大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年02月11日 | 創作

<3677> 写俳二百句(111) 寒明(かんあけ)

           寒明やまづは日差しに現はるる

                     

   立春過ぎの寒明(かんあけ)の時期、日本列島は北海道や本州の日本海側をはじめ大雪に見舞われている地方が多く、大変な様子がニュースでうかがえる。その報に春の感は全くないが、奈良盆地の大和平野の今日はよい日和になり、明るい日差しに春の気配が感じられた。

   ところで、今日二月十一日は建国記念の日の祝日。普通の年であれば、廣瀬神社の砂かけ祭りをはじめ大和地方では各地の神社で御田植祭の催しがあり賑わう。だが、新型コロナウイルスのオミクロン株の猛威のさ中、祭りは中止や縮小を余儀なくされ、その意味では淋しい日になった。

   それでも、よい日和に春への序章の感。思うに、寒明のこの時期、春は名のみに違いないが、春はまず日差しに現われるといったところ。よく歩きに行く、奈良県営馬見丘陵公園の池ではその日差しを受けて穏やかに温む水面のそこここで、頻りにカモたちが羽を広げて伸び上がり、そのたびに水飛沫をあげるのが見られ、水飛沫は明るさを増した日差しを反射し、輝いて見えた。

   水面はそこだけ明るく、スポットライトが当てられたような感じで、艶やかなマガモのオスが舞台の主役のように見え(写真)、岸からの目を魅了した。これから先、三寒四温を何度か繰り返し春本番を向かえるはずである。猛威を振るう新型コロナウイルスのオミクロン株はサクラが咲くころには収まるだろうか。「早く来い来い」と思う気分の寒明の時期ではある。


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2021年09月13日 | 創作

<3527> 作歌ノート  曲折の道程(十八)

                言葉とは人の意に添ふゆゑなれば悪意にあれば悪意を孕む

 言葉というものは人の意思によって発せられることがほとんどであるから、悪意を持って使えば、その言葉は悪意を孕んだものになり、悪意が反映されることになる。自由に話せる現代においては、言葉に意思としての悪意が孕めば、自由に話せるがゆえにかえって始末の悪いことになりかねない。言葉の暴力というようなことが言われるが、いぢめに使われる言葉などがその例としてあげられる。

「言論の自由」という言葉は、一昔前までよく使われた言葉で、とても耳ざわりのよいところがあった。しかし、自由になった今日、使われることも少なくなったが、ときに使われるのを聞いていると、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなることがある。それは自由をはき違えていることがあるからである。

 一昔前までは、「言論の自由」という言葉に、言論を弾圧する側に向かって主張するものであるという一つの前提の認識が、言う方にも聞く方にもあった。そして、私たちは「言論の自由」という言葉を誰に向かって発するべきかということをよく心得ていた。

                                                   

 ところが、昔に比べ自由になった今日では、自由だから何を言っても構わないというような風潮が強くなり、「言論の自由」がその風潮の盾になるというふうに、言う方の都合によって使われることが目につくようになった。そして、言葉を発する側の意思がセンセーショナルな方に働き、伝える内容がおもしろければよく、思いやりがないこともままあり、それが言葉の暴力となって表面化し、本来は弱いものの側に立って、標榜しなければならない「言論の自由」が、それとは反対に言葉に痛めつけられる弱いものの側に向かって言い訳のごとく使われることもあるようになった。

   そういうことで、言葉というものが、話すものの意思によって話され、悪意に添えば悪意を孕み、大いに人を傷つけることにもなることを、私たちは、自由に話せる状況にあるゆえに、よくよく承知しておかなくてはならない。いつの時代にも課題は尽きないが、この問題はインターネットという双方向性の伝達手段を持ち得ている今の時代の課題の一つとしてあげられる。言わば、自由には責任がともない、自由には配慮が必要ということが最近思われることではある。 写真は『マス・コミュニケーションの諸問題』(生田正輝著)の新聞の自由を述べた箇所。

      言論の自由と言葉の暴力と諸刃における言葉を思へ

      言葉には思ひが纏ふ己がじし或ひは軽く或ひは重く

    情報の主体は言葉 言葉には各々の意思絡まりてある

 

