大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年09月15日 | 万葉の花

<1107> 万葉の花  (136)  え (榎) = エノキ (榎)

        紅き実に 鳥影見えて 榎かな

    吾が門の 榎の実もり喫(は)む 百千鳥(ももちどり) 千鳥は来れど 君ぞ来まさぬ       巻十六 (3872) 詠人未詳

 集中に榎(え)の見えるのはこの巻十六の3872番の歌一首のみである。原文には「吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 千鳥者雖来 君曽不来座」とあり、「榎實毛利喫」の「毛利」は「もり」で、「もる」の連用形と見られ、「もる」は小果実の類を捥ぐ(摘む)意によって、岡山、高知、愛媛南部などの方言にも見える言葉である。つまり、ここでは「えのみもりはむ」と読み、榎(え)の実をもぎ取って食べる意で、鳥たちがその実を啄むことを言っている。また、「百千鳥」は千鳥という固有の鳥の名をいうものではなく、鳥の種類、数が多いことを言っているもので、諸鳥(もろとり)の意であろうと言われる。で、歌の意は「わが家の庭の榎の実を啄む鳥はいろいろ来るけれども、私が待ち望んでいるあなたは来てくれない」となる。

 この歌は「由縁ある雑歌」の中の一首で、何かの経緯によって詠まれたとされる。その経緯についてははっきりしないが、「右の歌二首」と左注に見え、今一首の3873番の歌は「吾が門に千鳥数(しば)鳴く起きよ起きよわが一夜夫(つま)人に知らゆな」とあり、その意は「門口で多くの鳥が頻りに鳴いている。早く起きて帰ってください。さもないと世間に知られてしまいます」ということで、当時の妻問婚の風習による影響か。3872番の歌との対比、女性の心理が詠まれている歌であるのがわかる。まこと微妙な女性の気持ち。二首には諧謔歌を取り込んでいる巻十六の「由縁ある雑歌」の特徴の一端が示された女性の心理が詠まれた歌として受け取ることが出来る。

                                                   

 ここで本題の榎(え)であるが、榎は『倭名類聚鈔』に「一名 衣(え)」とあり、『新撰字鏡』に「榎 上字衣乃木」とあって、「え」とも「えのき」とも読むことが説明されている。また、木偏に夏の榎は国訓によるもので、中国では別の植物。モクレン科の朴樹と言われる。このような命名の例は、木偏に春の椿に等しい。椿は花が春に咲くことによるが、榎(え、えのき)は枝葉をいっぱいつけ、夏になると日蔭をつくるほど繁るので、この意によって木偏に夏ということになったと言われる。

 鎌倉時代の『夫木和歌抄』には「川ばたの岸のえの木の葉をしげみ道行く人のやどらぬはなし」(藤原為家)と詠まれ、この榎(え、えのき)の特徴をよく示していると言える。つまり、榎(え、えのき)は現在のエノキをいうものである。エノキはニレ科の落葉高木で、幹は直径一メートルほどになり、樹高は二十メートルにも及び、多くの枝を分け、左右不相称の楕円形または広卵形の葉を繁らせる。春に淡黄色の小花を開き、球形の小さな果実をつけ、秋に熟すと橙色になり、甘く食べられる。熟し終わると黒くなり、長い柄をつけたまま落ちるが、イカルのような小鳥たちが好む実の一つで、冒頭にあげた3872番の歌にも詠まれている次第である。

 なお、この「え・えのき」については、枝の「え」で、枝が多いことによるとか、材が道具の柄に用いられたからとか、「さえのかみ」と呼ばれる道祖神と同じく、この木を神格化した「さえのき」の「さ」を略して「えのき」と言ったとかさまざまな説がなされている。北海道を除く日本各地の山野に見られ、国外では中国に分布し、よく目立つことから江戸時代には街道筋に一里塚の指標として植えられた。これは為家の歌にも通じ、昔から親しまれた木で、地方名も多く見られる。 写真は高々と枝葉を繁らせた夏のエノキ(左)、春の花(中)、橙色に熟した秋の実(右)。

 


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2014年08月18日 | 万葉の花

<1079> 万葉の花 (135) かへ (柏) = カヤ (榧)

       競ひつつ 榧の実拾ひし 少年期

  霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の 香ぐはしき 親の御言 朝暮に 聞かぬ日まねく 天離る 夷(ひな)にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を 外のみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜(かづ)き取るとふ 眞珠(しらたま)の 見が欲し御面(みおもて) 直(ただ)向ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 尊き吾が君          巻十九 (4169) 大伴家持

