大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年07月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1337>  蝉 

         蝉に訊く この世とあの世の 往き帰り そこに哀れの 伝聞あれば

 最近、雨蛙をよく採り上げているが、今度は窓によく油蝉が来るようになった。窓の網戸に来て久しく網につかまっている。私がパソコンに向かう目の前である。今年、長年親しくしてもらった妻の一番上の姉が亡くなって初盆であるが、ふとこの蝉にその姉さんが重なって、はるばる訪ねて来たのではないかというようなことが思われたのであった。

 雨蛙には末っ子の妻を可愛がってくれた父親が重なって思われたのだと察せられ、「ぷくぷくのお父さん」と呼ぶことにした。そのこともこの油蝉への思いには働いた。亡くなったお姉さんは怒ったことのないやさしい人で、告別式にはこの人柄が話題に上った。簾を上げても逃げる気配はなく、暫く網につかまってこちらを見ているように思われた。

                                  

 蝉と言えば、空蝉(うつせみ)という言葉が思われて来る。国語辞典で引いてみると、現身に同じで、「この世の人。転じて、この世」。または「せみのぬけがら。また一般に、せみ」とあり、「うつせみの」は、身、命、人、世にかかる枕詞で、平安時代以降に生まれた言葉だと言われる。この蝉の捉え方から蝉に対する印象には「哀れ」という言葉が添い来る。で、この油蝉に初盆の徳篤き亡き義姉が重なって思われた次第である。

  それにしても暑い日々で、冷やした濡れタオルが手離せない今日このごろである。諸兄諸氏には暑中お見舞い申し上げる次第、体に十分注意してこの暑さを乗り切って頂きたいと思う。 写真は窓の網戸に来てつかまる油蝉。

 


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2015年07月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1336> 新続我が家の雨蛙

         遠雷や 一雨来るか 欲す雨

 久しく姿が途絶えていた雨蛙のぷくぷくのお父さんが所定の二階ベランダ下の雨樋の上に帰って来た。台風十一号の後、連日の暑で人間さまも熱中症で倒れる御仁が続出して、連日ニュースになるほどなので、ぷくぷくのお父さんにはこの暑さにやられてしまったかと気になっていた。

 少々痩せたようにも思われるが、元気なように見受けられる。相変わらず、何を考えているのかわからないけれど、人間に当てはめて思えば、その姿は無想の聖者、哲人、禅定の姿に重ねられるところがある。目を見開いているのが生きいる証であるが、最初と同じで置物のごとくに全く動く気配がない。「ときには美声を聞かせてほしい」という気になることもあるが、ならば、「雨を思う存分に降らせてよ」と言い返されるのではないかというほどの姿である。こう暑いと堪らん。午後になったら「水でもかけてやるか」と言ったら、「ホースじゃ駄目よ」と妻。

                                                     

 この猛暑をどう凌ぐか、昼間から冷房をかけるのも気が引ける。毎年のことだが、冷やした濡れタオルで脳みそを冷やす。扇風機で風を送りながらこの冷やした濡れタオルを使う。それにしても我慢のしどころである。しかし、我慢が過ぎて熱中症になっては元も子もない。ときには、そういうことで悲劇も起きる。これは笑えた話ではない。

 それにしても、雨蛙は緑色である。しかし、我が家を住まいにするぷくぷくのお父さんは一度もその緑色を見せたことがない。体の色を自在に変えられるということは優れた能力であるが、私の固定観念では、雨蛙というのは緑色であるから、ぷくぷくのお父さんには不思議が纏うことになる。

  雨が止んで、晴天になると、帰って来るぷくぷくのお父さんだが、この晴天に猛暑が加えられる。果たして、ぷくぷくのお父さんにはこの暑さをどのように凌いでゆくのだろうか。北から遠雷が聞こえる。 写真は所定の雨樋に帰って来た雨蛙のぷくぷくのお父さん。


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2015年07月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1335> エゾハルゼミ と コエゾゼミ

           やさしく大らかな

              ブナのおじさんを頼って

          春にはエゾハルゼミが

          夏にはコエゾゼミが

          生まれ来たって

             ブナのおじさんと

       大自然の中で

               コラボする 一斉に

 最近、紀伊山地の深山で鳴き声をよく耳にするエゾハルゼミとコエゾゼミを見かけた。日本におけるエゾハルゼミは北海道から九州まで、コエゾゼミは北海道から本州の広島県までと四国に分布する寒冷地型の森林性のセミで、ともにブナやカエデなどの落葉広葉樹を好んで発生する。北海道では平地で見られるが、大和では標高千メートルから千五百メートルほどの深山の落葉樹林帯に多く見られ、エゾハルゼミは春季に、コエゾゼミは夏季に現れる。

