大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年01月31日 | 写詩・写歌・写俳

<517> ム ク ド リ

       群鳥の 二手に分かれ 冬の空

 最近、カラスの群が目につくことを書いたら、今日はムクドリの群に出会った。田んぼでせっせと餌を啄んでいた。近づくとエノキらしい葉のない樹木に飛び移った。ムクドリは燕雀目ムクドリ科の留鳥または漂鳥で、里の鳥として知られる。主にニカメイチュウの幼虫やイナゴなど稲の害虫を好んで食べる益鳥で、農家にはありがたい鳥であることを農家の人たちは知っているはずである。農作業をしているすぐ傍で餌を啄む群を見たりすると何だか和やかな気分になる。

 今日の群は三十羽ほどだったが、私は京都市の郊外で空を被うほど群をなして飛ぶのを見たことがある。ムクドリはヒヨドリを一回り小さくした尾のあまり長くない鳥で、腰に当たる部分が白く、嘴が橙色をしているため、それと一目でわかる。

                                                                            

 以前、スズメやツバメが少なくなっていることに触れたが、人家に巣を作るスズメやツバメには棟のない最近の民家は棲み難いようである。お寺など昔からある瓦葺き屋根の建物付近ではスズメの姿をよく見かけるので、やはり、昔の家は巣作りがしやすいのではなかろうか。

 ところが、ムクドリは木の洞などに巣を作るため、カラスと同じで、人家のつくりなどには関わりなく、棲み処に問題を生じているということがないので昔と変わらず、ときに大きな群れを見ることもあるわけである。ほかの動物でも言えることであるが、一羽で暮らす鳥がいるかと思えば、群をつくって暮らす鳥もいる。どちらかと言えば、群れで暮らす鳥の方が多いように思われるが、もちろん、単独で過すモズのような鳥もいる。

 燕雀目ヒヨドリ科のヒヨドリも留鳥または漂鳥で、漂行するときは群をつくるが、普段はペアで暮らすことが多いようで、我が家の庭にもよくペアでやって来る。冷え込んだこの間からサザンカの花びらを目的に姿を見せるようになった。ヒヨドリは地上からそれほど高くない雑木の上などに巣をつくるので、棲み処に困ることはなく、やはり、昔と同じく、よく見かける。

  とにかく、生きものというのは食べ物と棲み処の確保が大切で、これが叶えられるところでは繁殖する。田園地帯というのは年々開発によって浸食されていて、大和でもそれが言えるが、ムクドリの群がいるということは、まだ、田園が田園として健在であることを示すものと言えるのだろう。写真は左がサザンカの花びらを啄むヒヨドリ。右は枯れ枝に群れるムクドリ。

 

 


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2013年01月30日 | 万葉の花

<516> 万葉の花 (69) まめ (麻米)=マメ (豆)

        尖閣に 防人重ね 思ふ冬

   道の辺の荊(うまら)の末(うれ)に這ほ豆のからまる君を別れか行かむ                                                  巻 二十 (4352)  丈 部 鳥

 『万葉集』にマメ(麻米)の見える歌はこの4352番の丈部鳥(はせつかべのとり)の一首のみである。この歌にはうまら(荊)のノイバラ(野茨)も見え、ノイバラも集中にはこの一首のみに見えるから、この一首は『万葉集』の植物考からすると貴重な存在と言え、万葉植物の研究書や解説書には必ず取り上げられる歌になっている。

 この歌は、巻二十の「天平勝宝七歳乙未二月、相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌」に見える防人の歌九十三首の中の一首で、左注などによると、二月九日、上総国(現在の千葉県中南部)の防人を司る茨田連沙彌麿なる人物から差し出された十九首の中から採用した一首であるのがわかる。所謂、これは、東国の諸国から集められた九州北部の沿岸防衛に当たる防人たちの交代があったとき、新規にやって来た者たちに作らせ、取りまとめられた中の一首である。

 これら防人の歌は、『万葉集』を手がけた大伴家持が防人を管轄する部署のトップ兵部少輔の任にあったことによるが、何故に庶民と言える防人に歌を作らせたのか、家持自身も「海原を遠く渡りて年経(ふ)とも児らが結べる紐解くなゆめ」(巻二十・4334)というような歌を長歌とともに詠んで、防人に気持ちを通わせているところがあり、防人の心情に強い関心を抱いていた。この家持の思い、つまり、抑え難い詩心が防人の歌の端緒にあったと思われる。