 集中にかへの見える歌はこの長歌一首のみである。原文に見える「松柏」は「まつかへ」と訓み、末代まで栄える意によって、次の「栄えいまさね」に続く。柏は普通ヒノキ、サワラ、コノテガシワなどヒノキ類の総称、または、ブナ科の落葉高木の名でも知られ、紛らわしいが、イチイ科の常緑高木のカヤ(榧)にも当てられている。

  これについては、『本草和名』に「榧の実 和名 加位乃美」とあり、『倭名類聚鈔』に「柏実 名 榧実 加位」とあることから、昔はカヤを「かへ」と呼んでいた様子がうかがえる。で、この歌で用いられている松柏はマツ(松)、カヤ(榧)ということになる。マツもカヤも、ともに長命を誇る常緑樹である。

               

  カヤは前述したようにイチイ科イチイ属の常緑高木で、成長は遅いが、寿命は長く、大きいものでは高さが二十五メートル、幹の太さが直径二メートルに及ぶ巨樹になる。『大言海』には「古言、かへノ転。古名かへ。喬木ノ名、深山ニ多シ。葉ハもみニ似テ厚ク、端、尖リテ、刺アリ、深緑ニシテ、冬ヲ歷テ凋マズ、雄ハ、枝立チテ、初夏ニ花アリ、實ナシ。雌ハ、横ニ茂リ、下ニ垂レテ、花無ク、實アリ、實の長サ、一寸許、棗ノ如シ、皮、緑ニシテ、肉ニ油多シ、内ニ核アリ、淡褐色ニシテ、厚ク長ク、両頭尖ル、中ニ白キ仁アリ、食用トス、油ヲモ取ル、かやのあぶらト云フ。材堅ク、碁盤ナドニ作ル」とある。

  宮城県以西、四国、九州に自生分布するが、里にも植えられたものが多く、見られる。『大言海』が説くごとく雌雄別株で、里に植えられているものは雌株が多いようであるが、ときに同株のものも見られるという。この歌にもうかがえるように、長命の縁起によって根元に祠をともなうような神々しい雰囲気の古木も見られる。我が郷里にも一本のカヤの巨樹が里の象徴のように聳え立っている。

  では、4169番の長歌を見てみよう。題詞に「家婦が京に存(いま)す尊母に贈らむが為に、誂へらえて作る歌一首」とあることから、家婦、つまり、家持の妻坂上大嬢が、都の実母大伴坂上郎女に贈る歌を家持に頼んで作ってもらった歌で、家持が越の国守であったときの代作歌ということになる。なお、大伴坂上郎女は家持の父旅人の異母妹で、家持には叔母に当たり、母亡き後、刀自として大伴家に入り、家持の育ての親になったことで家持には非常に濃密な関係にあった。

 歌の意は「ほととぎすが来て鳴く五月に咲く花橘のように、匂やかな母上様のお言葉を朝夕に聞かれぬ日が積もり積もる遠い田舎に離れていますので、山の峠付近に立つ雲を遠くから見やるばかりで、嘆く心は休まらず、思う心の苦しいものを、奈呉の海人が潜って取るという真珠のように、見たいと思う母上様のお顔を拝見するそのときまで、どうか松や柏のように、お変わりなく、栄えておいでください。尊い母上様」というほどの意になる。つまり、「かへ」のカヤ(榧)は実用の木としてではなく、変わることのない長寿の木としての縁起によって登場していることがうかがえる。 写真はカヤの木とカヤの実。

 

 


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2014年08月11日 | 万葉の花

<1072> 万葉の花 (134) かづのき (可頭乃木)=ヌルデ (白膠木)

        よしそれも紅葉して知るぬるでかな

    足柄(あしがり)の吾(わ)を可鶏山(かけやま)のかづの木の吾をかづさねもかづさかずとも     巻十四 (3432)  詠人未詳

 3432番のこの歌は、巻十四の東歌に見える譬喩歌の中の相模国の歌三首中の一首で、『万葉集』にかづの木が見える歌はこの一首のみである。「足柄の吾を可鶏山のかづの木の」の上句が「かづ」と「かず」の同音によって、下句の「吾をかづさねもかづさかずとも」に続いて意味をなす歌であるが、集中の難解歌とされている歌の一つである。

