大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月14日 | 万葉の花

<2388> 万葉の花 (137) ごとう (梧桐)= アオギリ (青桐)

        青桐の広葉に風の五月かな

  巻五の雑歌に太宰帥大伴旅人が、対馬結石(つしまゆひし)産の梧桐で作った日本琴(やまとこと)を都の藤原房前に贈った際の書状に認めた二首とその琴を受け取った房前が返した一首が見える。三首とも歌に梧桐の文字は見えないが、序文である書状の内容によって明らかに梧桐の日本琴を詠んだものとわかるので、この一連三首は梧桐に関わる歌として取り上げた。つまり、集中、梧桐に関わる歌は三首ということになる。

  では、旅人の書状から見て見たいと思う。まず、この話は、日本琴の化身琴娘子(ことをとめ)が旅人の夢に現れ、一首を添えて自分の行く末を旅人に哀訴した。夢の中でこの話に心を動かされた旅人がこれに答える一首を詠んで書状に認め、日本琴に添えて房前に送った。その書状は次のようにある。書状冒頭の大伴淡等は大伴旅人のことで、中国風の表記を用いたもの。少し長いが、その全文をあげてみたいと思う。

    大伴淡等(たびと)謹状 

  梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝(ひこえ)なり         

  この琴、夢に娘子に化(な)りて曰はく、余(われ)根を遥島の崇き巒(みね)に託(つ)け、幹(から)を九陽の休(よ)き光に晞(ほ)す。長く煙霞を帯びて、山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて、雁木(がんぼく)の間に出入す。唯恐る、百年の後に、空しく溝壑(こうがく)に朽ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭ひ、削りて小琴と為る。質あらく、音少なきことを顧みず、つねに君子の左琴を希ふといへり。すなはち歌ひて曰はく

    いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上(へ)我が枕かむ                            巻五(810)  琴 娘 子

   僕(われ・旅人)詩詠に報(こた)へて曰はく

    言問はぬ樹にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし                            巻五(811)  大伴旅人

   琴娘子、答へて曰はく

 敬(つつし)みて徳音を奉(うけたま)はりぬ。幸甚幸甚といへり。片時にして覚(おどろ)き、すなはち夢の言に感じ、概然として止黙(もだ)あることを得ず。故に公使に附けて、聊(いささ)かに進御(たてまつ)る。

   天平元年十月七日 使に附けて進上(たてまつ)る

   謹通 中衛高明閣下 謹空

 「謹空」は謹んで余白を残すという意で、書状の最後に記す言葉である。以上、旅人が梧桐の日本琴に添えて送った書状の内容である。つまり、旅人の夢に現れた梧桐で作られた日本琴の化身琴娘子は「自分は遥かな島の高い山に根をおろし、幹を大空の陽の光にさらしていました。久しく霞を帯びて、山川の間に遊び、遠く風波を望んで、物の役に立てるかどうかわからない心持ちでいました。唯一案じていましたのは、寿命を終えて空しく谷底に朽ち果てることでありましたが、図らずもよい匠に出会い、削られて小さい琴になりました。音色も悪く、音量も乏しいことを顧みず、君子の傍の愛琴となりたいと、いつも願っています」とその身の上を語り、810番の歌を詠んで旅人に訴えた。

  その歌の意は、「どのような日のどういう時になったら私の声(音色)を聞き分けてくださる人の膝の上を枕にすることが出来るのでしょうか」というもので、これに答えて旅人は「僕(われ)詩詠に報(こた)へて曰はく」と、811番の歌を詠んで書状に認め、化身の琴娘子の日本琴と房前の間を取り持った。

 その歌の意は「ものを言わない木ではあっても、立派なお方がいつも膝に置く琴にきっとなることができると思う」というもので、歌をもって琴娘子を励ました。これを聞いた琴娘子は大いに喜んだという次第である。ここで旅人は夢から覚め、そのままじっとしていることが出来ず、公用に託して夢に現れた琴娘子の梧桐の日本琴を房前に贈ったという次第である。書状の内容は以上であるが、これは『文選』の「琴賦」や遊仙窟を参考にした旅人のフィクションによると言われる。

 日本琴とともにこの書状を受け取った都の房前は、次のような歌を認めて大宰府の旅人に返礼したのであった。

  言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴(みこと)土に置かめやも              巻五(812)  藤原房前

