大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年07月25日 | 万葉の花

<692> 万葉の花 (101) ひえ (稗、比要)= イヌビエ (犬稗)

        稗田あり 丹精の父 思ひ出す

     打つ田には稗は数多にありといへど擇(え)らえし我そ夜を一人寝る                   巻十一 (2476) 詠人未詳

    水を多み高田(あげ)に種蒔き稗を多み擇擢(えら)ゆる業(なり)そ吾が独り寝る      巻十二 (2999) 詠人未詳

 集中にひえの見える歌はここに記した二首をあげることが出来る。二首はともに寄物陳思(物に寄せて思いを陳べる)の項に見える歌で、「選ばれる」という意の「擇」という言葉に女性の思いが見て取れる共通点を持つ類似歌であるのがわかる。

  で、2476番の歌の「擇らえし」も2999番の歌の「擇擢ゆる」も、ともに「選び取られる」との見解もあるが、「選び捨てられる」という正反対の意によってこの二首はあるとも見て取れる。よって2476番の歌は「耕す田に稗は沢山あるけれども、その中から選ばれて捨て置かれた私は夜を独り寝ていることです」という意になり、見捨てられた女性がその歎きを「ひえ」に重ねて詠んだということになる。

  また、2999番の歌も「水の多い上の高い所の田に種を蒔いたが、稗が多くて、その稗は選び捨てられる。そのような田仕事に見られるように、選別して捨てられる稗と同じく、自分は見すてられ、独り寝をすることです」というほどの意に解される。因みに、ここに詠まれている「種」というのは稲の籾を言っているものである。

 これらの万葉歌に見えるひえは、雑穀でお馴染みのイネ科の一年草で知られるヒエ(稗)のことで、ヒエは大きくわけてヒエの原種に当たる野生のイヌビエ(犬稗)とイヌビエから改良されて、穀物を目的に栽培されるヒエ(ハタビエ・タビエ)とが見られる。イヌビエはノビエ(野稗)、クサビエ(草稗)と言われ、原野や道端、溝辺などに広く自生し、水田などにも侵入して稲作に支障を来たすので農家は害草として扱っている。

  前述の通り、イヌビエはヒエの原種で、有史前に帰化した植物と考えられ、稲よりも前に食用とされていたことが、縄文時代の遺跡で知られる青森市の三内丸山遺跡の出土物にその実が見られることによって説明されている。長い茎の先端部に夏のころ穂状に花を咲かせ、沢山の粒状の実をつける。

                   

 稗は漢名で、『倭名類聚鈔』(平安時代)に「左傳注云 稗音俾 比衣 草之似穀者也」と見えるごとく、「ひえ」の呼び名は稗(ひ)の字音から来ていると言われる一方、日毎に栄え育つ日得(ひえ)によるなど、和名の「ひえ」には色々な説が出て、今日に至っている。

 また、ヒエは実が堅く、米などより腐り難いため、保存性に優れ、稲が不作のときなどに貯めて用いる救荒穀物として重宝された時代もあった。だが、自生するイヌビエは雑草として捨て置かれ、現在も同様であるが、水田などに紛れ込んだものは抜き捨てられるという次第で、稲作が十分に行き届くようになってからはほとんど無用とされるに至った。

 『万葉集』の二首に登場するひえの「選び捨てられる」という見解は、この捨て置かれるイヌビエをもって、その立場にある女性の境遇を歎く思いの言葉に用いられたわけである。なお、「擇」を「選び取られる」とする見解によって考察するならば、当時は稲田に生え出して来るヒエも抜き捨てず、いいものは選んで残し、雑穀として収穫したというふうに見て取るわけで、そのように考えられなくもない。果してどうなのであろうか。

  とにかく、『万葉集』の二首からは、当時におけるヒエ(イヌビエ)の存在というものがわかる気がする。ともに詠人が不明の歌であるが、どのような人物によって詠まれたものなのか。この点もこのひえを詠んだ二首には関心が持たれるところである。

