大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年05月24日 | 万葉の花

<993> 万葉の花 (122) かし ( 可新、橿 ) = カシ ( 樫、橿、槲 )

       樫の花 いのちもえゐる 萌黄色

    静まりし浦浪さわく吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本                  巻 一   ( 9 )    額  田  王

    しなてる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの欲しき我妹が 家の知らなく   巻 九 (1742) 高橋虫麻呂歌集

 かしと見える歌は集中に三首、冒頭にあげた二首に加え、巻十の「あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」(2315・柿本人麻呂歌集)にしらかしとして見える。原文では「可新」「橿」「白杜( )」とある。なお、巻十六の乞食者の3885番の長歌に登場を見るいちひは原文に櫟とあるので、これはイチイガシのことと認められ、これもかしとするならば、合わせて四首ということになる。

 ここで思われるのが、かしの捉え方であるが、カシはブナ科コナラ属の主に常緑高木の広葉樹で、イチイガシ、シラカシ、ツクバネガシ、アラカシ、ウラジロガシ、アカガシなどが見られ、これはツツジがツツジ類の総称であるのと同様、万葉のかしもカシ類の総称として捉えられていると見るのが妥当なように思われる。

                                             

 では、以上の点を念頭に置いてかしの登場する二首を見てみよう。まず、9番の額田王の歌は、原文を見ればわかるが、「莫囂淫圓隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本」とあり、集中の難解歌として知られ、万葉学者らによっていろいろと訓みが進められ、現在は冒頭のように読まれている。

 「紀の温泉に幸(いでま)しし時、額田王の作る歌」とあるので、この歌は、斉明天皇が紀の湯(牟婁の湯・和歌山県の湯崎温泉)に行幸したときの歌で、『日本書紀』によると、天皇の一行は斉明四年(六五八年)冬十月から翌年の正月三日まで滞在している。この歌はこの行幸の旅の途中での歌であろうか、その意は「静まっていた浦の波がさわいでいる。我が背の君が船出したのであろう。この神聖な厳橿(いつかし)が本よ」と解されている。

 なお、記紀によれば、神武天皇は畝火(畝傍)の白檮原宮(橿原宮・かしはらのみや)に即位し、初代天皇になったが、この地にはカシの木(シラカシの木か)が沢山生えていたのだろう。また、『日本書紀』の垂仁紀には「倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠(まつ)る」ともあり、カシの木が神の憑代(よりしろ)とされていたことがうかがえる。

 次に、1742番の高橋虫麻呂歌集の長歌に登場するかしであるが、こちらはドングリの果実を詠んだもので、その意は「片足羽河の丹塗りの橋の上より紅の裳裾を引き、山藍で染めた着物を着てただ一人渡って行く娘は若い夫がいるのだろうか、それとも一人身なのか、問うてみたいが、家を知らないことだ」というもので、一目ぼれした感じが見て取れる歌である。この歌の中で用いられている「橿の実の 独りかぬらむ」はカシの実が毬の中に三つ実のつくクリの実とは違って、一つだけつくことによって「独り」を導く枕詞として用いているのがわかる。カシの実は同じブナ科のシイの実と同じく食べられるが、最も渋みの少ないイチイガシが一番美味しく、大昔は食用にしていたようである。イチイガシは奈良公園の一帯に多く見られることで知られる。

 写真は左からアラカシ、シラカシ、イチイガシのそれぞれの花。みな雌雄同株で、葉腋から垂れ下る雄花序がよく目につく。みなよく似ているが、葉が少しずつ異なるので、判別には葉によるのがよいと言われる。しかし、生えている場所の環境によって特質がはっきりと現われないケースも見られ、目視による判別は難しいところがある。このことから考えると、この二首の「かし」はカシ類の総称と解釈して差し支えないのではないかと思われる。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月22日 | 万葉の花

<872> 万葉の花 (116)  ひ (檜) = ヒノキ (檜)