 


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2021年06月09日 | 創作

<3431> 写俳百句 (61)  夏パジャマのシーズン到来

                ちゃんちゃんこ洗ひ仕舞ひて夏パジャマ

                         

 このところ梅雨の中休みで晴天の日が続き、大和地方は連日30℃ を越す真夏日で、扇風機を出し、冬の間お世話になったちゃんちゃんこを洗い仕舞っていよいよ夏パジャマの登場といったところ。コロナ禍で東京五輪はどたばたの始末。すったもんだの挙句、強行のようである。我が家ではワクチンの予約が出来、一安心といったところだが、七月の初旬の二回目が済むまで気は抜けない。それにしても時は移ろい行く。その実感。

 以前にも述べたが、私のちゃんちゃんこはパジャマの上に羽織ってそのまま寝床に入る。要するに寝間着替わりに用いている。この用い方が私の身体にぴったり来て、この方法を取り始めてほとんど風邪をひかなくなった。多分、ちゃんちゃんこを羽織って寝ると肩から首元が冷えないからだろう。それでコロナ禍の冬も何ということなく過ごせた。今のちゃんちゃんこは久留米ブランドの三代目。妻が手洗いしてくれ、「次の冬もよろしく」と押入れの奥に仕舞った。

 それにしても、新型コロナウイルスの猛威は世界各国に及び、歴史的騒動になった。その感染力はインフルエンザの比ではなく、人類を恐怖に陥れてなお続いている。ワクチンが出来て予防の見通しがついたとはいうものの世界的に見れば、変異株などという厄介なリスク事情にもより、まだ当分油断出来ない。という状況であるが、インフルエンザはどうなったのか。インフルエンザのイの字も発せられなくなった。これは多分、インフルエンザより強敵の新型コロナウイルスに対処することによてインフルエンザが封じ込められているからではなかろうか。

 私のかかり付けのドクターによると、今年は一件も扱った発症例がないという。よいことであるが、それだけ新型コロナウイルスの感染力が強いことを物語っているとも言えそうである。今後どのように展開するのか。ちゃんちゃんこを仕舞いながら夏パジャマの季節を思った。 写真は裏返しにして部屋干しするちゃんちゃんこ。

 


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2021年04月29日 | 創作

<3392> 写俳百句  (54) ユズの若葉に雨

             慈雨ならむ濡れて艶めく柚子若葉

                                 

 久しぶりに雨の感。青葉若葉の季節。我が家のユズの木も一面に艶のある柔らかな若葉と刺をつけた新枝を出し、そこここに白い蕾をつけている。本格的な雨で、新枝も若葉も刺も雨の雫を輝かせ、一層艶やかに見える。この時期の雨は育ち行く勢いにある草木にとって慈雨に違いない。 写真は雨に濡れて雫を輝かせ、艶やかに見えるユズの新枝や若葉。

 


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2020年11月01日 | 創作

<3215> 写俳百句 (2)     満 月

               心象へ 月下の眼 誘はる

                       

 出来上がったばかりの斑鳩溜池の周遊道で三脚を立て満月の昇り来るのを撮っていたら年配の夫婦らしい二人連れがやってきて、おやっと思いレンズが向けられている方角へ目をやったのだろう、女性の方が「ああ満月やわ、池に映っていいわね」と、立ち止まって話しかけた。

 現れたばかりの月だったので気がつかなかったのに違いない。写真を撮る身に昇り来る月のスピードは結構速く、私が月と月の光が帯になって映り込む池面との露出の関係を気にしながらシャッターに集中していたので、声が掛け辛かったのに違いない。二人は「こういうところで写真を撮るんだ」と話しながら去って行った。

   月はあっという間に高く昇り、400ミリレンズに変えて、月のアップを抑えて帰路についた。薄暮のときが過ぎ、大和平野の町明かりがはっきり浮き立って見えるころ、月は空高く輝き、遍照の静かなる光景を見せていた。写真は池に映り込むこの秋最後の満月。