大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年09月30日 | 写詩・写歌・写俳

<394> 変 化

         変化は時の流れによってなる

        時に支配されているものは

      いかなるものも すべて

      変化を免れ得るものはない

      言わば ここなる 私たちも

 この間、墓参と見舞いを兼ねて岡山に赴いた。往路は車に乗せてもらい、復路は鉄道を利用し、久しぶりに新幹線に乗った。往路は大阪から神戸の市街地を抜けて山陽自動車道に入り、播州平野をひた走った。播州辺りは実りを迎えて色づく田園を背景に標高二、三百メートルの山が島か半島のように見えるところである。走る車の窓からその山を眺めていて、ふと気づくことがあった。それは山の様相に変化が感じられたことである。

 この辺りは花崗岩の風化が進む岩山が多く、一昔前までは小松などの二次林的な低木に被われた山の様相があった。ところが、この日見て感じられたのは樹木がそれなりに成長して多く照葉樹林化しているのが目についたということである。

                                 

 いつも見ている大和青垣の山々に比べると、一目瞭然、杉や檜などの植林がほとんど行なわれておらず、雑木の自然林に被われていることである。これらの山は春になると躑躅の花が彩りを見せるところであるが、この昔からの植生の特徴に変化が感じられたというわけである。

 樹勢に旺盛さが感じられたのであるが、この旺盛さは雑木林が成長を進め、照葉樹林に変わりつつある光景だと思われたのであった。これは時の移り変わりを示すものにほかならないが、加えるに、山に立ち入る者が少なくなっていることと、温暖化の影響によって樹木の成長が速くなり、温暖地を適地とする照葉樹の成長に拍車がかかったということではないか。

 この植生の遷移については、平地でも山地でも、裸地というのは、放置して置くと、最初は丈の低い雑草の類が生え出し、これに混じってイバラの仲間などが生え出す。そして、次には日当たりを好む陽樹の萩や松などが出現し、次に陽樹に変わり、年中葉を繁らせる照葉樹が生えて来て、末は照葉樹の極相林に及び、深い森林を形成することになる。

 この辺りの山に変化がもたらされ、照葉樹林が増えていると見えることは、この辺りに一段階上の温暖化が進み、気象的な変化がもたらされて来た証ではないかと考えられることである。これはここ三、四十年ほどの間であるが、それが、最近、レベルアップしたということではないか。山が緑に被われ、豊かになることはよいことであるが、その気象的変化がほかの面にも現われるということで、懸念の生じて来ることにもなる。 

 最近、全国いたるところで集中豪雨があり、洪水や土砂崩れなどの被害が妙に多い。ときには竜巻をともない、その風による被害も見られるという次第である。この著しい気象異変の現象は、この播州路の山の変化に通じると言ってよいのではなかろうか。

 最近の雨は、度外れて激しく降り、洪水をもたらすけれども、梅雨のような長雨にはならず、さっと止んで、川水なども直ぐに引いてもとの姿に戻るという特徴がある。これは明らかに温帯から暖帯への移行であって、地球温暖化の現われの一端と思われる。照葉樹林化はそれを証明するものと言えないだろうか。車の窓から播州路の山を見ながら思ったことではあった。

                

 写真は照葉樹林(兵庫県の西部で)。走る車の窓から撮ったもので、樹種ははっきりしないが、樹林は明らかに照葉樹である。このような変化はその先端部で見るのがよいように思われるが、地球の温暖期(間氷期)にある今日ではこの照葉樹林が太平洋側では東北地方の南部、日本海側では新潟県付近まで北上していると見られ、これが更に北上するかどうかということで、この点、注目されるところ、調査の必要性があるのではないかということが思われる。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年09月29日 | 写詩・写歌・写俳

<393> 地図上の旅

        地図を開き 地名を辿り 行く旅の 今宵は播州 平野のあたり

 日本地図を開いて北から南へと地名を辿り心の旅をする。まことに楽しい想像の旅が出来る。まずは、北海道のページを開き、北の端の礼文島からその旅を始める。津軽海峡を渡って、奥州のページに移り、東北、関東、東海、北陸、近畿と進み、山陰、山陽から瀬戸内を渡って四国に回り、豊予海峡を渡って九州に至り、南西諸島から沖縄まで。

    礼文より地図を南に辿る旅 益子斑鳩面河糸満

   地図を開き地名を拾ひ読む旅の小諸に至る早春のころ

   地図上に地名を辿るこころ旅 たとへば潮来はあやめの季節

                                                              