 歌の意は「物を言わない木であっても、あなた(旅人)のお気に入りの琴を私の膝から離し、土の上に置くようなことは致しません」というもの。即ち、以上の三首に梧桐が登場しているので、梧桐を万葉植物に加え、ここにあげた次第である。

            

 梧桐は漢名で、梧桐の「梧」は青い意。即ち、梧桐は現在言われる和名アオギリ(青桐)のことで、アオギリは中国南部原産のアオギリ科(後にアオイ科に変更)の落葉高木として知られる。日本には古くに渡来し、本州の伊豆半島から紀伊半島、四国、九州、沖縄等に野生化していると言われ、現在は公園樹や街路樹としても見られる。高さは十五㍍以上に及び、若い木の樹皮はその名の通り灰緑色で、葉は大きく、掌状に三、五裂し、互生する。

 花期は五月から六月ごろで、枝先に大きい円錐花序を出し、帯黄色の小花を多数つける。雌雄同株で、一つの花序に雄花と雌花が混在する。雌雄とも花弁はなく、花弁状の萼片が五個見える。実は袋果で、熟す前に裂開する特徴を有する。

 材は黄褐色で軟らかく、家具、楽器、下駄などに用いられるが、耐久性は低いとされる。「梧桐の日本琴」はゴマノハグサ科の一般によく知られる桐製で、梧桐もキリ(桐)の意に用いるのが習いと言われるから、この話を聞くに、実際は桐の琴であったが、話を中国風にアレンジするため、敢えて梧桐の表記を用いたのかも知れないと思えたり、梧桐の琴は珍しく、そのため贈り物にしたのかも知れないとも思えたりするところがある。

 写真は左二枚がアオギリの花と実。右二枚はキリの花と実。梧桐のアオギリ(青桐)と普通のキリ(桐)はその質において似るところはあるものの全く別種の樹木で、混同されて来たところがうかがえる。 なお、中国の伝説上の霊鳥鳳凰がとまると言われる木はこのアオギリの梧桐である。

 


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2014年05月08日 | 万葉の花

<977> 万葉の花 (121)  かしは (柏、我之波) = カシワ (柏、檞)

        柏手や 神苑に緑 あふるる朝

    吉野川石と柏と常磐なす吾は通はむ万代までに                                                巻  七 (1134)    詠人未詳

     秋柏潤和川辺の細竹の芽の人にはしのべ君にあへなく                               巻十一(2478)  詠人未詳

     朝柏閏八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり                               巻十一(2754 ) 詠人未詳

   印南野の赤ら柏は時はあれど君を吾が思ふ時は実なし                             巻二十(4301)  安 宿 王

 『万葉集』に「かしは」の見える歌は冒頭にあげた四首で、四首とも場所が読み込まれている。1134番の歌は「吉野川」とあるので、この「かしは」は大和(奈良県)のものであり、4301番の安宿王(あすかべのおおきみ)の歌は「印南野」とあるから、これは播磨(兵庫県)のものであり、2478番と2754番の歌は「潤和川」(うるわかは)と「閏八川」(うるはかは)が同一の川とみられ、歌の内容も同工のもので、その川ははっきりしていないが、駿河とする説があるから、この説に従えば、駿河(静岡県)のものということになる。

 また、「かしは」は原文で三首までが「柏」の字を用い、4301番の安宿王の歌だけが「我之波」(がしは)と万葉仮名で表記されていることから、「かしは」、「がしは」は「柏」のことで、現在のカシワ(柏、檞)に当たると見られている。

  カシワ(柏、檞)はブナ科の落葉高木で、全国各地に自生分布している。幹の太さは直径六十センチほどで、高さは十七、八メートルになる。葉は長さが十数センチの倒卵形で、大きい鋸歯がある。この葉は枯れても枝に残り、次の新芽が出るころ脱落するので、引き継がれ長久する意によって昔から尊ばれ、その意をもって詠まれている歌も見えるほどである。

 例えば、神前で神さまに対面するとき手を合わせて叩くことを「柏手を打つ」というが、これはカシワ(柏、檞)の葉に掌を連想してのものであろうが、葉の長久を意味するところに重なる。花は雌雄同株で、五月から六月ごろにかけて新枝につき、十数センチ垂れさがる黄褐色の雄花序がよく目につく。

                                                                         

