大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年01月19日 | 祭り

<505> 平尾水分神社のおんだ祭り

       寒の夜の おんだ祭りの 予祝かな

 十八日の夜、宇陀市大宇陀平尾の平尾水分神社で御田植祭のおんだ祭りが行なわれ、出かけてみた。平尾水分神社は大和四水分社の一社で知られる宇太水分神社の末社で、おんだ祭りは大寒に近い一月十八日の夜に行なわれることになっている。祭りの所作は今年の当家である大当、小当の男性二人と「しょとめ」と呼ばれる早乙女役の子供五人によって行なわれる。

  七人は白装束で登場し、用いられる農具は鍬一つで、口上を主体に、江戸時代ころの古式が保たれた所作が披露される。祭りは所作の最後に「若宮さん」と呼ばれる病気平癒の人形の登場するのが特徴で、奈良県の無形民俗文化財に指定されている。

 所作の進行は台本によって進められ、「鍬初之事」から「苗代角打之事」、「福の種を蒔事」、「御田植之事」などを経て、「追苗取之事」までの十五項目について順次進められ、「御田植之事」で五人の「しょとめ」が登場し、鍬を担いだ大当を先頭に歩く。

                                                                

  「しょとめ」はタケで編んだ大きな笠を背中に、「なえさん」と呼ばれる稲の穂殻とシキミの葉をつけたススキの茎を手にして歩く。本来は男児が務めることになっているが、少子化する近年の事情により、女児も加わるようになったという。「御田植之事」と最後の「追苗取之事」のとき、この祭りのクライマックスとされる黒い翁面をつけた「若宮さん」と呼ばれる人形が小当に抱かれ、間水(けんずい・おやつのこと)とともに登場する。

  この「若宮さん」には体のいたるところに紙縒りが巻かれており、この紙縒りを患部に当てるとその病疾は治るということで、来訪者はそれぞれに自分の悪いところを申し出てその部分の紙縒りをもらっていた。家族の分もということで、何本ももらって帰る人も見られた。申し出が終わると、「若宮さん」は小当に抱かれて帰り、奥の箱に納められて祭りは終了となった。

                                           

  おんだ祭りの御田植祭は、各地で形式や表現が少しずつ違っているが、その祭りに求められる願いは五穀豊穣であり、無病息災であり、子孫繁栄であるのがわかる。そして、予祝という意味合いが強く、ユーモラスな表現をもって行なわれるのが共通点としてあげられる。これらのことをひっくるめておんだ祭りの御田植祭を思うに、そこには農業、殊に稲作というものが、どんなに大変なものであったかということが想像出来るのである。

  農耕従事者というのは、飢饉があって一年を棒に振れば、次の一年は食って行けなかった。この人たちにとって、作物の育成技術が未熟だった時代、これは実に深刻な問題だったのである。ゆえに、農耕従事者は貯め置くこと、つまり、貯蓄する知恵を身につけたのである。祭りにユーモアが見られるのは、この深刻さの裏返しにほかならないわけで、ここに予祝の意味がある。

                                                          

  平尾水分神社のおんだ祭りでも、聞かれた「まこよ まこよ 福の種を まこよ」という口上にこの共通する願いが見て取れる次第で、「今年もみんなよい年で」という気分が厳寒の夜の神社の境内にはあったと言える。なお、今年は一段と寒さが厳しかったため、子供たちを夜気に曝すことは出来ないということで、祭りは屋内で行なわれた。

 写真の上段は「鍬初之事」の所作。中段は左が福の種を蒔く大当と小当。中は「しょとめ」たちの登場。田植えに向かう所作と見た。右は台本。下段は左が間水桶(手前)と抱かれて登場する「若宮さん」の人形(奥)。中は人形から紙縒りを外す小当。左は小当に抱かれて奥へ帰って行く「若宮さん」。


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2012年06月30日 | 祭り

<302> 夏越の祓 (なごしのはらえ)

    健やかな 一句たのめる 夏越かな

   みなつきのなごしのはらへする人は千年(ちとせ)の命のぶといふなり   『拾遺集』 巻 五 夏 (292)   よみ人しらず

 年に二回、冬と夏に罪や穢れを除き去って無事に過ごせることを願う大祓の行事が各地の社寺で行なわれ、大晦日に行なわれる祓を年越の祓、六月に行なわれる祓を夏越の祓(六月の祓)と呼ぶ。三十日の今日、この大祓の夏越の祓が桜井市布留町の石上神宮であり、出かけた。

  大祓は大宝元年(七〇一年)に出された大宝律令で宮中の年中行事に定められ、禊(みそぎ)をしたり、紙で作った形代を水に流したり、カヤで作った茅(ち)の輪を潜って罪や穢れを祓うという行事で、京都の下鴨神社や東京の山王神社の祓がよく知られるが、発祥の地である大和でも社寺でよく見られる。