                           

 山に出かける人は一度は聞いているはずであるが、言葉ではなかなか表現できないが、エゾハルゼミはガーチー ガ―チー ギギギギ ギーとリズムをともなって鳴くように聞こえる。これに対し、コエゾゼミはジージージーと単調に鳴く。どちらも一斉に鳴くことがあり、その合唱はあまり美しいとは言えないが、四季の花と同じく、時と所を得て鳴く声には季節感がある。野鳥にも言えることであるが、声はすれども姿は見えずということが言える。という次第で、すぐ傍で目に出来るのは珍しい。

 エゾハルゼミは六月二日に西大台の川原で見かけ、一方のコエゾゼミは七月二十五日に釈迦ヶ岳の山腹でミヤコザサにつかまっているのを見かけた。ともに弱って飛ぶ力がなく、あまり動かなかった。コエゾゼミはエゾゼミに似るが、背面頭部側の白色の太い条が切れているのが特徴である。 ともに雌雄は不明。 写真は左がエゾハルゼミ、右がコエゾゼミ。

 


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2015年07月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1334> 倒木と笹原

        郷愁が 翼を広げる 夏の空

  稲村ヶ岳の登山道で、台風十一号の影響があったことに触れたが、釈迦ヶ岳の十津川村旭からの登山道に当たる尾根筋ではかなりの倒木が見られ、風の強かったことを物語る。昭和三十四年(一九五九年)の伊勢湾台風は大台ヶ原の森林に壊滅的打撃を与えたが、紀伊山地に豪雨の爪跡を残した平成二十三年(二〇一一年)の台風十二号のときよりも、今回の方がこの尾根筋における風倒木は多いように思われる。

  風倒木はほとんどが根こそぎ倒れているが、よく見ると、大方がカエデの仲間のオオイタヤメイゲツであるのがわかる。幹の色がブナやミズナラに似るところがあるが、葉が掌状に裂けているのでわかる。根が浅く、広がりがないので、風に弱いのだろう。ブナにはほとんど被害が見られないのは、根の広がりが大きいからに違いない。それにしても、風のエネルギーは相当なものである。

        

  大きな木がそこここに倒れているのに反して、笹原のミヤコザサは旺盛に繁茂し、草原を独占している様子が見られた。このササの勢いに圧せられたことによるからか、昨年は登山道の草原を独占して草原一面に生えていたバイケイソウの大群落が姿を消していた。根を張るササが旺盛に繁ることは、ほかの草花たちには困ることであるが、雨による土砂の流失を阻み、防災に役立つ。

  最近、ブナ林下のスズタケなどササ類の枯死が目立ち、シカの食害がその要因であると言われたりして来た。ブナ林にササがなくなり、表土が現れるようになれば、保水が利かなくなり、土砂が雨水によって流され、ブナの生育にも影響を及ぼし、挙句は山の崩壊にも繋がることになる。

  この点を考えると、尾根筋の草原を占拠して旺盛に広がるミヤコザサの状況は朗報と言えるように思われる。では、このササの繁茂は何によるのだろうか。一つには不順な天候の続いたことが考えられる。また、一つにはササをよく食べるシカの減少が考えられる。果たして如何なる要因によって現況があるのだろうか。 写真は左から釈迦ヶ岳登山道の尾根筋で目を引く風倒木。風倒木の剥き出しになった株。一面に広がる尾根筋の草地に広がるミヤコザサのササ原。  草木の 緑あふるる 夏の山


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2015年07月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1333> 大和の山岳行 (11)  釈迦ヶ岳

          大峰や 一歩の先に 求む花

 私の山岳行は草木の花を求めることにある。この山岳の花は、自生する草木、即ち、自然に生え、人間の関与を極力受けず生育している草木に与えられる「野生」という言葉が冠せられているところの花である。この野生には出会いの多いものとそうでない珍しいものとがあるが、すべての野生に言えることは、狂い咲きという季節違いに咲く花もあるものながら、巡りの時が来て花を咲かせるということがはっきりしている。殊に四季の国日本では季節の特徴を負って野生の大概の花は見て取れる。私が撮影に当たっている大和の花も例外ではない。