  材は堅く、建築や家具材にされ、ビールの樽や薪炭材としても利用されて来た。葉が端午の節供の柏餅に用いられることはよく知られるところである。樹皮はタンニンを含み、昔は染料材として用いられ、果実のドングリは澱粉を多く含み、食料にされて来た。ということで、昔から各方面に利用価値が認められた樹木で、庭木にも植えられることが多かった。

 また、「かしは」という名は葉に食べ物を載せるのに用いた炊葉(かしきは)とか「食敷葉」(けしきは)等から命名されたという説があり、これらのことを総合してみると、かしははカシワ(柏、檞)で、カシワ(柏、檞)は既に万葉当時から誰もがよく知る樹木であったことが言える。以上の点を踏まえて、四首をそれぞれに見てみると、まず、1134番の歌は、「吉野にして作る」の詞書によってある雑歌の項の歌で、「吉野川の岩とカシワの木が、変わらないように、私はいつまでも変わらず、万代までも吉野のこの地に通おう」という意になる。

 次に、2478番の歌と2754番の歌は同じ内容の歌で、ともに寄物陳思の項に見える。その意は「うるわ川の川辺に生えているしの(細竹、小竹)の芽のしのではないが」と詠み出し、2478番の歌は「人目につかないように、忍んで人とは顔を合わさないようにしているが、あなたに対しては逢わずにはいられません」と続けている。一方、2754番の歌は、やはり、小竹(しの)を後の「偲ひて」にかけ、「偲んで寝たので夢にその姿が見えたことです」と一首をまとめているのがわかる。

 4301番の安宿王の歌は「七日、天皇と、太上天皇と皇后との東の常の宮の南の大殿に在(ましま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす一首」の題詞と「右の一首は、播磨国の守安宿王奏(まを)せり」という左注とが見られる歌である。

  歌は、孝徳天皇と聖武太上天皇、光明皇太后が常の宴会を開いたとき、長屋王の子である播磨国守安宿王が奏上したいわゆる、宴会の場で披露した歌であるのがわかる。その後、安宿王は橘奈良麻呂の乱に連座の嫌疑により、佐渡に流されたが、許されて帰京した。歌の意は「印南野のあからがしわは時節が決まっているけれど、君(孝徳天皇)をお思いする私の心持ちは時節にかかわりなく、いつも心の中に満ちてあります」ということになる。

  なお、この橘奈良麻呂の乱では、『万葉集』の編纂者である大伴家持も関与したとして嫌疑をかけられたが、かろうじて罪を免れた。この後にも氷上川継の乱や藤原種継暗殺事件などが起き、これらにも関与したということで、左遷や地位の剥奪がなされた.。だが、死後、復するということがあった。これらの事件は、少なからず『万葉集』にも影響したとされるが、こうした一種罪人の立場にある人物の歌も『万葉集』はきっちりと掬い上げている。家持の資質というか、詩精神というか、この4301番の安宿王の歌にもそういうところがうかがえる。 写真はカシワの雄花と開出したばかりの葉群。

 

 


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2013年05月16日 | 万葉の花

<622> 万葉の花 (90) たちばな (橘、多智波奈、多知波奈、多知婆奈、多知花)=タチバナ (橘)

        橘の 花に見らるる 貴品かな

かけまくも あやにかしこし 皇神祖(すめろき)の 神の大御代に 田道間守(たぢまもり) 常世に渡り 八矛(やほこ)持ち 参出(まゐで)来し時 時じくの 香(かく)の木の実を かしこくも 遺したまへれ 国も狭(せ)に 生い立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて 少女(をとめ)らに 裏(つと)にも遣(や)りみ 白𣑥(しろたへ)の 袖にも扱入(こき)れ 香細(かぐは)しみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に抜きつつ 手に纏(ま)きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は 直(ひた)照りに 弥(いや)見がほしく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐(ときは)なす いや栄(さか)映えに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を時じくの 香(かく)の木の実と 名づけけらしも                                                                                                                                                   巻十八 (4111) 大伴家持

 『万葉集』には橘(たちばな)の見える歌が長短歌合わせて六十九首に及ぶ。この数は集中に登場する植物の中では十指のうちに入る多さである。この六十九首を概観すると、橘という木がどのように見られ、詠まれているかがわかるが、ここにあげた家持の4111番の長歌には橘の大方の受取られ方が見て取れるように思われる。ので、少し長いけれども冒頭にこの長歌をあげてみた。

