大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年05月31日 | 万葉の花

<272> 万葉の花 (7) うのはな (宇能波奈、宇乃花、宇能花、于花)=ウツギ (空木

        卯の花や 思ひはなどか 咲きにけり

   卯の花の 散らまく惜しみ 霍公鳥 野に出 山に入り 来鳴きとよもす                                巻 十 (1957)  詠人未詳

 卯の花はウツギ(空木)の古名で、『万葉集』には長短歌二十四首に登場する。陰暦卯月(現在の五月)ごろから花を咲かせることによりこの名がある。ウツギ(空木)は前項でも触れたとおり、幹が中空になっていることによる名である。

 アジサイ科の落葉低木で、ほぼ全国的に分布し、大和では平地から標高の高い山岳地まで標高差にかかわらず全域で見られる(森本範正著『奈良県樹木分布誌』参照)。よく繁茂し、枝を垂らして花をつけるものが多く、夏のはじめに白い花が枝木一面にびっしりと連なり咲くので、雑木ながら花の時期には存在感を示す。で、夏の到来を告げる花として昔から知られ、親しまれて来た。

 『万葉集』にしばしば登場するということは、当時、既にその知名度が高かったことを物語るもので、二十四首すべてが花を意識し、夏の到来の時期をもって詠まれているのがわかる。殊に夏の渡り鳥であるホトトギスの独特な鳴き声と抱き合わせに詠まれている歌が十八首もあり、万葉の時代から夏の訪れる時期を示す花の印象が強くあった。

 中には鶯(ウグイス)やぬえ鳥(トラツグミ)と抱き合わせの歌も見えるが、その場合でも卯の花(ウツギ)の方にウエイトが置かれ、この花が夏の到来を告げる花に変わりのないことがわかる。で、『万葉集』の卯の花(ウツギ)とホトトギスの鳴き声との抱き合わせは後世にも引き継がれ、和歌の世界では常套的に用いられるところとなり、それは近代にも及んで、唱歌「夏は来ぬ」にも登場する。その歌は日本古来の情趣を秘めて今も歌い継がれている懐かしさのある花である。

   うの花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす) /  早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ。                

 これが卯の花(ウツギ)とホトトギスが出て来る唱歌の一番の歌詞である。万葉学者で歌人の佐佐木信綱の作として知られ、万葉歌が下敷きにされていることは明らかである。これは明治二十九年に発表されたが、当時は卯の花(ウツギ)を垣根にする家も見られたのであろう。今は見捨てられたような雰囲気の雑木であるが、当時はポピュラーな親しみのある低木だったのである。思えば、卯の花(ウツギ)とホトトギスの鳴き声との抱き合わせによる風景は、今も季節感を伴って私たち日本人の原風景として心の奥にあることが思われる。

 また、卯の花(ウツギ)が咲く時期は梅雨入りのころで、雨の日が続き、その雨は「卯の花腐し」(うのはなくたし、うのはなぐたし、うのはなくだし)と呼ばれ、この点を主眼にした歌も見受けられ、『万葉集』には雨に散る卯の花(ウツギ)を惜しむ歌も見える。冒頭にあげた歌がそれで、歌意は「卯の花の散るのを惜しんで野に出たり、山に入ったり、飛び回ってホトトギスが鳴き立てていることだ」というほどの意になる。

 だが、この歌には単に盛りの花が散ることを惜しむだけの意味ではないという指摘がある。そこには卯の花(ウツギ)が作物(稲)の豊凶を占う重要性が込められているという。この指摘からすれば、この歌はそこにポイントを置いて読むべき歌であるとも言える。私は最近この指摘を裏付けるような祭りに出会った。宇陀市大宇陀の野依白山神社で、五月五日の端午の節供に行なわれるおんだ祭り(御田植祭)の所作の中に、植えられる苗を卯の花(ウツギ)の若枝で代用しているのが見られる。また、所作の囃子の唄に「今年のほととぎすは何を持って来た。桝と桝かけと俵持って来た」という一節があり、所作に合わせて唄われる。

                        