  また、野生について、今一つ言えることは、草木も他の生物と同じく、生育に適した環境を拠りどころとして種を保持していることが言え、その自然に適合した場所において花を咲かせることが言える。そして、環境への適合の仕方には、おもに他力と自力が見て取れる。他力は、例えば、風とか動物とかほかにも見受けられるが、それらの力を借りて生育の適合地を得るというものである。一方、自力は草木自身がその場所に生育出来るように自分を変えてその場に対応して臨む。これを進化というように見ることも出来る。例えば、風衝地に生える草木は強い風に対処して背丈を短くし、根をしっかり下ろすか、岩場であれば、根で岩を絡めるようにするという具合に努力する。

  野生の草木には、他力と自力が必要で、根本にはこの二つの力が相まって野生の植生はその生を保持している。要は、環境への適合が言えるわけであるが、これに生育場所の争奪戦とか他の植生との折り合い、あるいは外敵との関係などの要素が加味され、これらを含めるところの総合的な要因によって植生の分布は成り立っている。殊にシカの食害など、最近は外敵との関係が指摘されるところであるが、外敵で一番影響力のあるのは人間かも知れない。言わば、野生の花というのは、時と所のもので、野生の花を求めて歩く山岳への撮影行はこの時と所を得て叶うものであると言ってよい。

         

  雪解け間もない早春に花を開く節分草は石灰岩地を適地とする草花で、近畿では三重県の藤原岳がその生育地として知られるが、隣県にある大和では見かけたという話を聞かない。大和の地に石灰岩地がないわけではなく、私も二、三度、花の時期にその花を求めて紀伊山地の石灰岩地に赴いたことがあるが、出会えなかった。

  この大和の地に分布の報がない節分草がよい例で、大和ではお目にかかれない野生の節分草は、花を求める私の山岳の撮影行にとって、時と所を得ずあるもので、それはなお徹底されていない私の調査不足から来るものか、それともないものねだりをしているかのどちらかであるが、そのどちらかもはっきりしないというのが大和における節分草の状況ということになる。

  ここで撮影行の精進のことが思われるわけであるが、果たして精進は山岳歩きの一歩にあると私は承知している。一歩一歩が積み重なって山頂に至る。その一歩がなくては、千歩はなく、万歩もなく、山頂には至り得ないということになる。そして、花を求めて行なう私の撮影行の納得は得られないということになる。

  昨日は十津川村旭の不動木屋谷林道の峠の登山口(標高約一二〇〇メートル)から釈迦ヶ岳(一八〇〇メートル)に登り、尾根を伝う大峯奥駈道を南の深仙宿(標高一六〇〇メートル)まで下り、そこから釈迦ヶ岳の西の山腹を巻いて旭からの登山道に回り、来た道を辿って下山した。所用時間約七時間。夏休みの土曜日とあって駐車スペースは満杯で、登山者は多く見られた。

  その歩いたコースに花はわずかに白いバライチゴとノリウツギ、それに、黄色いコナスビとオトギリソウが見られた程度で、極めて少ない状況だった。所謂、労多くして稔りの少ない昨日の釈迦ヶ岳への撮影行だったが、それはそれなりに無駄ではなかったと納得している。

  『人類が知っているすべての短い歴史』のビル・ブライソンは「超新星を探すことは、だいたいにおいて、見つからないことを確認する行為だ」(楡井浩一訳)と述べ、研究にはこういう分野もあることを指摘しているが、野生の花を山野に求める私の撮影行などにも言えることかも知れない。

  要するに、時と所という意味において言えば、昨日七月二十五日に辿った紀伊山地の一角、大峰山脈の釈迦ヶ岳から深仙宿の鞍部の間、そして、釈迦ヶ岳の山腹に花らしい花がほぼないということが確認出来たということで、これは負け惜しみではなく、今後の参考になる役立つ経験として納得している次第である。経験に勝る知恵はなく、これを生かすことが望まれるところである。とにかく、これは人生に同じく、一歩一歩の積み重ねが意味を持つもと思われる。 写真は左から古田の森方面の尾根から望む釈迦ヶ岳。銅像の釈迦如来像が立つ釈迦ヶ岳山頂(山頂滞在時は霧に阻まれ視界が利かなかった)。深仙宿から望む北東方面の山々。