大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年08月31日 | 写詩・写歌・写俳

<728> 奈良の地名に思う (1)

             地名には 由来が見ゆる たとふれば 神殿 杏 雑司 山陵

 神殿、杏、雑司、山陵。これらは奈良市の町名の中から読み方の難しいものを拾いあげてみたもので、奈良市だけでなく、歴史の古い大和には難解な読みの町名が多く、奈良市で十指数えるとすれば、ほかに三碓、肘塚、内侍原、大豆山、生流星、藺生という具合である。

  その読み方を順にあげると、歌の中の町名は「こどの」「からもも」「ぞうし」「みささぎ」である。言われてみると、何んとなくわかるような気もするが、次の六町名もその読み方はかなり難しい。順に「みつがらす」「かいのづか」「なしはら」「まめやま」「ふるさと」「いう」である。これをすらすらと読める人は相当奈良に詳しいと言ってよかろう。

  では、なぜこのような難しい読み方の町名が成り立っているのだろうか。もっとやさしい読み方の出来る町名にしてもよさそうであるが、それがそうでないのはどうしてであろうか。難しい読み方の町名に触れているとそんな疑問が湧いて来る。だが、ここにあげた読み難い町名には一つの共通点があり、そこのところが思われて来る。

 地名というのはそれぞれの地が負う特質に由来してつけられていることが多く、その点に大きく影響されているのが見て取れる。奈良市は奈良時代に都のあった古い歴史を有する都市で、町名の由来も歴史を遡り、その時代を負っているものが多く、ことに難しい読み方をする町名にはその時代の反映がうかがえるという共通点がみられる。そして、その名には古い時代への敬慕と矜誇が反映されていることが感じられる。

                                  

  で、まずは、神殿(こどの)であるが、佐保川の支流に当たる岩井川中流の左岸に位置する町で、その名の由来について、『角川日本地名大辞典』は「春日社の神田の義かとの説もあるが、真偽は不明」とするものの、平安時代から見える荘園名の神殿荘をあげている。また、今木社という神社の神主から東大寺が寄進を受けた所領としても神殿の名が見えるという。江戸時代には添上郡のうちに神殿村とあり、明治時代に神殿となり、昭和三十年に奈良市神殿町になって現在に至るという。

  次に杏(からもも)であるが、杏は果物のアンズのことで、「すもも」とか「からもも」(唐桃)と呼ばれ、唐の国(中国)からの渡来を意味する。杏町は平城京の朱雀門南方にあり、条里制の当時、そこに唐風の門があって、その門を唐門(からもん)と呼んでいた。これにより、両方とも唐の国(中国)からやって来たものとして、その「からもん」(唐門)が「からもも」(唐桃)に変じ、果物の杏(からもも)が町名になったという次第である。

  中国からの渡来で言えば梅が名高く、『万葉集』にも数多登場し、現在でもいたるところに見られるが、アンズは奈良県下では珍しく、その花について、私は白毫寺本堂前のものくらいしか知らない果樹である。しかし、その名が町名にあるからは、昔から知られていたのであろうことが察せられる。

  次の雑司(ぞうし)は、昔から東大寺の領域の名で、『角川日本地名大辞典』には雑司の名の由来について、「灯明油、仏供米、薪水の出納、法会、仏事など東大寺の一切の雑用役を勤める雑司役人が住んでいたことにちなむ」とある。現在は、大仏殿をはじめ正倉院や多くの塔頭と講堂跡などが見られ、若草山にも及ぶ広い町名で、奈良時代に遡る歴史と文化の詰まった貴重なところとして、奈良県のみならず、我が国の誇りとするところで、ユネスコの世界文化遺産にも登録され、全世界から来訪者のある地である。また、「ぞうし」は蔵司にも当たり、蔵司はくらのつかさのことで、神璽、関契、御服などを掌る役所を言い、正倉院が聖武天皇の御物を収める蔵であるところから言えば、「ぞうし」にはむしろ蔵司を当てた方がふさわしい気もする。

  四つ目の山陵(みささぎ)は、奈良市の北西に位置する町の名で、佐紀町とともに県内有数の古墳地帯として知られる佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群のある一角で、町内には景行天皇の第四皇子で倭建命(大和武尊)の異母弟に当たる第十三代成務天皇の陵墓と比定されている佐紀石塚山古墳などがある。山陵はまさしくこの地にぴったりの名で、その由来は奈良時代をなお遡る古きにあることがわかる。

  三碓(みつがらす)以下の町名についても由来は古く、みな由緒が感じられるが、これはひとえに奈良市が歴史の古い都であるゆえにほかならない。写真は奈良市の地図に拾った左から神殿、杏、雑司、山陵の各地名。 ~次回に続く~

 


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2013年08月30日 | 祭り

<727> 三輪素麺感謝祭

         品をもて 冷やし素麺 すする女(ひと)

