大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1303> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (99)

              [碑文1]  あをによし寧楽の都は咲く華の薫ふがごとく今盛りなり                           小  野  老

            [碑文2]  古郷の明日香はあれどあをによし平城の飛鳥をみらくしよしも                     大 伴 坂 上 郎 女

            [碑文3]    あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れどあかぬかも                        遣新羅使誦詠古歌

 この度は、万葉歌碑の中で、奈良、寧楽、平城(なら)にかかる枕詞の「あをによし」の登場する歌碑について見てみたいと思う。枕詞は「昔の歌文に見られる修辞用の語。常に一定の語の上にかかって修飾または句調を整えるのに用い、五音を普通とする」と『広辞苑』に見える。つまり、四音、五音によって後に続く一定の言葉を導き、歌の語調を整えるために用いるもので、和歌の修辞用語として『万葉集』の歌に多く見ることが出来る。

  例えば、日、昼、照る、君、紫などにかかる「あかねさす」、天、光、雨、月、雲などにかかる「ひさかたの」、心にかかる「むらぎもの」、黒、夜、暗、月、夢、寝などにかかる「ぬばたまの」などの例がある。また、地名にかかる枕詞としては、飛鳥、明日香にかかる「とぶとりの」、三輪にかかる「うまさけ」、初瀬、泊瀬にかかる「こもりくの」、大和にかかる「そらみつ」など美しい言葉が多く、奈良、寧楽、平城(なら)にかかる「あをによし」もその一つである。

               

 では、碑文1の小野老の歌から。この歌は『万葉集』巻三「雑歌」の項の(328)の歌で、「大宰少貳小野老朝臣の歌一首」の詞書によって見える。大宰少貳は大宰府庁の次官でこのときの太宰帥(長官)は家持の父大伴旅人で、旅人を中心に筑前守として赴任していた山上憶良らと歌をよくし、筑紫歌壇を形成、小野老も筑紫歌壇の一員だった。巻三にはこの歌を含め、筑紫歌壇の防人司佑大伴四綱、旅人、筑紫観音寺別当沙彌満誓、憶良らの奈良(平城)の都を偲んで詠んだ歌が連ねられている。小野老は太宰大貳まで昇進し、少貳だったのは天平二年(七三〇年)ごろと察せられる。

 原文では 「丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」 とある。その意は 「青も丹も美しい寧楽(なら)の都は咲く花の照りかがやくごとく今盛りである」というもので、奈良(平城)の都を称揚し、望郷の思いが心の中にあるのがうかがえる。「あをによし」は「青丹よし」で、「青丹」は顔料に用いた岩緑青の古名で、奈良に産したと言われる。だが、事実か伝説かははっきりしない。「よし」は良いという意味ではなく、「よ」も「し」もともに間投助詞で、一説には、顔料に用いるために青丹を馴らすことを行なうので、これによって「馴らす」の「なら」から奈良にかかる枕詞が生まれたという。

 「青丹」については、前者の産地説より後者の言葉に起因する説の方が納得される気がするが、どうなのであろうか。その後、奈良時代に至って、奈良(平城)の都では宮殿や社寺の建物群の瓦屋根の青緑と柱の丹の色の美しい配色がそこここに見られたので、「青丹」はこの光景をして言われるようになったのではないかということが考えられる。この小野老の歌の「あをによし」には奈良(平城)の都の美しい建物群の光景としての意味合いがうかがわれる。

 次に碑文2の大伴坂上郎女の歌であるが、この歌は巻六の「雑歌」の項の(992)の歌で、「大伴坂上郎女の元興寺の里を詠ふ歌一首」の詞書をもって見える。原文では 「古郷之 飛鳥者雖有 丹吉 平城之明日香乎 見楽思好裳」 とあり、「故郷の飛鳥はともかく、奈良の明日香を見るのは実に楽しくいいものです」という意である。坂上郎女は大伴旅人の異母妹で、家持の叔母であり姑でもある。男性遍歴の後、旅人の妻が亡くなったとき大伴家に入り、旅人の亡き後、大伴家を切り盛りして行ったことはよく知られ、万葉切っての女流歌人でもあった。

 詞書に見える元興寺は蘇我馬子が創建した我が国で最も古い寺院とされる法興寺のことで、飛鳥にあったのを平城遷都にともない奈良に移し、飛鳥にも残したことから法興寺即ち元興寺は明日香にも見られ、奈良にも見られたことからこの歌は詠まれたわけである。因みに、飛鳥に残された元興寺即ち法興寺は飛鳥大仏を本尊とする飛鳥寺で、安居院と称せられ今に至っている。移された方の元興寺は広大な寺域を有する大寺院だったが、徐々に衰退し、室町時代や江戸時代の火災によって焼失し、僅か元興寺極楽坊や塔跡等に当時の面影を残し現在に至っている。

