大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月30日 | 写詩・写歌・写俳

<758> 所 感  (2)        ~<757>よりの続き~

       「可能」とは爾後に思ひの言葉なり 「成就」は今にある言葉なり

  過去、現在、未来において、「可能」は現在における未来への思いに用いられる言葉で、「可能」を実現させる「成就」は現在の状況において用いられる言葉であることが思われる。成功と失敗は表裏にあって、現実はどちらかに現われるわけで、「成功」の喜びを味わえるものは現在ある者の特権と言える。反面、失敗は現在ある者の負わねばならない悔しさを纏うものということが出来る。

  前述の例で言えば、「可能」は青い鳥で、チルチルミチルは教訓であり、「成就」は青い鳥がいかなる存在であるかをチルチルミチルが理解し得たときに成り立つことになるわけで、そこにこの物語の設定がなされているのがわかる。カール・ブッセの「山のあなたの空遠く 幸い住むと人のいう」というのは「可能」を言っているもので、「成就」で言えば、不確かなことである。写真はイメージ。

                

  現在という時は極めて短く、その短い時を費やし、その時を重ねて過去が出来上がって行く。未来は私たちにとって「山のあなたの空遠く」の彼岸であるが、彼岸は過去にも現在にもなく未来にあり、ずっと未来にあって、そこへのあこがれを「成就」するには、今を歩み続ける以外にないわけである。これが生、即ち、人生だと言ってよい。この人生を歩み行く方便として、「成就」出来ないところでは、妥協とか忍耐とかいろんな手立てを用いて私たちは気を紛らわせたりするわけである。

  そこで、もっともなのは、「成就」しないにしても「成就」に向かって懸命に歩き、生きるということで、その連続する今という極めて短い時においてよりよい経験を積み、よりよい過去にし、なお持続する今を歩み、未来(彼岸)の「可能」に向かって歩くこと、これが私たちの常としてあることが思われる次第である。極めて短時間である現在という時をもっともよく活用するということで、例えば、「辛抱に勝る勝利の道はない」とか、「二兎を追うものは一兎も得ず」というような教訓も言われるわけである。

  つまり、今を怠ることなく、ベストに過ごすことが大切なわけで、これを東西南北の方位に当てはめて考えると、過去と未来が今に関わっているのと同じく、東西南北に関わりを持つ今の位置は、前述のようにやはり東西南北の方位に統べられている以前と以後の位置に関わるということで、今の位置を大切にすることがまず一番に思われなくてはならないという道理にあることがわかるわけである。

  しかし、最近の人間は己惚れが強く、傲慢で、神をも畏れず、何でも出来ると思っている向きがあり、欲望を満たすためには何をしても差し支えないというような気分の蔓延がそこここに見え、何か恐ろしいような気になるのである。この状況は実に拙いことで、例えて言えば、日本列島の様相一つを挙げてみてもわかる。東京一極集中というような図がその象徴として考えられる。これは、東京にのみ幸せがあるという愚かな図式で、東西南北の気を無視してかかる自然への反逆的成り行きにほかならず、一見華々しく見えるそこには大いなる錯覚と落とし穴の様相がうかがえると言ってよい。

  東西南北においてはどこにあっても不動不変のものはなく、幸不幸は公平に起きる気というものに統べられている。パラダイスが大に及び、大きいとするならば、その反対の現象もまた大に及び、大いにあり得るわけで、これが自然というものであり、これが東西南北の方位のうちにある気の様相であることは歴史をひもとけばわかるはずである。一極集中することが国の成り立ちとしてよいか悪いか、長い目で見るとき、この東西南北の気から見て、愚かしい気がして来るのである。しかし、その一極集中が止められないのが現況で、賢い人間にしてなお欲望には勝てないことがつくづくと思われて来る次第である。 ~次回に続く~

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月29日 | 写詩・写歌・写俳

<757> 所 感  (1)

          来し方を もっていまある この身とは 行く末を指し ゆく身でもある

 私たちはみな住処を拠点に日々を営んでいる。そして、自分を中心にした方位をもって存在している。普段はあまり気に止めないが、私たちは常にこの東西南北という方位を有して存在している。いくら移動してもこの方位というのは必ずついて回り、どこにおいても東西南北をもってあり、あらねばならない。これを逆に言えば、私たちはみな東西南北の方位に統べられながら存在しているということになる。これは、私たちがどんなに動き回って移動し、どこに位置しても、この地球上にある限り、東西南北の方位から逃れることは出来ないことになっていることを物語るものである。

