大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年07月31日 | 植物

<698> ザクロ

       実石榴の 色づくころや 鬼子母神

  東大寺二月堂のお水取りのとき、炎の大松明が登って行く石段の登り口のところ、お水取りを行なう若狭井の閼伽井屋の並びに絵馬の掛けられた鬼子母神(きしぼじん)のお堂がある。そのちょうど前の石垣に沿って十数本のザクロが植えられている。かなりの古木であるが、このザクロに真夏の今、ちょうど実が生って、色づきつつあるのが見受けられる。

 鬼子母神は訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれ、もとは鬼神の妻で、人の子を奪い取って食っていた。子を奪われた親たちは歎き悲しみ、その歎きを知って憐れに思った釈迦は鬼神の妻にザクロの実を与え、改心させた。鬼神の妻はこのザクロの実を食べ、子を奪って食うことを止めた。以来、鬼神の妻は心を改め、子を守るようになり、鬼子母神と呼ばれ、崇められるに至った。鬼子母神を祀る祠にザクロの木が見受けられるのはこの伝説によるものである。

                                             

 ところで、この鬼子母神に、戦時中、戦地に赴く息子の無事を願って訪れる親の姿が見られ、にぎわったと言われる。最近、憲法を改め、自衛隊を軍隊にして戦いをやりやすくするようにしようとする政治的動きが見え隠れするが、再び、鬼子母神がにぎわうような時代になるのだろうか。鬼子母神がにぎわうこと自体は決して悪いことではないが、親が戦地に駆り出された子供の安否に心を砕くような時代に逆戻りすることはよくないことだと、実をつけた鬼子母神のザクロを見ながら、ふと思ったことではある。

  言わば、この鬼子母神の逸話は人間自身の姿を物語るもので、戦争というものを通してみれば、それがよくわかる。鬼神の妻も人であれば、鬼子母神も人の一面であることがうかがえる。鬼子母神のようなやさしい心を持つ人間も戦地に赴けば、人が変って人を殺さなくてはならない鬼神の妻、つまり、悪鬼の状態に陥る。戦場における虐殺だとか、婦女暴行だとか、慰安婦の問題にしても、所謂、人間が悪鬼の状態に陥ったときの仕業にほかならないことが言える。

  これが戦争の真実というもので、「戦争が如何に人間を変えてしまうか」ということである。このことは極めて重要な示唆で、現憲法は悪鬼とならざるを得ない悲惨な戦争の体験を基に戦争を禁じたわけで、以来、この憲法下において戦後の私たち日本人は戦火を交えることなく今日に至っているのである。この憲法を戦争がやりやすいように変えることは、鬼子母神的平和状況を再び鬼神の妻的悪鬼状況に戻すに等しいことであると、鬼子母神のザクロを見ながら思ったのであった。

  平和な中にあっては、この鬼子母神の精神は忘れられやすく、悪鬼の勇躍に魅せられるということも起き、改憲論なども浮上して来る。ザクロは果たして私たちに何を語っているのだろうか。人の子を奪って食い殺す前にザクロの方策を見い出し鬼神の妻を諭した釈迦の知恵に私たちは学ばなくてはならないと思う。その知恵は、戦争などに及ばず、互いに分かち合う心をもって生きよと言っているように思われる。

 なお、ザクロは中近東が原産のザクロ科の落葉高木で、インドから中国を経て日本にやって来たとされ、朱色の花が六、七月ごろ咲き、鮮やかな緑の葉と好対照で、よく目につく。実は盛夏のころ色づき始め、秋に熟して果皮が裂け、中の種子の部分を食用にする。写真は東大寺二月堂下の鬼子母神(左)とザクロの花(中)と実(右)。

 

 


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2013年07月30日 | 植物

<697> フウラン (風蘭)

       わからずに ゐる我が頭上 蝉の声

 このほど奈良公園一帯を歩いたとき、春日大社から東大寺に向かうイチイガシなどの照葉樹林に上空が被われているところで、フウランを見かけた。ちょうど花を咲かせていたので、望遠レンズで撮影した(写真)。

 植えられたものが半野生化したものであろう。自然分布するものは見つかれば盗られるという具合で、減少が著しく、奈良県では絶滅危惧種にあげられ、なかなかお目にかかれない花である。鉢植えなどにされているものはときに見かけるが、珍しい。

 この日に目撃した花は半野生化した自然に近いもので、この辺りでも十分育つことが思われた。春日山の周辺には照葉樹が多く、フウランの生育に適しているようで、昔はよく見られたのではなかろうか。木陰の涼しい場所で、距の長い白い花が目にとまった。

                       

 奈良というのは市街区域に原始林が接している特異な都市で、全国的に珍しく、市街から十分も歩けば、原始林に行き着く。春日山原始林がそれで、国の特別天然記念物に指定されている。

