<2728> 余聞、余話 「万葉集のホトトギス考」
一生(いちせい)の在処を告げて乞ふごとく深夜未明に鳴くほととぎす
このほどカメラを手にして里山の辺りを歩いていて、ホトトギスに遭遇し、撮影した。かなり遠い常緑樹の上にいて鳴くのがかすかに望めた。十分な写真にはならないだろうと思いながらズームレンズを望遠側いっぱいにセットしてシャッターを切った。背景の空が明るく逆光になって、カラスのように写ってしまったが、カラスより一回り小さく、ホトトギスの声しかしていなかったので、極めて不十分な写真ではあるが、ホトトギスに違いないと確信し、掲載に至った次第である。
ホトトギスはカッコウ科の渡り鳥で、全長三十センチ弱、夏場に日本の各地に飛来し、繁殖する古来より特異な鳴き声で知られる。『万葉集』以来、和歌によく詠まれ、夏の到来を告げる鳥として親しまれて来た。所謂、姿よりもその独特の鳴き声で名高く、近くで姿を見ることはなかなか難しい鳥である。
私の場合、四十年ほど前、植物学者の牧野富太郎所縁の八幡高原(広島県)を訪れたとき、すぐ近くの梢に来て鳴くのを見たのと、十年ほど前、奈良・三重県境の倶留尊山に登ったとき、標高1000メートルほどの二本ボソ山の山頂付近で眼前を真横に飛ぶのを目撃したことくらいで、曲がりなりにもカメラに収めたのは初めてである。
ホトトギスという鳥はそういう夏鳥であるが、昼夜を問わず鳴くその声によって印象深く、和歌にも詠まれて来た。という次第で、この写真撮影を機に、ここで、これまで思いを巡らせていた『万葉集』に登場するホトトギスについて少しく考察してみたいという気になった。以下は、その考察によるところである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/6a/95ad1ac743aa0fc1d60782dc7f92335b.jpg)
『万葉集』には、巻二の弓削皇子の歌に返した額田王の相聞の歌(112番)に「古(いにしへ)に戀ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きしわが念(も)へるごと」とあるのをはじめとし、巻二十の大伴家持が興じて詠んだ(4464番)の「ほととぎすかけつつ君が松蔭に紐解き放(さ)くる月近づきぬ」という歌まで、集中にホトトギスの登場を見る歌は長短歌合わせて百五十三首に上る。歌の中にホトトギスの名が見えないものの詞書乃至は前後の歌の関係から明らかにホトトギスを詠んだ歌と見なせるものまで含めると百五十五首に及ぶ。
中でも圧巻なのは巻十の「夏の雑歌」のはじめに収められている「鳥を詠む」項で、ほかに夏鳥はいないのかと言いたくなるほどの眺め、即ち、二十七首全部がホトトギスの歌で占められているという次第である。そして、なお言えることは、巻十二(3165番)の霍公鳥を序の枕詞に用いている「霍公鳥飛幡(とばた)の浦にしく波のしばしば君を見むよしもがも」という歌などほんのわずかな歌のほかはみな昼夜を問わず聞かれるあの独特の鳴き声に関して詠まれているということである。
この鳴き声によるホトトギスの印象は後世にも引き継がれ、以後の勅撰和歌集などにも色濃く反映され、例えば、平安時代に編まれた第一勅撰集の『古今和歌集』では夏歌三十四首中二十八首までがホトトギスを詠んだ歌で占められているほどである。時代が下って鎌倉時代に出された八代集の『新古今和歌集』を見ても、夏歌の部で三十七首に見て取れるといった具合である。中世までのこれらの歌を概観するに、その特異な鳴き声に関して詠まれたホトトギスの歌は鳥の登場する歌の中では群を抜き、ホトトギスは別格であるということが出来る。
西洋の鳥は姿の印象によって捉えられる傾向にあるのに対し、日本の鳥は鳴き声によって印象づけられていると言われる。『万葉集』以来のホトトギスをして言えば、まさにホトトギスはその典型例である。春のウグイスや秋のカリなども該当するが、ホトトギスの右に出る鳥はいない。
西洋文明の影響を受けた近・現代の日本においては、例えば、次のような鳥を詠んだ歌が見て取れる。一読して『万葉集』等の鳥を詠んだ古歌と違いのあるのがわかる。これは鳥を自然観の中で捉えて来た日本の歌と鳥の姿をもって人との関わりにおいて捉えている西洋の歌の違いが現れているものと言える。もちろん、すべての歌というわけではないが、その傾向が見て取れる。これは明らかに文化(ものの見方、精神性)の違いから生じている現象で、西洋の影響を受けている以下の二首と古歌に詠まれた鳥の歌を比較してみるとその違いがよくわかる。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり 斎 藤 茂 吉
かささぎの空巣に霙降りいると告げて透くエア・メール一枚 小海 四夏夫
