には意識が向かい、そのような珍しい花にカメラを向ける傾向が生じて来ることになる。珍しい花は、私にとって珍しいものか、誰にとっても珍しいものか、その点は問題であるが、珍しい花というのは、その花を咲かせる植物自体が少ないことを意味するもので、調べてみると、公式のレッドデータブックにあげられたりしていて、より意識されて来るというところがある。

 私の花の写真ライブラリーを見てみると、特別に狙いを定めて撮影行を展開しているわけではないが、レッドリストにあげられている草木の花が案外多いことに気づく。また、珍しい花には愛惜の念が湧いて来るとともに、貴重種のアピールによる存在感があって、その花の姿を写真に残す意義のようなものにも思いが向かい、今も遅々としてあるものながら大和(奈良県)の地に野生の花を求めて撮影に当たっている次第である。

           

 写真は大和(奈良県)の野生の花たち。三月から十月まで、一月一花、『大切にしたい奈良県の野生動植物』二〇一六年改訂版に掲載されている花からピックアップしたもの。上段左から三月イワナシ(ツツジ科・絶滅危惧種)、四月アマナ(ユリ科・希少種)、五月クリンソウ(サクラソウ科・絶滅危惧種)、六月ササユリ(ユリ科・希少種)。下段左から七月オオヤマレンゲ(モクレン科・絶滅寸前種・国の天然記念物)、八月コモノギク(キク科・絶滅寸前種)、九月オタカラコウ(キク科・絶滅危惧種)、十月キイジョウロウホトトギス(ユリ科・絶滅危惧種)。

 


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2018年07月21日 | 植物

<2395> 大和の花 (563) ヒツジグサ (未草)                                        スイレン科 スイレン属

          

 池や沼などに生える多年生水草で、水底の根茎から長い葉柄を出し、葉は水中に開く沈水葉と水面に開く浮葉とからなる。浮葉は長さが5センチから30センチの広楕円形で、基部は深く切れ込み、裏面は紫赤色を帯び、秋になると紅葉する。

 花期は6月から10月ごろで、根茎から長い花柄を水面に伸ばし、柄の先に白色の1花を開く。花は直径5センチ前後で、萼片は4個、花弁は8個から15個。雄しべは多数で、雌しべは8個。ともに黄色で、3日ほど開閉を繰り返す就眠運動を行なう。雌しべが先熟し、その後、雄しべが熟す。花が終わると水中に没し、実を結ぶ。実は液果で、液果は包まれた萼片が水にほぐれ、現れた袋果が水面に浮き上って移動する。

 スイレン属の仲間は熱帯性の昼咲きと夜咲き、温帯性の昼咲きが見られ、花の大きさによって分けられる。ヒツジグサ(未草)は温帯性の昼咲きで、小さい花のグループに属する。その名は花の就眠運動に因むもので、未の刻(午後2時)に花が旺盛に開いていることによるという。勾玉池で観察を試みたところ、午前9時から10時の間開き始め、正午ごろにはほぼ開き切り、午後2時ごろ花は旺盛に咲き切った状態になった。しかし、個体や生育場所によって違いがあるようで、開閉は一定しないという指摘もある。

 北海道、本州、四国、九州に分布する在来のスイレンで、国外では東アジア、インド、ヨーロッパにも広く見られるという。溜池の多い大和(奈良県)ではよく見られていたが、農薬に弱く、アメリカザリガニやコイなどの食害、繁殖力の強い外来スイレンの圧迫などの要因によって消滅する例も報告されている。

 宇陀市の鳥見山公園の勾玉池は、2000年ころまでヒツジグサが繁茂し、池面に広く花を見せていたが、その後、徐々にその数を減らし、2009年から2010年ごろにかけて姿を消し、今は外来のスイレンとジュンサイが見られるが、これらも徐々に乏しくなる状況にある。