 このおんだ祭り(御田植祭)の所作事には、昔から卯の花(ウツギ)とホトトギスが田植えの時期に見られ、苗に代用される卯の花(ウツギ)の新枝にはびっしりと花が咲き、沢山の実がつくことから豊作への願いが込められていると言われ、ホトトギスにはその豊作への夢を呼び込む心持ちが表現されているという。これらの所作事は農業(稲作)における予祝の意によるもので、冒頭の万葉歌にも通じるところがある。

 この祭りが、合理的な西洋文明に傾斜してゆく現代にあって、古来からある日本の様式を細々ながら今に継承し、自然を敬うその精神を遺しているということに、私などは改めて大和という地の凄さを見る思いがする。芭蕉に「不易流行」という言葉があるが、ここにおいて、私には、流行が不易の上に成り立っているということが思われる。新風なくしては人の生業において意味がなく、人生詰らないとは言えるが、その新風は歴史なくしては成り立ち得ない。「不易流行」の言葉の意味は実に深い。歴史があって今はあるということをこの祭りの卯の花(ウツギ)は物語っている気がする。

 写真左は川岸に咲く卯の花のウツギ。右はおんだ祭り(御田植祭)で苗の代わりに用いられる卯の花(ウツギ)の若枝を苗籠から田に見立てた庭に置いて行く農家の人(宇陀市大宇陀野依の白山神社で)。

                                                      


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2012年05月30日 | 植物

<271> ウツギ (ユキノシタ科)の仲間たち

         額空木 道々に咲き 迎へらる

 今日は吉野杉の産地で知られる川上村の柏木から山上ヶ岳への登山道を伯母谷覗付近まで歩いた。初めての道であったが、昔は街道であったという登山道は近年にも通学路に利用されていたというだけに道は整備されて歩きやすかった。最近も登山者や修験者らがときに歩くというが、地元の人の山仕事の道である。ほとんどは植林帯で、花を目的の私にはあまり魅力的な道とは思えなかった。大峯奥駈道まで上がれば、違った植生や風景に出会えたかも知れないが、今日はそこまで行き得なかった。

 花はガクウツギが咲き始めていたのでそれを撮った。ウツギとは幹が空洞であるためにつけられた名で、その名がつく木はユキノシタ科とスイカズラ科に多く、バラ科にも見え、ほかではドクウツギ科やフジウツギ科でも知られる。今回は大和に自生するウツギと名のつく木の中からガクウツギが属するユキノシタ科のウツギについて見てみたいと思う。では以下に列記する。

 ガクウツギ(三個つく花びらのような白い萼片が目につく)、コガクウツギ(白い萼片が三、四個とふぞろいである)、ノリウツギ(手漉き和紙の糊料にしたのでこの名がある)。以上はアジサイ属である。ウツギ(卯の花で『万葉集』にも登場する)、コウツギ(ウツギの変種で、花が小さい)、ウラジロウツギ(葉裏が星状毛により白っぽく見える)、ヒメウツギ(花期が早く、花の白い色が際立つ)、マルバウツギ(花期が早く、花が上向きにつく)。以上はウツギ属に属する。バイカウツギ(一つの花がほかのウツギに比べて大きく、ウメの花に似る)。これはバイカウツギ属である。ウツギ属には今一つウメウツギがあるが、大和に自生は見ない。

  写真は上左からガクウツギ(川上村柏木)、コガクウツギ(天川村北角)、ノリウツギ(上北山村の大台ケ原山)、ウツギ(天理市の山の辺の道付近)、コウツギ(川上村大迫)。下左からウラジロウツギ(十津川村旭)、ヒメウツギ(川上村西河)、マルバウツギ(御所市の水越峠)、バイカウツギ(御所市の金剛山)。

                               

                           


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2012年05月29日 | 万葉の花

<270> 万葉の花 (6) つつじ (乍自、管仕、茵、管士、管自、都追滋)=ツツジ (躑躅)