       杉 檜 凛として立つ 寒中も

  ― 前略 ― 石走る 淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手を もののふの 八十氏河(やそうぢがは)に 玉藻なす 浮べ流せれ  其を取ると さわく 御民も家忘れ 身もたなしらず ― 後略 ―                                                                                              巻 一 ( 5 0 )    役   民

   いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ                巻七(1118)柿本人麻呂歌集

  巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)に沫雪(あわゆき)流る            巻十(1314)柿本人麻呂歌集

 ヒノキ(檜)は「ひ」と呼ばれ、『万葉集』には、長短歌九首に見える。この九首を見るに、まず、冒頭にあげた巻七の50番、藤原宮の民(えのたみ)の長歌がある。この歌は、持統天皇が藤原京に遷都したとき、その宮の造営に当たり、働いた労働者の歌として見えるもので、造営に用いたヒノキを近江の国(大津市)の田上山(たなかみやま)から伐り出し、運びやすいように短くして、琵琶湖から流れる瀬田川より宇治川に流し、淀川の合流地点で、筏に組んで泉乃河(木津川)を遡り運んだと詠まれている。

 多分、木津川の岸から藤原宮(橿原市)の造営地まで陸路で運んだのであろうとされている。また、佐保川から大和川を経て飛鳥川等によって造営地まで運んだとも考えられる。この歌は大事業を人力で行なった時代を彷彿とさせる歌であるが、当時、ヒノキが建築材として重要視されていたことをも物語る歌でもある。

 次に、1118番の柿本人麻呂歌集の歌に見られるようにヒノキの枝葉を髪に挿して飾りにした歌が二首あり、当時は草木を髪に挿してかざしにする習わしがあったが、この二首の歌はヒノキの枝葉もこの習わしに用いていたことを示すものと言える。次に1314番の柿本人麻呂歌集の歌のごとく、ヒノキが一面に生えているところを檜原や檜山と表現し、その風景をして詠んだ歌がかざしの二首を含め、七首に及ぶ。

 この檜原や檜山にはすべてに固有の地名が冠せられ、「巻向の檜原」、「三輪の檜原」、「初瀬の檜原」、「丹生の檜山」といった具合に歌枕的に用いられているのがわかる。原や山という言い方は、一帯がヒノキ林であったからで、スギ(杉)にも言えることであるが、これは植林されていたことを意味するものとも受け取れる

 ところが、藤原宮の造営には宮の近くに位置するそれらの檜原や檜山でなく、この長歌によると、遠い近江の国からその材を運んでいる。これは田上山のヒノキが良質なものであったのと大量の材が必要だったからに違いない。民のこの歌はそれを物語るものと言える。

                                                         

  ヒノキはヒノキ科の常緑高木で、わが国固有の針葉樹として知られ、本州の福島県以西、四国、九州(屋久島まで)に分布し、大和でも各地で見受けられる。高さは三十メートル、根元の直径は六十センチほどになり、田上山にはこのような立派なヒノキの成木が多く生えていたのだろう。材は硬質で、光沢があり、香りがよく、腐り難いため建築材や仏像などに用いられ、世界最古の木造建築物である法隆寺がヒノキで作られているのは有名である。また、皮は檜皮(ひわだ)と呼ばれ、神社の屋根などをこれで葺く。その材の褒め言葉として、檜舞台とか檜普請などと言われる。なお、ヒノキは雌雄同株で、花は春に咲き、球果の果実は秋に熟す。

 因みに、ヒノキの文献上の初出は『古事記』の上巻、須佐之男命が八俣の大蛇を退治したときの話に登場する。大蛇の凄さを述べている件で、「その目は赤かがち(ほおずき)の如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ、その長は谿八谷峡八尾に度りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ」とある。なお、ヒノキの「ひ」は火を意味するもので、その名はヒノキを擦り合わせて火を起こしたことによると言われる。写真は熟したヒノキの球果(左)とヒノキ造りで知られる法隆寺。五重塔は世界最古の木造建築物である。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月07日 | 万葉の花

<583> 万葉の花 (82)  な し (梨、成)=ナシ (梨)