 植生を守るため、指定区域には立入が制限され、この区域内には許可なく入ることは出来ない。だが、シカは自由に出入り出来るので、下草部分はシカの食害に見舞われ、そういう植生には乏しいところが自然道を歩いてもうかがえる。樹上に生えるフウランなどは食害に遭うことがなく生育出来るように思われるが、絶滅が心配されている。

 この原始林は神社仏閣と共存して成り立ち、保護されて来た経緯が見られ、神社仏閣のお陰というか、持ちつ持たれつの関係にあると言える。これは、明治時代末に実施された神社合祀令によって神社の統廃合がなされたとき、鎮守の森の木々が伐採の憂き目を見て、そこに生を得ていた動植物には滅ぶ破目に至った事例を想起させるところがあり、残った森は「よく残った」と、教訓に満ちた姿として見ることが出来る。

 このようにして原始林の状態を保っている奈良市の春日山は、合祀に反対し、自然保護を訴えてやまなかった南方熊楠の活動の正当性を思い起こさせるところがあるが、神社仏閣の健在イコール自然植生の保護という光景が神社仏閣の多い奈良大和にはほかにも多く、その典型として特別天然記念物の春日山があることを改めて認識させる。

 フウランなどはあってなきがごとき小さな植生かも知れないが、この広い斧鉞を入れない樹林帯である春日山原始林も、このような小さな植生を含んで全体があるわけで、この一なるものも加わって千万に及び、大だけでなく小もあって、広大な森も形成されているということが思われる。このように考えると、あってなきがごとき存在としてある一つのフウラン的な植生も森の構成要素という観点からすれば大切なわけで、疎かには出来ないことになる。

 なお、フウランはラン科の常緑多年草で、草丈十センチ前後、厚くかたい広線形の葉の基から花茎を出し、七月ごろ、距の長い白い花を咲かせる。関東南部以西と四国、九州、沖縄に分布し、樹上や岩上に着生することが多い。 写真はフウラン。

 


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2013年07月29日 | 写詩・写歌・写俳

<696> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (32)

             [碑文1]      未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時從 憶寸吾者                                     柿本人麻呂

      [碑文2]      石上 振乃神 神備西 吾八更々 戀尒相尒家留                                    詠 人 未 詳

 今回紹介するのは原文で刻まれた二基の万葉歌碑で、ともに天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)の域内に建てられている。冒頭にあげた二首がその歌碑の歌で、碑文1の方が人麻呂の歌、碑文2の方が詠人の詳らかでない歌であるが、ともに布留の石上神宮に関わりを持たせる形で詠まれた相聞の項に見られる恋歌である。

  碑文1の歌は、「をとめらが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは」と語訳されている人麻呂の相聞三首中の一首で、巻四の502番の歌である。「布留山の瑞垣」、即ち、古くからある石上神宮の聖地と未だ男の通わない「未通女」(をとめ)をして「をとめらが袖布留山の瑞垣の」と一気に詠み進み、ここまでが「久しき」を導く序の歌で、「石上神宮の布留の瑞垣のように久しい前から私はあなたを思っていた」という意である。

  一方、碑文2の一首は、「石上(いそのかみ)布留の神杉 神びにし我やさらさら恋にあひにける」と語訳されている巻十の1927番の歌である。「神(かむ)びにし」は年老いたという意で、石上神宮の神杉に年老いた自分の年齢を重ね、「今ごろになって恋をしてしまった」というものであるのがわかる。この歌は問答歌の返歌で、直前に「春山の馬酔木の花の憎からぬ君にはしゑや寄さゆともよし」 (春山のあせびの花のように心を惹かれるあなたさまとの噂ならいくら寄せられても構いません)という女歌が載せられている。つまり、この碑文2の歌は老いらくの恋を詠んだ男の歌と知れる。

 なお、巻十一の寄物陳思(物に寄せて思いを陳べる)の項の2415番の歌には「をとめらを袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり吾は」とあり、2417番の歌には「石上布留の神杉神さびし恋をもわれは更にするかも」と見え、この二首はともに『柿本人麻呂歌集』の歌であるが、碑文1、2の歌の類似歌であるのがわかる。

                                                  

 ところで、この歌碑の二首に石上神宮は切り離せないので、そこのところを知る必要がある。そこで、石上神宮であるが、石上神宮は第十代崇神天皇七年に大和国山辺郡(現天理市)の布留山北西麓の台地に「石上大神」として祀られたのが始まりとされ、主祭神は布都御魂大神で、御神体は布都御魂大神が宿る布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とされ、石上神宮はもと本殿がなく、拝殿の奥の「布留の高庭」に御神体の剣が埋斎され、瑞垣をもってこの高庭を廻らした。この瑞垣が人麻呂の詠んだ[碑文1]の歌に登場する水垣(瑞垣)である。