 また、世紀の大詞華集をまとめ上げる大事業者の客観的で偏頗のないその時代における視坐が家持の胸の中で働いたということも考えられるところである。防人の歌はそのような経緯によってまとめられ、『万葉集』に載せられたと言ってよいが、これは家持の才能に負うところである。で、この4352番の鳥のマメ(豆)の歌も日の目を見るに至ったということになる。

  『万葉集』が公的縛りのかかる勅選集ではなかったこと、家持の私家集的意味あいをもつ巻二十に庶民と言える防人の歌が多く見られること、これらを考慮に入れてみるとき、家持の資質とともにある『万葉集』の意義というものが思われて来る。 防人の歌に詠者の名が記されているところに家持の人柄というものがうかがえるのであるが、当時が万葉仮名によるしかない文字表記の時代であったことを想像すると、これら防人の歌に対する家持の取り組みというものが極めて重要な意味を持つことが言える。で、防人の歌ではどうにもならない拙劣な歌は採用しなかったと敢えて説明を加えているわけであるが、この説明も、添削ということが暗には言われているようで気になるところである。

  防人の歌では木簡も出土しているということであるが、その木簡は防人自身が書いたのであろうか。それとも、防人が詠み上げた歌を誰か文字に詳しい人物が書き記したということであろうか。多分、後者であろうと思われるが、それにしても、短歌が短い詩とは言え、素養なくしてはなかなか作れないことを思うとき、これら一連の防人の歌が不思議に思えて来るわけである。ここで思われるのが、選者の立場にある歌のプロたる家持の手腕というものが大きく関わってあったのではないかということが思われるところとなる。

  4352番の鳥の歌は左注に「天羽郡の上丁丈部鳥のなり」とあるから、丈部鳥(伝末詳)の歌であることが示されているものながら、この歌にしても、万葉歌を特徴づけている序による比喩の技巧が駆使された歌であることをして言えば、ずぶの素人が歌を作れと言われて咄嗟に出来る技ではないことが思われるわけで、提出させた家持の意というものが強く作用し、影響していると感じられるわけである。 

 もし、これが『万葉集』の記述通り、防人の作であるとするならば、当時における文字文化上にあった歌というものが庶民の間にも浸透していたと言えるわけで、それはそれで、また、いろんな文化的考察がなされなくてはならず、『万葉集』における防人の歌の検証は、その数、数多に及ぶゆえに重要な意味を持つと言える。

 『万葉集』以後、庶民の歌が極めて少なく、見られないのは、律令という体制の仕組みの中で、歌が貴族の間に収斂されて行ったからであろうと推察出来なくはないが、極めて文字の困難な万葉時代に庶民といってよい防人の歌が数多く見られ、歌を記した木簡までもが出土しているという点は実に重要な意味を持つもので、考察の必要性が言える。しかし、『万葉集』に伝わる防人の歌が当時の国の状況や防人の様子をよく示している点においては大変価値の高い歌群であることに違いはない。天羽郡は上総国の一部、現在の千葉県南部に当たる。

                            

 防人の歌に関しての考察が長くなってしまったが、この4352番の鳥の歌の意は「道の傍らのノイバラの枝に這うマメの蔓のように絡まりつく君を払って別れて行くことであろう」というもので、筑紫に向う出発時の防人の心情を詠んだ歌であるのがわかる。君なる人が如何なる人物か、これも議論される歌であるが、これからが本題である。うまら(荊)のノイバラ(野茨)はさておき、絡まるまめ(麻米)はどんなマメ科の植物を指して言っているのかということがいろいろと言われているわけである。

  「からまる」ということであるから、まず、マメ科の蔓性草本があげられ、「道の辺」ということであるから道端に生えているという条件がつけられる。このまめ、蔓性、道端という三条件を満たすものとしてあげるならば、クズをはじめとして、ヤブマメ、大豆の原種とされるツルマメ(ノマメ)、タンキリマメ、トリキリマメ、小豆の原種で知られるヤブツルアズキ、ノアズキ、ノササゲ等々が考えられる。

  植生上からみるとクズが最も条件に合致しているように感じられるが、クズはくずとして当時からよく知られているので、まめ(麻米)の表現は考え難く、ほかのものということになるが、ここにあげたどれに当てても不適格なものはなく、このように種類が多いと、かえって限定し難くなるというもので、ここは大雑把に総称的に捉えてよいのではないかと思われて来る。で、写真は該当に値する七種についてあげてみた。左からヤブマメ、ツルマメ(ノマメ)、タンキリマメ(果実)、トリキリマメ、ヤブツルアズキ、ノアズキ、ノササゲ。

