大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年08月31日 | 写詩・写歌・写俳

<364> 雨模様の大台ヶ原

      見えて見え ざるもの見えず 見ゆるもの 確かにありて 過ぎゆける時

 山歩きをするときのリスクに雲霧の発生がある。よく平地から見て山に雲がかかっていることがあるが、そういうときの山歩きは雲の中であり、濃霧に被われていることが多い。山にかかる雲が厚ければ厚いほどその濃霧は酷い状況で、ときには十メートル先が見えないこともある。一昨日の大台ヶ原も下界はほぼ晴れて、暑い一日だったようであるが、大台ヶ原山の千五百メートル付近は雨模様で、大蛇嵓の絶壁からの眺めは濃霧に視界が遮られて何も見えない状態だった(写真)。

               

 山道までは影響のないくらいの霧であったから歩くのに心配はなかったが、道が濡れて滑りやすさがあったので足許には注意して歩いた。濃霧の怖いところは、視界が利かなくなって道を誤るというところにある。普通、ややこしい山道にはテープの目印がつけられているものだが、濃霧になるとそれがさっぱりわからなくなる。

 この間、東吉野村(奈良三重県境)の台高山脈、明神岳(一四三二メートル)に登った子供たちを含む一行が雨のために下山出来ず、山中で一夜を明かすという遭難騒ぎがあった。これなんかも雲が垂れこめて視界を遮ったことによって道を間違えたことによる。下山する者は、下を目指していればいつか登山口に辿り着けるだろうと思うが、方角を誤って下りると、とんでもないところに行き着くことになる。

 この間はこの例で、登山口とは方角違いの深い谷に行き着いてしまったわけである。このように濃霧に視界を遮られると、余ほど道に詳しい者でも間違うことがあるので、注意が必要である。行く先の次のテープが確認出来ないようなときには山歩きをあきらめて引き返すことが肝要である。

 一昨日の大台ヶ原はそこまで雲の垂れこめた状態ではなかったので、道に迷うようなことはなかったが、山の天候は急変することもあるので侮ってはいけない。この日はシオカラ谷で雨になったが、ずぶ濡れになるようなこともなかったので、雨具を出すことなく山歩きを続けた。とにかく、道が濡れていたので足許にだけは十分に気をつけて歩いた。

  

  


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2012年08月30日 | 植物

<363> 大台ヶ原山随想

       ゆく夏や 惜しむがごとく 花の数

 二十九日、夏も終わりに近い大台ヶ原に出むいた。この時期に訪れるのは平成十九年(二〇〇七年)九月、西大台に一般者の入山規制が実施された直前以来である。あのときは新聞社が主催するバスツアーの登山者がわんさと訪れ、夏休みも終わりに近いこともあって、広い駐車場はほぼ満杯の盛況だった。これからは西大台に入りづらくなるとみて、この時期に見られるメタカラコウの花に会いたく、西大台に入った。

 お陰でメタカラコウとミヤマヒキオコシの花に出会い、撮影出来たが、帰りにツアーの登山者と出くわしたのであった。その数はアリの行列を思わせるほどで、長く続いていたのを覚えている。そのときは「山もこれでは荒れるだろう」と思ったが、あれから五年が経過している。

 以来、西大台には入っていないので植生にどのような変化が生じているか承知していないが、大台ヶ原にあのときの盛況は見られず、駐車場は閑散とした状態だった。山上は霧が深く、ときおり雨の空模様だったことにもよるが、その印象は淋しいほどのものだった。いつものように駐車場から尾鷲辻を経て大蛇嵓へ向かい、大蛇嵓からシオカラ谷に下って登り返すコースを歩いたのであったが、出会ったのは山ガール一組、子供連れの家族づれ一組、初老の男性グループ二組、若い男性の二人連れ一組。それに大学の実習だという学生たち十数人のみだった。

 私のような花を求めて歩く者にとって、登山者はこの程度でよいのであるが、昔と比べると来訪者の少ないのが気になるところ。やはり、規制が響いているのだろうか。調査を待たなければ、十分なことは言えないが、少なくなっているのは確かなようである。

