<1118> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (79)
[碑文1] 露とくとく試み(心み)に浮世すゝがばや 松尾芭蕉
[碑文2] 春雨のこしたにつたふ清水かな 同
碑文1の句も碑文2の句も、芭蕉が吉野山奥千本の西行庵旧跡を訪ねたとき、その道すがらにある西行ゆかりの「苔清水」において詠んだものである。「苔清水」は西行が「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」と詠んだ「とくとくの清水」から来ているもので、西行庵とこの歌によって知られ、その名は地名のようにもなり、西行に尊敬の念を抱いていた芭蕉にはあこがれの場所でもあったと思われる。芭蕉は吉野山へ二度、秋と春に訪れているが、二度ともこの一番奥深い奥千本の西行庵旧跡まで足を運び、二度ともこの「苔清水」において作句している。
碑文1の句は『野ざらし紀行』の貞享元年(一六八四年)秋のことで、門人苗村千里を伴い訪れた。この句には、「西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計(ばかり)わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづか有り、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける」という前書があり、この句が生まれた経緯を述べている。
「西上人」とは西行のことで、「奥の院」は奥千本の金峰神社のことである。神社に「奥の院」とは妙であるが、これは神仏習合の修験道によるところ。吉野山の金峯山寺蔵王堂との関わりによってそう呼ばれていたのだろう。この「奥の院」は明治時代の廃仏毀釈によって衰亡の憂き目に遇い、今はこじんまりとした社殿のみが目を引く神社で、当時はもっと奥まで塔頭等があった模様で、宝塔院跡などがうかがえる。芭蕉の時代にもなお奥に山仕事などに入る細い山道があり、その二町(約二二〇メートル)ほど先のところ、険しい谷を隔てた山ふところに西行庵旧跡はあり、近くに「苔清水」もあって、西行が庵を結んでいたときさながら、岩苔から清水が止めどなく滴り落ちていたということである。
西行はそのとくとくと落ちる清水に、独り住まいにその水を使い切るほどもない自分の日々の暮らしを重ねて歌にしたのである。この「とくとくの清水」に呼応して芭蕉の碑文1の句はある。この西行の歌に対し、芭蕉は濁世にある自分の身をこの清水で漱ぎ、西行のような境地に至りたいと思ったのである。欲求を満足させることに突き進む現代人には理解しがたいような侘び住まいの一景を詠んだものであるが、この世知辛い世の中にあっては西行や芭蕉にあこがれを抱く御仁もあろうことも思われて来る。
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碑文2の句は『笈の小文』の貞享五年(一六八八年)春のことで、この旅には門人坪井杜国が随伴し、吉野山では桜が目的だったことは、出発に際し「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」と詠んで、笠のうちに書きつけたことでもわかる。だが、この旅でも奥千本の西行庵旧跡を訪ねた。芭蕉には、桜のみならず、西行庵の旧跡も杜国に見せてやりたいという親心があったのではなかったか。
『笈の小文』では碑文2の句の後に「よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀(あはれ)なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折(しをり)にまよひ、かの貞室が是は是はと打ちなぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立ちたる風流、いかめしく侍れども、爰(ここ)に至りて無興の事なり」と感慨の言葉を添えている。
「摂政公のながめ」というのは、中世の歌人、摂政太政大臣藤原良経の「昔たれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ」(『新勅撰集』巻二)という歌を指す。次の「西行の枝折」は、「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねむ」 (『新古今和歌集』86)を指し、安原貞室の「是は是は」は、「これはこれはとばかり花の吉野山」 (『曠野』)をいうもので、芭蕉にはこういう先人の歌や句ばかりが思い出され、自分には言葉が出て来ず、口を閉ざしたのが悔しく、なさけないと言っているのである。
勇んでことに当たると、気持ちが空回りして、このような仕儀に陥ることが往々にしてあるもので、このときの芭蕉には、みごとな桜の花に気持ちは高まるものの言葉がそれに追い着かず、歯痒い思いに陥ったという次第である。西行庵旧跡は奥千本の一番奥にあるが、芭蕉の時代には、まだこの付近には桜が植えられてなく、杉や檜も植林されておらず、自然林だったはずで、現在とは随分その景観を異にしていたと思われる。
「苔清水」にしても、現在の清水は岩苔を伝ってとくとくと落ちる風情ではなく、山里風に竹を割って作ったかけ樋に清水を導き、西行庵旧跡を訪れる人たちを迎えているところがある。そのかけ樋の両脇に芭蕉の句碑は建てられている。風化によってやっと句を確認出来るほどであるのが芭蕉の句碑らしく、愛しくなるようなところがうかがえる。写真は左から西行庵旧跡の庵(中に西行法師の坐像が安置されている)。次に「露とくとく」の句碑と「春雨のこしたにつたふ」の句碑。右端の写真は、竹のかけ樋から流れ落ちる清水。 芭蕉あり 西行あり 春 吉野山