大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月29日 | 吾輩は猫

<180> 吾輩は猫 (7)   ~<177>よりの続き~
          吾が思ふ 隣隣隣家の 同輩へ 今日もこよなく 過してゐるか
 制度とか規則というものはその対象にある者においては窮屈を強いられ、時には気分を圧っせられることのあるものであるが、そこには特権者と遵守者と違反者を生む。この図は制度とか規則には例外なく現われるもので、 遵守者は窮屈ながらもこれを守り、違反者は違反することによって何らかの注意や罰を受ける。しかし、特権者は違反行為に至っても例外と見なされ、 注意もなければ、罰が与えられることもない。 これは制度や規則の本質的なところのもので、言わば、差別化していることにほかならない。そして、この差別には理屈がつけられ、その理屈はしたたかに強制をもって行われるところがある。今回の回覧について、人間に気を遣って暮らしている吾輩などは、反則などしていないのにレッドカードを突きつけられたような気分にある。
 猫と言えども、用を足すときは人目をはばかり、大道などですることはまずなく、気の置けないところを選ぶ。 そして、その気の置けないところで用を足す。 吾輩などは藪の近くの地道の脇などでよくする。犬と違い、その不浄な排泄物は十日もすればカラカラに乾涸びるか、強い雨でもあれば流れてなくなる。それでも庭に他所の猫が来て排泄物を撒き散らすという苦情が絶えないということであるから、 猫に人間の道徳を求める前に猫の習性についての研究をし、その結果を踏まえて、猫のトイレでも考案すれば、少しはその被害感覚にも治まりがつくのではなかろうか。
 とにかく、猫一同にとって、この回覧の一件は理不尽この上ない申し合わせで、全く人間の勝手主義から生じたものと言わざるを得ず、腹立たしくなる。 確かに猫は他所の庭に許可なく入り、 用を足すようなこともあって、人間の立場からす
れば遺憾なことであるが、それが猫の習性によるものであることは既に承知のはずで、猫の必要性から鑑みて、どのくらいのところであれば許容出来るかということが思われて来るのである。 もちろん、回覧がなされたということは、許容出来ないという意向が住人の間で強く働いていることを示すもので、ここのところをもう少し考え、論議しなければならないことを示していると言える。
 紐に繋がれた犬でも散歩のときに用を足すものが多く、中には他家の玄関先なんかでも平気で用をさせ、始末せずにそのまま立ち去る者がいて、ときにそういう光景を見る。これなんかは誰が悪いと言って、犬を散歩させている人間が悪いに決まっている。この犬の例ではないが、 回覧を回す前にやらなければならないことが人間の側それぞれにあるのではないか。そのそれぞれを思うとき、猫もさまざまなれば、 人間もさまざまで、 中には許容出来ない御仁も存在するわけであるが、 猫に厳しく当たるのであれば、人間自らもっとモラルに厳しくあらねばならず、 その厳しさが人間それぞれに行き届きそれが実行されてあれば、このような回覧などせずに済むのではなかろうかと思われる。   (以下は次回に続く)