  原因は何なのだろうか。除草剤のような農薬か、コイの放流か、はたまた、外来スイレンの投入か、いずれにせよ、勾玉池のヒツジグサの消滅は人為によるものと考えられる。とにかく、大和(奈良県)では自生種が減少し、奈良県のレッドデータブックには絶滅危惧種としてあげられている。 写真はヒツジグサ。左から旺盛に花を咲かせる1994年の勾玉池の花、2003年の花、2008年の矢田丘陵・頂池の花(傍に黄色いタヌキモの花が見える)、花のアップ。   未草池の辺りの自然かな

<2396> 大和の花 (564) ジュンサイ (蓴菜)                                       スイレン科 ジュンサイ属

          

 池や沼に生える多年生水草で、水底の泥中を横に這う根茎から長い茎を伸ばし、裏面が紫色を帯びる長さが5センチから10センチほどの楕円形の葉が盾状について水面に開く。このような葉を浮葉といい、浮葉がしばしば水面を被い尽くすほど群生することがある。茎や葉柄、若葉(若芽)などが寒天状の透明な粘膜に被われる特徴があり、その若葉(若芽)は汁の実や酢の物、てんぷらなどに用いられ、食材として珍重されている。また、全草を利尿、解熱、腫れ物などの薬用としても利用される。

 漢名は蓴(ちゅん)で、ちゅんがじゅんに転じ、食用の意である菜をつけこの名が生まれたという。『古事記』や『万葉集』にはヌナハで登場し、平安時代の『倭名類聚鉦』には「蓴 水菜也 和名沼奈波」とある。所謂、万葉植物で、古名はヌナハであった。ヌナハは、沼に生え、水中に伸びる茎が縄のように長いことによる沼縄(ぬなわ)の意とか、ぬるぬるした長い茎を乾かし縄に用いたことによるとかの説がある。池にたらいや箱舟を浮かべ、これに乗ってこの沼縄の茎を手繰りながら若芽の採取が行われ、今にある。

 花期は6月から8月ごろで、根生するヒツジグサと異なり、水中の葉腋から花柄を伸ばし、その先に暗紅紫色の花をつけ、水面の葉の間に1花を開く。花は紫褐色の花弁状の花被片が普通6個(萼片を含む)。開いて反り、紫紅色の雄しべ多数が真ん中の雌しべを囲んでつき、よく目につく。花後、実の液果は水中に没して成熟する。

 日本全土に分布し、東南アジア、中国、インド、アフリカ、アメリカ、オーストラリアなどに広く見られるようであるが、食用にするのは日本と中国くらいだと言われる。中国では故郷を思う情の例えとして蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)という言葉がある。ジュンサイの羹(あつもの)とスズキの膾(なます)で、中国では故郷の味とさて来た。日本ではヌナハの名が示すようにジュンサイは古くから食材として利用されていたことが察せられる。

 なお、ジュンサイは自然のものだけでなく、栽培されており、秋田県が産地として知られる。自生のものは生育場所の環境が悪化し、減少傾向にあると言われ、大和(奈良県)では、各地の溜池で普通に見られていたが、消滅したところが多く、レッドデータブックには絶滅危惧種としてあげられているのが現状になっている。 写真はジュンサイ。左から水面を被う葉の間に咲き出た花、花のアップ、黄葉の葉群、古名のもとになった沼縄の茎に被われた水面(いずれも宇陀市内の池)。

   私の系譜はイエスの系譜よりも長い あなたの系譜も

 

<2397> 大和の花 (565) コウホネ (河骨)                                      スイレン科 コウホネ属

                 

 浅い池沼などに生える多年生の水生植物で、水底の太い根茎が多少曲がりくねってところどころに節があり、外面は灰緑色、内側は多孔質で白く、この形と色から根茎を動物の骨と見なし、川などの水中に生えることから、この名がつけられたという。

