大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年09月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1122> 果実に思う

          山葡萄 葉が色づけば 実も熟るる

 「花は過程、果実は成果」――山野の花を撮影するようになり、述べて来た言葉である。生きものは動物にしても、植物にしても、どんな環境においてもこの成果に向かって生きていることが言える。どんな生きものもこの成果に向かっている実感にあるとき充実を覚えると言ってよかろう。そして、成果が遂げられるとき悦びはつのる。植物は今、草も木も大方のものがこの成果の喜びに浸る季を迎えている。

                       

 果実はさまざまな過程を経て、最後は大地の居場所に落ち着き、あるものはそこで冬を越し、春に新しい命の芽を出す。落ち着く場所を誤れば、その命の芽は育めない。だが、果実は多数に及んでいるから、その一つくらいは落ち着ける場所に落ち着いて新しい芽を育む。もちろん、幸運ばかりを頼みにしているわけではなく、草木は落ち着ける場所に落ち着くべく努力をしている。

 ナナカマドやフウリンウメモドキの果実が紅く派手な色をしているのは小鳥たちに食べてもらい糞と一緒に種をほかのところに運んでもらうためである。果実がミリ単位の小さな球形であるのも小鳥たちが啄みやすくしているからと見てよかろう。つまり、これはナナカマドやフウリンウメモドキが成果を次に繋げて行く遠い昔からの何代もの努力によるものである。バライチゴの紅いつぶつぶの実は小動物に食べてもらうためであろう。ヤマブドウにはサルがやって来る。大きな葉が色づくころ果実は熟す。

 これに対し、トウヒ、ウラジロモミ、コメツガといった常緑針葉樹の高木連中はみな風のよく通る高い梢に雌花を咲かせ、どちらかと言えば、色彩的には目立たない果実をつける。これは連中が鳥などには頼らず、風を利用して子孫を殖やすやり方を採っているからであろう。言わば、これも長年の努力によってある姿ということが出来る。 写真は樹木の果実。左からトウヒ、コメツガ、ウラジロモミ、ヒノキ、フウリンウメモドキ、バライチゴ、ナナカマド、ヤマブドウ。

 


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2014年09月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1121>  月

           何ごとの あれど時ゆく その時の 今の時なる 中天の月

 私たちにとって太陽というのはすべてを統べる存在であり、月というのは統べられてある私たちと同じ位相の存在であることが思われる。言わば、太陽は神に等しく、月は神に従属する私たちに等しい側にある。そして、それは太陽なくしては顕現し得ない存在であって、私たちに寄り添うべくある精神性を有していることが思われる。私たちにとって、神に等しい太陽は絶対的畏敬の存在であり、その領域は畏れとともに憧れとしてある。これに対し、月は私たちの心に寄り添い、やさしく接して癒してくれる相対的存在としてあることが言える。

 詩歌というのは、私たちの心から発せられるものであるから、そこに用いられる言葉の素材は感じて心に添い来るものが選ばれる。このことからして言えば、神的尊崇の高みにある太陽よりも、生きとし生けるもの、即ち、影を引き、陰を知る側の私たちと同じ位相の月の方に、私たちの気持ちは通い、より親密に添い来て、詩歌にもよく登場するということになる。では、以上の見解を元に『日本童謡集』から月の登場する歌を探ってみたいと思う。以下にあげるが、まさにさまざまな心模様に絡んで月は登場しているのがわかる。太字は題名。

 「夏は来ぬ」――楝(あうち)ちる川べの宿 門遠水鷄(くいな)声して 夕月すずしき 夏は来ぬ  「港」――空も港も夜は晴れて 月に数ます 舟の影 はしけのかよいにぎやかに 寄せくる波もこがねなり  「朧月夜」――里わの火影も 森の色も田中の小路を たどる人も 蛙の鳴くねも かねのねも さながら霞める 朧月夜  「夕焼小焼」――夕焼小焼で 日が暮れて 山のお寺の 鐘がなる お手々つないで 皆かえろ 烏と一緒に 帰りましょう 子供が帰った 後からは 円い大きな お月さま 小鳥が夢を 見る頃は 空にはきらきら 金の星 

