大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月01日 | 祭り

<851> 東大寺の除夜の鐘

       除夜の鐘 撞くのは祈願 鳴るを聞く

 午年の平成二十六年(二〇一四年)は、奈良市に赴き、東大寺の除夜の鐘を聞いて明けた。午前零時を迎え、百八つのまず一番の鐘を東大寺の若い僧侶が撞き鳴らし、整理券を得た先着八百余人の一般人が八人一組になって鐘木の綱を引き、順次撞き鳴らしていった。僧侶の鳴らした皮切りの鐘で、年が改まったわけであるが、その鐘の音によって新しい年が明けたという気分になった。で、鐘楼の丘に集まった人々の間からは一斉に歓声と拍手が起き、それはなかなか感動的なものだった。

 東大寺の梵鐘は大仏殿の東方の鐘楼ヶ丘と呼ばれる小高いところにあり、梵鐘は修理が施されているものながら、天平勝宝年間に鋳造された奈良時代のもので、高さ約3.8メートル、口径約2.7メートル、重量は約26.3トンという我が国最大級の梵鐘として知られ、宇治の平等院、大津の三井寺、京都の神護寺とともに我が国屈指の名鐘としての誉まれが高く、奈良太郎あるは南都太郎の名でも呼ばれる大鐘である。また、鐘楼は鎌倉時代に栄西(ようさい)禅師によって再建された建物で、梵鐘も鐘楼もともに国宝である。

            

 重量感のある大鐘奈良太郎の除夜の鐘を聞きながら大仏さんに会うため大仏殿に向かった。元旦は中門が開けられ、大仏さんの尊顔が外から拝見出来る観相窓が開かれているということで、南大門を越えてずっと長い列が出来ていた。その列に並んで、大仏殿に赴いた。中門を入ると正面の観相窓に大仏さんの尊顔が拝された。私は二度目であるが、ほのかに浮かぶその尊顔は印象に残る眺めであった。

 参拝者とともに大仏殿に入ると、正面に大仏さんがこちらに向かって座っている姿が目に飛び込んで来る。今日もやはりその瞬間感動した。大きいからに違いない。大仏さんを前にすると、私たちはみんな小さく、その大きさに打たれ、気分が縮こまるのではなく、大らかな気分になれる。で、一歩足を踏み入れたこの大仏殿というのは、言わば、別世界の空間として感じられるのである。

                     

 いたるところに監視カメラが取り付けられ、制度や規制ばかりが強化され、何をするにもお金がものをいう世の中、水はもとより、大気だってお金がなくては自由に吸えなくなるような時代が来ている。つまり、そんな世の中になり、生きて行くのに窮屈で、息苦しいようなところがますます増え。挙句の果ては、そんな規制などに関わらず、いじめのような陰湿な社会現象が起き、テロが起き、国同士、国民同士のいがみ合いなんかも酷くなり、そのために法律や規則を強化し、武器を増やし、相手を威嚇しなければならなくなるという具合になりつつある。何故に私たちはもっとその人間関係において、親和、融合をもって相向かえないのだろうか。

 そんな日ごろの思いにあって、この大仏さんのお膝元にやって来ると、その大らかなオーラのような心持ちに包まれるゆえだろう。そんな日ごろの気持ちがすーと融けて消えゆくようで、誠にありがたく感じられるのである。で、私のこの実感は、果して、悩める現代人に「一度は大仏殿に赴き、大仏さんを見上げてごらん」と勧めたい気分にさせるのである。

 これが午年平成二十六年(二〇一四年)の年初に私が得た感慨であった。写真上段は左から新年に入ると同時に僧侶が撞く除夜の鐘。次は篝火に浮かびあがる鐘楼で撞かれる鐘。右端は八人一組で撞かれる鐘(いずれも、東大寺の鐘楼で)。写真下段は左から大仏殿へ参拝のため並ぶ人々。次は観相窓が開かれ、大仏さんの尊顔が拝された大仏殿。右端は正面入口から見上げた大仏さん。

