大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月27日 | 吾輩は猫

<207> 吾輩は猫 (20)   ~<206>よりの続き~
          無意識の うちに過せる 日々のこと 日々にし猫が 猫であること
 最後になったが、少し死ということに触れてみたいと思う。自分の死というものは過去のものでも、現在のものでもなく、未来におけるものである。ゆえに想像は出来ても、その実相に触れることは出来ない。 だが、 茂吉先生も「除外例なき云々」と詠んでいるごとく、生きものはみな例外なく生まれたときから死に向かって時の旅をし、 いつかは死に至って、その旅を終えるということになっている。で、このことだけは誰もがよく認識している。
 先生の猫は先生の家に寄寓して二年余にして 亡くなったが、 記述によれば、 先生の友人たちが飲み残したビールを飲んで注意散漫に陥り、水を張った甕に落ちて溺れ死んだ。 そこで先生の猫の話は終わっているので、後は想像であるが、多分、 おさんどんか誰かに発見され、供養してもらって、近くのどこか空地にでも葬られたことと思う。
 この死は事故死で、 思いもよらない死であったわけで、天寿を全うしたとは言い難いが、そんなに悪い死に方でもなかった気がする。傍観に過ぎないけれども、 隣家の「三毛子」に何とはなし恋もし、猫の生を生たらしめて生きたことがまず第一にある。この世に生まれて恋もせずではあまりにもさびしい。しかし、先生の猫は淡い恋をしたのであるからこの世に生を得て存在した甲斐というものがあるわけで、まずはよかったと言える。
 思うに、誕生においては祝福され、死別に際しては悼まれ、その間の時を心安らかに暮らせるのが何よりであって、これが生の理想と言えるが、そこには想定外のことも起き、成り行きは不透明なのが常であるから、生はそうた易くはない。で、 この生を納得ゆくものにするにはそれなりの努力が必要なことは当然で、祝福以後を生きている吾輩を含む今あるものたちにはみなそれが望まれる。
 ところで、猫の世界では自分の死んだ姿を曝すことをよしとしない。 ゆえに独り何ものにも気づかれることなくそっと死出の旅路に出る。これは猫の全般に言える自覚であって、 猫の流儀と言えるが、死においても、猫は猫に相応しているわけである。 人間は人間社会の関わりにおいて行動がなされ、 人の死に際してもそれが言える。 死者は見送られるのが通例で、見送るやり方はさまざまであるが、死んだ後の始末を誰かに託すということには変わりがない。 未開の時代はさておき、どんなに貧しい国でも人の死を放置したままにするところはない。これは前述した図体の話にも通じるが、とにかく、人間の死では、誰かがその死を見守り、面倒をみる。
 言ってみれば、人間にしても、猫にしても死体というものを曝しものにしたくないという思いが心の底にあるのがわかる。 で、 猫の場合は自力によって死に場所に赴くわけであるが、 人間の場合は誰かに始末を託すことになるから、 本人の生前の意志が反映されるにしても、 自分以外の誰かに影響されることになる。 人間の場合は、 その誰かによって心おきなく死出の旅路に出ることが出来るわけで、ここに人間の一つの知恵として宗教的規範や儀礼による葬儀というものが編み出されているのである。
 ところが、最近、人間の間に、 誰にも看取られず、死の始末を委ねられない孤独死というものが増えているようである。 この死に方は、人間の間では拙い死に方の典型として問題視されるが、そういう尊厳を問われる死でも、まず放置することはなく、 公的に処置したりする。この状況は核家族化の行く先の現象にも繋がるところで、 図体の大きい人間には猫と違ってそういうところにも一つの悩みが横たわるわけで、考えさせられる。
 もちろん、人間の死と猫の死を比較することなどは愚かしいことであるかも知れない。だが、人間にしても、猫にしても、よく生きればよく死ぬことが出来るであろうことは間違いのないところで、 軽んぜられる猫の身にしても、よく生きるように努めなくてはならないと思うのである。で、生まれてこの方までの身において思うに、次のようなことが言える。
 まさに生きることの楽しさとやるせなさ。 節理と方便、欲求と能力、可能性と限界、理想と現実、パトスとロゴス、想念と実行、 自由と秩序、勤労と制約、富貴と怠惰、 常識と常套、 理念と迷妄等々、まだあるだろう。無理はいけないが、精進なくしては何も成就しない。意識は思いを生み、 ここにある身の思いは矛盾を指摘されて已まないところ、この時と所の脈絡に生の課題は限りもあらず、 迷妄ははたして真理の確信に遠く、先生の猫は死に際して感得した。 つまり、先生の猫が得心したごとく、生は難題で、心の太平は死後硬直の後に来るということが吾輩には理解出来る。
 だが、しかし、天地・乾坤の間、 今ここにある一個の身命は天道の時に沿いゆくところ、 思うに、これらはすべて神さまのさ庭に展開する様相にほかならず、 祝福も哀悼も、 また、その間に現われるさまざまな喜怒哀楽の現象もすべては創造主たる神さまの意によるものであれば、神さまを諾うことこそ生の本然に敵うものと吾輩は思う。ああ、猫は猫。瞑目してあるのみ。  (以下は次回に続く)