大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月05日 | 吾輩は猫

<185> 吾輩は猫 (9)   ~<181>よりの続き~
         吾輩は 猫の身にして 人間の 間に生を 営んでゐる
 この点については、また、次のような例もある。自由に誰でも行くことが出来るということで、そこへみんなが殺到すれば、そこには限界が生じ、 制限を加えなくてはならなくなる。 そして、そこには行きたくても行けないものも現れるという次第で、競争という原理が自ずと働き、競争には勝ち負けがつきもので、 これが社会のすべてに及び、格差を生むことに繋がる。格差は不平不満を宿し、社会の状況を危くすることにも繋がりかねない。 そして、そこには勝つための姑息も生じて来ることは世間によくあるとおりで、お金にものを言わせる拝金主義の顕現をはじめとして、商品偽装や裏金といったお金に纏わる事件なども横行し、社会的憂慮を深めるという具合に陥りやすくなる。
 理想の下のこの負の状況をどのように考えるか。 これは一つにデカルト先生の理性主義をもって人間の優位性を主張するのと同じく、格差の生じる中で優位者を優位者たらしめてこれを実践して来た時代人の押しつけに近い申し合わせの強制にある。 で、このように管理の縛りが生じ、 こういう事態のものばかりが 身辺を取り巻き、 頼るはこの制度や規則の縛り一点のみという状況に至り、他を思いやる精神の涵養などは誰も口にせず、そこには反省の気分も行き届かず、社会全体に許容力というか、 大らかさというか、そのような他を思いやる精神的志向が失われたまま制度や規則のみが厳しくなって、互いにぎくしゃくし、より住み難い世の中をつくり上げて来ているような気がする。 すべては進化の途上にあるとはいうものの、実情は不十分にして複雑極まりないところにあると言える。このような人間の社会が人間に寄り添って生きる猫の世界にも大いに影響し、 猫にも息苦しいような状況が生まれていることは、回覧の件がよく物語っている。
 自由を標榜しながら閉塞している状況に陥った昨今の人間社会を見ていると、このような状況に耐えることが出来ず、 事件を起こすような輩も現れ、事件が起きる度に制度や規則が強化され、それが、 また、その上にその制度や規則でも対処出来ないような事件が起き、もっと厳しい制度や規則を作らなくてはならなくなるということが何かいたちごっこのように何処までもエスカレートする様相にあるのが感じられる。自由な社会という旗を掲げながらいよいよ管理の網が厳しくなるという状況が、 それに比例して社会の不安をより高じさせるという皮肉を生み、 そこに因をなす閉塞感により 憂鬱さを深くしているように思われる。 回覧は一枚の紙切れに過ぎないけれども、まさに今の世の中をよく表していると言ってよい。
 思えば、もっとも自然に生きて自然に影響されているように思える小鳥たちを見ても、 人間の周囲で暮らしている例えば、 雀や燕などは人間の自分本位による暮らしの中で 圧せられているのがわかる。 自然とともに人間もあった時代はともかくも、昨今の人間事情によるところにある身近な雀にしても燕にしても妙に少なくなっている異変が気になる。 一方、それに比して、 人間に対抗している鴉は、人間に等しい雑食性をもって生き抜いているのがうかがえる。猫の吾輩から見れば、この鴉の状況は一面においてあっぱれとも言え、痛快にも思える。まあ、それはともかく、この世は人間だけの世界ではない。これだけははっきり言える。(以下は次回に続く)