 葉は流れのある川などでは細長い膜質の葉を水中に開くが、池や沼など水に流れのないところでは水上に長さが20センチから30センチの長卵形の葉を見せる。水上葉の基部は矢じり形に切れ込み、太く長い葉柄によって水面より突き出て立つものが多く、この種の葉はハスの葉と同じく抽水葉と呼ばれる。

  花期は6月から9月ごろで、太く長い花柄を水面より突き出し、その先に黄色の1花を開く。花は全体的に黄色で、直径4、5センチの椀状。一番外側に花弁状の萼片5個があり、花後は緑色になる。花弁はへら状の長方形で、多数あり、少し外側に曲がる。雄しべも多数で、これも外側に曲がり、真ん中の雌しべ多数の柱頭を囲む。

 北海道、本州、四国、九州に分布し、朝鮮半島にも見られるという。学名にNuphar japonicumとあるように、日本が主産地で、仲間に地域特産のネムロコウホネ、オゼコウホネ、オグラコウホネ、ヒメコウホネ、シモツケコウホネなどが見られる。大和(奈良県)では自生地が極めて少なく、奈良市の磐之媛命陵のお濠はよく知られるが、絶滅が懸念され、絶滅危惧種にあげられている。

  なお、『大切にしたい奈良県の野生動植物』(奈良県版レッドデータブック2016改定版)は、大和(奈良県)に分布するものについて、広義のヒメコウホネからサイコクヒメコウホネに改めているが、『日本の固有植物』(東海大学出版部・加藤雅啓・海老原淳編)によると、ヒメコウホネについて「西日本に広く分布すると考えられてきたが、その多くが交雑由来の個体であり、真のヒメコウホネは東海地方に限られて分布する」とあるので、この説明等により、ここではコウホネとして扱った。

 コウホネはアルカロイドのヌハリジンという物質を含む有毒植物であるが、漢方では川骨(せんこつ)と言われ、根茎を薬用とし、月経不順、強壮、止血などに用いるという。アイヌでは根茎を晒して保存食にした。 写真はコウホネ。左2枚は奈良市佐紀町の磐之媛命陵の外濠、右は宇陀市榛原栗谷の溜池の個体)。   今日の青空 今日の暑さ 今日の鐘の音 今日の命 2018723

<2398> 大和の花 (566) ハス (蓮)                                              スイレン科 ハス属

           

 池沼などに生える多年生の水生植物で、スイレン科に属するともスイレン科から切り離して単独のハス科であるとも言われるが、ここではスイレン科にした。ハス葉の化石などから被子植物双子葉植物中では比較的早い時代に地球上に出現し、中生代白亜紀に当たる約1億年前には存在していたと見られ、インドが原産地とされているが、日本では葉の化石が最も古い記録で、行田ハス(行田市)や大賀ハス(千葉市)のように3000年から2000年前の地層において発見された実が発芽し、今に蘇り、古代ハスとか原始ハスと呼ばれ、各地でその子孫が美しい花を咲かせているところを見聞するに在来とも思える。

 地下茎は先端部分が肥大し、これをレンコン(蓮根)と呼ぶ。レンコンは食材とされることは誰もが知るところ。その根茎から太く長い葉柄が伸び上がり、先端に1葉をつける。葉は抽水して水上に立ち上がって開くものと、水面に止まって浮葉するものとが見られる。立ち上がって開く葉は直径30センチほどの円形で、コウホネのような切れ込みがなく、葉の中央部分に葉柄が盾状につく特徴がある。葉柄には孔が通っており、葉に酒を湛えて長い葉柄で飲む遊びが昔からある。

  花期は6月から8月ごろで、抽水して直立し、伸び上がった花柄の先に大形の1花をつける。花は、普通20個ほどの紅色の花弁が重なるように開きみごとである。花は普通早朝に開花し、午後3時頃まで開き、夜間には閉じる。この開閉を3日ほど繰り返した後、花は中央部の花床(花托)を残し散る。花床(花托)は逆円錐形で、多数の雌しべがハチの巣状につく。花床は果期になると果床となり、広楕円形で堅い痩果が多くの穴に埋まって熟す。この果床の姿がハチの巣に似るので、古名のハチス(蜂巣)からハス(蓮)の名が生まれたという。