 これは何と言っても、山に魅力がなくなっているからに違いない。賑わうということはそれなりに理由があるはずである。賑わっているときにその理由を十分に把握していれば、賑わいを失ったときその対処に役立てられるのであるが、賑わっているときはその賑わいに流されて、そんなことは誰も考えずにいる。だから、賑わいを失ったとき対策が立てられないことになる。今の閑散たる状況を評価する声もあるだろうが、国立公園という見地で見れば、不人気ということは見逃せないことに思える。

 ここで思うに、大台ヶ原における今までの政策は、環境省が主に携わって、植生の対策ばかりに目をやり、来訪者を排除する方向に力が働き、如何にして来訪者を増やすかということに目が向けられて来なかったのではないかということが思われる。もちろんのこと、植生の保護は大切なことで、当然のことそこに力点を置くことはよいのであるが、このことも含め、もっとこの自然の資産というものを活用しなくてはならず、そこに施策の焦点が当てられなくてはならないということが意見としてあげられる。

 人を寄せつけないのが植生の保護ではなく、訪れる人がこの植生を含み山の有する自然を如何に愛せるようにするかである。言わば、如何にその状況に誘って行くかが大切で、そこに政策的なポイントの置かれることが望まれると言える。大台ヶ原は太古からの自然が知覚出来る場所であり、いろいろな面に実地の資料が豊富なところであるから、これを教材として活用するのも一つの方法である。それは何も子供だけを対象にするのではなく、大人にも提供することによって魅力のある場所にする。そうすれば規制以上に効果的な山を愛する啓蒙活動に繋がり、その大切さをよりよく知らしめることが出来る。ましてや地元の活性化にも結びつけることが出来るのではなかろうか。

 大台ヶ原への取り付け道路に当たるドライブウエイを登って行くと、山頂の駐車場に突き当たるが、その広い駐車場の入口に「吉野熊野国立公園」という大きな表示が目に飛び込んで来る。その表示は、ここが吉野熊野国立公園の領域だということを言っているわけであるが、それは来訪者に対して国立公園という制度のあることを示し、規制のあることを言うものでもあって、来訪者にそれを周知させる意味も担っていることがわかる。来訪者はこの表示でプレッシャーをかけられるというものでもないが、普通の山ではないくらいの思いにはなる効果はある。しかし、この国立公園というのが一つのネックになっていることに思いが巡る。

 国立公園は環境省の管轄で、文科省などは関係なく、政策上の横の繋がりが欠如しているところにおいては、如何にかけがえのない素晴らしい教材が横たわっていても、そこでは有効な活用というものが出来ないということになっている。これは国にとっても、そこを訪れる人々にとっても、地元にとっても大きな損失であると思われるが、規制というものに阻まれて、いい対策というものが施せないでいることが言える。大台ヶ原の現状は果してこういうところにもある。

 国立公園などは単に指定して現状を維持していればいいのではなく、その自然を活用してはじめて評価されるものである。大台ヶ原などはもっと教育の場にも役立てて然るべきであると思われるが、どうであろうか。例えば、青少年の活動センターをつくるとか、工夫が望まれるところである。 写真は左からニセツクシアザミ、サワオトギリ?、バライチゴ、アキノキリンソウ、カワチブシ。

                        

 


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2012年08月29日 | 万葉の花

<362> 万葉の花 (32)  からあゐ (韓藍、辛藍、鶏冠草)=ケイトウ (鶏頭)

      鶏頭や 明治 大正 昭和かな

    吾が屋戸に韓藍蒔き生(おほ)し枯れぬれど懲りずてまたも蒔かむとぞ思ふ          巻 三  (384)     山部赤人

   秋さらばうつしもせむとわが蒔きし韓藍の花を誰か摘みけむ                     巻 七  (1362)  詠人未詳

   恋ふる日のけ長くしあれば吾が苑の辛藍の花の色に出でにけり                    巻 十  (2278)  詠人未詳

   隠(こも)りには恋ひて死ぬともみ苑生の鶏冠草の花の色に出でめやも                  巻十一  (2784)  詠人未詳

 からあゐは集中のこの四首に登場し、蒔くことが詠まれているものが二首、「苑」とあるものが二首で、秋に咲くことを示唆している歌が見えることから、花はみな野生でなく、植えられて秋に花をつける草花であることがわかる。

