大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年05月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1615> カエルの声に寄せて

       梅雨の候 かはづの夜会 始まれり

 先日、ホトトギスの初鳴きを聞いた。それからは聞いていないが、いよいよ夏は梅雨の時期である。田植えのために水を張った田も見られるようになり、夜になるとカエルの合唱が聞かれるようになった。ホトトギスにも言えるが、カエルの鳴く声にも季節の到来、即ち、移ろいがあり、昔から聴覚をしてその季節の移り変わりを感じ、表して来たことがうかがえる。これが日本であり、日本人の感性であって、その感性の足跡は歌に見られ、日本人の文化的一端を物語る。そして、現代にもその感性は引き継がれ、理解されていると言ってよい。これは四季の国日本の自然、即ち、風土によるところが大きい。

 この自然を基盤にした風土の状況が失われて来た都市部においては、この自然に育まれて来た生活環境やその環境よりなる生活リズムの崩れが顕著になり、都市部では新しい感性が目覚めているのに違いなく、私のような高齢者にはその昔から培って来た感性と新しい感性の間にあって、途惑うようなときもあると言ったところで、ときにはその新しさに抵抗したくなる気分にもなるわけである。そして、昔から育まれて来た感性が時節の変わり目などに発揮出来るとき、何かほっとするような、或るは郷愁のような気分に捉われたりするのである。

                                       

 そして、日本人というのはその旧と新、昔と今のどちらも完全否定するのではなく、そのどちらも取り入れて、未来の感性を生んで行く方法をもってやって来たところがある。それは良しにつけ悪しきにつけ日本のやり方としてあり、今もそのやり方に違いないと思われる。それは、やはり、地球上における日本の地理的位置、即ち、日本が極東の島国(列島の国)であることに深く関係していると言ってよいように思われる。大陸的思想にはなく、やはり良くも悪くも日本は島国であり、日本人は島国の感性にあると言える。

 ここで、元の話に帰るのであるが、その歴史を振り返ってみるに、その日本人の底辺にある感性は貴重に思えて来る。四季の変わり目を耳目の目の方だけでなく、耳、即ち、聴覚によっていることは野鳥(渡り鳥)に関しても言えることで、その鳴き声を捉えた歌の表現が見て取れる。前述したホトトギスがよい例で、奈良時代の『万葉集』でも、平安時代の『古今和歌集』でも、鎌倉時代の『新古今和歌集』でもほぼ全部が鳴き声の登場であり、その鳴き声に夏の到来を感受している。一例をあげると次のような歌が見える。

   神奈火の磐瀬の杜のほととぎす毛無の岳(をか)に何時か来鳴かむ    『万葉集』 巻八(1466) 志貴皇子

   ほととぎすなくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもする哉     『古今和歌集』 巻十一(469) 読人しらず

   ほととぎすそのかみ山のたび枕ほのかたらへし空ぞ忘れぬ                『新古今和歌集』巻十六(1484)式子内親王

 以上のごとくである。カエルで言えば、近代短歌に有名な歌がある。

   死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる                  『赤火』 「死にたまふ母」     斎藤茂吉

 生母いくの死に際して詠んだ一連中の一首であるが、いくの死は五月二十三日であるから、みちのく山形は田植えの時期だったと思われる。「遠田のかはづ」の表現はまこと田舎育ちの私などにはよくわかる。死に近き母に添寝しながら聞くそのかはづ(カエル)の鳴き声は、まさに天命にも通じる切なくも聞こえる声だったろう。また、季節の移ろいをその感性によって捉えた極みの歌は次の歌であろう。この歌も名高い歌である。

   あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる      『古今和歌集』巻四秋歌上(169) 藤原敏行

 ほかにも類似歌が見受けられる。例えば、「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」(『秋篠月清集』九条良経)、「うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風」(『新古今和歌集』式子内親王、「手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞふく」(『同』相模)などがある。なお、「ならす」は慣らすと鳴らすの意をかけている。これらの歌には、聴覚と皮膚感覚による繊細な心持ちがうかがい知れるところである。とにかく、日本人の感性の繊細さは生来のものであり、この感性は大切にしたいものである。 写真は田植えの準備のため水を張った田。