少し話が逸れたが、本題に戻って『万葉集』のホトトギスについて原文の表記を見てみよう。まず、霍公鳥という表記でホトトギスの登場を見る。漢音ではカッコウチヨウであるが、これをホトトギスと読ませている。そして、これに加え、万葉仮名の保登等藝須、保等登藝須、保止ゝ支須の三例が見える。保止ゝ支須の例は巻十八(4116番)の長歌一首のみで、ほかに登場例はない。この一首は部下を慰労する酒宴において大伴家持が作ったもので、座興の勢いに任せて保止ゝ支須の万葉仮名を用いたのかも知れない。そんな感がある。
では、まず、霍公鳥の表記から見てみよう。霍公鳥を漢音に合わせて読むと前述の通りカッコウチヨウで、どう考えてもホトトギスとは読めない。だが、原文を辿って歌を読み進めてみると、例えば、巻十七(3909番・3910番)には次のようにある。
詠霍公鳥歌二首
(3909) 多知婆奈波 常花尒毛歟 保登等藝須 周無等来鳴者 伎可奴日奈家牟
(3910) 珠尒奴久 安布知乎宅尒 宇惠多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞
語訳では次のようになる。
霍公鳥を詠む歌二首
(3909) 橘は常花(とこはな)にもがほととぎす住むと来鳴かば聞かぬ日無けむ
(3910) 珠に貫く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来(こ)むかも
つまり、詞書と歌の内容からして霍公鳥は保登等藝須(ほととぎす)に一致し、霍公鳥はホトトギスと読むことがわかる。ところで、ホトトギスは古来より関心が持たれ、親しまれていたこともあって多くの表記が見られる。あげてみると、時鳥をはじめ、杜鵑、不如帰、杜宇、杜魂、子規、蜀魂などと記され、更に田長鳥、沓手鳥、妹背鳥、卯月鳥などの名が見え、地方名も多い。だが、日本の文献上最初に登場する霍公鳥の表記は漢名を辿っても見当たらず、誰が最初に発したのか、謎めいてその名はある。そこで、万葉人がホトトギスと同類の夏の渡り鳥カッコウ(郭公)と混同していたのではないかとする見解なども見られる次第に至った。『万葉集』以後、霍公鳥の表記は消え、代わりに郭公をホトトギスと読ませ、これが主流になってこの混同説の裏付けとして働くようになったと思われる。
という次第であるが、私には以下の三点の理由によってこの混同の見解には納得し難いところがある。その一点目は、霍公鳥の表記が音韻に影響されてあるものではなく、霍公の字義によってつけられたと考えるからである。霍は靃の略字で、本来は靃であって、その意は「雨に降られてぱっと羽を広げて飛びたつ鳥の羽音のあわただしさをあらわす」と言われる。また、霍霍は「わわっとあわてて叫ぶさま」とあるように、梅雨時に鋭く鳴いて聞く者の耳を驚かせるホトトギスにピッタリ来るところがある。公は広く知らしめる意であろう。姿が見えなくても、昼夜を問わずその独特な鳴き声によって存在を知らしめる意が込められている。言わば、明るく長閑な牧歌的鳴き声の印象にあるカッコウに霍の字は相応しくないと見る。
二点目は『万葉集』の霍公鳥は次代の『古今和歌集』よりその表記を異にし、郭公の二字をもってホトトギスと読ませるようになったこと。これに関して言えば、郭公は霍公鳥の変容に違いないが、ホトトギスとカッコウを混同してのものではないと考える。郭公の表記によってホトトギスと読ませる慣わしは江戸時代まで続いている。松尾芭蕉の、例えば、「落ちくるや高久の宿の郭公」(真蹟懐紙)にも見える。つまり、混同と見るならば、江戸時代まで混同が続いていたということになり、このような見方はあまりにも先人に対し失礼な話と思えて来る。
三点目は万葉人が自然において私たち現代人よりも豊富な経験の持主として自然に接していたと考えられること。この観点に立って言えば、万葉人がホトトギスとカッコウを混同していたとする見解はどうかということになる。例えば、巻九(1755番)の長歌とその反歌(1756番)にウグイスの巣にホトトギスが托卵する内容の歌が見える。つまり、万葉人はホトトギスがウグイスの巣に托卵する奇習を知っていた。これは万葉人が自然、即ち、野生と直に接していたと受け取れる。こうした自然との濃密な関りをもっていた万葉人がホトトギスとカッコウを混同するとは考え難い。
ということで、ホトトギスとカッコウの混同説は採り難いということになる。それよりもホトトギスの読みの方が謎である。鳴き声がホトトギスと聞こえるからというのをどこかで聞いた気がするが、そういうことなのだろうか。不明である。名の語源にはさまざまあるが、ホトトギスの語源は謎と言える。万葉当時からそう呼ばれていたのだろう。それを文字にするとき霍公鳥の字義に及んだということではないか。そして、万葉仮名でも表記したということになる。このホトトギスの万葉仮名表記については、これにも謎めいたところがあるので、またの機会に述べてみたいと思う。 写真は繁る高木の高枝にあって鳴くホトトギス(斑鳩の里山)。