大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月05日 | 祭り

<277> 今里・鍵の蛇巻き (1)

       黒南風や 榎に蛇巻きの 願ひ見ゆ

 六月に入ると大和平野は田植えが本格化する。この田植えの六月を境に、大和ではおんだ祭りの御田植祭から野神の祭りに移る。おんだ祭り(御田植祭)が主に田植えの所作によって五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する予祝の祭りであるのに対し、野神の祭りはムクノキやエノキなどの巨木を依り代に野神を崇め祀るのが習いで、北和と中和で祭りの仕方に違いがあると言われる。

 北和では野神を祀る場所に出向き、五穀豊穣を祈願するのが習いで、昔は牛や馬を引き連れて行って祭りを行なったことが伝えられている。これに対し、中和では稲藁や麦藁で大蛇を作り、これによって祭りを進める。大蛇は龍に等しく、龍は天を支配し、稲作には欠かせない雨水を司るので、この大蛇の龍に五穀豊穣を託すという次第である。

 この時期の野神の祭りは端午の節供に合わせて行われ、男子の成人を祝う祭りでもあり、チマキやショウブの登場を見る。今日は中和の野神祭りの方、磯城郡田原本町の今里・鍵の蛇巻きについて少し触れてみたいと思う。今里・鍵の蛇巻きは六月三日の日曜日すでに行なわれ、見ることが出来なかったので、写真は依り代であるよのみの木のエノキに巻かれた蛇巻きの写真しか撮り得なかった。このことについては少し触れたいことがあるので、次回の今里・鍵の蛇巻き(2)で述べてみたいと思う。

  昔、今里では、大蛇が作物を食い荒らしたり、里の娘や子供たちを襲い、悩まされ嘆いていた。この嘆きを通りかかった僧が聞き及び、ショウブで作った刀を飾っておくことを人々に勧め、家々でそのようにしたところ、大蛇は大きなエノキに逃げ登って身を隠したという。また、隣の鍵ではムジナが大蛇と同じように暴れ回り、人々を苦しめていた。そこへ件の大蛇が現われ、ムジナを退治したので、人々はこれを大いに喜び、この大蛇を崇め祀るようになったという。

 で、今里では麦藁で長さ十八メートル、頭回り一メートルに及ぶ大蛇を作り、これを十二歳(昔は十三歳)から十五歳の男子五人が頭の部分を担ぎ、各家を訪れ、最後に地区内の杵築神社境内のよのみの木のエノキにこの大蛇を今年の恵方である北北西に向け、頭を上にして巻きつけ、エノキの根元の祠に牛と馬を描いた絵馬とカシノキで作ったミニチュアの農具一式を納めて蛇巻きを終えた。この野神の祭りは五穀豊穣の願いを込めるとともに、大蛇を担いだ男子の成人としての自立を促し、祝福することにあると言われる。

 鍵でも、八阪神社の祭りとして蛇巻きが行なわれ、こちらは主に稲藁で長さが十二メートル、頭が二メートル四方の大蛇をつくり、同じように若い男子が担いで地区内を回り、最後に野神の依り代であるよのみの木のエノキに頭を下に、今年の恵方に当たる北北西に尻尾を向けて大蛇を巻きつけた。両大蛇とも一年間この状態で置き、来年六月の祭りに更新する。この蛇巻きはいつごろから行なわれているかは定かでないが、蛇体にする麦(裸麦)は当番に当たる当屋が江戸時代から引き継いで今に至っているという。両地区の蛇巻きとも国の無形民俗文化財に指定されている。

 由来の民話は、『古事記』の須佐之男命の八俣大蛇退治を思わせるところがあり、今里の麦藁の大蛇はよのみの木のエノキに八つ巻きにされ根元に取りつけたササは十六本で蛇の足と雲を表しているという。目はカシワの葉十六枚で作るが、すでに脱落して見えなかった。大蛇は前述した通り、龍を表わし、今里の方を昇り龍、鍵の方を下り龍と称し、ともに天を支配し、雨水を司るということで、「時により過ぐれば民の歎きなり八大龍王雨やめ給へ」と詠んだ源実朝の歌を彷彿させるところがある。つまり、大和の中和における野神の祭りはこの龍神に五穀豊穣を願い祈るのと同じ意味がある。  写真は左から今里の蛇巻き(上が頭)、尻尾は十六本の笹竹で囲み蛇の足と雲を表わしている)、祠に絵馬などを奉納。右端の写真は鍵の蛇巻き(地上部が頭)。