 最後に碑文3の歌であるが、この歌は巻十五の(3602)の歌で、天平八年(七三六年)、新羅に遣わされた使人らが詠んだ古歌の中の一首とされる歌で、雲をテーマに詠んだ歌である。原文では 「安乎尒余志 奈良能美夜古尒 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛」 とあり、「奈良の都の空にたなびく白い雲はいくら見ても見飽きることなどない」という意であるのがわかる。歌は遣新羅船が難波津を船出して西へ向い、遠い船旅の船上から白雲のたなびく大和方面を望み見て、奈良(平城)の故郷を思慕しつつ詠んだものと受け取れる。

 この三首をうかがうに、「あをによし」の登場する歌は奈良を思慕している心持ちから発せられ詠まれているのがわかる。この枕詞には奈良という地の持つ誇らしいような心持ちを詠人それぞれが抱いていることが感じられる。天智天皇の近江遷都の際に詠んだ額田王の大和への惜別の長歌にも「あをによし」が登場するが、そこにもこの奈良に対する心持ちがうかがえ、「あをによし」という枕詞の効用が思われて来る。

 なお、碑文1の小野老の歌碑は奈良市西九条町の平城京跡羅城門跡公園(西九条緑地)に建てられている。碑文2の大伴坂上郎女の歌碑は元興寺の所縁により、奈良市芝新屋町の元興寺塔跡の庭の一角に見える。また、碑文3の遣新羅使誦詠古歌の歌碑は奈良市と新羅の都であった慶州市が姉妹都市にある関係によって奈良市二条大路南の奈良市庁舎前庭に建てられている。 写真は左から碑文1、碑文2、碑文3の歌碑。右は復元された平城宮の大極殿。     あをによし 奈良はよし今 まさに春

 


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2015年03月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1302> 春の一日

      霞立つ 雲雀は我より 日に近し

 今日の大和地方は朝方濃霧に被われ、「何も見えねば大和と思へ」の状態だった。これは昨日の雨で大気中に湿気が多く、加えて暖かな朝になったからに違いない。午前九時ごろ晴れ間が広がり、日中は四月中ごろの陽気になった。霧は春霞に移行の状態になって周囲の青垣の山はその霞に遮られてほとんど見えない一日だった。

       

 いよいよサクラの季節で、氷室神社(奈良市)の枝垂れは、樹勢の衰えが少々気になるところであるが、満開。この暖かさが続けば、二、三日で各地のソメイヨシノも満開になるだろう。吉野山のヤマザクラは少し遅れ、一週間ほど後になるのではないか。庭ではムスカリが一気に青紫色の花を咲かせ、いよいよ春爛漫である。

   人を寄せ 集めて枝垂れ 桜かな

   ムスカリや 庭一面の 暖かさ


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2015年03月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1301> ツバメ

      つばめ来る 否 帰り来る 元気よく

 今日は雨模様であるが、昨日は快晴で、そこここにツバメの姿が見られた。今年初めてのツバメである。勢いよく飛び回っているその姿には遥かな旅の末に辿り着いたという気分が感じられた。ときどき電線や軒の屋根瓦などに止まって羽を休める姿が見られたが、遠路の旅によるものか、どのツバメも何となくスリムに見えた。

 ツバメは夏の渡り鳥で、春に姿を見せ、秋に姿を消す。これは誰もが知るところであるが、春に姿を見せるツバメは果たしてどう言うべきなのだろうか。「来る」と言うべきか、「帰り来る」と言うべきか。秋になると去って行くが、これは「行く」と言うべきか、「帰り行く」と言うべきか。

                                                                  

 常識では春に来て秋に帰るという認識にあるから、春は「来る」で、秋は「帰る」ということになる。冬の渡り鳥であるカモやカリもこの常識にある。ただ、冬鳥のカモやカリと夏鳥のツバメやホトトギスでは違いが見て取れる。カモやカリは日本に滞在する間に卵を生んでヒナを育てるということはない。これに反して夏鳥のツバメやホトトギスは日本の地で巣作りをし、卵を生んでヒナを育てることをする。

 この違いをして言えば、カモやカリの場合は、来て帰るということになるが、ツバメやホトトギスの場合は、来て帰るものばかりではなく、行って帰り来るものもいるということになる。言わば、来て帰るものもいるけれども、行って帰り来るものもいる。ツバメの場合は同じ軒の巣にやって来るから不思議であるが、何年も同じツバメが来ることはなく、代を継いでいることが思われる。ということであるなら、この不思議は何とも涙ぐましいものと言わざるを得ない。

 軒先を掠めるように飛ぶツバメは、「また、やって来たな」と思い見る姿であるが、考えてみれば、ツバメにはツバメの涙ぐましいまでの命を繋ぐ姿がそこにはあるということになる。で、「来る」と「帰る」はツバメをはじめとする渡りの往来の実体を言うものではなく、私たちの渡り鳥を見る気持ちから発せられていることが言えそうである。所謂、迎える心と見送る心。即ち、歓迎と惜別の情によるところと知れる。今日は雨であるが、春雨にもツバメは似合う。写真は今年初お目見えのツバメ。