 

 


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2016年05月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1614> 「全ての人命は貴重である」を思う

         咲き揃ふ花それぞれにあるほどは人それぞれにあるほどの意味

 オバマ米大統領は広島における演説で「全ての人命は貴重である」ということを述べた。その人が天下に名だたる有名人であろうと、無名な一般人であろうと、富を誇る優雅な生活を送っている人でも、市井の片隅で貧困を託っているような身の一人にあっても、みな同じ貴重な人命だという認識の言葉であることがわかる。この言葉に続けて「私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方である」と述べた。

 この言葉は、誰一人例外なく、父母があって生まれ来たったものであり、この地球上に存在しているという人類普遍の真実を言っていると知れる。それは人種、民族、国家、宗教、男女、階級、貧富、思想、心情等々、これらにかかわらず、人命が根源にあって考えられて行かねばならないことを指摘していると理解される。言葉を変えて言えば、それは平等であるということを言っていると知れる。この平等性において考えるならば次のようにも言えるところがある。

 百の人命は一人一人の人命の百の集合であり、万の人命は一人一人の万の集合にほかならず、衝き詰めて考えれば、つまるところ、百でも万でも一人一人の個の人命においてはかわらない価値の持ち主であるということが出来る。広島や長崎のように一発の原爆で一度に膨大な貴い人命を奪い去るということは、如何なる理由づけにせよ許されるものでないことは当然なことである。それは貴い一人一人の人命を百人ならば、百回奪い去ることに等しいわけであり、それが極めて短時間に、否、同時にやってのけられるということなのであるから恐ろしいということになる。

                                        

 ハナショウブ園では、今、花が美しく咲き揃っているが、この花の集まって咲く姿を見ていると、花はそれぞれにあり、よく目立つ花があるかと思えば、中に隠れるように咲いている花も見られるといった具合である。だが、一つと言って花に価値のない花はなく咲いているのがわかる。それはこの世に生まれ来たった生命の意義にも通じるものであることが考えられる。

 今回はハナショウブ園の花を見ながら、なおまだ余韻の残るオバマ米大統領の演説のことを思い巡らせながら人命について思った次第である。一つ一つの花に思いが致せないものに花全体を思いやることは出来ない。なぜなら、全体は一つ一つの個から出来上がっているからである。我が身の立場のみからものを考える利己的精神では全体の理想には近づけない。愛国精神は一面において大切かも知れないが、それによって一辺倒に突き進むならば、愛国精神同士の衝突は免れず、そこには悲劇が起きるということになる。釈迦は「生命はすべてのものに愛好される」と言いているが、「愛されるべきは生命である」と言い換えてもよいのではないか。生命を人間に見るならば人命ということになる。 写真はイメージで、群れて咲くハナショウブ。

 

 


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2016年05月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1613> 田植えの準備

         田植ゑ前 池満々と 水湛へ

 梅雨入りが近いか。このところすっきりしない天気の日が多い奈良大和ではある。人事に関心が持たれ、それに意識が行っていると、自然の移り変わりに疎くなり、いつの間にか季節なども移り変わっているということがある。昨今、政治の世界にいろいろと話題があって、舛添だオバマだと関心が持たれ、その話にのめり込んでいたら、五月も終わりに近くなっていたという具合である。

 今日は久しぶりに歩きに出かけた公園の木々の中で、ホトトギスの鳴き声を聞いた。鋭い独特の鳴き声で、その声は一声でホトトギスとわかるが、姿はなかなかお目にかかれない。今日は今年初めての鳴き声であったが、やはり、姿を見ることは出来なかった。田植えが近いとあって水田では田ごしらえが進み、溜池には満々と水が湛えられている。

                                                

 ところで、戦後日本の風景の中で大きく変わったものの一つに家族の形態がある。所謂、大家族から核家族になり、世の中に個人主義がはびこり、コミュニケーションに変化を来たし、家庭内の人間関係が希薄になるにつれて、一家団欒というような風景も少なくなって久しい。今の若い年代によく見られるところであるが、個人主義の最たる風景はいよいよ極まり、スマホにのめり込んで時間を費やしていることがある。