 埋斎されたこの剣というのは、記紀の神話に登場する武甕槌命と経津主命の二神による葦原中国平定(大国主命の国譲り)のとき二神が用いた十握剣(とつかのつるぎ)を指すもので、神武天皇の東征のとき、熊野において天皇を救い、天皇の許に渡って引き継がれて来たという物語を持つ。で、石上神宮は大和朝廷にともない、後には、物部氏の氏神として影響力を持った。言わば、創建以来この剣をもって布都御魂大神が鎮座している神社ということになる。

 この由縁において見るに、石上神宮は伊勢神宮と並ぶ日本最古を誇る神宮で、守護の意を有する剣を御神体とするところから、その後も由緒ある剣などが奉納され、明治時代の初期に「布留の高庭」が発掘されたとき、神功皇后が百済の王から献上されたと伝えられる神剣七支刀(国宝)が出土し、これなどもその例としてあげられる。その後、本殿が建てられたが、今も、「布留の高庭」は禁足の聖地として瑞垣が廻らされている。

 一方の歌の中の杉(碑文では)は境内地に古木が多く、神木として尊ばれ、中には注連縄を廻らして幣を垂らしているものも見られ、万葉当時も立派な杉の古木があって、現在に等しい風景が見られたことが想像される。

 恋は、所謂、神代から語られてある男女の仲のこと。叶えんとすることを旨とするゆえ、その思いは神へも向けられる。その神も戦勝立国の神であることは人の思いというものであろう。この碑文の恋歌を見るに、布留の石上神宮の登場はその縁起における必然性が思われる。このように理屈づけると、布留の石上神宮に恋歌の添うことも納得出来る。

 因みに、布留(ふる)は「振」で、「降」や「古」をも連想させる。「振」は神剣を振る意であり、「降」は天から神が降りて来ることである。また、「古」はその神の長久の意を持つ。つまり、この碑文の万葉歌はこの由緒の石上神宮にあやかっていると言ってよい。なお、碑文1の人麻呂の歌碑は参道の鳥居の近く、碑文2の歌碑は参道の南、神宮外苑公園の道路脇に建てられている。写真は左から人麻呂と詠人未詳の万葉歌碑、石上神宮境内の神杉と拝殿(国宝)。  神官の 歩みに深き 夏木立

 

 


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2013年07月28日 | 写詩・写歌・写俳

<695> 真夏の奈良点描

       真昼間を 咲き盛るなり 百日紅

 大和地方は連日三十五℃を越える猛暑が続いている。昨日、観光都市奈良の真夏の様子を見てみようと思い、凍らせたペットボトルとタオルを持って奈良公園付近を歩いた。こう暑くては夏枯れしているのではないかと思っていたが、東大寺の参道辺りは外人観光客が多く、結構人出があった。

 これから当分の間、暑さが続くだろう。こう暑くては昼間の来訪者は限られて来る。で、仏像展などの企画も進められているが、これからお盆のころにかけては夜の行事が増えて来る。これが宗教都市であり観光都市である奈良の特徴的なところと知れる。

  奈良公園では八月五日から十四日まで行なわれる「なら燈火会」の準備が始まった。灯火とライトアップによって古都奈良を演出し、夜の雰囲気を楽しんでもらおうという趣向である。準備はこの暑さの中で行なわれている。まことに御苦労さまである。

  その奈良公園は、今、夏の花木であるサルスベリ(写真1)がそこここに咲き、彩っている。「散れば咲き散れば咲きして百日紅」という句が加賀千代女にあるが、サルスベリはこうして百日間(長期間)花を見せるということで、百日紅(ひゃくじつこう・ひゃくじっこ・さるすべり)の漢名が生れた。

                                                                    

                 (写真1)                        (写真2)

 この木は、また、「クスグリノキ」とか「サスリノキ」と呼ばれ、幹をさするとくすぐったいように反応すると言われるので、さすってみたが、反応はなかった。時と所によるのかも知れない。メカニズムがはっきりしているわけではないし、サルスベリも生きものであるから、気ままなところもあるだろうと思ったりしたことではあった。

 そんな奈良公園の一角で、意外な花を見かけた。フジの花である。貧弱な二房だけであったが、明きらかにフジの花である。七月のフジについては、大伴家持に「わが屋戸の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹がゑまひを」(『万葉集』巻八・1627)という歌があり、この「時じき藤」が思い起こされた。

  言わば、フジが時を違えて花を咲かせることのないと言われ、この論によって、この歌の「時じき藤」なるフジは五月ごろ花を見せる普通のフジではなく、夏の盛りに白い花をつけるナツフジ(別名ドヨウフジ)と呼ばれる花であろうというのがもっぱらの説で、私も季節はずれに咲くフジの花を見たことがなかったので、この説に納得していた。だが、今回の花(写真2)である。この花によって気持ちの揺らぐところとなった。