   つばめ来る 少しくスリム だが元気

   つばめ来る 無事こそよけれ 無事に来る

 


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2015年03月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1300> 献木によるヤマザクラの植樹

      引き継いで来しものとしてある姿 たとへば今を咲きゐたる花

 花が近い吉野山であるが、奥千本では次世代に夢を繋ぐヤマザクラの植樹が進んでいる。これは「22世紀吉野桜を愛でる会」が衰え行く吉野山のサクラを絶やさず、次世代に引き継ぐために行なっているプロジェクトで、提供されるなどしたスギやヒノキ林を伐採し、その跡地に献木を募って千五百本ほどのヤマザクラの苗木を植えたもので、植樹はほぼ終了し、現在、シカの食害を防ぐ樹脂製の網を取り付ける作業が行われている。

        

 植樹は二ブロックで行なわれ、一つは吉野山の最奥のところ、金峯神社より東南側約数百メートルのところ、西行庵に面した斜面で、広く切り拓かれている。下方には数十本のヤマザクラが植えられているが、老木となりつつあるので、今回植樹したものが大きくなれば、奥千本の西行庵の辺りはみごとなヤマザクラが見られるようになる。

 シカは糞など見られず、その気配もないが、出没するのであろう。苗木の被害はそこここで聞く話である。その意味からも管理は欠かせないところである。思うに、サクラのみならず、樹木というのは一、二年で役立つように成長するものは少なく、サクラにも言える息の長い取り組みが求められる。その取り組みは世代を越えて行なわれるものだろうが、それゆえに、この取り組みは貴重と言える。そして、その取り組みは結果として名所を守り、歴史を継いで行く意味において有意義なものと思える。

 ただ、災害のことも考慮に入れて、管理は十分に行なってもらいたいという気がする。  写真は植林のスギが伐り出され、ヤマザクラの苗木が植えられた跡地の斜面。苗木には一つ一つに樹脂製のシカ避け防護網が施されている。

 

 


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2015年03月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1299> 室内の整理整頓

      佐保姫を待つに整理整頓す

 東日本大震災の大津波の被災地では大量の瓦礫を見ることになったが、あの瓦礫の山は、私たちが日ごろどれほどのものを持ち合わせ、それを利用して生活しているかということを思わせるところがあった。思えば、我が家にも家具をはじめ種々のものが山とある。日々用いている必需のものから既に何年も用いることなく、埃を被ったものまでぴんから切りまである。

  最近、我が家では、その切りの方のものを整理して捨てることをやっている。この間は、整理ダンスを処分した。だが、自分のものはなかなか捨て切れない。で、今に至っているが、そろそろ自分のものにも手をつけなくてはならないと思い、このほど定期購読していた雑誌類を処分した。

                           

 置いていても、ほとんど触れることのない蔵書の類も徐々に処分しなくてはと思ってはいるのであるが、何か吹っ切れないものがある。ほかのものにも言えることであるが、蔵書は、日ごろ書棚に納まり、それが役割のようになっていて、室内の風景にもなっている。合理主義の目からすれば、無駄なことをしているということになるのだろう。だが、その蔵書に精神的な拠りどころのようなものがあることは確かで、日々の生活に直接響くものではないけれど、その風景は心の支えになっているようなところがある。

 ましてや、昔に読んで感銘を受けたような書物にあっては愛着もあり、処分するという気になれない気分が心の中に一層強く作用して来る。要は気分の問題であるが、何か一点を境に必要と思って来たものが必要でないと思うようになり得ることが思われる。例えば、年齢がその境目を決めさせるということも言える。最近、終活という言葉をよく耳にするが、一つには高齢化によって価値に思っていたものが、価値のないものになったということがある。

  これは、また、一つに物質文明の現代を象徴する姿とも受け取れる。多くの所有物が個々人のニーズによっているということが現代にはあるが、この状況は個人の他界によって表面化する傾向にある。言わば、個人の所有するものは、本人が亡くなれば、不必要になり、邪魔にこそなれ、喜ばれることはほとんどないという状況に至る。そこで、自分のことは自分が生きている間に始末しておくという意志が本人自身に働き、終活ということなども言われるようになった。

 という次第で、終活とまでは行かないまでも、身辺整理をしておいてもよいかと思い、まず、溜まりに溜まった雑誌類から片付けて行く気になったのである。まとめてみると結構な量になった。写真がそれであるが、月に一回の廃品回収に合わせ、蔵書の類も自分の気持ちと相談しながら、選別を行なって徐々に処分して行きたいという気になっている。 写真は蔵書の一部と廃棄処分した雑誌等。