 この歌は、『古事記』の垂仁天皇の条に見える「天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の国に遣はして、非時(ときじき)の香の木実を求めしめたまひき。云々」に始まる記事や『日本書紀』の垂仁紀に田道間守(たぢまもり)の名で見える同じ内容の記事に因むもので、橘の由来に関わる逸話を詠んだものである。

  両記事によれば、垂仁天皇の命によって多遅摩毛理の田道間守は不老不死の木の実を求めて常世の国に出かけ、苦労して何とか非時(ときじき)の香の木の実である橘の実を持ち帰った。だが、天皇は既に亡くなっていた。田道間守は天皇の御陵にこの実を献じて、約束が果たせなかった無念のあまり泣き叫んで死んだという。つまり、家持の4111番の長歌はこの田道間守の逸話を引き取って歌にしているわけである。

                                                                

  歌の意は「皇祖神の天皇の御代に、田道間守が常世の国に渡って、多くの矛を持って帰ったとき、橘も持ち帰えり、残してくれたので、国も狭いほどに生え盛り、春になると、孫枝が芽生え、ホトトギスの鳴く夏になると、初花を手折って、少女らに土産とし、袖にも入れるといった具合で、その香のよさに、置いたまま枯らしたりする。また、熟して落ちる実を緒に貫いて珠にし、手に巻いてみても見飽きることがない。秋になると時雨が降り、山の木は紅色に染まって散るけれども、橘の実は光り輝いてずっと見ていたいほどである。雪の降る冬になると、霜が置いても葉は枯れず、不変に栄える様子がうかがえる。それだから、皇祖神の御代から、この橘を貴重な香の木の実と名づけたようである」というほどで、この歌の内容から橘が当時どんな風に見られていたかがわかる。

  言わば、橘は垂仁天皇の時代から知られる常緑の果樹で、その特徴から、コミカンの類があげられ、葉も花も実も素晴らしく、好まれて大いに植えられた様子がうかがえる。花は初夏、ホトトギスの来鳴くころ咲き、他にも十九首にホトトギスとの抱き合わせの歌が見られるのが一つの特徴になっている。その花や実は香がよく、これを紐に通して薬玉や鬘などにしたということで、これを詠んだ歌も見られる。因みにたちばなの名は常世の国からこれを持ち帰った田道間守からつけられたと言われる。

  明日香村に聖徳太子生誕地所縁の太子建立の橘寺があるが、この橘の寺名は記紀の田道間守の持ち帰った橘の実を植えたからという伝承がある。以来、橘は優れた木であるといことで、花は家紋として用いられ、この家紋は明日香をはじめ、大和に多く見られる。殊に有名なのは文化勲章で、白い五弁の花を模っている。

  なお、橘(たちばな)はミカン科の常緑小高木のキシュウミカン、つまり、コミカンの類であると言われ、左近の桜に対し、右近の橘として、御所の前庭に植えられたことでよく知られる。六十九首の万葉歌の中で、家持の歌はずば抜けて多く、長短二十五首に及ぶ。家持は植物に関心を持っていた歌人であるが、橘に対する執着は特別なように思われる。 写真はタチバナの花(広瀬神社で)と実を沢山つけたタチバナ(興福寺南円堂で)

 


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2013年03月09日 | 万葉の花

<554> 万葉の花 (78) わらび (和良妣)= ワラビ (蕨)

        蕨摘む 人も長閑な 日の高さ

   石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも              巻 八 (1418)  志貴皇子

 『万葉集』の巻八は春の雑歌から冬の相聞まで二百四十六首を集め、「志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首」と題するこの1418番の歌を巻頭に置いて四季の歌を展開している。この歌は巻頭に据えられるほど著名な歌であるが、集中にわらびの見える歌はこの一首のみである。

  和良妣(わらび)が羊歯植物のワラビ(蕨)であることは、『本草和名』(深江輔仁・918年)に「蕨菜・和良比」とあり、『倭名類聚鈔』(源順・930年)に「野菜類・蕨・和良比」とあることでわかる。この歌は一目瞭然で、ワラビの芽吹きの見られる春がやって来た報春の歓びを歌い上げたものである。

 志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、光仁天皇の父に当たり、のちに春日宮天皇と追尊され、奈良市矢田原町の陵墓は田原西陵と称せられ、田原天皇とも呼ばれている。『万葉集』には六首の短歌が見られ、集中に歌数は少ないものながら、この歌をはじめ、著名な歌ばかりで、万葉を代表する歌人として名高い。これらのことを考慮に、この歌のわらびについて考察してみたいと思う。