                                                     

                    (写真3)                            (写真4)

 暑さのつのる奈良公園の界隈では、やたらに「氷」と書かれた旗が見られ、鹿せんべいを売る公園内の出店でも、鹿せんべいだけでなく、かき氷も売り出し、「氷」の文字が目につく旗をぶら下げていた(写真3)。多分、鹿せんべいを買い求めるお客からの要望が多いからに違いない。

  また、公園のところどころにはミストの装置が設けられ(写真4)、その下では一服する人の姿も見られた。これも暑さ対策の一つで、さほどの効果もなかろうとは思われるが、猛暑が続く暑さのさ中、気は心というもの。観光都市が垣間見せる来訪者への心遣いということであろう。では、サルスベリの今一句。  百日紅 大和だよりの 奈良大和

 


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2013年07月27日 | 写詩・写歌・写俳

<694> 睡蓮の花 

           開かざるゆゑに思ひの生(あ)れしより 睡蓮の花の灯火の色

     この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず                                          土屋文明

 スイレンは水蓮でなく睡蓮である。つまり、睡る蓮の意による。スイレンは水面の花であるから、睡は水でもよかろうと思われるが、睡はこの花が開いたり閉じたりするいわゆる昼夜に就眠(開閉)運動をするからで、その特色をもってつけられたものである。睡蓮には昼咲きのものと夜咲きのものがあるが、どちらも蓮と同様、三、四回の就眠(開閉)運動の末、花が終わりを迎え、水に没して行く。文明の歌はまさにこの睡蓮の特徴をして詠んだものである。

 花が終焉を迎え、開かないとわかったとき、睡蓮はその瞬間からほのかな灯火(ともしび)の色をもって心の中に開くということになる。これはもちろん、睡蓮の花に限ったことではなく、出会いの森羅万象すべての眺めに言えることで、睡蓮の花はその象徴の何ものでもなく、私たちはその非在の存在に思いを抱き、ときにはその存在に慰撫されながらその時々を重ねて歩き行くのである。

                                                    

      さつきまつ花たちばなのかをかげば昔の人の袖のかぞする                                    よみ人しらず

     橘のにほふあたりのうたゝねは夢も昔の袖のかぞする                                          皇太后宮大夫俊成女

  よみ人しらずの歌は『古今和歌集』の「夏歌」に出て来る。俊成女の歌はよみ人しらずの歌を本歌として詠んだ歌とされ、『新古今和歌集』の「夏歌」に出て来る。両首に詠まれた橘はいまを盛りに咲き匂うが、昔を偲ばせる香をもって心の中に咲き匂うのである。つまり、実景が非在を呼び起こしている典型的な歌である。

     かはたれのロウデンバツハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし                                       北原白秋

 これは白秋がジオ ルジュ・ロウデンバツハの詩の叙情に寄せて詠んだ歌であるが、芥子の花は、ほのかに過ぎて行った夏に咲いている花である。それは思い出の花として、心の中になつかしさを呼び起こす存在であって、やはり、非在の花と言ってよい。

 これらの歌の例を見るまでもなく、思いとなることにおいて、出会いの森羅万象すべてが私たちには大切なもので、歌も一つにそこに関わって生まれる。では、今一首、現代短歌から引いてみる。

     白藤の百房ゆれてほろびたりたわやかなるはまぼろしとなる                                                坪野哲久

 白藤の盛りの花房は、作者にとって、たわやかに感じられたが、その花が滅びるとともにそのたわやかさはひときわ印象深く心に残った。これもまさに非在の花で、作者は「まぼろし」という言葉で表現した。

  私たちは、感性をもって実景を受け止めるが、そこで止まるのではなく、受け止めたものを思いの中に汲み入れることを自然のうちに連綿となし続け、より深く思うことをし、歌などにも表現する。

  哲久の歌は暗にそれを示し、芸術の真髄を言っていると知れる。このことは誰の中でも行われていることで、人生を豊かにするものであるが、もちろん、ここには実景と実景に関わる心(感性)というものが基本にあることは言うまでもなかろう。歌はその働きにおいて幾つかに分類することが出来ようが、このような働きをするものもあると言ってよい。文明の歌にはこの歌の後になお睡蓮の花に対し、持続するもののあることが思われるのである。写真はイメージ。

 なお、前回の自画像の答えは次の通りである。 (1)-(B)、(2)-(C)、(3)-(D)、(4)-(E)、(5)-(G)、(6)-(F)、(7)-(J)、(8)-(I)、(9)-(A)、(10)-(H)