 三十日、桜井市三輪の大神神社で、特産品の三輪素麺の出荷販売に感謝し、来年度の業績伸展を祈願する三輪素麺感謝祭が行なわれた。地元の三輪素麺工業協同組合(九十一軒)と三輪素麺販売協議会が毎年この日に行なっているもので、拝殿での神事の後、神前の広場で、恒例の「三輪素麺掛唄」などが三輪そうめん音頭保存会や組合婦人部の女性たちによって奉納された。

  三輪素麺は奈良時代に三輪山の水とこの地方でとれる麦によって保存食を作り、飢饉などに備えたのが始まりであると言われ、これが時代を下るに従って今のような素麺になり、特産化したとされ、元は大神神社の祭神の御神託によると言われる。

                      

 この日は台風の影響で蒸し暑い一日だったが、かすりの着物に前掛け姿などの女性たちは「大和国ん中 そうめん日和 神山(おやま)おろしが そよそよと 掛けてそうめん 白妙に 揺れてゆかしい 三輪の里 ハアー みんな出て来て そうめん掛けヨ 三輪の苧環(おだまき)恋しかろ」と「三輪そうめん音頭」や「三輪素麺掛唄」などの踊りを奉納した。写真は左が「三輪素麺掛唄」、右が「三輪そうめん音頭」の踊りを披露し奉納する女性たち。手にしているのは素麺に見立てた白妙の糸と布 (大神神社の拝殿前で)。

 

 


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2013年08月29日 | 植物

<726> ジュズダマ (数珠玉)

       病弱にしてありし我が少年期 あるは晩夏の数珠玉の色

 幼少期、よく扁桃腺を腫らして四十℃近い熱を出した。風邪と違って、扁桃腺炎というのは暑い夏の季節にも出た。体が弱っているときに出るのではないかと思われる。私の場合はよく夏休みの終わりころに出た。喉が痛いときと、それほどでもないときがあったが、高い熱は必ず出て、発熱している間は体が言うことを訊かなくなった。

 夏休みの終わりころに出ると、二学期の始まるのが気になるが、高熱の後、微熱が続くようなこともあって、そういうときは二学期早々休まざるを得なくなる。そういうことで、私の幼少期の一面は病弱だったと言ってよいかも知れない。これはいい体験ではないが、人の感性などというのは、このように、幼少期の体験を含め、生活環境というものが影響を及ぼし、培われてゆくのだろうという気がする。

                                                                                  

 通学路に当たる小さな川にジュズダマ(数珠玉)が群生し、その川の傍に民家が何軒かあって、その中の一軒で、或る夏、疫痢が出た。幼い女の子が罹った。大人の赤痢に等しく、幼児が罹る法定伝染病の一つで、その家は立ち入りが禁止され、白い粉を吹き出す消毒の機器が持ち込まれ、家中を消毒して回るのをジュズダマの生える川の橋から見た。四、五年生のときだったと思う。そういうこともあって、ジュズダマというのは病弱だった私の感性に触れて来たのに違いない。

 このごろ、疫痢や赤痢というのは、日本脳炎とともにその名をほとんど耳にしなくなったが、昔は夏の怖い病気としてよく耳にした。その女の子は命まで奪われることはなかったが、一夏を大騒動に巻き込んだ。私のジュズダマにはこのときの印象が強く影響しているように思われる。

 ジュズダマはイネ科の多年草で、熱帯アジアの原産とされ、日本には古くに渡来し、各地に分布、川沿いなどでよく見られる。草丈は一、二メートルに及び、群生する。果実は夏から秋に見られるが、茶色く熟すと、堅くなり、昔はこれをおてだまの具にしたり、数珠玉鉄砲の弾にして遊び、枕などにも入れた。別名をトウムギ(唐麦)という。写真左は群生するジュズダマ(十月中旬撮影)、右は実をつけ始めたジュズダマ(八月上旬撮影)。

 


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2013年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<725> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (34)

       [碑文]              金魚とねこ

                           金魚が

                   鉢でおよいでいる

                   ねこがじっと見ている

                   どうしたの ? 

                   金魚は泳ぎをとめてきく 

                   ねこはだまっている

                   あたいを写生? 

                   金魚は 

                   頬を鉢にすりよせる 

                   そこで 

                   ねこは 

                   鉛筆と紙をさがしにいく            森口武男

 郡山城の天守閣跡(柳澤神社)から南に真っ直ぐ濠を越えて出ると三ノ丸跡の郡山高校冠山学舎の正面に突き当たる。その突き当った正門脇の高い築地を背にした植え込みの中にこの詩碑は建てられている。築地に沿っては広い道があり、車や人が通り、生徒たちも行き来する。詩碑はこの道に向って建てられているので、通りがかれに目に入って来る。

                                   

 立ち止まって読んでみると、日常の何気ない猫と金魚の光景を切り取っているように思われ、ユーモラスでやさしい表現が見る人を和ませるところがある。ここで碑を目にする者はふと思う。何故、この場所にこんな詩碑が建てられているのかと。そして、森口武男とはどういう人物なのだろうかと、気になって来る。この詩碑にはそんなところがうかがえる。