  このことを思うとき、今一つの道理を思い描くことが出来る。言わば、地球上では、いまここに位置しているものが東に向かえば、いまある位置は西になり、さらにずっと東に向かえば、いまの位置は東になり、さらに向かえば、いまの位置(もとの位置)に戻ることになる。反対に西に向かえば、いまある位置は東になり、さらにずっと西に向かえば、いまの位置は西になり、さらにずっと向かえば、いまの位置(もとの位置)に戻ることになる。

  これは地球が丸いからで、南北にも言えることはもちろんのこと。西が東に、東が西になるのは地球を半周したときだが、私たちはこのことに案外気づかずにいる。私たちにとって地球があまりにも大きく、普段意識することなく過しているからにほかならない。また、私とあなたの位置関係においてあなたから私が東にあれば、私からあなたは西にある道理で、そういう二人の位置関係というものがこの地球上にはいたるところに輻輳してあることもまた考えられるところである。

                                                                             

  冒頭の短歌から、この方位について、一つの思いに至った。方位に対するあこがれというのは、彼岸(理想郷)への思いに似ている。例えば、東にあこがれ、東に向かったとする。すると、元の位置は西になり、移動したそこにはなお東があり、その状況はどこに移動しても生じる。そして、移動をずっと東に続けて行けば、ついには元の位置に戻るわけで、地球上というのはそういう仕組みになっている。反対に西に向かえば、元の場所は東になり、以下は東に向う状況と同じことが言える。東西南北どの方角を目指してもこのことははっきりしている。

  つまり、地球上のどこに位置していても東西南北(方位)三百六十度の気を有して私たちは存在している。彼岸とは今(現在)にあって、時の彼方に夢見る理想郷と言ってよいが、方位へのあこがれがこの彼岸への思いに似ているというのは、彼岸が彼岸に達したと思う瞬間に此岸(現実)になり、彼岸はなおその先にある道理の永遠性にあるからで、どこまで行っても東西南北の方位というものはあって、更にその先にもこの状態はあるということ、このことを示しているということになる。言ってみれば、人生は時の旅で、私たちは彼岸に悲願を込めるように、東西南北の彼方にまた同じく夢を抱く次第である。

  これらのことを踏まえて、冒頭の短歌に戻ると、来し方をもってある私たちは行く末をもって今ここにあり、来し方にあったときも東西南北を有し、東西南北に統べられながらあったように、これからも東西南北に関わりながらあらねばならないことが思われるわけである。そして、それは、いつどこにあっても地球上では東西南北の方位から逃れることが出来ないことを言うももで、受け入れざるを得ない仕組みになっているということである。

  それは、今の位置がよくないと認識していずこかへ移動しても、なお東西南北の気に支配されているのであるから、その影響を免れずあることを示唆するものである。このことは今の位置で精一杯に生きることの大切さを物語るものと言ってよく、あこがれの気持ちを持つことは生きる目標として大切ではあるが、今の時と所が基本にあって過去も未来も成り立つことを思えば、今の時と所が大切なことが道理として言えるわけである。

  また、彼岸については、時空間の彼方にあるものと思われがちであるが、これはむしろ自分自身の心のうちにある思いと見た方がよく、常にそこが出発点になっていると考えるべきである。例えば、チルチルミチルの青い鳥の話がある。幸せの青い鳥はどこに行けば見つけることが出来るのだろうと、チルチルとミチルは東へ行ったり西へ行ったり探し回ったけれど、どこにも見当たらず、自分の家に帰って気づくのである。幸せの青い鳥は自分の家にいたという次第である。写真はイメージ。  ~次回に続く~

 

 


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2013年09月28日 | 植物

<756> 紅葉と実りの時季 (9・27 大台ヶ原 )

       蔦漆 より紅葉の 始まれり

 大台ヶ原(標高約一六〇〇メートル)に紅葉の灯が点った。ツツジ類とツタウルシに紅葉が見られる。日射しは強いものの暑さは峠を越え、山の空気は爽やかで、歩きには絶好の季節であると、そのように感じられた。

 まず、目についたのはツタウルシの紅葉で、そこここに点在して見られた。常緑のトウヒなどに絡んでいるので、よく映えて見える紅葉である。また、岩場や向陽地ではツツジ類の紅葉も見られた。大台ヶ原はツツジ類の多いところで、シャクナゲはよく知られるが、これはアセビやヒカゲツツジと同じく常緑性で紅葉を見ることはない。