 ハスの歴史は古く、古代エジプトや古代ギリシャではすでにその姿が見られ、生命のシンボルとされたりしている。ヒンズー教など宗教との関りがあり、泥の中に生えながら清らかで美しい花を咲かせる存在が高く評価され、ともにインドを発祥とすることもあって、仏教との関りが深く、仏教にとってなくてはならない聖花として尊ばれ、今に及んでいる。その花は極楽浄土に比され、仏教寺院にはいろいろに象られ見られる。例えば、東大寺の大仏さんの大蓮坐はその例で、極楽浄土の曼荼羅の世界が毛彫りされている。また、中将姫が葉や茎の繊維、蓮糸で織り上げたと言われる當麻曼荼羅のような話もある。

 日本の文献でハスが最初に登場するのは『古事記』で、雄略天皇の条に見え、『万葉集』の歌にも詠まれている万葉植物であるが、仏教との関りで詠まれたハスは見えず、日本で仏教との関りが普及して一般によく知られるようになるのは少し時が経ってからと言われる。今では園芸種の開発も行われ、八重咲きや白花種など50種以上に及び、アメリカ産のキバナハス(黄花蓮)も見られる。仏教伝来の地、大和(奈良県)にはお寺が多く、唐招提寺、喜光寺、薬師寺などハスで知られるお寺では毎夏みごとな花が見られる。

 なお、ハスは地下茎のレンコンから茎葉、花、実すべてが利用され、その花の美しさは他の花のあこがれ的存在で、蓮(はす)の名を借りた名の持ち主も見られるほどである。長くなるので詳しくは述べ得ないが、根茎は主に食用とされ、平安時代の『延喜式』にはレンコンを大和、河内から宮中に納めたという記録がある。また、今では珍しくなったが、葉は仏を迎えるお盆の精霊棚に欠かせないものだった。

  花の部分は観賞のほか、花床や実が食用や薬用にされ、今にある。茎や葉も食用等に利用されて来た。日本では花床や実はあまり食べないが、アジアの国々では普通に売られ、普通に食べられている。薬用としては乾燥した種子を蓮子(れんし)、蓮肉(れんにく)と称し、滋養、強壮、下痢止めなどに用いられて来た。

 写真はハス。ハスは典型的な虫媒花で、よくハチの仲間が姿を見せる。葉の中央に葉柄がつく典型的な盾状の葉で知られる。実が埋もれてつく花床(花托)はハチの巣を思わせ、ハスの名のもとになった。右端の写真は2000年の眠りから覚め、子孫を増やし、各地で花を披露している大賀ハス(斑鳩町ほか)。  楽園を目指す蜜蜂蓮の花

2399> 大和の花 (567) オニバス (鬼蓮)                                              スイレン科 オニバス属

                

 池や沼などに生える1年生の水草で、水底の地下茎から葉柄を伸ばし、水面に円形の葉を浮かべる。葉は直径2メートル超えの記録もあるほどの大きさに及ぶ。花期は8月から10月ごろで、花は地下茎より太い花柄を立ち上げ水面に抽ん出て紫色の1花を咲かせるものと、花柄が水中に止まり、閉鎖花をつけるものとがある。閉鎖花の方が圧倒的に多く、自家受粉で結実する。茎、葉、萼など全体に刺が多く、この特徴によりオニバス(鬼蓮)の名がある。