 礼文、利尻、美幌、新冠、白老、小樽、長万部、岩木、八戸、十和田、遠野、唐桑、花巻、雫石、衣川、栗駒、蔵王、尾花沢、男鹿、能代、象潟、天童、羽黒、相馬、磐梯、白河、檜枝岐、筑波、桜、潮来、大洗、日光、益子、結城、足利、桐生、氏家、昭和、榛名、吾妻、羽生、利根、秩父、印旛、蓮沼、練馬、江戸川、多摩、海老名、箱根、逗子、真鶴、身延、鰍沢、韮山、修善寺、天竜、春野、妙高、小諸、佐久、小海、信濃、白馬、穂高、安曇、高遠、紫雲寺、糸魚川、宇奈月、氷見、輪島、羽咋、珠洲、加賀、美濃、春日井、碧南、各務原、養老、余呉、木之本、伊吹、近江、信楽、湖北、瀬田、舞鶴、瑞穂、丹波、精華、斑鳩、上牧、天理、大宇陀、曽爾、明日香、吉野、天川、伊勢、鳥羽、志摩、尾鷲、串本、御坊、竜神、花園、千早赤坂、住吉、交野、高槻、箕面、城崎、香住、五色、緑、宝塚、須磨、明石、出石、千種、上月、赤穂、備前、美作、鏡野、牛窓、長船、倉敷、金光、美星、尾道、宮島、世羅、神石、三次、加計、八千代、三朝、米子、隠岐、松江、出雲、大社、津和野、柿木、弥栄、萩、美祢、光、橘、琴平、綾歌、日和佐、鳴門、安芸、土佐、宿毛、御荘、明浜、面河、双海、伊予、玄海、宗像、稲築、太宰府、筑紫野、杷木、八女、柳川、唐津、鳥栖、伊万里、呼子、諫早、平戸、西海、福江、有明、泗水、天水、岱明、天草、八代、球磨、阿蘇、竹田、耶馬渓、湯布院、九重、臼杵、高千穂、椎葉、都城、霧島、伊集院、薩摩、隼人、開聞、垂水、名瀬、那覇、与那城、読谷、糸満、南風原、西之表、渡嘉敷、与那国、石垣、竹富。

                                                              

   礼文男鹿遠野真鶴伊勢千種津和野綾歌椎葉竹富

 日本地図を辿り、好みによって地名を拾いあげて行くと、かくのごとくで、地名による漢字ばかりの一首が出来た。基準は専ら語感による。ほかにまだ見落とている地名もあるだろうが、とにかく、日本の北から南へ、我が感性と想像力に任せて地図の上における想像の旅を試みる。地名はみなそれぞれに美しく、歴史と人々の愛着並びに矜持の風景を伴って、想像に与する私を迎えてくれる。これが、所謂、地図の旅である。

 なぜ、地名は魅力的なのか。それは地名の由来に人々の愛着が反映されているからであろう。その地名を辿る旅は、昼でも夜でも、思い立てばいつでも出来る。天候に左右されることなく、費用もかからない。ただ、想像力を働かせればよい。一度も訪れたことのないところでも、美しく想いを巡らせる。それだけで旅は叶う。これが地図の旅の心やすさである。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年09月28日 | 創作

<392>  掌 編 「花にまつわる十二の手紙」 (6)  小紫陽花 (こあじさい)       ***<391>よりの続き***

 あなたは五歳で亡くなって、私の心の中では今もそのときのままですが、それではあなたがかわいそうだと、そのとき気づいたのです。亡くなったからといって、成長が止まるというのではあまりにも不憫です。母である私の心の中だけでも成長して行ってもらわなければならないと、てきぱき車を引き揚げてくれた若い男の人を見て思ったのです。お父さんは何も言わなかったけど、私と同じ気持ちではなかったかと思います。だから、あなたのことを、今後は「ひでちゃん」ではなく、「ひでさん」と呼ぶことにしました。

   昨日今日 ありて今日とふ この日にも 思ひは募る あなたへの母

 車が揚がったとき、みんな一斉に拍手をしてくれました。四人の家族は、子供たちにせがまれ、川遊びのため、早めに下山したらしく、若い男女の方も、吉野山に寄って大阪へ帰るため下りて来たとのことでした。そのタイミングもさることながら、よい人たちに出会えて本当によかったとつくづく思いました。

 あのときの安堵は言いようのないもので、助かりました。何とお礼を言ってよいものかわからず、住所と名前を聞いて、後日お礼に何か送らせてもらおうと思い、それを申し出たのですが、「お互いですから」と、年配の御主人も若い男の人もさりげなくそう言って、車を走らせて行きました。お父さんは感謝し切れない思いだったのでしょう。何度も頭を下げていました。