  まず、歌の意を探ってみると、「吾(わ)をかづさねも」の「かづさね」は、かどわかすの「かどふ」と同義で、強く誘う意として用いられていると言われ、次に来る「かづさかずとも」は、巻二十の防人の歌の4386番の歌に「わが門(加都・かつ)の」とあるに等しく、「かど」は「かつ」「かづ」とも言われ、この「かづさかずとも」は「門さかずとも」で、「門し開(あ)かずとも」となり、一首の意は「足柄の可鶏山のかけではないが、私に心を懸けてくれるかづの木ならば、その名のように、私をかづしてください(誘ってください)。門が開いていなくとも」というほどになる。つまり、この歌はかづの木を男に譬え、その男の誘いを待つ女の歌ということになる。

  ここでかづの木が如何なる木かということになるが、かづの木を和紙の原料にするコウゾの仲間であるクワ科のカジノキの「穀(かづ)の木」とし、「かづさ」を穀割(かづさ)と解して、下句を「穀の木の皮を割いてばかりいないで」という意に解する説もある。だが、これについては、万葉当時、カジノキが相模の地に存在しなかったという植生上の理由によって今ではこの説を採る向きは少なく、現在のヌルデ(白膠木)とする説が強く、これが通説になっている。

                   

  ヌルデはウルシ科の高さが五~十メートルほどになる落葉小高木で、丘陵から山地にかけて生え、葉は三十センチほどの奇数羽状複葉で、夏、枝先に円錐花序を伸ばし、淡黄白色の小花を多数つける。葉にはヌルデシロアブラムシの仲間が寄生し、虫こぶを作る。この虫こぶは五倍子(ふし)と呼ばれ、タンニンを多量に含むので、昔はこれをお歯黒に用い、下痢などの薬用や染料にして用いた。また、白い樹液は塗りものに利用し、和名のヌルデ(白膠木)の名のもとになった。果実は蝋の原料になり、材は器具材などに使用され、護摩木にもされて来た。

 また、紅葉の美しい木としても知られ、全国各地に自生しているため、何処でも見かけることが出来き、万葉当時から親しまれて来た樹木の一つで、ヌリデ、フシ、フシノキ、カズノキ、カチキ、カツノキ、カジノキ、サイハイノキ等々、別名、地方名の極めて多い樹木で、その名は二百以上にのぼるほどで、人との接触が著しく、よく知られていたことが想像出来る。

  古くは、『日本書紀』の崇峻天皇紀に、蘇我馬子が物部守屋と戦ったとき、馬子軍の厩戸皇子(聖徳太子)が白膠木(農利泥・ぬりで)の木を伐って四天王の像の形に削って采配を作り、これを頂髪に置いて戦ったところ勝利することが出来たと伝えられ、白膠木を勝利の木として、カツノキ、サイハイノキの名が生まれ、このカツノキがかづの木に転じたとも言われる。また、ヌルデの木を男根状に削って門口に立てる祭りが見られるところもあったとされ、この門(かど)の木からかづの木になったとも考えられ、3432番の歌にも通じる次第である。

  この歌の「吾を可鶏山」は、「振る」と「布留」を掛けて詠まれた巻四の柿本人麻呂の501番の歌の「袖布留山の」と同じく、「可鶏山」のかけに「懸け」を掛けているもので、如何に技巧を駆使して詠まれた歌であるかがわかる。このような技巧の歌が庶民によって詠まれていることは当時の十分には行き渡っていなかった文字の状況を考えるとき、驚異と言わざるを得ず、疑問にも思われて来るところであるが、これが『万葉集』の奥深さと、不思議が見て取れるところと言ってよい。ヌルデの花は晩夏光の季節から新秋の候に咲き、各地で身近に見ることが出来る。  写真はヌルデの花。 なお、可鶏山は神奈川県南足柄市の矢倉岳(八七〇メートル)と目されている。

 

 


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2014年07月28日 | 万葉の花

<1058> 万葉の花 (133)  おほゐぐさ (於保為具左) = フトイ (太藺)

         青畳に 漱石読みし 夏休み

     上毛野伊奈良の沼の大藺草(おほゐぐさ)よそに見しよは今こそ勝れ         巻十四 (3417)  柿本人麻呂歌集

 おほゐぐさは平安時代はじめの『倭名類聚鈔』に「於保井」とあり、中国では「莞」と言われ、席(むしろ)に用いるとある。ほかの文献でも、「莞」は細い茎が丸く、席にする草であると言っている。冒頭にあげた3417番の歌とこれらの説明からおほゐぐさは水辺に生える藺(い)の類で、茎の太く大きいもの、即ち、フトイ(太藺)を指して言っていると知れる。