  なお、蛇足であるが、選択するという意の「える」は「よる」とも言われ、「選(よ)り分ける」という言い方で用いられる。昔のことであるが、私の母はよく収穫した菜種や小豆などを天日干しにし、混在する簸屑(ひくず)を選り分けていた。この母の思い出に繋がる歌を以前作ったことがあるが、ひえの万葉歌にその歌が思い出された。  立葵咲く六月の思ひ出は踞りつつ簸屑選る母  これがその歌であるが、懐かしい。写真は水田脇で穂を実らせ始めたイヌビエ(左)とイヌビエの変種ケイヌビエ(毛犬稗)の花穂。

 

 

 


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2012年08月28日 | 万葉の花

<361>万葉の花(31)さなかづら、さねかづら(狹名葛、佐奈葛、左奈葛、木妨己、狹根葛、核葛)=サネカズラ(実葛、真葛)

      真っ赤な実 ゆゑにある名の 実葛

   玉くしげみむろの山のさなかづらさねずは遂にありかつましじ                        巻  二  ( 9 4 )     藤 原 鎌 足

    さねかづらのちも逢はむと夢のみにうけひ渡りて年は経につつ                  巻十一 (2479) 柿本人麻呂歌集

 さねかづらもさなかづらも今日いうところのサネカズラで、さねかづらはさなかづらから転じたものと言われ、合わせて集中の長、短歌九首に見える。94番の鎌足の歌は「さなかづら」までが「さねずは」以下を導く序で、「さなかづら」が以下に続く同音の「さねずは」に掛かっているのがわかる。

  この歌は鏡王女の歌に応えて詠まれた相聞歌で、鏡王女が「玉くしげ覆ふを安み開けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも」(93)と「お泊りになって夜が明けて帰られるのであれば、人に知られて噂になるでしょうから、あなたさまはともかく、私の名が惜しまれます」と遅く帰るのを非難して詠んだもので、これに対し、鎌足が「あなたと寝ないでは耐えられないことです」と応え返しているもので、この用法でサネカズラが見えるのはこの一首のみである。

  ほかの八首は、蔓が分かれて長く延びてもまた合うサネカズラから2479番の人麻呂歌集の歌に見られるように「後も逢はむ」の枕詞として用いられた五首を含め、サネカズラが他物に絡んで延び上がるツル性植物の特徴をもって詠まれ、九首すべてに花も実も出て来ない点が言える。人麻呂歌集の歌は「この先もまた逢えるかしらと夢にのみ見て年月を経つつあることだ」というほどの意に解せる。

  サネカズラはマツブサ科の蔓性木本で、関東以西、四国、九州、それに台湾、中国などに分布し、大和にも多く、各地に見られる。蔓は枝分かれして絡み合いながら延び、高さ二十メートルに及ぶものも見られる。葉は常緑で、光沢があり、ツバキの葉に似る。雌雄別株または同株で、盛夏のころより花被片が黄白色の花を開く。雄花は蕊の部分が赤く、雌花は緑色で、白い花柱が多くつき、この部分が育って秋になると結実し、よく目につく真っ赤な集合果を垂れ下げる。

  サネカズラは実葛、真葛で、その名は印象的なこの実によって生れたものであるが、万葉人はこのよく目につく実には目もくれず、特徴のある花にも関心を持たず、ひたすら蔓性という特質に目を向けて接していたのがわかる。ほかにも『万葉集』には蔓性の植物が十五種ほど見えるが、その中で花を主眼に詠まれているのはフジとかほばなのヒルガオくらいで、他は蔓植物の特性などをもって詠まれているのがほとんどで、その用いられ方は、単なる写生ではなく、比喩的に用いられているのがわかる。これは五七五七七の短歌という定型短詩を表現する手段として有効な言葉の用いられ方で、『万葉集』に頻用されている和歌の用法である。