 

 


大和だより ~写詩 写俳 写歌~ 小筥集

2013年01月11日 | 祭り

<497> 押熊八幡神社の卦亭

       しんしんと 冷ゆる真冬の 神坐へ

 厳しい冷え込みの見られた十一日、奈良市押熊町の押熊八幡神社で、卦亭(けいちん)と呼ばれる正月恒例の行事があり、見学に出かけた。卦亭は山城、大和、紀伊の一帯で見られる結鎮、結縁、華鎮などと同じ意味を持つ農事に関わる招福祈願の民俗的な行事として知られ、弓矢の登場を見るのが特徴としてある。

 押熊八幡神社の卦亭は前座と後座に分かれ、まず、神前での神事があった後、前座の「おんだ式」と呼ばれる御田植祭が行なわれ、続いて後座の「弓矢式」が行なわれる。「おんだ式」は苗代づくりから籾播きまですべてを宮座八人衆の古老の一人が、鍬や鋤などの小道具を用い、拝殿の間に敷いた菰を苗代に見立てて、昔の農作業を彷彿させるような言葉を使いながら所作を披露するもの。周囲からは掛け合いの言葉が発せられ、式はユーモラスに進められた。

  最後は「播こよ 播こよ 福の種播こよ」と籾を播き、これに周囲が唱和して、水の取り入れ口に当たる菰の脇に新米と豊穣を願う新藁に松葉と樒(しきみ)の葉を結んだ「なえかずら」と呼ばれる藁を挿し立てて終了した。「なえかずら」はこれに福の神が宿って秋には稲穂がたわわに稔るというシチュエーションで、その願いが込められていると見て取れる。

                              

 後座の「弓矢式」は境内の庭で行なわれ、苗代に見立てた菰と参会者に配られる「なえかずら」百本の束に挟んだ「鬼」と墨書された円形の紙の的を十メートルほど離れたところから二人(本来は三人)のとうやが三本の矢のうち、二本ずつを射た。一本は鬼の的を狙い、一本は遠くに飛ばし、三本目は射ることなく、とうやが持ち帰って神棚に供えるという。

                                                                                      

 鬼の的を射ることは悪霊払いであり、遠方へ飛ばすことは、修験道の護摩法要のときに見られる破魔矢に似るところがあり、招福の意味があるという。矢は鬼の的に当たらなかったが、的を越えて遠くへ飛んだ矢もあり、今年の「弓矢式」はまずまずということで、「なえかずら」と御供餅が参会者に配られた。

 押熊町付近は、農家を中心に昔は百十数戸の集落であったと言われるが、奈良、大阪のベッドタウンとして開発され、今では十倍以上の戸数に及ぶ住宅地となり、農業を主にする家は数えるほどになったと言われる。寒さの厳しい中で行なわれる卦亭を見ていると、昨今の合理主義的な世の中において、だんだん孤立して行く古来より行なわれて来た昔の集落が中心のこの宮座の土俗的行事が、何か貴重な精神性を持ってあるように思われて来ることではあった。

 写真は上段左からお祓いを受けた「なえかずら」の束。鋤を使っての所作。牛は登場せず、イメージされて耕した。畦を直す所作。右端は「なえかずら」を立てての豊作祈願。下段は左から「なえかずら」の束と菰に挟んで置かれた鬼の的。鬼の的を射るとうやの男性。配られた御供餅などをもらって帰る参会者。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年01月01日 | 祭り

<487> 大神神社の繞道祭

     人人人 人に触れ合ひ 初詣

 大和の元旦は穏やかなまずまずの日和だった。今年は巳年ということで、巳(蛇)に縁の桜井市三輪の大神神社に出かけた。初詣をした後、大和では一等最初の祭りとして知られる繞道祭(にょうどうさい)を見た。繞道は道を廻るという意味で、祭りは、新年を迎えるに当たり、真夜中に行なわれるもので、大神神社で点された御神火の松明が大神神社の氏子たちに担がれ、摂社、末社を廻るという所謂火祭りである。