 で、ちょっと失礼して、植え込みに足を入れて碑陰を見たら「郡中38会建之」とあった。これは郡山高校の前身である旧郡山中学の三十八期生が建てたということである。森口武男は明治四十五年(一九一二年)に生れ、平成十三年(二〇〇一年)に亡くなっている。旧郡山中学の三十八期生で、国学院大学を卒業し、高校の国語教師として奈良商業や奈良高校などで長く教鞭を振るい、奈良県の高等学校教職員組合の委員長を務めるなど、奈良県の学校や教育関係者にはよく知られた人物である。

 と同時に、現代詩に携わる詩人でもあった。詩は、高校の文芸部を受け持って生徒を指導し、生徒の書いた詩を批評していたとき、「教師というのは勝手なものだ。自分で作ることもせず、えらそうなことを言う」と非難された。これに閉口し、また、それもそうだと思い、三十五歳のとき、意を決して詩を書くようになったという。

 この詩碑は、以上のような経緯によっているが、武男の多くある詩の中で、何故、この「金魚とねこ」が選ばれたのか、大和郡山市が金魚の産地で、金魚に所縁があるからだろうか。この点ははっきりしないが、ユーモラスな詩であるところが、この場所にふさわしいということなのであろうと思われる。

 この碑文の詩を見ていて思うに、鉢にすり寄る金魚に、普通ならば、猫はちょっかいを出すはずであるが、詩人の感性の中の猫は鉛筆と紙を探しに行く。この後、鉢の中の金魚はおめかしをするのだろうかと想像が膨らむが、この詩を武男は後年、『つづり方「坊ちゃん」わが教員時代』の中で、次のように述懐し解説している。「ぼっちゃん」とは生徒がつけた武男先生のニックネームである。

 鳩(はと)を描いたらアヒルになった。家鴨(あひる)を描いたらハトになった。鉢の蟹(かに)を描いたら、足をつけないと中の石と区別がつかなかった。クロッキーをやっている長女・和子(小学生)に向かいあって坐(すわ)ったら、和子は鉛筆をにぎり、ぎゅっとぼくを見据えた。その眼(め)に猫を感じた。「金魚が鉢で泳いでいる ねこはじっと見ている」ではじまる詩?の碑は、郡高の正門少してまえの堤の上にある。同期の石田貞雄が建ててくれた。金魚はぼくであり、ねこは和子である。

 短歌や俳句でも言えることであるが、詩というものは訊いてはじめて作者の意図がわかると、この碑の詩につくづく思われたことではある。また、同時に鑑賞が作者の意に届かなくても、それはある程度許されるのではないかともこの詩碑の詩は思わせる。この解説を読まないでは、金魚が作者でねこが娘であるなどは十人いて十人ながら理解出来ないのではなかろうか、と言えるからである。しかし、解説を聞くと一段とおもしろい詩に思えて来るから、詩というものはそういうものかも知れないとも思えて来る。写真は左から「金魚とねこ」の詩碑、水槽の金魚、売りに出される金魚の群。 この金魚たちはどこに買われてゆき、どこに落ち着くのだろうか。          ゆく夏や 金魚は何処へ 旅立つか

 


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2013年08月27日 | 植物

<724> ゲンノショウコ

        母と野道に見た花は

      紅い小さな花だった

      何の花かと訊ねたら

      言の証拠の花という

      雑草然としているが

      煎じて飲めば薬効の

      言に違わぬその故に

      人みな尊ぶ草という

      野辺が夏より秋の季

      可愛い色のその花は

              次から次へ咲き通す

 ゲンノショウコ(現の証拠)はフウロウソウ科の多年草で、草丈は五十センチ前後、葉は掌状につき、三、五深裂し、茎や葉には毛がある。盛夏のころから秋の深まるころにかけて、長い花柄を伸ばしその先に直径一.五センチほどの五弁花を普通二個ずつつける。全国の山野に分布するが、主に東日本では白い花、西日本では紅色系の花が多く、大和はその中間に位置するからか、白い花と紅色系の花が混在している。果実は果で、熟すと五つに裂けて巻き上がり、その姿が神輿に似るのでミコシグサの名もある。

 昔から下痢止めの効能で知られる薬草で、貝原益軒は『大和本草』(一七〇八年)の中で、「陰干しにして粉末にし、湯にて服す。能く痢を治す。赤痢に尤も可也。また、煎じても或は細末にし丸薬としても皆効果がある」と言っているので、少なくとも、江戸時代には既に薬草として民間に用いられていたことがわかる。下痢止めのほか、便秘、高血圧の予防、冷え症などに効能があると言われ、速やかなその効き目の実績により、この「現の証拠」の名がつけられたという。写真はゲンノショウコの花と果実。