       つつじ咲く この切り通し 越え行けば

        水伝ふ礒の浦回(うらみ)の岩つつじもく咲く道をまた見なむかも              巻 二 (185)     草壁皇子の舎人

      風速(かぜはや)の美保の浦回の白つつじ見れどもさぶし亡き人思へば              巻 三 (434)   河 邊 宮 人  

        (長歌・前略)  歳月日にか つつじ花 にほへる君が  (後略)              巻 三 (443)     大 伴 三 中

    (長歌・前略)  龍田道の 丘辺の路に 丹つつじの にほはむときの  (後略)     巻 六 (971)   高橋蟲麻呂

 我が国に自生する樹木の中で、ツツジは美しい花を咲かせる筆頭格と言ってよい。ここで言うツツジとは、ツツジ科ツツジ属に当たるもので、世界には北半球の温帯を中心に約八百五十種あって、その中の五十二種ほどが我が国に自生分布すると言われる。この美しい花のゆえに『万葉集』に登場するツツジもみな花が対象に詠まれている。なお、ツツジ属の中でシャクナゲ亜属のシャクナゲの仲間は一般にツツジとは言わない。

 大和はこのツツジの宝庫と言え、ツツジ属のツツジと呼ばれるものはツツジ亜属のヤマツツジ、モチツツジ、サツキ、ウンゼンツツジ、シロバナウンゼンツツジ、コメツツジ。ミツバツツジ亜属のミツバツツジ、コバノミツバツツジ、トサノミツバツツジ、アワノミツバツツジ、オンツツジ、シロヤシオ。レンゲツツジ亜属のレンゲツツジ、アケボノツツジ。トキワバイカツツジ亜属のバイカツツジ。ヒカゲツツジ亜属のヒカゲツツジ等が自生している。

 ツツジ科で言えば、これらにツツジ属シャクナゲ亜属のツクシシャクナゲやホンシャクナゲのほか、ホツツジ属、ヨウラクツツジ属、ネジキ属、アセビ属、イワナンテン属、ドウダンツツジ属、スノキ属、イワナシ属などが含まれ、高山植物中ではツガザクラ属などが見られ、大和におけるツツジ科の仲間は自生景観において実に豊富な質量である。こうした中に園芸種も加わり、現在のツツジの状況は見ることが出来、実に多彩を誇っている。

 ところで、『万葉集』には長短歌九首にツツジが詠まれている。で、以上の点を踏まえてこの九首に登場するツツジを検証してみたいと思う。前述したように、みな花を詠んでおり、九首を見るに、「白つつじ」が三首、「つつじ花」が三首、「岩つつじ」が二首、「丹つつじ」が一首登場し、ここでは冒頭にその花の特徴に合わせて一首ずつあげたが、これらのツツジが今のいかなるツツジに当たるかということで検証すると、次のように言える。

 「白つつじ」は鷺坂山(現城陽市)と美保の浦(和歌山県日高郡美浜町付近の海岸)とオミナエシの咲く佐紀野(現奈良市佐紀町付近)ということで、生えている場所が特定されているのがわかる。これらを総合的に考えてみると、万葉当時の白つつじの分布状況が想像出来る。次に「つつじ花」であるが、これは「にほへる」を導き出す言葉として用いられているもので、場所などには関係なく、どのツツジでもよい用いられ方で、総称として捉えてよいと思える。

 また、「岩つつじ」の二首は、一首が草壁皇子の死を悼んで詠んだ歌で、「礒の浦回の」というのは、このツツジが宮廷の庭園の池の回りの岩場に生えるツツジを指すものと言える。今一首は「山越えて 遠津の浜」と詠まれていることから、こちらは大和ではないほかの地のツツジを詠んでいることがわかる。一首に登場する「丹つつじ」は「龍田道の 丘辺の路に」とあるから現在の龍田大社(生駒郡三郷町)付近にあって彩っていたことが察せられる。

 思うに、万葉当時には、野生のものが移植されたとは考えられるが、園芸品種の開発はまだなかったから、これらのツツジは前述した大和に自生分布するどの花かを対象に詠まれたとみるのが妥当である。で、まず、「白つつじ」であるが、上述した大和のツツジの中に「白つつじ」と見えるものはシロヤシオ、コメツツジ、シロバナウンゼンツツジ、バイカツツジで、シロヤシオとコメツツジはともに標高の高い深山山岳にしか見られず、バイカツツジも南部に限定されるので、歌の中の「白つつじ」には該当しないと言える。