 イグサとフトイはイグサがイグサ科、フトイがカヤツリグサ科で、別種の植物であるが、ともに水辺に自生し、茎を刈り取って蓆(むしろ)にして来たことから、万葉の当時は同じ藺(い)の仲間と見られていたのだろう。イグサの方が上質で、現在でも畳表などに用いられているが、万葉当時はおほゐぐさのフトイも蓆に利用されていたと見られる。

  フトイは大きいもので高さが二メートルほどになる多年草で、丸い茎には白い髄が詰まっている。花期は夏から秋で、茎の先端部に小穂をつける。シダ植物のトクサに似るが、トクサには茎に節が見られる。フトイは全国的に分布し、トクサは中部以北に野生するが、ともに植えられる。

                                           

 『万葉集』におほゐぐさの登場する歌は、冒頭にあげた3417番の短歌一首のみで、前回の(132)で取りあげたはまゆふと同様、この歌がなかったらおほゐぐさは万葉植物にはなり得えなかった。では、これらのことを念頭に、この3417番の歌を見てみたいと思う。

 この歌は、東歌の相聞の項に見える上野国の歌二十二首中の一首で、おほゐぐさを女性に見立てて詠んでいるのがわかる。「伊奈良の沼」は「斑鳩の因可(よるか)の池」と同様、不明であるが、群馬県内の沼であろうと推察されている。で、歌の意は「上野(かみつけ)の伊奈良の沼の大藺草ではないが、生えているのを遠目に見たときに比べ、刈り取った今こそ勝ってあれ」というもので、恋して見ていたときよりも、妻に迎えたときの方が勝っている、いわゆる、この歌は、憧憬よりも実質をよしとする万葉歌らしい一面を持つ歌であることが言える。

 つまり、これはフトイのおほゐぐさが蓆に役立てられ、実際に用いた方が池沼に群生して生えているのを遠目に見たときよりも勝っているという思いがそこにはあるわけで、以後の勅撰集には見られない万葉歌の特徴の一面を示した歌と言ってよい。

 この歌の注に「柿本人麻呂歌集に出づ」とあるので、この歌集より見つけ出したか、それとも、後で調べたら人麻呂歌集にもあったということか、定かではないが、東歌の断りがあるので、人麻呂本人の歌ではない可能性が強い。言わば、柿本人麻呂歌集は人麻呂個人の家集ではなく、人麻呂が収集した歌も含まれ、その歌の中に東歌も見えるということで、人麻呂が歌を幅広く閲していたことが、この歌ではわかると言えそうである。

 これは、人麻呂歌集が人麻呂の私家集であるとともに、歌を幅広く集めることによって人麻呂が勉強した証の歌集とも受け止められる。人麻呂の歌は挽歌や悲歌に際立つが、頌歌、相聞、叙景歌と幅広く、多くの歌に枕詞等が駆使されて詠まれており、人麻呂の歌は、つまり、この冒頭の歌と同じく、幅広い勉強の成果によっていると思わせるところがある。

  どちらにしても、おほゐぐさの歌は人麻呂の歌でない可能性が強い。もし、人麻呂が東人になり切って詠んだ歌であるとするならば、それも人麻呂の勉強の賜物と言ってよかろうかと思われる。  写真はフトイの群生(左)、フトイの花穂(中)とフトイによく似たシダ植物のトクサ(右)。

 


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2014年07月23日 | 万葉の花

<1053> 万葉の花 (132)  はまゆふ (浜木綿) = ハマオモト (浜万年青)

        浜木綿の 花咲く彼方 熊野灘

    み熊野の浦の浜木綿百重(ももへ)なす心は思へど直(ただ)にあはぬかも         巻 四 (496)  柿本人麻呂

 『万葉集』に浜木綿(はまゆふ)の見える歌はこの一首のみである。一首のみの植物は集中に五十種前後あり、この浜木綿もその中の一つということになる。浜木綿は現在のハマオモト(浜万年青)のことで、漢名は文珠蘭(もんじゅらん)という。だが、今も古名のハマユウ(浜木綿)で呼ばれ、こちらの方が馴染みのある名になっている。集中の四千五百余首の中で、ただ一首というのは、一首のみに登場する植物が概して万葉当時ポピュラーでなかったことを示すものであるが、浜木綿(はまゆふ)の場合は、暖地の海岸に限られ自生する植物で、当時にあっては辺境の植物だったということが大きい理由にあげられる。