  だが、アケボノツツジ、シロヤシオ(ゴヨウツツジ)、トサノミツバツツジ、ヤマツツジ、サラサドウダン、コアブラツツジ、コメツツジなど、落葉、または半落葉性のツツジが自生しており、美しいものとそれほどでもないもがあるけれども、これらには紅葉が見られ、山の彩りをなす。

 この中で、紅葉がよく目につくのは、シロヤシオのゴヨウツツジとサラサドウダン、それに岩場のコメツツジで、この日もこれらの紅葉が見られた。ブナやカエデ類はまだ先で、十月中旬以降ではないかと思われる。

                           

 また、紅葉の時期は実の熟すころに当たり、この日も幾つかの実を見た。ミズナラは八月ごろから実のドングリが太り出し、今がちょうど成熟するころで、登山道にも落ちているのを見かけた。東日本の縄文人はこれを主食にしたと言われるので、一つ拾って食べてみたところ、少し渋みはあったが、食べられなくはないという味わいだった。

 ほかには、ブナが堅い毛をつけた皮に被われた実を生らせ、まだ枝にあった。ツタウルシは紅葉した葉の下に小さな実を鈴生りにしていた。ヤマブドウは黄葉しかけた大きな葉の下に実を生らせ、ブドウ色に熟し始めていた。八月に見たフウリンウメモドキは既に実が落下して枝には見当たらなかった。山の木々もそれぞれに時を過しているという感じである。

 写真は左から、シロヤシオ(ゴヨウツツジ)の紅葉、コメツツジの紅葉、ツタウルシの紅葉、紅葉した葉の腋に白色を帯びた茶褐色の実を沢山につけたツタウルシ。次は大きな葉っぱに隠れるように実をつけ、ブドウ色に熟し始めたヤマブドウ(いずれも九月二十七日の大台ヶ原山で)。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月27日 | 写詩・写歌・写俳

<755> 大和寸景 「神仏の座」

        偏頗なく日差しは地上へ真っ直ぐに 予断をもって語るべからず

 大台ヶ原へ山歩きに出かけた。駐車場から大蛇に向かい、大蛇から尾鷲辻まで引き返し、そこから正木ヶ原経由で日出ヶ岳方面に歩き、日出ヶ岳には登らず、分岐から下山コースを辿り、駐車場に帰った。この写真は帰りに大台ヶ原ドライブウエイから大峰山脈に向けて撮影したものである。

 午前中、快晴のよい天気だったが、午後になって雲が多くなり、三時ごろには厚い雲になって午前中よく見えていた大峰山脈の稜線も見えなくなるほどになった。ときおり雲間から日が射し、このような気象状況の写真が撮れたのであった。

                        

 大台ヶ原から西を望むと大峰山脈が横一列に見える。南から辿ると大日山、釈迦ヶ岳、孔雀岳、仏生ヶ岳、明星ヶ岳、八経ヶ岳、弥山、行者還岳、七曜岳、国見岳、大普賢岳といった具合に連なっている。これらの山の名でもわかるように、大峰山脈は大峯奥駈道が通る修験道の祈りの道の行場で知られ、ユネスコの世界遺産にも登録されている神仏の座としての風格がある。

 山歩きのときは、この大峰の山々がその姿をよく見せていたのであるが、ドライブウエイの途中まで下ったときには写真のような状況になった。天は、よく晴れ上がっても、雲に被われても、雄大な山の風景とともに神々しさがあって胸に迫って来るものがある。ましてや、写真のように日差しが見える現象は神仏の気配を感じさせる。遍く照らす日の光は偏頗なく注ぎ、私たちはその恩恵に与かっているという次第である。

 

 

 

 

 


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2013年09月26日 | 写詩・写歌・写俳

<754> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (38)

          [碑文1]   逝く秋のやまとの國の薬師寺の塔のうへなる一ひらの雲                              佐佐木信綱

        [碑文2]     すゐえんのあまつをとめがころもでのひまにもすめるあきのそらかな                    会 津 八 一

 この二首は秋の薬師寺東塔を詠んだ歌としてよく知られる。両歌の碑は奈良市西ノ京町の薬師寺白鳳伽藍の西塔(昭和五十六年・一九八一年復興再建)の北側に並んで建てられている。現在、東塔が大修理の最中で、東塔側にあった信綱の碑文1の歌碑が西側の八一の歌碑の傍らに移されたことによる。