 結局、この日は山登りをすることなく、麓の辺りで、花の写真を撮るお父さんに付き合いました。ちょうど、杉林の明暗の中に小紫陽花が咲き、こういうところにも生きとし生けるものの美しい世界があるのだという感じがして、車のアクシデントが、結果として、この小紫陽花の世界へ私たちを導いてくれたのだという気持ちになりました。薊岳に登っていれば、薊岳の世界があったはずですが、そうすれば、小紫陽花の世界には出会えなかったはずです。人生は一度切り。その一度切りの連続。その一度が満足のいくものであればよいのですが、そうはなかなかいきません。これがこの世というものでしょう。

 よく一石二鳥と言われますが、一度に二つのことを叶えることは至難なことです。この日は自ら選んだわけではありませんが、山には登れず、このような一日になりました。しかし、これでよかったのかも知れません。カメラのファインダーを覗くお父さんの熱の入れようを見ているとそう思えました。

                     

 杉林の中で、言葉を発することなくもの静かにほのかな灯りを点すように咲く小紫陽花を見ていると、その花に、受け入れがたく、しかし受け入れなくてはならなかったあなたの辛い死からもう何年になるか、寡黙に過ぎたその日月のことが思い出されました。

 一度切りの人生。感じるか、感じないか。感じて苦しむこともありますが、感じることは大切なことだと思います。死んだ子の歳を数えてはいけないと日ごろ思いながら、この日、私はあなたを思い出し、あなたの歳を数えて涙しました。今後は、あなたのことを「ひでちゃん」ではなく、「ひでさん」と呼ぶことにします。

 とんだハプニングで、目的の薊岳に登れず、残念でしたが、ハプニングのおかげで、よい人たちに出会え、あなたのことを思い出し、あなたに対する私の気持ちを確かめることが出来ました。少し車は傷ついたけど、何かありがたいような気分にさせられた一日でした。今日はこのあたりでね。では、また、いつか。お休みなさい。     母より   

 この手紙は五歳で亡くなった長男一夫に宛てて書かれた母三山友紀子の心の便りである。


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2012年09月27日 | 創作

<391> 掌 編  「花にまつわる十二の手紙」 (6) 小紫陽花 (こあじさい)

       小紫陽花 咲くほの明かり 思ふだに 寡黙に過ぎし日月のあり

 ひでさんへ。 これまで、あなたのことを「ひでちゃん」と呼んでいましたが、この間のことがあって、「ひでさん」と呼ぶことにしました。私の心の中では、今もあなたは亡くなった五歳のときのままですが、この間の件があって以来、それではいけないような気がして来たのです。

 それは、家族三人で久しぶりに山登りをしようと、奈良県の東吉野村と川上村の境界に位置する薊岳(一四二五メートル)を目指したときのことです。この日は、登り易い二階岳方面からのコースを取り、車で東吉野村の林道麦谷線を登山口まで行きました。道路脇に車を止めて登る予定でしたが、地図を忘れたこともあって、道を間違い、車を高見山方面に走らせたため、登山口への到着が予定よりも一時間ほど遅れました。

 登山口の林道脇には既に六台ほど車が停めてありました。ここから登るんだと思いながら見ていると、お父さんは車の向きを変えるため、登山口を通り過ぎてなお先へ車を進めました。五分ほど走って地蔵峠の広い場所に着きました。峠は見晴らしのよいところで、水木が花を咲かせていました。お父さんは「いい感じだ」と言って、カメラを取り出し、薊岳を背に花盛りのミズキを撮りました。アクシデントが起きたのはその直後です。

 峠の広い場所で車の方向を転換すればよかったのですが、お父さんは好奇心を出して、「もう少し行ってみよう」と、なお先へ車を走らせました。それがあの日の困難の始まりでした。道は舗装してあったのですが、それがかえって油断になり、少しカーブした日蔭のところでブレーキをかけた途端スリップして、あっという間に前輪を溝に落としてしまいました。路上一面に土砂が溜まり、その上に杉の落ち葉が積もっていたのです。それが、悪いことに前日の雨で土砂も落ち葉も水をたっぷり含み滑りやすくなっていました。

 溝はかなり深く、三人で車を引き揚げるには無理がありました。それでも、脱輪した車輪に石をかませたりして、引き揚げを試みました。しかし、車はびくともしませんでした。誰かに手助けしてもらわなければなりません。しかし、携帯電話も圏外で通話出来ず、連絡の取りようがありませんでした。道のりを考えると、麓の集落まで歩いて助けを求めに行くのは大変です。どうすればよいか、困ってしまいました。