 

 

 


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2013年01月29日 | 万葉の花

<515> 万葉の花 (68)  しばくさ (志婆草、柴草)=チカラシバ (力芝)

        田舎道 しばくさに しばくさの花

      立ちかはり古き京となりぬれば道のしばくさ長く生ひにけり                                                    巻 六 (1048) 田辺福麻呂歌集

    畳薦(たたみこも)隔て編む数通はさば道のしばくさ生ひざらましを                                            巻 十一  (2777)  詠人未詳

 シバは木本と草本とにあって、木本の方は「山にしば刈りに」というように薪にしたりする小低木の雑木の類を言い、柴の字を用いる。これに対し、草本の方は芝生の芝が思い浮かんで来るが、チカラシバのような雑草に当てても言われる。

  『万葉集』では木本の雑木の方をしば(柴)と呼び、草本の方はしばくさ(柴草)というふうに柴に草をつけ加えてチカラシバのような雑草を言っているのがわかる。雑木のしばの方は、集中の十一首に見え、草本のしばくさの方は二首に見えるが、芝の字は見当たらない。

 では、冒頭にあげたしばくさの登場する二首について見てみたいと思う。まず、1048番の田辺福麻呂歌集の歌。福麻呂(さきまろ)は橘諸兄の下で働く史(ふひと)で文書の記録を司るような役にあったとされ、笠金村や山部赤人の後に登場を見る万葉時代最後の宮廷歌人として知られ、『万葉集』には長短歌四十四首がその名のもとに見える。

 この歌は、天平十二年(七四一年)、藤原広嗣の乱に衝撃を受けた聖武天皇が都を出て、伊勢や近江などを経て、山城(現京都府南部)の久邇宮(恭仁宮)に遷り、その後、難波に遷って、五年の歳月の後、再び奈良に戻ったが、その間に、旧都となってさびれた平城宮の様子を詠んだ1047番の長歌の反歌二首中の一首として見えるもので、「都が遷り変わって旧都になったので、道端では雑草のしばくさが伸び放題に伸びてしまっている」とそのときの平城宮の姿を悲しんでいる歌である。

 福麻呂は諸兄の使者として越の国守大伴家持のもとに参じ、そのとき詠んだ短歌十三首をはじめ、宮廷歌人として、この一連の遷都の間に詠んだ1047番の長歌から1067番の反歌までの長歌六首、反歌十五首の計二十一首をもって巻六の巻末を飾っている。だが、『万葉集』の歌以上には知られていない人物としての評がある。

 2777番の歌は、寄物陳思(物に寄せて思iいを陳べる)の項に所載されている一首である。所謂、心情を述べるに事物を用いて詠んだ歌を集めた中の一首である。歌意は「薦畳を隔て編むようにしばしばお通いになっていたら道のしばくさは生えることがなかったでしょう」というほどに解せる。これは通い婚にあった時代の例で、女歌の典型。言わば、恋の恨み節のような歌である。

                            

 両歌とも「道のしばくさ」が生い茂っている様子をもって詠んだ歌で、雑草のしばくさの印象による歌と知れるが、しばくさという植物の特徴がよく示されている歌になっているのがわかる。その雑草の代表格であるチカラシバは別名をミチシバとも呼ばれるイネ科チカラシバ属の多年草で、高さは大きいもので八十センチほどになり、長い線形の葉を叢生し、秋になると瓶を洗うブラシのような花穂を出し、多数の小花をつける。

 日本全土に見られ、日当たりのよい草地に多く、株をつくってしっかりと根を張るため、力を込めて引き抜こうとしても抜けないほど丈夫なのでこの名がある。別名のミチシバは『万葉歌』に詠まれている通りで、「道のしばくさ」から来ている名であろう。漢字では力芝、道芝の字が用いられている。

 


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2013年01月28日 | 写詩・写歌・写俳

<514> 斑 雪 (はだれ)

        日が射して みるみる消えし 斑雪かな

 はだれははだらとも言われ、まだら、まばらの意による言葉で、雪がまだらに降り積もっている状況を言ったものであるが、はらはらと降る雪を指して言う場合もあり、俳句の季語では春に当たる。