        猫の手も 借りたき農家 梨の花

    もみち葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折りかざさむ                    巻 十  (2188) 詠人未詳

   露霜の寒き夕の秋風にもみちにけりも妻梨の木は                           巻 十  (2189) 詠人未詳

   梨棗黍に粟つぎはふ田葛(くず)の後も逢はむと葵花咲く               巻十六 (3834) 詠人未詳

 左注に梨の黄葉を見て作ったとある大伴家持の巻十九の4259番の歌を含め、集中にナシ(梨)を詠んだ歌は四首ある。漢詩の世界では梨花と呼ばれて、ナシは花が詠まれているが、中国の文化を採り入れて来た当時にしては不思議なことに、花よりも、秋の黄葉に関心が持たれ、詠まれているのがわかる。これはどうしてなのか、後で触れてみたいと思う。

 まず、この四首を基に万葉の歌をうかがえば、花はウメとサクラに譲っているようなところがあり、ナシの花は敬遠されているきらいがある。『枕草子』にも「よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに葉の色よりはじめてあいなく見ゆるを、唐土にはかぎりなきものにて、文にもつくる。云々」とあり、当時のナシの花の評価は極めて芳しくない。

                                                                           

 家持の4259番の歌は「十月(かむなづき)時雨の常か我が背子が屋戸の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ」とあり、現代の私たちからすれば、ナシよりもカキやサクラの紅葉の方が印象的で、ナシの黄葉は今一つピンと来ないところがある。カキは『万葉集』に登場しないので論外として、花はもちろんのこと、葉の色づきもナシよりサクラに思えるのであるが、サクラはウメと同様花に尽くして詠まれている。

 これは『万葉集』に登場する「もみち」に黄葉の表記が圧倒的に多く見られるのに相通じるところがあるように思われる。つまり、当時、秋の紅葉(黄葉)は黄葉が主眼に置かれていたので、黄色く色づくナシの葉が注目されたと考えられるが、どうであろうか。中国では初唐のころまで紅葉(黄葉)の表記には「黄葉」が用いられていたから、初唐と万葉時代が重なることをして言えば、これについては、中国の影響があったと見なせる。

  言わば、ナシの場合、花はウメやサクラに譲り、黄葉をもって迎えられたと言えそうである。これは摂取して来た中国の文化を自らのうちで咀嚼しながら日本独自の文化に織りなして行く一つの過程的現象と見てよいように思われる。平安時代以降には花が詠まれるが、中国の「梨花」には関わりなく、「あしびきの山なしの花散りしきて身も隠すべき道やたえぬる」(藤原定家)と我が国独自の花をもって登場している。

                                                                          

  ナシ(梨)はバラ科の落葉高木で、高さは十五メートル以上になる。春、葉の展開と同時にサクラに似た白い五弁の花を咲かせ、秋にほぼ球形の果実をつける。ヤマナシを原種にして改良されたという説のある一方、古い時代に中国から渡来したという説もある。現在はいろんな種類のナシが登場し、果樹として、大和でも大淀町や斑鳩町などに産地があり、棚作りにした梨畑が見受けられる。現在生産されているナシは改良に改良が加えられ、主に皮に赤味のある赤ナシ系と青い青ナシ系に大別され、美味なナシが開発され、西洋種のナシも見られる。

  花については、3834番の「梨棗――」の歌にうかがうことが出来るが、この歌は物名としてあげたものに過ぎず、花自体を詠んだものではない。ところで、『日本書紀』には、持統天皇七年(六九三年)の記事に「桑・紵・梨・栗・蕪菁等の草木を勧め殖ゑしむ。以て、五穀を助くとなり」とあり、ナシは五穀の足しにするため栽培が奨励された。また、『延喜式』には甲斐や信濃の国から青ナシの献上があったことが記されているから、ナシはその昔から果樹として注目されていたことが言えるが、果実を詠んだ歌も『万葉集』には見られない。