 あのときは、今日中にこの状況を打開しなければならないという思いでした。打開するには、誰かに接触すること。それしかありません。そこで、ここから一番近いのはと考え、「登山している人に頼んだら」とお父さんに話しました。お父さんも「それしかないな」と言って、登山口まで助けを求めに行くことにしました。登山口には牽引出来る四輪駆動のワンボックスカーも停めてありました。安易ではありましたが、持ち主にお願いすれば、きっと助けてもらえる。そう思って、私たちは三十分ほどかけて二階岳の登山口まで歩き、そこで車の持ち主が下山して来るのを待ちました。

                                   

 待つこと二時間。登山道の木の間越しに上の方から声がして、若い男女と四人家族の二つのグループが降りて来ました。幸い若い男女の方が四輪駆動車の持ち主でした。早速、こちらの事情を話し、助けを求めたところ、快く引き受けてくれました。四輪駆動車でない方の年配の御主人も来てくれるというので、大船に乗った気持ちになりました。それから、私たちは四輪駆動車に乗せてもらって現場まで戻りました。四輪駆動はすごいものです。人の力では微動もしなかった車が、牽引すると、あっという間に揚がりました。

 そのとき、てきぱきと作業する若い男の人を見ていて、ふと、あなたのことを思い出したのです。あなたが生きていたら、ちょうどこのくらいだろうなと思った途端、涙が溢れて来ました。そこで、あなたのことをいつまでも「ひでちゃん」と呼んでいてはいけないと思ったのです。   ~次回に続く~

  

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年09月26日 | 写詩・写歌・写俳

<390> 我が肉体と精神

       肉体と精神ここに一躯体つねに齢とともにあるなり

 今日は久しぶりにフルヌードで体重計に乗った。出て来た数値を見ると、身長170センチ、体重62キロ、体脂肪率21.2だった。手術直後は身長170センチ、体重59.5キロ、体脂肪率19ほどだったので、少し体重が増えた。だが、節制のお陰で、まずは基準維持が出来ていると言えようか。このところ体調はよい。もちろん、薬は欠かさず飲んでいる。

 ヌードになったついでに、鏡を覗いて上半身の写真を撮った。何も誇るところはないし、ナルシストでもなく、少々気恥かしい気分はあるが、胸開手術後の写真をブログに載せることはあるいは誰かの参考になるかも知れないと思い、少々抵抗はあったけれど、思い切って載せることにした。よく見れば、微かに胸の中央部を縦に手術の痕跡が見える。肉眼ではもっとはっきりしているが、随分回復した。もちろんのこと胸の内部は医療機関で検査してもらわなくてはわからないが、体の再生力というものが手術の傷痕を見るとわかる気がする。内部の方もこの傷痕と同じように多少は再生に向っているのではないかと思われる。

                                        

 体脂肪率が2.2増えているのは下腹が肥えて来たことに比例しているように思えるが、これはやはり運動不足によるものだろう。山には足を運ぶけれども週一ほどである。少しこの点を考慮し、運動の励行が求められるところである。だが、この運動の励行がなかなか出来ない。暑いとか寒いとか、雨だからとか理由づけをしてやらない。これではいけないのだが、出来ないでいる。

 よく「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言われるが、古代ローマの詩人ユウェナリスに出典をみるこの言葉とは裏返しに、精神の力が肉体に及ぶことも考えられることが生活習慣病と言われる現代病なんかにはうかがえることに気づく。

 古希に近い年齢であれば、身体の隅々まで、病気とまではいかないまでも、どこにどんな弱点を抱えているかは察しがつく。そして、その弱点とも精神は付き合って、ときにはその弱点に巻き込まれて弱り切ることもあるが、とにかく、肉体と精神はバランスされて一躯体をなし、この我が身もあるということになる。写真には肉体しか写っていないが、その内側には精神が宿っている。

 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉をもっと簡潔に言えば、「精神は肉体に宿る」となる。これは肉体イコール精神であり、精神イコール肉体でもあることにほかならない。「病気は気から」と言われるが、気とは精神のことであり、病気とは肉体に発症する(精神疾患も脳という肉体に発症する)ものであることが思われる。とにかく、自覚において体調がまずまずというのは、この一躯体にとって何よりのことと言える。 写真は左が我が視覚による精神の産物。右は我が肉体の一部。