 「かなりや」――唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす  「浜千鳥」――青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から 生まれでる 濡れたつばさの 銀の色  「証城寺の狸囃子」――証、証、証城寺 証城寺の庭は ツ、ツ、月夜だ 皆出て来い来い来い おいらの友達ア ぽんぽこぽんのぽん  「雨降りお月さん」――雨降りお月さん 雲の陰 お嫁に行くときゃ 誰とゆく ひとりでからかさ さしてゆく からかさないときゃ 誰とゆく シャラシャラシャンシャン 鈴つけた お馬にゆられて 濡れてゆく 

 「月の砂漠」――月の砂漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました 金の鞍には銀の甕 銀の鞍には銀の甕 二つの甕は それぞれに 紐で結んでありました さきの鞍には王子さま、あとの鞍にはお姫様 乗った二人はおそろいの 白い上着を着てました 広い砂漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう 朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと 沙丘を越えて行きました  「あのこはたあれ」――あの子はたあれ たれでしょね お窓にうつった 影法師 おそとはいつか 日がくれて お空にお月さんの 笑い顔  「花」――錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の ながめを何にたとうべき  

 「花影」――十五夜お月さま ひとりぼち 桜ふぶきの 花影に 花嫁すがたの おねえさま くるまにゆられて ゆきました  「浜辺の歌」――ゆうべ浜辺を もとおれば 昔の人ぞ 忍ばるる 寄する波よ かえす波よ 月の色も 星のかげも  「宵待草」――待てど 暮せど こぬひとを 宵待草の やるせなさ こよいは月も 出ぬそうな  「荒城の月」――天上影は 変わらねど 栄枯は移る 世のすがた 写さんとてか 今もなお ああ荒城の 夜半の月

                                              

  以上のごとくで、詳しく調べればまだほかにもあるだろう。多いと言える。これに対し、太陽、即ち、お日さまの登場する歌はこれほど多くはない。これは太陽に比して、月が私たちと同じ位相にあって、心やすく接していられる存在だからではないだろうか。太陽は強く頼もしく、希望に繋がるが、詩歌というのは、私たちのそういうところよりも、悲しみとか辛さとか、日々の中でも、そういう心情に寄り添うところがあり、その詩精神において私たちには月が親しく、より意識されるからだろう。

  月が登場するこれらの童謡をうかがっていると、戦前に作られたものが圧倒的で、戦後のものにあまり月の登場がなく、近年、殊に少なくなっていることが指摘出来る。これはどういうことなのだろうか。思うに、現代人が自然に触れる機会を少なくし、月に以前ほど関心を持たなくなったからではなかろうか。それは、月が現代人の心情に寄り添わないからで、一面には摂取にやっきな欧米文化の現れと、それにともなう風土性の失われて行く現われと見てよいように思われる。光と陰の中で、光ばかりを追い求めて、陰の方を見ようとしない現代人の現れのようで、少し気になるところである。この間、久しぶりに「月の砂漠」を聴いて胸に迫る思いがしたのは、この傾向によるからではないかと思えた。写真は左から満月、下弦の月、上弦側の三日月(上部の光跡は飛行機による)。

 

 

 


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2014年09月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1120> 大台ヶ原へ

      あれが釈迦 あれが八経 大普賢  晴れて八体 大峰山脈(おほみねのやま)

 今日は予定していたので、また、大台ヶ原に赴いた。快晴の天気で涼しい風もあって山歩きには絶好の季節になった。朝晩冷え込むようになって、早いツツジ、カエデ、ツタ、ウルシ類に紅葉が見られるようになった。日曜日なので、人出があるだろうと予想して出かけたら、予想が的中、広い駐車場は満杯だった。人気スポットの大蛇では人波が絶えなかった。