 なお、黄葉を詠んだ2188番と2189番の歌の「妻梨の木」の梨は無しに重ねて用いられている。これは、ナシがアシ(葦)を「悪し」として嫌い、ヨシ(良し)と呼ぶのと同じく、「無し」の意を嫌って、「有りの実」と呼ぶこともあるのに通じる。王朝歌人相模の一首に「おきかへし露ばかりなるなしなれど千代ありのみと人はいふなり」とあるのがこの例である。もしかすると、歌をはじめとする当時の我が国の文芸においてナシの花や果実が敬遠されたのはこの語呂合わせに起因するのではないか。こう考えれば、中国文明信奉の時代にナシの花も果実も文芸の世界において姿を見ないことに納得がゆくと言えそうである。

  写真は上段左から花盛りを迎えた棚づくりにされたナシ畑。ナシの花のアップ。ヤマナシの花。下段は左から野生状態に置かれたナシ。順にナシの実、ヤマナシの実。万葉人は果たしてどれほど改良されたナシを口にしていたのだろうか。ヤマナシは果実が小さく、直径三センチほどである。

 


大和だより ~写詩 写俳 写歌~ 小筥集

2012年05月29日 | 万葉の花

<270> 万葉の花 (6) つつじ (乍自、管仕、茵、管士、管自、都追滋)=ツツジ (躑躅)

       つつじ咲く この切り通し 越え行けば

        水伝ふ礒の浦回(うらみ)の岩つつじもく咲く道をまた見なむかも              巻 二 (185)     草壁皇子の舎人

      風速(かぜはや)の美保の浦回の白つつじ見れどもさぶし亡き人思へば              巻 三 (434)   河 邊 宮 人  

        (長歌・前略)  歳月日にか つつじ花 にほへる君が  (後略)              巻 三 (443)     大 伴 三 中

    (長歌・前略)  龍田道の 丘辺の路に 丹つつじの にほはむときの  (後略)     巻 六 (971)   高橋蟲麻呂

 我が国に自生する樹木の中で、ツツジは美しい花を咲かせる筆頭格と言ってよい。ここで言うツツジとは、ツツジ科ツツジ属に当たるもので、世界には北半球の温帯を中心に約八百五十種あって、その中の五十二種ほどが我が国に自生分布すると言われる。この美しい花のゆえに『万葉集』に登場するツツジもみな花が対象に詠まれている。なお、ツツジ属の中でシャクナゲ亜属のシャクナゲの仲間は一般にツツジとは言わない。

 大和はこのツツジの宝庫と言え、ツツジ属のツツジと呼ばれるものはツツジ亜属のヤマツツジ、モチツツジ、サツキ、ウンゼンツツジ、シロバナウンゼンツツジ、コメツツジ。ミツバツツジ亜属のミツバツツジ、コバノミツバツツジ、トサノミツバツツジ、アワノミツバツツジ、オンツツジ、シロヤシオ。レンゲツツジ亜属のレンゲツツジ、アケボノツツジ。トキワバイカツツジ亜属のバイカツツジ。ヒカゲツツジ亜属のヒカゲツツジ等が自生している。

 ツツジ科で言えば、これらにツツジ属シャクナゲ亜属のツクシシャクナゲやホンシャクナゲのほか、ホツツジ属、ヨウラクツツジ属、ネジキ属、アセビ属、イワナンテン属、ドウダンツツジ属、スノキ属、イワナシ属などが含まれ、高山植物中ではツガザクラ属などが見られ、大和におけるツツジ科の仲間は自生景観において実に豊富な質量である。こうした中に園芸種も加わり、現在のツツジの状況は見ることが出来、実に多彩を誇っている。

 ところで、『万葉集』には長短歌九首にツツジが詠まれている。で、以上の点を踏まえてこの九首に登場するツツジを検証してみたいと思う。前述したように、みな花を詠んでおり、九首を見るに、「白つつじ」が三首、「つつじ花」が三首、「岩つつじ」が二首、「丹つつじ」が一首登場し、ここでは冒頭にその花の特徴に合わせて一首ずつあげたが、これらのツツジが今のいかなるツツジに当たるかということで検証すると、次のように言える。