 私は野生の花を観察しながら大和の山野を隈なく歩いているが、皇子の歌のように、水のほとばしる垂水(たるみ)、つまり、滝の上、即ち、滝の傍に生えるワラビ(蕨)というものを未だ一度も見たことがない。ということで、この歌はワラビ(蕨)が自生する自然の実景を詠んだものではないのではないかと、いつしか思うようになった。で、資料等を読み返してみると、垂水は吹田市垂水の地名で、石激(いはばしる)は垂水の枕詞とする説にも行き当たった。

  地名というのは考えに及ばなかったが、そういう見方も出て来るという次第で、歌もいろいろと解釈されるものだと教えられた。しかし、地名だとすれば、「上」という言葉が気になるし、地名では歌の趣が損なわれてしまうことになる。ここはやはり地名ではなく、滝の実景と見るべきだが、私の観察では、垂水の滝とワラビの取り合わせに今一つしっくり来ないものが感じられる。この歌の情景からはワラビでなく、フキノトウ(蕗の薹)あたりが自然で最もふさわしいような気がする。

  ワラビというのは、羊歯植物ではあるが、ゼンマイと異なり、日当たりのよいどちらかと言えば山地や原野に見られ、一般的に言って、滝の傍など湿気の多いところには見られず、大和で言えば、若草山や曽爾高原のように、一日中陽が射す草原のようなところにいち早く生え出し、毎春、ワラビ採りを楽しむ人たちの姿が見られるといった特性を持つ植物である。

                           

 で、これらを総合して思うに、この歌は皇子が自然の滝の上(傍)の実景を詠んだのではなく、自邸の庭に人工の小滝をつくり、その滝上の風景を詠んだもので、その歌を宴会か何かのとき披露したのではないかということに考えが巡る。所謂、これは純然たる自然の風景ではなく、自庭の風景の中の一コマと考えるのが妥当ではないかと思われたりするわけである。このワラビの疑問に気づいている研究者もいて、ワラビではなく、ゼンマイの類だとする説も見られるが、ゼンマイとワラビを見間違うことはなかろうし、これは中国の古典をひもとくところ、衒学的で、私には滝を自邸の庭の人工の小滝と見るのが当を得ているように思われる。言わば、この歌は四季を彩る自然を詠んだものとして鑑賞されているが、純然たる自然の風景ではなく、自邸の風景と私には受け取れるのである。

 歌の内容からして言えば、皇子が滝の上(傍)に生え出しているワラビを偶然に目撃したということではこの歌は成り立たず、このワラビは毎年春になるとそこに見られるものでなくてはならない。で、この歌は、おそらく滝の上(傍)に生え出す純然たる自生のワラビを写生したものではなく、自邸の庭に造られた小滝の風景に見られるものではないかということが思われる次第である。つまり、自邸の庭の小滝の上(傍)にワラビを植えていたのではないかと想像されるわけである。

 しかし、そういう疑義があるにしてもこの歌は春の到来を告げる気分の明るくなる歌で、名歌の誉れを譲るものではないが、植生における自然の形というものにこだわりのある者には、少々気になる歌だということになる。 写真はワラビ(左)と小滝の傍に花を咲かせるフキ。ワラビは藁火から来ていると一説にあるが、フキノトウも燃える藁火が連想出来る。この辺りにも皇子の歌を解く鍵があるかも知れない。

 


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2012年07月09日 | 万葉の花

<311> 万葉の花 (18) わすれぐさ (萱草)=ヤブカンゾウ (薮萱草)

      薮萱草 田仕事の背に 咲きしなり

   萱草(わすれぐさ)吾が紐につく香具山のふりにし里をわすれむがた                              巻 三 (334)  大伴旅人

 わすれぐさのヤブカンゾウは集中の五首に登場し、旅人の334番の歌でわかるように、忘れたいという思いを念頭にして用いられているのがわかる。これはヤブカンゾウがホンカンゾウ(シナカンゾウ)の変種で、古来、中国においてホンカンゾウを諼草と言い、この諼草が後に萱草になり、ヤブカンゾウに当てられ、「諼」(くわん)が「忘」の意を表すことから「萱草忘憂」と言われるように、我が国ではヤブカンゾウを、憂いを忘れるわすれぐさと言うようになった。即ち、これを身につけると憂いを忘れることが出来るということで、歌にも詠み込まれた。