          

  天気がよかったので大蛇からは大峰山脈が南の端から北の端まではっきりと一望出来た。この山脈の尾根筋には大和の吉野から紀伊の熊野に通じる修験者の祈りの道である大峯奥駈道が通っている。冒頭の短歌はこの大峰山脈の眺望を詠んだもので、ここで言う八体はこの山並の南から大日岳、釈迦ヶ岳、仏生ヶ岳、明星ヶ岳、八経ヶ岳、弥山、行者還岳、大普賢岳の八つの主な峰々のことで、神仏習合、修験、密教に関わりが深く、みな仏教に因んだ名を持っている。山上ヶ岳は右奥に当たるが私にははっきりわからなかった。

            

 それにしても、木曽の御嶽山は大変なことになっている。山に登る同輩の被災はまこと身に詰まされる。正午前の噴火は最悪のタイミングだった。それも週末、天気もよく山頂付近に一番登山者の多い刻限だった。登山者には逃げ場のないどうしようもない状況下で噴煙に襲われた。

  地震でもよく言われることであるが、発生の予知は出来なかったのだろうか。3・11の大震災以降、近々火山に動きがあると言われていた。この噴火はそれに結びつくものではないか。まだ、水蒸気爆発で、大きな火砕流がなかっただけ、助かったと言えるが、噴火による死傷者は防げなかったのだろうかということが問われそうに思われる。

  今日はこの御嶽山の噴火のことを考えながら山歩きをした。写真は上段左が満杯の大台ヶ原の駐車場(後方は大台ヶ原ビジターセンター)、右はカエデの黄葉。写真下段は大蛇から見た大峰山脈(中央付近が標高一九一五メートルの近畿の最高峰八経ヶ岳)。


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2014年09月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1119> 子供の貧困に思う

         認識することから ことは始まる

       あなたは 何を認識しているか

       遠い国の 遠い戦火も

       認識におけば 理解に及ぶ

       近くの憂いも 認識しなければ

       遠い国のことに 等しくなる

 子供の貧困率ということが言われている。その目安は、十七歳以下の子供を対象に、その子が養われている家庭の年収(可処分所得=税金や社会保険料を差し引いた実際に使える金額)がその国の一家庭当たりの平均年収(同)の50%以下の家庭とされている。中にはこのパーセンテージが異なる国もあるが、日本はこのように年収の実際に使える金額が四人世帯で250万円以下、三人世帯で217万円以下を貧困家庭としている。この基準に沿って日本におけ子供の貧困率を見ると、16%に及び、三百万人を越える子供たちがその状況に陥っていると言われる。この状況は先進国の中では高い率で、対策が必要だとされている。

 子供の貧困は個々いろいろな事情によって生じていると言えるが、目立って見られるのは母子家庭の子供で、中でも母親が働いている家庭に多く見られるという調査結果が出ている。酷い貧困状況では、食事にもこと欠き、うどんとかカップラーメンなどを分け合って食べているという状況も見られるという。これは、物が溢れかえり、何でも不自由なく手に入れることが出来、食においてもそれが言える飽食の現代において考えられないような実態であるが、社会の見え難い片隅ではこうした悲痛な生活状況が進行している。

 このような貧困の状況は、個人的な経緯も絡んであるが、社会の歪んだ状況というものが底辺部の見えないところにしわ寄せされていると言ってよいように思われる。この状況をどのように捉え、たださなければならないか、智恵を出し合って行かなくてはならないところで、殊に政治の役割が大きいと思われる。

       

 こうした問題を解決して行くには、問題を共有してかかる必要がある。哲学者の梅原猛は『古典の発見』の中で「ものを認識するには自己の方になにかがなければならぬ。なにかがあるから、むこう側のなにかが分かるのである」と言っている。この言葉からして言えば、社会の底辺で喘いでいる子供たちがいることに意識が向かわなければ、それへの対応は十分になされず、忘れ去られてしまい、いつまで経ってもこの問題は解決しないということになる。