  今日はその社寺の一つにあげられる石上神宮に出向いてみた次第である。午後五時から始められた祓の神事の後、冒頭にあげた『拾遺集』の古歌を参加者みんなで歌い上げながら、神剣と参拝者各自が穢れを払い移した紙の人形(ひとがた)を納めた大櫃を担った神官たちを先頭に、参拝者約三百人がその後に従い、境内に設えられた茅の輪を三回潜って祓を行なった。

 生憎の雨模様で、梅雨独特の蒸し暑さがあったが、茅の輪潜りは厳かに行なわれた。参拝者全員が茅の輪を潜った後、希望者に茅の輪のカヤ(ススキ)が配られた。カヤ(ススキ)は生育力が強く、これにあやかって夏の厳しい時期を過ごして行きたいという願いによるもので、夏越の祓の行事には茅の輪が設えられ、茅の輪潜りの行われるのが習いになっている。

 写真は左から、麻布を裂いて、穢れを祓う「裂布」の儀式を行なう神官。参拝者の形代を大櫃へ納める神官。茅の輪潜りの先頭を行く神剣。茅の輪を潜る参拝者の形代を納めた大櫃。老齢者や家族連れが目についた茅の輪潜り(いずれも石上神宮で)。

 この日を境に大和も夏本番である。原発事故以来、節電の話が喧しいが、暑さの厳しい夏を無事に過ごしたいというのはみな同じ願いであろう。冒頭の句の「一句」とは私の総体を言うもので、象徴にほかならない。「健やか」に勝るものはない。

                    


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2012年02月03日 | 祭り

<154> 節分祭 (節分会)
          追儺とは 災ひ多き 人の世の あるはあはれを 言ふにあらずや
  立春の前日は節分で、今年は二月三日がこの日に当たり、各地で節分祭(節分会)が催された。節分祭(節分会)は災いを断って、巡り来る新しい季節(新年)を迎えたいとする人々の願いによって行われるもので、追儺式(追儺会)とも呼ばれ、 古くは旧暦の大晦日の夜に開かれていた。
  追儺の「儺」は「おにやらい」のことで、災いを及ぼす鬼を追い払い、一年が無事幸せに過ごせるように祈る。で、節分祭(節分会)の追儺式(追儺会)には鬼の登場があり、「福は内、鬼は外」と豆を撒くことによってこの鬼を退散させるということになっている。
    豆まきの 豆に込めたる 「福は内 鬼は外」なる春が思はる
  つまり、ここでいう鬼は私たちに災いを及ぼすものの象徴で、 一つには外から攻撃して来る鬼であり、今一つは私たち自身のうちに住みついて悪さをする心の中の鬼であって、誰の中にも宿るとされる鬼である。で、鬼は私たちをいかに苦しめ、 いかに悩ますかを節分の追儺式(追儺会)は物語るが、この追儺には外から入って来る鬼を撃退する意味と自分自身の中に宿る鬼を退散させる精神的な意味があるわけである。
  言ってみれば、追儺式(追儺会)に登場する鬼は私たちにとって悪しく忌まわしい存在で、退治されて然るべきであるが、神仏に関わる鬼の中には神仏の力によって心を改められ、悪鬼から善鬼に変身する例も見受けられる。  今日は、修験道の総本山で知られる吉野山の金峯山寺蔵王堂の節分会に出かけたのであったが、 ここの節分会は、 全国から追い出された鬼たちを本尊の蔵王権現の前に集め、法力によって改心させ、善い鬼にするという想定で行なわれるもので、 鬼に向かってマメを撒くとき、「福は内 鬼も内」と呼ばわることになっている
  これは、修験道の開祖、役小角(役行者)が修行中に子供を食らって困らせていた鬼の夫婦に出会い、 これを改心させて、 前鬼・後鬼という弟子にしたことに因むもので、釈迦が人の子を食い殺していた鬼女にザクロの実を与えて鬼女を諌め改心させた鬼子母神の伝説に似るところがある。

                                        
  鬼という存在は、善い鬼であれ悪い鬼であれ、いずれも異形のものであって、超人的な恐ろしい力を持っているのが常であるが、ユダヤ教やキリスト教に登場する悪魔(Satan)が神に敵対する絶対的存在であるのに対し、 我が国の鬼は、 霊魂に関わるなど極めて人間的で、人間の生れの果てを思わせるところも見られ、絶対的な存在ではなく、 多くは成敗され、ときにはこの蔵王堂に集められた鬼のように改心させられたりする一面をもっており、私たちには憎めない、何か愛嬌や親しみさえ感じさせるところがあると言える。
  今日はときおり雪が降る吉野山だったが、訪れた約二千人の善男善女は豆撒きのマメや餅とともに福もいただいたというような穏やかな表情で三々五々山を後にしたのであった。