 浜木綿のハマオモトはヒガンバナ科の常緑多年草で、関東地方以西の海岸の砂地に自生し、太平洋に面した紀伊半島の南端部、「み熊野」の熊野地方はその自生地として万葉当時から知られていたものと思われる。今では図鑑等で簡単に見られるが、当時においては、なかなか知り得ない植物だった。これは大伴家持が越の国(富山県)に在任のとき詠んだ堅香子(かたかご)のカタクリ(片栗)と同様で、この一首がなかったならば話題に上ることもなく、万葉植物にもなり得なかったことが言える。なお、以後はハマユウに統一して記したいと思う。

                                                                

 ハマユウは白い葉柄が何枚も重なった偽茎が特徴で、長さが大きいもので七十センチ、幅が十センチほどの葉を輪生状に叢生し、この葉がオモト(万年青)に似るのでハマオモト(浜万年青)の名がある。盛夏のころ葉腋から太い花茎を八十センチほどに伸ばし、その先端に十数個の白く長い六弁花を散形状に次々と開き、反り返える。花には芳香があり、夜によく香る。この496番の歌は、巻四の相聞の項に柿本人麻呂作として並べられた四首中の一首であるが、『日本古典文学大系』によれば、ハマユウは、このように「葉が繁り合い重なって成長するので百重ナスという」とある。また、花が白く細長いので、これを「楮(こうぞ)の繊維の白い木綿(ゆう)になぞらえてこの名がついた」とも説明している。

  ということで、歌の意は「み熊野の浦の浜木綿は葉が幾重にも重なっているが、その重なり合った葉のように幾度思っていても、直接には逢うことが出来ないことだ」ということになる。歌はつのる思いをハマユウに重ねているわけであるが、加えて、遠い涯の地である熊野を詠み込むことによって、その思いの叶えられないことを一層強く言い表すのに役立っていることがわかる。

 このハマユウの花を撮影するため、大和の国中から国道一六八号を利用し、紀伊山地の山々を縫って、ハマユウの自生地で知られる新宮市三輪崎の久嶋(孔島・くしま)まで出かけ、片道約百七十キロの距離を往復したのであったが、この撮影行に当たり、人麻呂が「み熊野の浦の浜木綿」を果して直に見たのか、それとも知識のみによってこの歌を詠んだのかということが思われて来た。だが、どちらにしても、「百重(ももへ)なす」の表現は人麻呂がハマユウに相当知識を持っていたとことが言える。

 なお、写真は三輪崎付近で撮ったが、この三輪崎は万葉歌に詠まれているから、その当時、既に知られたところだったことが言える。とすれば、「み熊野の浦の浜木綿」も知られていたと見て不思議はない。巻三の265番歌、長忌寸意吉麻呂の「苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに」がその歌で、「神の崎」は「みわのさき」と読むが、これは新宮市三輪崎で、「狭野」は三輪崎の西南に当たる現在の佐野と目されている。『古事記』等で知られる神武天皇東征の上陸地はこの付近だとされ、万葉当時は舟で行き来していたことが想像される。

 太平洋へと広がり続く熊野灘は、昔から補陀洛の海と信じられ、熊野を訪れる人たちはそこに極楽浄土を想像した。その熊野灘に向き合って咲くハマユウの白い花を見ていると、大和では味わえない花であることが認識出来る。意吉麻呂は人麻呂と同時代の宮廷歌人で、『万葉集』に十四首、うち六首が旅の歌で、持統上皇、文武天皇の紀伊国行幸に同行している。人麻呂の同行は知られていない。

 ハマユウの実物を見ずして人麻呂がこの歌を作り得たということは考え難く、どこでこの暖地性の海岸植物に接し得たかということが思われて来るが、ハマユウの分布は気温によるとされ、ハマオモト線というのが植物学者の小清水卓二によって提唱され、それによると日本海側では若狭湾が北限になるということで、地方へも赴いている人麻呂には何処の地かで、ハマユウの実物に触れたと思われる。なお、最近、ハマユウに似たものが各地で見られ、紛らわしいが、これは園芸種のアフリカハマユウ(別名インドハマユウ)である。写真は熊野灘を背景に咲くハマユウと花のアップ(ともに新宮市三輪崎海岸沿いで)。