                                                                            

  万葉後もサネカズラはこの比喩的な用法によって用いられた。『後撰和歌集』に初出し、『小倉百人一首』にも採用され、人口に膾炙している次の歌などはその代表的な例で、ここでも、当然のこと、印象的な真っ赤な実は登場せず、見向きもされていないのがわかる。  写真は左からサネカズラの雄花、雌花、果実。

   名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな                                                 藤 原 定 方

 歌の意は「逢うと言い、さね(共寝)ということをその名に負うのであれば、この逢坂山のさねかづらをたぐりながら人に知られないで、やって来る手立てがあってほしいものだ」ということになる。

                                                                                          


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2012年05月22日 | 万葉の花

<263> 万葉の花 (3) むらさき (牟良佐伎、武良前、紫草、紫)=ムラサキ (紫)

         むらさきと 言はれて見しが 白き花 などいふもまた 万葉の花

      紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)をにくくあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも            巻 一 (21) 大海人皇子

 この歌は天智天皇が蒲生野に遊猟したとき、額田王が詠んだ「茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」に応えて詠んだ相聞の歌として『万葉集』に仲良く並んで採り上げられ、世によく知られている恋歌である。だが、この二首は公の場で詠まれた歌であり、大海人皇子が三十八歳、額田王が四十一、二歳であると推定されることから、当時の事情に照らせば、額田王は既に老域の人であり、二人に恋の成り立つことは考え難く、今では、遊猟の際の余興において詠まれた座興の歌とする見方が定着している。

 それはさておき、ここはムラサキという植物についての話である。『万葉集』にはこの歌と長歌一首を含みムラサキの見える歌が十七首登場する。うち四首はムラサキという植物自体を詠み、紫色として詠んだものが五首、ほかには枕詞として用いたものなどがあるが、ここで主要なのはムラサキが根にシコニンと呼ばれる物質を含み、紫色の基になった紫根染めに用いられたという点である。大海人皇子の上記の歌もそこに意味が持たれている歌と解せられる。

 ムラサキはムラサキ科の多年草で、初夏のころから白い花を咲かせるので、遊猟を行なったとされる五月五日には「標野」で花が見られ、歌の背景に花盛りが重ならないわけではないが、歌が額田王の「紫野」を受ける形になっており、紫色が高貴な色であることから、最高の女性として相手を賛美する内容に至っているわけで、ここはムラサキの根から来る紫色を匂わせる用い方で歌が詠まれているということが出来る。

 それと、額田王の「茜さす」に対し、大海人皇子が「紫草の」と、ともに染料植物による色をもって歌を詠みかけている点があげられる。これも相聞歌として相手に和する心持ちがうかがえるところである。大海人皇子の「紫草の」は「茜さす」と同等の「くれなゐの」でもよいように思われるが、二人の年齢から言えば、やはりここは「紫草の」でなくてはならないということが言える。

                                          

 ところで、万葉植物には染色に用いた染料植物が多く登場するのが一つの特徴としてある点が指摘出来る。アカネ然り、ムラサキ然り、ほかにもクレナヰ(ベニバナ)、カキツバタ、ヤマアヰ(ヤマアイ)、ツキクサ(ツユクサ)、カラアヰ(ケイトウ)、ツルバミ(クヌギ)などよく知られたものだけでもこれだけある。

 なお、春日大社神苑の萬葉植物園(奈良市)では、今、このムラサキが白い花を咲かせ、見ごろになっている。ムラサキは全国的に分布すると言われるが、自生は限られ、個体数が少なくなって、絶滅危惧種としてレッドリストにあげられている。大和では自生する話を聞かない。 写真は左がムラサキ(春日大社神苑の萬葉植物園で)。右はアカネ(金剛山の登山道で)。ともに花の印象によるものではなく、根を染料にしたことによって歌にも登場し、その存在を今に知らしめている植物である。