 このところ寒さが続き、北国は大雪とのことで、ニュースにもなっているが、大和も二十八日の今朝は薄っすらと雪が積もり、身を切る冷たさがあった。車の通るアスファルトの道には積もらなかったほどの積雪量で、それほどでもなかったが、民家の屋根や田畑は白一色になった。日中は晴れたり曇ったりして、陽の当たるところでは融けた。

 まだ、立春前で、春ではないが、薄く積もった今日の雪を草叢などに見ていると、斑雪(はだれ)の感じがあった。「はだれ」と言えば、『万葉集』の歌にも「薄太礼」の万葉仮名で見え、昔からの言葉であるのがわかる。例えば、次のように詠まれている。沫雪は淡雪のことで、小竹はササのことである。

                                   

   沫雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも                                                   巻 八 (1420) 駿河采女

   小竹の葉にはだれ零り覆ひ消(け)なばかも忘れむといへばまして思ほゆ                                        巻 十 (2337) 詠人未詳

 1420番の歌は「淡雪か、はらはらと降るのを見るに、その流れるように降る雪は何の花だろうかと思われる」というほどの意で、降る雪を花と見ているのがわかる。これに対し、2337番の歌は「ササの葉に降る斑雪のように、やがて消え去ってしまうならば(死んでいなくなれば)、あなたを忘れるでしょうと言えば、なおも思われることです」という意で、「はだれ」は雪の降り積もる状態を言っている。だが、どちらにしても、ドカッと降る雪ではなく、少量積もる薄雪で、直ぐに融けて消える雪を言うものと知れる。『新古今和歌集』に見える次の歌の「雪のむら消え」も「はだれ」ということが出来る。

   うすくこき野べの緑の若草に跡までみゆる雪のむら消え                                                     巻 一 春歌上(76) 宮 内 卿

 雪の写真を撮るついでに、日のよく当たる雪の消えた草叢をのぞいて見たら、春一番に花を見せるオオイヌノフグリとホトケノザが縮こまりながら咲いていた。まだ、数えるほどであるが、寒さの中で、暖かな日差しを感じ取っているのがわかる。接写レンズを持ち合わせていなかったので、写真に出来なかったが、もう、春の花が咲き始めている。

 


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2013年01月27日 | 写詩・写歌・写俳

<513> カ ラ ス

        鴉とて 生きゐるところ 寒の空

 このところカラスがやたら増えているように思われる。つい最近も三百羽ほどの群を見た。スズメのような小鳥と違って、黒くて大きいカラスが群をなしている光景は何か威圧される感じがあって、近くで見ていると恐ろしいようなところもある。集まって鳴く声が結構やかましく、これも異様に感じられる。

 最近、殊に多く見かけるのは大和郡山市から生駒郡斑鳩町付近で、今日も半端ではない群を見た。カラスの増えているのは大和の地だけではないようで、都会でも出没しているとニュースにも取り上げられたのを見たことがある。増えているということは、カラスにとって環境がよいからで、まず、餌が季節を問わず十分にあるということ。それに、ねぐらが確保されているということがある。

                      

 カラスのねぐらは高木が繁る森のようなところで、大和郡山市から斑鳩町には山も近く、そのような場所がいくらもある。餌については、小鳥と違いカラスは雑食性で、どんなものでも食べる。我が家の近くにはカキの木が何本かあり、みな渋ガキで、最近は誰も採らないので、木に生ったまま熟すが、熟すころになると鳥たちがやって来て饗宴の場となり、ほかの鳥たちとともにカラスもやって来る。鳥たちは熟した先から食べ、正月を迎えるころにはカキの実を綺麗に平らげる。

  ヘビやカエルも食べるようで、人間が出す食べ残しのゴミでも漁る。最近、草叢にヘビが少なくなったのはカラスがヘビを襲って食べるからで、ヘビの中では夜行性のマムシだけが生き残っているという話を聞いたことがある。ゴミの収集は最近ネットなどを被せて出すようになっているので、カラスには人間の出すゴミに期待は出来ないはずであるが、空の上から虎視耽々と狙っている。

  多分カラスによる被害は出ているに違いないが、生類憐みというか、生きものを処分することにはどうしても心情の上で消極的にならざるを得ず、防衛の方が先になる。ゴミ置き場のネットがその例で、自治会などで管理使用しているところが多く見られる。