 384番の赤人の歌は「我が家の庭に韓藍を植えたけれども枯れたので、それに懲りることなく、また種をまこうと思う」との意であるが、この歌は韓藍を女性に置き換えて読むことを意図して作られているからそのように鑑賞するのがよいのではなかろうか。次の1362番の歌も「秋になると摺り染めにしようと思って蒔いた韓藍であったが、花は誰かが摘んでしまったことだ」と、花が見えないことを詠んでいるのであるが、韓藍を女性に置き換えて見れば、348番の歌と同じ作歌意図が見えて来るので、やはりこの歌も韓藍を女性とみて鑑賞するのがよいように思われる。

 また、2278番の歌は「恋い焦がれる日が長いので辛藍の花のように人に知られてしまったことだ」という意に解せる。2784番の歌は「人知れず恋焦がれて死ぬとも庭の鶏冠草の花のようには人に知られたくない」と詠んでいて、四首はみな「からあゐ」の花の目立つところに着目し、思いを募らせる恋の情を述べるのに用いているのがわかる。

 では、このからあゐというのはどんな花かということになるが、『本草和名』(深江輔仁・九一八年)に「鶏冠草 和名 加良阿為(からあゐ)」とあることから、からあゐと鶏冠草は同じもので、鶏冠草がニワトリの鶏冠(とさか)の意による名であることによって、これは今のケイトウ(鶏頭)に当たるという次第で、『万葉集』のからあゐはケイトウ(鶏頭)というのが定説になっている。

 また、からあゐは1362番の歌に「うつし」とあるように、花を摺り染めに用いたことを言うもので、ケイトウ(鶏頭)が染料花であったことを物語るものと言える。韓藍(からあゐ)とは呉藍(くれなゐ)と同じく、中国から導入された赤色に染める染料花を示すもので、青色に染める藍染めの藍(あゐ)に対して用いられ、ケイトウ(鶏頭)のからあゐ(韓藍)はベニバナ(紅花)のくれなゐ(呉藍)と区別したことが想像出来る。

 ケイトウ(鶏頭)は熱帯アジア原産のヒユ科の一年草で、我が国には中国を経て渡来し、万葉のころには既に庭などに植えられ、実用に供せられていたようで、これらの万葉歌からこのことは察せられる。種子によって繁殖する草花であるが、野生化は川原などに見られる程度で、ほとんどは庭や畑に植えられたものが目につくのは今も昔も変わりないと言えそうである。

              

 なお、ケイトウ(鶏頭)と言えば、正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句が思い浮かぶが、この句は『病牀六尺』の人であった子規が死病の床から眺めた庭の一景で、彼が標榜して已まなかった写生の手本のような句としてある。この句を子規の病気と重ねて思うと、明治という時代が秋日の中で咲くケイトウ(鶏頭)の赤い花の情景に見えるようで、想起される。

 ケイトウ(鶏頭)を女性に見立てた万葉人はこの花の滲み入るような紅色に恋を思い親しみを抱いたのだろう。今日のように花の溢れる時代でなかった私の子供のころにはケイトウ(鶏頭)やヒャクニチソウ(百日草)は庭の主役で、私にはこれらの花が懐かしい抒情性をもって思い浮かんで来る。その花を手入れし、育てたのは大正生まれの母であったことが思われるところで、冒頭の句を得るに至った。言わば、ケイトウ(鶏頭)は蒔かれ蒔かれて遠い万葉の時代から今に引き継がれて来た花なのである。写真は天理市の山の辺の道近くの畑で撮らせてもらったケイトウ(鶏頭)の一品種、ウモウケイトウ(羽毛鶏頭)。右奥にトサカケイトウ(鶏冠鶏頭)が見える。

                                            

 

 


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2012年08月28日 | 万葉の花

<361>万葉の花(31)さなかづら、さねかづら(狹名葛、佐奈葛、左奈葛、木妨己、狹根葛、核葛)=サネカズラ(実葛、真葛)