 言わば、こうした社会問題には、それに関わる何かが意識のうちになくてはならないということが言える。例えば、毎日摂取している食のことも、それに意識をして行かなければ、何も見えて来ず、問題があっても問題にはもならず、解決の方策も出て来ないということになる。然るに、現代はこういう子供の貧困状況などは他人事のように無頓着で日々の生活を送っている社会状況にあるということが言える。言わば、現代人の頭の中にはこの問題に対して何もなく、あたかもこのような社会状況の現われが常識としてあるがごとく思われている傾向がある。これは梅原が指摘する自己の認識の問題であり、これは現代人の食に対する認識に通じるところとも言える。思えば、コンビニやスーパーマーケットの食材が一日にどれほど売れ残り、人の口に入らず、無駄に捨てられているかということがある。このことにもったいないという認識があれば、いろんなことが考えられ、現代人の常識となっていることにも疑問符がつけられ、子供の貧困状況も改められる。

 その毎日廃棄される食材は、どのように処分されているのだろうか。豚の餌にでも回されるのかも知れない。とすれば、豚はカップラーメンをすすりながら日々の食に耐えている貧困家庭の子供よりも良質の食物に与かっているということになる。ペットブームのご時世では人間の子供よりも犬や猫の方が栄養豊かな食生活を送っているケースだってある。これをどう見るかは人それぞれかも知れないが、子供の貧困を考えるとき、やはり、梅原が言う「認識」が思われて来るところで、私たち社会人に何かがなくてはならないことに思いが行くわけである。

 例えば、捨てられる食材を、安価に求め、それを貧困家庭等に回すような仕組みは考えられないかということなどもこの問題からは俎上にのぼらせることが出来る。こういうのがシステムとして可能になれば、コンビニやスーパーマーマーケットのような販売側も多少は損失を補うことが出来、資源の無駄を少なくすることにも通じることになり、この食材を受け取る側も生活の向上に繋げることが出来る。その橋渡しをするのは役所であり、NPOのようなボランティア組織であろう。役所は多少の補助をすればよいわけで、販売側の企業にしても社会貢献が出来る。言わば、そこには一石三鳥とも言える社会事業が成り立つ。

 もちろん、これにはいろんな支障も出て来ることが考えられるが、智恵を出して臨めば、悪い方向には進まないと思われる。とにかく、こういう問題には梅原の『古典の発見』が言うように、まずは問題への認識に及ぶようにしなければならないことが大切である。子供の貧困は他所の誰かの絵空事ではなく、個々それぞれが意識をもって向わなくてはならない問題であると言える。写真はイメージで、芙蓉の花とふかしいも。


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2014年09月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1118> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (79)

               [碑文1]    露とくとく試み(心み)に浮世すゝがばや                           松尾芭蕉

                 [碑文2]   春雨のこしたにつたふ清水かな                            同

 碑文1の句も碑文2の句も、芭蕉が吉野山奥千本の西行庵旧跡を訪ねたとき、その道すがらにある西行ゆかりの「苔清水」において詠んだものである。「苔清水」は西行が「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」と詠んだ「とくとくの清水」から来ているもので、西行庵とこの歌によって知られ、その名は地名のようにもなり、西行に尊敬の念を抱いていた芭蕉にはあこがれの場所でもあったと思われる。芭蕉は吉野山へ二度、秋と春に訪れているが、二度ともこの一番奥深い奥千本の西行庵旧跡まで足を運び、二度ともこの「苔清水」において作句している。

  碑文1の句は『野ざらし紀行』の貞享元年(一六八四年)秋のことで、門人苗村千里を伴い訪れた。この句には、「西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計(ばかり)わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづか有り、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける」という前書があり、この句が生まれた経緯を述べている。