 シロバナウンゼンツツジは現在奈良県の北西部のごく限られた場所でしか見られない分布の北限に当たる絶滅寸前種であるが、万葉当時にはもっと広い範囲に見られたことが想像出来る。こう見ると「白つつじ」はシロバナウンゼンツツジの可能性が高くなる。「岩つつじ」については両歌とも水辺に近い印象があるので、サツキではないかと思われる。草壁皇子が亡くなったのは四月十三日(旧暦)というから五月ごろから咲き始めるのでこの名があるサツキの花期に合致する。主が亡くなったので、もうこの岩つつじを見ることが出来なくなると舎人は嘆いているのである。つまり、このツツジでは歌を詠んだ日月と水辺の岩場という時と所が考察のキーワードになる。

 では、「丹つつじ」についてはどのツツジが考えられるだろうか、「丹」は赤系統の色を表わす語であるから、平野部から丘陵地、または低山帯ではヤマツツジ、モチツツジ、コバノミツバツツジ、レンゲツツジなどが考えられる。レンゲツツジは若草山(三四二メートル)に多いし、モチツツジやヤマツツジも近辺の山裾などで見られるから大いに考えられる。だが、歌には「桜花」とあって、ヤマザクラと同時期に咲くツツジが考えられるので、この「丹つつじ」は花期がヤマザクラと少しずれるヤマツツジ、モチツツジ、レンゲツツジではなく、花期の早いコバノミツバツツジと考えるのが妥当と思える。また、後に続く「にほへる」にぴったりなのもコバノミツバツツジである。

 『万葉集』発祥の地、大和から『万葉集』に登場するツツジを考察すれば以上のごとくになる。シロバナウンゼンツツジについては、最近やっとお目にかかることが出来た。それほど現在では少なく乏しい花になっているが、大和の地においてシロバナウンゼンツツジはもっと多く生え、当時はよく見られていたのではないかと想像される。 写真は左からヤマツツジ(金剛山)、レンゲツツジ(若草山)、モチツツジ(大和高原・月ヶ瀬)、コバノミツバツツジ(大和高原・小倉)、サツキ(天川村・川迫川)、シロバナウンゼンツツジ(生駒市北西部)。

                     


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2012年05月28日 | 創作

<269> 童話  「朴の花の王国」

           窓に寄り 睡る青年 初夏の 風は夢へと 誘へるらし

 窓に寄りかかりながら青年は午睡していた。初夏の爽やかな風がレースのカーテンを揺らしながら通って行く。私は心地よさそうに眠る青年がいま夢を見ていると思い、その夢を想像してみた。朴の花に違いない。向かいの山の際に高い木があって白い花を点々とつけている。朴のあの大きな杯形の花は一国一城を想像させる楽しさを持っている。私は青年がその朴の花に王国の夢を見、その王国の王様になっているのに違いないと思った。

 その国は五十万エーカーの国土に十万人の国民。農業を主な産業とする小国寡民の理想的な国であった。人々は食べ物にこと欠くことなく、みな純朴で、いがみ合うことなどほとんど見られず、国内は極めて平和だった。彼は王様の義務として、暑い日も、寒い日も、雨や風が強い日も、毎日欠くことなく国内を見て回った。

 彼は南の争いの絶えない国で体験した三つの教訓についていつも心を配った。人々に衣食住は足りているか。医療は十分施されているか。教育、文化は行き届き、人々を満足させているか。王国には法律はなかったが、一つだけ罰則があった。他人に迷惑をかけてはいけないという考えから生まれた迷惑に対する罰則で、迷惑は申告によって取り上げられ、側近の智慧と議決によって裁かれた。そして、罰には迷惑の倍に当たる償いが科せられた。

                

 王様は象徴でも、権力でもなく、理想的な愛の表れで、国民の誰もがその愛を受けることが出来た。この愛を巡っていさかいがないわけではなかったが、人に迷惑をかけなければ罰せられることはなかった。王様の愛に関わることについては王様自身が見聞きし、解決に当たったが、みな王様を信頼しているので、姑息な言い訳をする者などほとんどなく、王様の裁量に従った。