      真っ赤な実 ゆゑにある名の 実葛

   玉くしげみむろの山のさなかづらさねずは遂にありかつましじ                        巻  二  ( 9 4 )     藤 原 鎌 足

    さねかづらのちも逢はむと夢のみにうけひ渡りて年は経につつ                  巻十一 (2479) 柿本人麻呂歌集

 さねかづらもさなかづらも今日いうところのサネカズラで、さねかづらはさなかづらから転じたものと言われ、合わせて集中の長、短歌九首に見える。94番の鎌足の歌は「さなかづら」までが「さねずは」以下を導く序で、「さなかづら」が以下に続く同音の「さねずは」に掛かっているのがわかる。

  この歌は鏡王女の歌に応えて詠まれた相聞歌で、鏡王女が「玉くしげ覆ふを安み開けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも」(93)と「お泊りになって夜が明けて帰られるのであれば、人に知られて噂になるでしょうから、あなたさまはともかく、私の名が惜しまれます」と遅く帰るのを非難して詠んだもので、これに対し、鎌足が「あなたと寝ないでは耐えられないことです」と応え返しているもので、この用法でサネカズラが見えるのはこの一首のみである。

  ほかの八首は、蔓が分かれて長く延びてもまた合うサネカズラから2479番の人麻呂歌集の歌に見られるように「後も逢はむ」の枕詞として用いられた五首を含め、サネカズラが他物に絡んで延び上がるツル性植物の特徴をもって詠まれ、九首すべてに花も実も出て来ない点が言える。人麻呂歌集の歌は「この先もまた逢えるかしらと夢にのみ見て年月を経つつあることだ」というほどの意に解せる。

  サネカズラはマツブサ科の蔓性木本で、関東以西、四国、九州、それに台湾、中国などに分布し、大和にも多く、各地に見られる。蔓は枝分かれして絡み合いながら延び、高さ二十メートルに及ぶものも見られる。葉は常緑で、光沢があり、ツバキの葉に似る。雌雄別株または同株で、盛夏のころより花被片が黄白色の花を開く。雄花は蕊の部分が赤く、雌花は緑色で、白い花柱が多くつき、この部分が育って秋になると結実し、よく目につく真っ赤な集合果を垂れ下げる。

  サネカズラは実葛、真葛で、その名は印象的なこの実によって生れたものであるが、万葉人はこのよく目につく実には目もくれず、特徴のある花にも関心を持たず、ひたすら蔓性という特質に目を向けて接していたのがわかる。ほかにも『万葉集』には蔓性の植物が十五種ほど見えるが、その中で花を主眼に詠まれているのはフジとかほばなのヒルガオくらいで、他は蔓植物の特性などをもって詠まれているのがほとんどで、その用いられ方は、単なる写生ではなく、比喩的に用いられているのがわかる。これは五七五七七の短歌という定型短詩を表現する手段として有効な言葉の用いられ方で、『万葉集』に頻用されている和歌の用法である。

                                                                            

  万葉後もサネカズラはこの比喩的な用法によって用いられた。『後撰和歌集』に初出し、『小倉百人一首』にも採用され、人口に膾炙している次の歌などはその代表的な例で、ここでも、当然のこと、印象的な真っ赤な実は登場せず、見向きもされていないのがわかる。  写真は左からサネカズラの雄花、雌花、果実。

   名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな                                                 藤 原 定 方

 歌の意は「逢うと言い、さね(共寝)ということをその名に負うのであれば、この逢坂山のさねかづらをたぐりながら人に知られないで、やって来る手立てがあってほしいものだ」ということになる。

                                                                                          


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2012年08月27日 | 万葉の花

<360>万葉の花(30)ぬばたま( 奴婆多麻、奴波多麻、奴婆多末、奴婆玉、奴婆珠、夜干玉、野干玉、黒玉、烏珠、烏玉 )= ヒオウギ ( 檜扇 )

       檜扇の 花咲き 暑中見舞ひ来る

       居明かして君をば待たむぬばたまの吾が黒髪に霜はふるとも                    巻 二  (89)   古 歌 集

   あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月のかくらく惜しも                    巻 二 (169)  柿本人麻呂

   吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつついねらえずけれ                   巻 四  (639)   娘 子

