大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年12月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1459> 温暖化によせて

        個々にある心の窓辺に共有の風景としてあるは昼月

 生きものは環境によって生き、環境が大切の第一であることは折りに触れて言って来たが、暖冬になっていることで、また、この環境のことについて考えた。環境にはいろいろあるが、どんな生きものにも共通して言える環境は自然環境である。この自然環境で言えば、地球環境が言える。地球生命は地球環境に適合して生き得ている。私たち人間もその地球生命の一員にほかならず、地球の環境下に生存している。

 しかし、地球は大きく、場所によって微妙にその環境を異にする。赤道付近と南極や北極では単純に言っても温度差があり、この温度差は環境の隔たりを示すものと言え、密林と砂漠でもその隔たりは言える。その隔たりも含め、地球生命は地球の総合するところの環境に順応したり、あるは適合して生きていることが言える。

  以上の点を踏まえ、少しこの環境のことについて、今冬の暖冬異変を例に考えてみたいと思う。立冬、小雪、大雪、冬至と、暦が告げる冬の深まりにもかかわらず、今年は暖かな日が続き、紅葉が遅れたことは以前に触れた。ツバメも遅くまで見られた。この間、奈良に出かけたら、奈良公園のアセビやシデコブシに花が見られた。郊外に出ると、田んぼの畦などの草地にはやたらタンポポの花が見られる。冬でも旺盛に花をつける外来のセイヨウタンポポではなく、在来の花である。

                              

  タンポポは例年冬にも花が見られるので、さほど驚かないが、アセビやシデコブシがこの時期に花を咲かせるのは初めてのことで、「びっくりぽん」だった。まあ、これだけだったらスケッチで終わり、考察には至らなかったと思うが、今冬はインフルエンザの流行がなく、ノロウイルスなどによる腸炎の方が多いという話を聞き、このブログにも書く気になった。「梅雨じゃーないのに」と医師も不思議がる現象が起きているという。

  医師はこれについて、暖冬が影響していると考えているようであるが、多分、インフルエンザの患者が少ないのは、その所為だと言ってよいのではないか。言わば、春の花が冬に咲くのも、インフルエンザのウイルスが活況を見せずにいるのも、冬がいつもの寒い冬でなく、環境が異変を来たしていることに起因していると考えられる。

  即ち、異変の花を咲かせる草木も、気温が高いと活発に活動出来ないインフルエンザのウイルスも、言ってみれば、私たちと同じ地球生命にほかならず、一定の環境を共有しながら、適応力の差によってその生きる姿を異にしていると考えられる。インフルエンザのウイルスが活発化しないのは、私たちにとってありがたく、喜ばしいことであるが、環境を共有して生きている関係にある私たちであれば、インフルエンザのウイルスを全否定してかかることは、私たちの生をも否定することに繋がりかねないわけであるから、決して、よいとは言い難い。

 ところで、話は変わるが、この環境のことで、上述の話から派生して考えられることがあるので、それを述べてみたいと思う。随分飛躍するが、それは、世界の国々の関わりにある。米ソによる冷戦時代が終わった後、米国一強による世界の支配体制の時代になり、米国の価値観が押し進められる状況に至り、その図式の中で、環境の相違によってある相手国や地域の文化の違いに対し、押し進める米国の価値観がそこの環境や文化に適合せず、よって、その相手国や地域による反発乃至は抵抗が起き、戦火にも及ぶという風に展開していることである。

 これは、自然環境や風土というものを無視した米国の価値観オンリー、即ち、自分が一番であるという奢りによることが言える。言わば、環境などはどんなにでも変えることが出来るというものの考え方、人間が一番とするものの考え方から来ているもので、随分な自信で、それを押し通している。果してこういうやり方が全人類に受け入れられるかどうかは甚だ疑問であるが、とにかく、そういう手法を米国は取っている。

  所謂、自然を神と尊び、人間は自然の一部に過ぎず、自然環境を大切に考える東洋的思想とは対極的な、自然は征服するものとする人間優先主義に基づき、豊かさは自分たちが作り上げるものとして、そのような物質文明を成し遂げて来たと自負するのが米国流のものの考え方で、中でも、米国人のやることがすべてだとするわけである。

  だが、前述の通り、このようなものの考え方が全人類に理解されるかどうかははなはだ覚束ない。それは、どこまで行っても環境によって生きるという生きものの宿命に突き当たるからである。米国一強の過程においては、豊かさは欲望に彩られ、欲望は豊かさのゆえにより大きくなり、その欲望を満たすために知恵や努力を傾けるのである。しかし、欲望が一面において諸悪の根源であれば、この物質文明も問われることになる。

 そして、思考は回帰するという風になり、人類は救われると思えるが、どうであろうか。その回帰は自然尊崇への回帰である。何となれば、人間も自然の中の一員であり、その環境下に生きてあるからである。現代人は物質的には豊かになり、欲しいものは何でも手に入れることの出来る金持ちになった者もいるが、その金を稼ぐのに不正を働いたり、権力を振り回したり、挙句の果ては武力をもってそれを果すということに繋がっている。そして、こういう側に対抗する者がそこには必然のごとく現れて、拮抗して来るという図式が出来て来る。こういう図式による状況が今のシリア等の中東に見られる紛争と言える。

   これは、所謂、環境を蔑にしている人間の奢りから来ているものにほかならない。ここで今一度念を押したいのは、環境は個々にあるものながら、生きとし生けるものすべてに共有してあるものでもあるということである。地球温暖化という問題などはそのよい例である。インフルエンザが流行らないと喜んでいるのも束の間のこととは言えることなのである。 写真は冬に咲く左からアセビ、シデコブシ、タンポポの異例の花々。


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