 王様は国民の間に貧富の差が生じることを一番懸念していたので、各地を歩くときはその点を注意深く見た。王国では利己的で、欲を通すことが最も軽蔑され、それは教育によって徹底されていたので、欲を通して周囲を不愉快にする者はほとんどなく、まれにあっても、欲を通すことを周りが認めない雰囲気にあったので、欲を通す利己主義が蔓延することはなかった。そして、いま王国では迷惑をかけてはいけないという考えから一歩踏み込んで、思いやりの思想を発展させるべく方針を打ち出している。

 風はいよいよ心地よくカーテンを揺らし、頬をやさしく撫でてゆくので、窓に寄りかかって眠る青年はいよいよ気分よく理想の国の王様である自分の夢を進めることが出来ているように思えた。 写真はイメージで、ホオの花。

   夢に夢の 夢は一途に 朴の花 咲きゐる辺り 美しく見ゆ

                                


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2012年05月27日 | 祭り

<268>  おんだ祭り (御田植祭) (17)

         万緑に 早乙女映ゆる 田植祭

 五月五日に宇陀市大宇陀の野依白山神社で行なわれたおんだ祭り(御田植祭)が今年の大和におけるおんだ祭り(御田植祭)の殿かと思っていたら、二十七日に紀伊山地の臍に当たる山間地の天川村でおんだ祭りの御田植祭があった。これは天河大辨財天社が行なう祭りで、十八回目に当たるという。

 大和のおんだ祭り(御田植祭)は、正月七日の植槻八幡神社(大和郡山市)を皮切りに、多くは二、三、四月に行なわれ、二、三月に集中して見られる。これはこの時期が田起こし前の農閑期で、農家にとって比較的暇なためであるが、この祭りには予祝の意味合いが込められている点があり、所作によってお田植えが行われる特徴がある。これに対し、天川村の御田植祭は所作事ではなく、実際に水を張った田に苗を植えて行くものである。天川村は大峰山脈直下の麓の村。周囲を山に囲まれ、一月から三月ころまでは雪に被われる土地柄であるため、予祝ということではなく、実際をもって御田植祭に当たるというもので、少々ニュアンスを異にするところがある。

 ということで、例年、五月の末の田植え時期に祭りは行なわれる。つまり、大和のほとんどのおんだ祭り(御田植祭)が古式に則った所作によって行なわれるのに対し、天河大辨財天社では祭りを実際の田植えで行なうのが特徴と言える。これは大神神社(桜井市)にもうかがえる神田での実際によるもので、普通は所作によってお田植えをするが、ここでは地元農家の四人の男衆が作丁となり、老婦人二人が植え付け役となって、全国から集まった四十五人の早乙女たちを指導し、約五百平方メートルの宮田を三十分ほどで植え付けた。田植えは初めての早乙女もいて、なかなか思うに任せないようであったが、和気あいあい、みんな山間の万緑の中でお田植えを楽しんでいた。

 神戸市立兵庫商業高校の龍獅團の生徒たちによる龍や獅子の舞いの応援も華やかに繰り広げられ、お田植えを盛り上げた。終了後、記念写真を撮り、みんなで豊作の願いを込めて風船を揚げたが、これまで見て来た土俗的なおんだ祭り(御田植祭)とは違った現代風な雰囲気のあるおんだ祭り(御田植祭)だった。

 植えられたのは餅米がほとんどで、秋にはまた集まって収穫し、神前に供えるという。風船は植林された杉山よりも高く上がり消えて行った。お田植えが始まる前に作丁代表の挨拶があり、「昨年九月の台風十二号の被害はこの辺りでも四メートルほど水に浸かり、今年のおんだ祭りは出来ないと思っていましたが、出来ました。これからもずっと続けて行きたいと思います」という話があって印象的だった。

 言わば、おんだ祭り(御田植祭)などは、被害もなく、いつも豊作であるならば必要ともされず、生まれても来なかっただろう。昨年のような洪水やまたその逆の旱魃などがあって凶作に見舞われ、悩まされることがあるからこそ自然(神)に畏敬の念を抱くこういう祭りも生まれて来たと言えることではある。