  東塔は薬師寺の創建当時からある唯一の建物で、天平二年(七三〇年)に建てられた白鳳時代の名建築として知られる国宝である。三重塔であるが、高さが三十四メートルあり、各層に裳階(もこし)が施されているので、均整の取れた六重塔に見える。昭和二十七年(一九五二年)に大修理が行なわれ、現在、六十一年ぶりに大々的な解体修理が行なわれている。

  工事中の塔はすっぽりと被いに囲まれ、平成三十一年予定の完成までその姿を見ることは出来ない。だが、薬師寺では「東塔水煙降臨展」を今年十一月末まで寺内において催し、降ろされた塔最上部の水煙部分を一般公開しているので、この機会に八一の歌などに重ねてこの水煙を間近に鑑賞するのも一案かと思われる。

 では、まず、信綱の碑文1の歌碑から見てみよう。この歌は明治四十五年(一九一二年)に作られ、『新月』に所収。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」と助詞の「の」を多用し、リズムよく、大和、薬師寺、塔、雲と焦点を絞って大和の奈良の秋の塔の一景をまとめ上げている歌として評価が高く、人口に膾炙している歌である。

                       

  信綱は国文学者で、『万葉集』の研究で知られるとともに、歌人として結社「竹柏会」を立ち上げ、「心の花」を主宰して短歌の世界でも活躍した。大和にはよく足を運び、奈良、大和を詠んだ歌も多く、この碑文1の歌はその代表的な歌として知られる。

 一方、八一の碑文2の歌は、『南京新唱』、『鹿鳴集』に所収の歌で、信綱の碑文1の歌とほぼ同時代に詠まれた、これも秋の歌である。歌は水煙に意識を集中し作歌しているところが特徴的で、信綱の歌とは印象を異にする美術史家ならではの知識の裏付けがうかがえる。

                          

 これについては、『自註鹿鳴集』に「すべて塔の頂上に立つ九輪の上には、恰も火焔の如き形に鋳造せる銅板を掲ぐ。これを「水煙」といふ。「水」の字を用いるは火難を禁厭する意なり。この薬師寺のものは、雲気の中に数名の飛天が、歌舞音楽せるさまを作り込めたり」と、その知識と美意識をして歌に対している旨が述べられている。

 『南京新唱』には、この歌の前に「くさにねてあふげばのきのあをぞらにすずめかつとぶやくしじのたふ」と、やはり、薬師寺の塔を詠んだ歌が見られ、草の上に仰向けになって塔を眺めている何とものどかな気分の八一の姿が想像されるが、この水煙の歌は、そんな気分の中でも美術史家たる知識と美意識をもって歌に臨んでいるのが感じられ、写真をする私などには教えられるところのある歌である。

 三十四メートルの高さに位置する透かし彫りされた水煙は望遠レンズでのぞいて見ても、その雲気を表わす模様の中に飛天が舞っているという意識を持っていなくては見逃してしまうほどの遠さにあるから、ぼんやりと塔を見上げているような目だけではこうした歌は作り得ない。

 言わば、この歌は、写生的歌においても、知識を積んでいるかそうでないかで、歌の内容に差が生じて来る例として見ることが出来る。八一の歌は平仮名表記でとっつきやすいように思われるけれども、自註等に触れると歌意の深いことがわかる。因みに、歌の中の「ひま」は隙(隙間)の意であり、「すめる」は「澄める」で、水煙の透かし彫りの間からも澄む秋空が見えるという意である。

 両歌碑は、昭和二十七年に行なわれた東塔の大修理のとき、落慶法要のために作られた「東塔讃歌」に用いられた両歌を碑にする話が持ち上がり、最初に信綱の碑文1の歌碑が出来、遅れて八一の碑文2の歌碑が出来たものである。それにしても、二つの歌碑が仲良く並んで建っている光景は何とも微笑ましく思える。

 写真は上段左が信綱の歌の碑面、中央が仲良く並ぶ両歌碑(右側が八一の碑)、右が八一の歌の碑面。下段は左が東塔最上部の水煙。透かし彫りの銅板が表裏をもって十字形に組まれている。一面の片面に三人の天人が見られるから、両面で六人、全部で二十四人ということになり、地上のどこの位置からも見られる工夫がなされている。八一が「数名の飛天」と言ったのは、一地点からは六人以上見ることが出来ないからである。右は水煙の童子が笛を吹いている部分。  青空に 塔高々と 見ゆる秋