大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月12日 | 吾輩は猫

<192> 吾輩は猫 (12)    ~<189>よりの続き~
          人間(しょけい)にも この世 猫(わがはい) にもこの世 生まれてここに 目見えてゐたり
 いつも日がな一日眠っているように目を閉じていることの多いこの身に対し、 人間諸兄の間から批判の声もあるようであるけれども、その批判は外見のみをもって見解とするものであって、当を得ていないと言ってよく、猫の吾輩からすれば、不満であると言わざるを得ない。詩人が自宅に籠って言葉への推敲に時を費やしているのを見て、 一日中家の中に籠って何もしないで食べて行けるなんて気楽な商売はないなどというような陰口をつくのと同じことだと言えよう。
 生きものは息をすることも物を食べることも、 一面においては生を全うするための労働であると見なせる。猫の身から言えば、「夜行性ゆえ」というちゃんとした理屈があるが、 その理屈のみならず、 眠っているようで、なかなかそんなものではなく、これで随分と考えを巡らし、頭を使っているのであって、これも猫の身としては、労働の一つの形であると言える。まあ、 そんなこんなで、 人間には劣ると言えども、猫は猫の仕儀において生きている次第である。
 生きものにとって生きるということはそんなになまやさしいものではなく、猫の身にも言える。生きるということはほんに切ないもので、先生の猫には虎になった夢を見たという。この手の夢は遂げ得ない現実に対して歯痒い思いを引きずっているような心境にあるときよく見るものではなかろうか。 猫が虎になって人間を一喝して従えるなどということは、弱者の強者に対する思いという意味で何かいじらしいようなところもあるが、 聞けば滑稽味があって苦笑に似た心持ちにもなる。しかし、それはそれで当の猫の心中はシリアスで、単純には笑い飛ばせないところにあることも汲んでもらわなくてはならない。
 虎への変身は夢として、夢の条で終わればよいが、 夢はよく高じるもので、現実において高じれば、妄想ということになり、 妄想は奇にほかならず、 奇は怪であって、これを実行に移せば、 悲劇を生むことは必定、 厄介なことになることを承知しておかなくてはならない。なお、 実行されなくても、周囲に不穏を感じさせたりすることになれば、治安、秩序においてよろしくなく、社会全体の憂慮に繋がりかねない。で、夢はときに単なる夢と片づけることの出来ない状況を生み、問題視されるところとなる。
 猫においてもこのようであるから、複雑極まりない心理の持ち主たる人間においてはいよいよ影響が大きかろう。 漫画本一つを取り上げてみても今と昔では違いがある。 今のものは当然のことだが、 現代の影を引いている。 中には夢の高じたものも多々見られるが、これなんかでも漫画の中のことで終わればよいが、 推理小説でも同様、これを実行すれば悲劇となることは必定のことで、夢は夢に止めおかなくてはならないということが言える。 (以下は次回に続く)