   ぬばたまの妹が乾すべくあらなくに吾が衣手を濡れて如何にせむ                    巻十五 (3712) 遣新羅使

   ぬばたまの月に向かひてほととぎす鳴く音遥けし里遠みかも                    巻十七 (3988) 大伴家持

 ぬばたまはアヤメ科の多年草であるヒオウギの実をいうもので、この実が漆黒であることから、主に黒、夜などにかかる枕詞として用いられ、夜に関わる月や夢にもかかり、集中に見える八十首すべてがこの枕詞の用法によって詠み込まれているのがわかる。ただ、3712番の遣新羅使の歌は妹(いも)にかかり、これは「妹」が夢(いめ)あるいは、寝(い)の同音で、夜に関わるからとも、また、「妹」イコール黒髪の連想によるからとも言われる。とにかく、ぬばたまはすべてが枕詞として用いられていると知れる。

 これは短歌におけるレトリックのひとつの方法で、『万葉集』に見える特徴として以後の和歌にも影響を及ぼしている。集中八十首というのは固有の植物中ではハギの百四十二首を筆頭に、コウゾ(たへ、たく、ゆふ)の百三十九首、モミジ(もみち、もみつ)の百三十七首、ウメの百十九首に次いで多い登場数である。それも植物自体を詠んでいるものではなく、次に来る言葉を導くための決め言葉として用いられているもので、五七五七七のリズムに則って生み出された万葉人の知恵の賜物によるものであることがわかる。

 ここでぬばたまについてであるが、集中には奴婆多麻、奴波多麻、奴婆多末、奴婆玉、奴婆珠と表記され、これらは明らかにぬばたまと読むことが出来る。しかし、夜干玉、野干玉、黒玉、烏珠、烏玉についてはいかように読むかはっきりしないと言え、それぞれの歌の内容から、黒や夜にかかる言葉として用いられていることから前にあげた奴婆多麻等に等しい枕詞ということで、これらもみなぬばたまと読む次第である。

 ヒオウギは北海道を除く、全国各地に分布し、主に山地の草原に自生している。国外では中国や朝鮮などにも見られ、最近では北米でも野生していると言われる。盛夏のころ、橙黄色に紅色の斑点がある花を咲かせ、秋に球形で艶のある黒色の実をつける。別名をカラスオウギというが、これは昔からある名で、ヒノキで作った扇のように生える葉が、鳥の羽を広げたように見え、実が黒いためにカラスを連想したからと言われる。その黒い実を烏羽玉(うばたま)、つまりは、カラスの羽色(黒色)の玉(実)と見たわけで、その「うばたま」が「ぬばたま」に転じたということである。

 ぬばたまは『古事記』にも登場するが、昔の人の観察眼のしっかりしていたことがうかがえる事例にあげられる。ヒオウギの実は単に黒いのではなく、艶を湛えた黒色である。カラスの羽も濡れ羽色と言われるように艶のある黒色で、ぬばたまはその共通の認識によっている。このことを当時の人々はしっかりと観察していたのである。なお、ヒオウギは近代を待って登場する名で、よく例に出されるのが次の歌である。

   射干(ひおうぎ)の花のふふまるころとなり山ほととぎすいまだ聞こえず                                              斎藤茂吉

                                                   

 なお、射干(やかん)は中国の古い本草書に出て来る薬用植物で、我が国ではシャガやこのヒオウギに当てられたようである。「ふふまる」は含むという意の「ふふむ」から来ている古語で、ここでは蕾が膨らみを見せている様子を言っている。写真は左から山地の茅原で群落をつくり花を咲かせるヒオウギ。次は檜扇のように葉を広げるヒオウギ。次は花と未成熟の楕円形の蒴果。右端はこの蒴果が裂けて現れたヒオウギの直径五ミリほどの光沢ある黒い球形の種子。

 なお、大和では山地の草原でよく見かけていたが、ここ十年ほどでめっきり少なくなり、二〇〇八年の奈良県版レッドデータブックには絶滅危惧種としてあげられている。これはキキョウと同様で、植栽では珍しくないが、野生がピンチの植物である。繁殖力は極めて旺盛であるが、減少をみているのは、シカの食害が影響しているからではないかと考えられる。