  「西上人」とは西行のことで、「奥の院」は奥千本の金峰神社のことである。神社に「奥の院」とは妙であるが、これは神仏習合の修験道によるところ。吉野山の金峯山寺蔵王堂との関わりによってそう呼ばれていたのだろう。この「奥の院」は明治時代の廃仏毀釈によって衰亡の憂き目に遇い、今はこじんまりとした社殿のみが目を引く神社で、当時はもっと奥まで塔頭等があった模様で、宝塔院跡などがうかがえる。芭蕉の時代にもなお奥に山仕事などに入る細い山道があり、その二町(約二二〇メートル)ほど先のところ、険しい谷を隔てた山ふところに西行庵旧跡はあり、近くに「苔清水」もあって、西行が庵を結んでいたときさながら、岩苔から清水が止めどなく滴り落ちていたということである。

  西行はそのとくとくと落ちる清水に、独り住まいにその水を使い切るほどもない自分の日々の暮らしを重ねて歌にしたのである。この「とくとくの清水」に呼応して芭蕉の碑文1の句はある。この西行の歌に対し、芭蕉は濁世にある自分の身をこの清水で漱ぎ、西行のような境地に至りたいと思ったのである。欲求を満足させることに突き進む現代人には理解しがたいような侘び住まいの一景を詠んだものであるが、この世知辛い世の中にあっては西行や芭蕉にあこがれを抱く御仁もあろうことも思われて来る。

             

 碑文2の句は『笈の小文』の貞享五年(一六八八年)春のことで、この旅には門人坪井杜国が随伴し、吉野山では桜が目的だったことは、出発に際し「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」と詠んで、笠のうちに書きつけたことでもわかる。だが、この旅でも奥千本の西行庵旧跡を訪ねた。芭蕉には、桜のみならず、西行庵の旧跡も杜国に見せてやりたいという親心があったのではなかったか。

 『笈の小文』では碑文2の句の後に「よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀(あはれ)なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折(しをり)にまよひ、かの貞室が是は是はと打ちなぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立ちたる風流、いかめしく侍れども、爰(ここ)に至りて無興の事なり」と感慨の言葉を添えている。

 「摂政公のながめ」というのは、中世の歌人、摂政太政大臣藤原良経の「昔たれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ」(『新勅撰集』巻二)という歌を指す。次の「西行の枝折」は、「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねむ」 (『新古今和歌集』86)を指し、安原貞室の「是は是は」は、「これはこれはとばかり花の吉野山」 (『曠野』)をいうもので、芭蕉にはこういう先人の歌や句ばかりが思い出され、自分には言葉が出て来ず、口を閉ざしたのが悔しく、なさけないと言っているのである。

 勇んでことに当たると、気持ちが空回りして、このような仕儀に陥ることが往々にしてあるもので、このときの芭蕉には、みごとな桜の花に気持ちは高まるものの言葉がそれに追い着かず、歯痒い思いに陥ったという次第である。西行庵旧跡は奥千本の一番奥にあるが、芭蕉の時代には、まだこの付近には桜が植えられてなく、杉や檜も植林されておらず、自然林だったはずで、現在とは随分その景観を異にしていたと思われる。

 「苔清水」にしても、現在の清水は岩苔を伝ってとくとくと落ちる風情ではなく、山里風に竹を割って作ったかけ樋に清水を導き、西行庵旧跡を訪れる人たちを迎えているところがある。そのかけ樋の両脇に芭蕉の句碑は建てられている。風化によってやっと句を確認出来るほどであるのが芭蕉の句碑らしく、愛しくなるようなところがうかがえる。写真は左から西行庵旧跡の庵(中に西行法師の坐像が安置されている)。次に「露とくとく」の句碑と「春雨のこしたにつたふ」の句碑。右端の写真は、竹のかけ樋から流れ落ちる清水。  芭蕉あり 西行あり 春 吉野山