 旅人の334番の歌は大宰府帥(長官)として九州に赴任していたときの作で、「身につければ、忘れることが出来るというわすれぐさ(ヤブカンゾウ)を我が紐につけた。香具山のふるさとを忘れようと思って」というほどの意である。万葉当時には実際このようなことが行なわれていたのだろう。中国の文化を採り入れて来た当時の様子を示すことがらの一つとして見ることが出来る。ほかの歌を見るに、次の一首がある。

  萱草(わすれぐさ)吾が下紐につけたれど醜(しこ)の醜草言(こと)にしありけり      巻 四 (727)  大伴家持

 この歌は、「わすれぐさ(ヤブカンゾウ)を自分の下紐につけたけれど、一向に効き目がなく、全く醜草と言われる通りだ」というほどの意に解せる。ここでいう「醜の醜草」は効き目のないわすれぐさを指していることは明らかで、『今昔物語』巻三十一第二十七の「兄弟二人殖萱草紫菀語」の説話にも見える。次のような物語である。

 昔、親孝行な二人の兄弟がいて、親が亡くなったとき、二人は毎日墓前で歎き悲しんでいた。しかし、兄の方は、宮仕えをしていることもあって、いつまでも休むわけにいかず、何とかこの悲しみを忘れたいと思い、墓前にわすれぐさのヤブカンゾウを植えた。これに対し、弟は親のことを忘れたくないと思い、墓前に思ひ草のシオンを植え、その後も毎日欠かさず親を慕って墓前に姿を見せた。

 或る日、墓を守る鬼が現われ、弟のその孝心に感心し、褒美として「明日のことが何でも夢でわかるようにする」と誓った。その後、鬼の約束通り、弟は夢で明日のことがわかるようになり、幸せに暮らしたという。このため、シオンは墓を守る鬼に関わる「鬼の師子草」と呼ばれ、ヤブカンゾウの方は「鬼の志許(しこ)草」あるいは「醜の醜草」と言われるようになり、シオンを思ひ草、ヤブカンゾウを忘れ草と呼ぶようになったとのことである。この説話の話は家持の727番の歌に通じる。

 また、わすれぐさのヤブカンゾウは庭にも植えたようで、次のような歌も見え、『枕草子』でも植えられたわすれぐさが登場する。

    萱草(わすれぐさ)垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり        巻十二 (3062)  読人不知

 この歌は「憂いを忘れるというわすれぐさのヤブカンゾウを垣根いっぱいに植えたけれど、全く効き目のない醜の醜草で、なおも恋に悩まされている」というほどの意である。やはり、このわすれぐさも忘れたいという思いが念頭にあって植えられたのがわかる。

 ヤブカンゾウは古くに中国から渡来した史前帰化植物とされるユリ科の多年草で、今では全国的に分布し、大和でも道端や山足などの草深いところでよく見かける。七月ごろ太い花茎を伸ばし、花茎は上部で二股にわかれ、先端に橙赤色の八重咲きの花を咲かせる。花は一日花で、朝開いて夕方には萎むが、次の蕾がまた咲くという具合に咲き継いでゆく。この花が咲き出すと暑さも一段と増す。

 また、ヤブカンゾウは食用や薬用にされ、食用にされる若芽もよく知られ、斎藤茂吉に「萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ」という歌がある。明治四十二年の作で、東京の町蔭に水さび田が見られた時代で、自然がまだそこここに残っていたのがうかがえるが、『万葉集』にヤブカンゾウのこういう若芽の光景を詠んだ歌は見えず、もっぱら憂いを忘れるという中国伝来の故事に因むわすれぐさとして登場する。

                          

 なお、八重咲きのヤブカンゾウに対し、花が一重のノカンゾウがあり、これも全国的に分布する。大和でもヤブカンゾウとほぼ同じ時期に花を咲かせるが、ヤブカンゾウよりも個体数が少なく、大和では希少種にあげられている。なお、最近ではノカンゾウもホンカンゾウの変種と見られ、わすれぐさの候補にあげられるようになった。 写真は左がヤブカンゾウ(奈良市柳生町で)。右がノカンゾウ(宇陀市室生で)。私はこの二つの花を見ていると、『万葉集』をはじめとする古歌に登場するわすれぐさはどちらに解してもよいのではないかと思えて来る。