 まず、御神体の三輪山(拝殿奥)で神官の切火によって点された火が三輪の印である三本の大松明に移され、氏子衆がその三本を小さな松明に囲まれながら担いで行き、摂社や末社十八社(最近は十九社と言われる)を順に廻り、御神火を各社に届けるという儀式である。この火は縁起のよい火とされ、京都・八坂神社の朮祭のおけら火と同じく、その火を火縄に移しもらって帰り、その火で正月の煮焚きをし、雑煮を作るという。

                    

 大松明は午前一時半ごろ大神神社を出発し、約二キロ北方の檜原神社で別の大松明に継ぎ、約二時間かけて各社を廻った。檜原神社は大神神社と同じ三輪山の西麓に位置するが、付近は蜜柑畑や桃畑が広がり、溜池などもあって、大和平野を一望出来る岡辺の地形にあり、山の辺の道が通る大和を代表する風光明媚なところであるが、深夜になれば、人影もなく森閑として、初詣の人出でにぎわう大神神社とは全く様子を異にし、掛け声とともにやって来る大松明を担いだ「御神火」の白装束の一行は十八夜の寒月の道に厳粛な気を漲らせて来る感じがあった。

 私は檜原神社で、継がれた大松明の御神火を見送った後、帰路についたが、大神神社は初詣の人が絶えることなく続くのであろうと思われた。毎年参拝に来るという人の話によると、今年は例年の倍くらいの混雑であるという。やはり、巳年だからであろう。おみくじも大繁盛で、年寄りよりも若い人に関心が持たれているように思われる。これは参拝者の心理の現れで、年齢的な心持ちの差であるように思われる。

                     

 一年の初めに運を験すことは、やはり、人生がこれからであるという人の気持ちに沿う。人生が終わりに近ければ、「大吉」であろうがなかろうが、それほど気分に影響して来ることがなく、おみくじを引く必要もないわけである。で、とにかく、おみくじには若者が飛びついている様子がうかがえる。グループでおみくじを引き、一頻りそれを話題にしているのを耳にしたりしても、「大吉」を引き当てた人の声のボリュームが大きい。それにしても、世の中の善男善女たちは、ささやかに楽しんでいるのが、おみくじ一つにも透けて見えるような気がする。

 写真は上段左から太鼓の音とともに始まった初詣。賽銭が雨のように飛んだ。大神神社を出発する繞道祭の松明の一行。松明の御神火を分けてもらう参拝者(ともに大神神社で)。下段左から檜原神社に入る松明の御神火。到着した御神火を神前に捧げる神官と氏子たち。氏子には女性の姿も見られ、見物の輪の中には年寄りの姿も見られた。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月23日 | 祭り

<448> 吐山の太鼓踊り

       蜜柑売る 店いっぱいの 蜜柑色

 二十三日は奈良市東部の都祁吐山町で、雨乞い踊りの一種である太鼓踊りが行なわれ、その踊りを見学に出かけた。途中、袋詰めにしたミカンをいっぱい並べて売る店の前を通った。昔ならば、買ったかもしれないが、今は夫婦二人だけの生活で、食生活の見直しもある。で、ミカンもそれほどには食べなくなった。しかし、みかんがいっぱい並ぶ店先を見ていると昔が思い出されたりして気分は動くことになる。いや、これは余談である。結局、正月には早いし、家内の意向も聞く必要があるので、気分は動いたが買わず、目的の場所に向かった。

 今日の目的は吐山の太鼓踊りである。いつもは地区内の下部(おりべ)神社の境内で行なわれるが、今日は朝から冷たい雨模様で、太鼓を濡らすことは出来ないということで、近くの吐山小学校の体育館に会場を移して行なわれた。

                                             