 「白つつじ」は鷺坂山(現城陽市)と美保の浦(和歌山県日高郡美浜町付近の海岸)とオミナエシの咲く佐紀野(現奈良市佐紀町付近)ということで、生えている場所が特定されているのがわかる。これらを総合的に考えてみると、万葉当時の白つつじの分布状況が想像出来る。次に「つつじ花」であるが、これは「にほへる」を導き出す言葉として用いられているもので、場所などには関係なく、どのツツジでもよい用いられ方で、総称として捉えてよいと思える。

 また、「岩つつじ」の二首は、一首が草壁皇子の死を悼んで詠んだ歌で、「礒の浦回の」というのは、このツツジが宮廷の庭園の池の回りの岩場に生えるツツジを指すものと言える。今一首は「山越えて 遠津の浜」と詠まれていることから、こちらは大和ではないほかの地のツツジを詠んでいることがわかる。一首に登場する「丹つつじ」は「龍田道の 丘辺の路に」とあるから現在の龍田大社(生駒郡三郷町)付近にあって彩っていたことが察せられる。

 思うに、万葉当時には、野生のものが移植されたとは考えられるが、園芸品種の開発はまだなかったから、これらのツツジは前述した大和に自生分布するどの花かを対象に詠まれたとみるのが妥当である。で、まず、「白つつじ」であるが、上述した大和のツツジの中に「白つつじ」と見えるものはシロヤシオ、コメツツジ、シロバナウンゼンツツジ、バイカツツジで、シロヤシオとコメツツジはともに標高の高い深山山岳にしか見られず、バイカツツジも南部に限定されるので、歌の中の「白つつじ」には該当しないと言える。

 シロバナウンゼンツツジは現在奈良県の北西部のごく限られた場所でしか見られない分布の北限に当たる絶滅寸前種であるが、万葉当時にはもっと広い範囲に見られたことが想像出来る。こう見ると「白つつじ」はシロバナウンゼンツツジの可能性が高くなる。「岩つつじ」については両歌とも水辺に近い印象があるので、サツキではないかと思われる。草壁皇子が亡くなったのは四月十三日(旧暦)というから五月ごろから咲き始めるのでこの名があるサツキの花期に合致する。主が亡くなったので、もうこの岩つつじを見ることが出来なくなると舎人は嘆いているのである。つまり、このツツジでは歌を詠んだ日月と水辺の岩場という時と所が考察のキーワードになる。

 では、「丹つつじ」についてはどのツツジが考えられるだろうか、「丹」は赤系統の色を表わす語であるから、平野部から丘陵地、または低山帯ではヤマツツジ、モチツツジ、コバノミツバツツジ、レンゲツツジなどが考えられる。レンゲツツジは若草山(三四二メートル)に多いし、モチツツジやヤマツツジも近辺の山裾などで見られるから大いに考えられる。だが、歌には「桜花」とあって、ヤマザクラと同時期に咲くツツジが考えられるので、この「丹つつじ」は花期がヤマザクラと少しずれるヤマツツジ、モチツツジ、レンゲツツジではなく、花期の早いコバノミツバツツジと考えるのが妥当と思える。また、後に続く「にほへる」にぴったりなのもコバノミツバツツジである。

 『万葉集』発祥の地、大和から『万葉集』に登場するツツジを考察すれば以上のごとくになる。シロバナウンゼンツツジについては、最近やっとお目にかかることが出来た。それほど現在では少なく乏しい花になっているが、大和の地においてシロバナウンゼンツツジはもっと多く生え、当時はよく見られていたのではないかと想像される。 写真は左からヤマツツジ(金剛山)、レンゲツツジ(若草山)、モチツツジ(大和高原・月ヶ瀬)、コバノミツバツツジ(大和高原・小倉)、サツキ(天川村・川迫川)、シロバナウンゼンツツジ(生駒市北西部)。