 本州の新潟県以西、四国、九州に分布する在来種で、中国、インドにも見えるという。日本では、水辺の減少などオニバスの生育環境が損なわれる傾向にあり、北限だった宮城県の自生地は失われ、環境省は絶滅危惧Ⅱ類にあげている。大和(奈良県)では北部に自生地があるものながら、極めて貧弱で、最近姿を見せておらず、絶滅寸前種として見られている。

 私は1999年9月10日、奈良市佐紀町の磐之媛命陵の外濠で見かけて以来、その姿を見ていない。『大切にしたい奈良県の野生動植物』(奈良県版レッドデータブック2016改定版)は「県内では奈良市の北部でのみ知られており、当初は宇和奈辺、小奈辺陵墓参考地の濠に見られたが、平城宮跡内のため池や磐之媛命陵の濠にみることができる年がある。オニバスの復活のためには池沼の保護を図る必要がある」と訴えている。

 なお、オニバスは1属1種で、日本に見られる1年草の中では最も大きいと言われる。人との関りでは食用や薬用にされ、漢方では乾燥した実を芡実(けんじつ)と呼び、リュウマチや強壮などに効能があるという、種子はデンプンを含み、食べられる。  写真はオニバス(磐之媛命陵の外濠)。  そこここに切なさ宿る来し方のありて所産の歌にも見ゆる

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月20日 | 写詩・写歌・写俳

<2394> 余聞、余話 「 猛 暑 」

      氷水置いて母ちゃん外出す

 連日の猛暑。遂に40℃越えの報。果たしてどこまで上がるのか。被災地には大変だろう。テレビニュースなどではしきりに活動するボランティアの話題が取り上げられているが、ボランティアの援助もさることながら、何故自衛隊の姿が見えないのだろうと思われる。国民の安全と暮らしを守る自衛隊の役目とは何なのか。戦争に備えることか。被災当初は活躍の姿が見られ、頼もしく思えたが、さっさと引き上げて行った感がある。災害はまだ何も終わっていない。被災地は熱中症のリスクを負いながら懸命にやっている。この被災地の状況をどのように感じて見聞しているのだろうか。こういう時に働かなくて、どういう時に自衛隊の力は発揮されるのだろうか。

 これは猛暑における思いによるが、この猛暑は夏の高校野球などにも影響されるところであり、二年後の東京オリンピックの開催期間の話にもつながる。生きものは環境に即して生きている。人間も然り。例外ではない。環境の十分なことは安心につながる。その環境が侵され、或いは脅かされている時、その状況を乗り越える精神力も評価されるけれども、その状況に当たって十分な対処が必要となる。災害被災地の報道等を見聞するに、その対処に欠けるところが透けて見えるところがある。それが被災地に自衛隊の姿がないということである。

 とにかく、猛暑の日々。予報では当分続くという。今日は家内が〇〇の会だと言って外出し、私が留守番。朝から私の仕事場である室内は三十℃越え、午前十時には32.6℃に及んだ。午後には35℃を越えること間違いなし。これは生活環境においてよくない状況なので、逃避行を決めてかかる御仁もいるに違いない。我が家ではクーラーは午後からとしているので、午前中は扇風機と冷やした濡れタオルでこの襲い来る猛暑の状況を凌ぐというのが、昨今の日常である。もっと状況が悪化すれば、そうも言っておられなくなるだろうが。

           

 私にとって世の中で最も安全な場所と言ってよい自宅であるが、連日の暑さの勢いは所を選ばず襲いかかって来る。このことは夫婦二人の共有する認識で、家内は私の仕事部屋に氷水を置いて出かけて行った。私はよく山に出かけるので、家内は山のリスクを想像して心配するが、この四十℃越えの報を耳にする最近の日々は、この猛暑のリスクから自宅でも安心出来ない現実に臨まざるを得ないところを察知。ということで、家内の気づかいによる氷水のボトルが私の仕事部屋のデスクに置いてある(写真)という次第である。 2018年7月19日(木)記。 暑さ厳しい時節、諸兄、諸氏には御身ご自愛のほどを――。