 この踊りは水不足に悩まされていた昔、岳(だけ)に登って天神(龍神と思われる)に雨を降らせてもらうように太鼓を打ち鳴らして踊ったのが始まりであると言われ、雨が降らず困っているときに行なわれたので、いつといった決めている日はなく、不定期に行なわれて来た踊りであるが、潅漑が行き届いた近年は雨乞いをすることもなくなったことから、新嘗祭の日に当たる勤労感謝の十一月二十三日に行なわれるようになったという。

 今日は旧吐山村の九垣内(地区)を代表して五基の太鼓が持ち出され、青と赤の大きな垂(しで)が振られ、囃し手の音頭に合わせて次々に太鼓踊りが披露された。男衆を中心に、吐山小学校の児童や都祁中学校の生徒たちが加わり、踊るように太鼓を打ち鳴らした。天気がよければ、近くの下部神社で奉納という段取りだったが、今日は体育館で行なわれ、披露の形になった。

                                              

 踊りが始まると、館内に太鼓の音が響き渡り、岳に登って太鼓を打ち鳴らし踊って天神を驚かせ雨を降らせたという昔が思われた。江戸時代には既に行なわれていたようで、岳信仰の一つの形ではなかろうかと思われる。踊りは徐々に変化し、一時は中断もあったようであるが、復活して昔の面影を今に引き継ぎ、貴重な伝統の行事として奈良県の無形民俗文化財に指定されている。ところで、この太鼓踊りも、最近は参加する若い衆が少なくなり、七基の太鼓が今年は五基の登場になった。

 昔は大人ばかりでやっていたが、最近は踊り手が少なくなるのにともない保存会を立ち上げ、小学生にも参加を求め、今年からは中学生も加わり、女子の踊り手も見られるようになり、町ではこの伝統行事を絶やさないように努めているのがうかがえる。言わば、この山間の都祁吐山町にとって、太鼓踊りは単なる昔の行事ではなく、地域の絆に大きく関わっていることが言えるようである。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月25日 | 祭り

<297> 天満宮の鷽替え神事

      青梅の 未熟にありて 瑞々

 菅原道真の誕生祭に合わせて25日、奈良市菅原町の菅原天満宮で鷽替えの神事があった。道真が一月七日、大宰府東部の天満山に登って住民と一緒に悪霊祓いの祈祷をしていたとき、ハチの群が襲って来たので、みんな逃げ惑ったが、道真がくじけずなおも祈祷を続けていると、今度はウソ(鷽)の群が現われ、ハチを退治した。で、道真も山に登っていた住民もみんな無事だった。

 この出来ごとの謂われによって天満宮ではウソ(鷽)という鳥を神の使いとして大切にした。で、太宰府天満宮では鷽替えの神事が行なわれるようになったという。天満山のウソ(鷽)の話は嘘のようであるが、真(まこと)であったことから「鷽」が「真」になるということであろう。お参りしたときに買った木彫の鷽を参拝者同士が交換しあって、鷽(嘘)が真に変わるということで今に伝えられているという。

 言わば、ウソ(鷽)が穢れを取り去って幸運と安泰をもたらすというわけで、近畿では藤井寺市の道明寺天満宮でも行なわれているが、菅原天満宮でも五年前から行なわれるようになった。この神事は冬に行なわれるのが通例であるが、菅原天満宮は道真の生誕の地であることから、道真の誕生日に当たる六月二十五日に行なうようになったという。

 この日は、二百人ほどが訪れ、鷽替えの神事に参加した。まず、「かえましょう」「かえましょう」の掛け声とともに誰彼となく番号のついたウソ(鷽)入りの箱を取り換えっこし、宮司の引く番号と手元の箱番号とが一致した人に景品が当たるということで、景品によって何回か行なわれ、最後にホオノキで作った奈良一刀彫のウソ(鷽)が当たった人に手渡され神事は終わった。

 写真は左から、太鼓の合図で、鷽替えの始まり。二、三、四枚目は鷽を交換する人たち。次は当たりを発表する係の役員。最後は大きなウソ(鷽)が当たったたぶちさんと宮司(いずれも菅原天満宮で)