 このスマホに現われている個人主義の風景に加え、時代はなお進み、人間の行動様式の変化のみならず、今度は国土に大きな変化が及ぼうとしていることが言える。これも時流によるものであるが、欧米よりの文明的圧力による影響が考えられる。それは水稲栽培の始められた古来より見られて来た棚田を含む水田の広がる風景に変化が見られ始めたことである。

 その水田の変化は農業構造と農業人口の問題を抱え、山間の棚田から徐々に中山間地に及んで耕作地の荒廃が進んでいるに及んでいる。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)の善し悪しは議論の尽きないところであるが、日本の農業環境、即ち、農地活用において従来のやり方では立ち行かなくなり、当然のこと国土の風景を変えて行くことになる。その変化の影響は変化後の何十年か後に現われるに違いない。

 スマホの依存率は相当であろうが、まだその依存による精神上の変化の現れは見られないと言ってよい。だが、必ずその影響はスマホの利便と同等に出て来る。それが私たちにプラスに働くものであればよいが、マイナスに働くことも考えて置かなくてはならない。韓国は日本よりもデジタル機器の使用頻度において進んでいると言われるが、アナログを疎かにして来た結果、セオール号の悲劇などに繋がった。あの教訓はこれからの日本にも当てはめて言えることと思われる。

 田植え風景の一つにも、言わば、考えさせられるところがある。これが昨今の事情と言える。棚田の多い大和地方の今後はこの農業形態事情と後継者不足の二つの観点から見るだけでも問題の深刻さが言えるように思える。 写真は耕耘機を使い田植えの準備に取りかかる風景(左)と花を終えたキショウブにとまるコシアキトンボ(右)。


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2016年05月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1612> 広島におけるオバマ米大統領の所感演説に思う

            科学を発展させ

          それを利用するのは

          人間であるが

          そこには確固たる

          責務が求められる

          人類に進展があるならば

          人間の英知は

          諸刃の科学において

          この責務の上に

          発揮されなくてはならない

 オバマ米大統領が被爆市の広島を訪れることが報じられてからどのような言葉が発せられるのか、広く全世界が注目した。当事市の広島や長崎の市民はもちろんのこと、多数の犠牲をもって敗戦した被爆国日本の私たちには大いに関心が持たれた。それは短い言葉であろうと想像していたが、案に反して長い持論を含む所感の演説で、その言葉の印象は感銘を呼ぶ内容であったと私には受け止められた。

 その言葉を振り返ってみると、それは人類の歴史から入り、戦争の悲劇について、「文明の歴史は戦争に満ちている」と、人間が古い昔から争いに終始して来たことに触れ、科学によって人類が発展し、それに伴う文明が世界にすばらしい展開をもたらして来たことに違いないけれども、「人類が自然界から離れ、自然を従わせることの出来る能力を持つと同時に、比類のない破壊力も生み出した」と言葉を進めた。

  この科学の優位性において「物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実(破壊して来た事実)を隠しているか」ということに言及し、科学の進歩がその反面において、ほんの数年間で6000万人に及ぶ尊い命を滅ぼして来たかについて触れた。

 この科学、或いは文明の矛盾の極みに原爆投下による広島と長崎の悲劇の現実が生じ、そのときの人々の呻きと叫びの中に死んでいった多くの人が想起されると述べた。そして、この悲劇に対し、「原子を分裂させた科学の革命は私たちに道義的な進歩も要求している」とこれからの人類に求められていることに言葉は及んだ。

                                                     

  「オバマは謝罪するのか、しないのか」という事前の声に対するこれは答えだったかも知れない。彼は加害、被害の区別なく、すべてをひっくるめた人類相互の立場においてあるべき姿というものに軸を置いてこの所感的言葉を発したと見て取れる。

  言わば、過去に拘泥するのではなく、過去の悲劇的歴史を踏まえ、それに学び、未来に向って思考して行く意志を表したと言ってよい。これについては、子供を引き合いに出して言葉を継いでいるのが印象的である。

 だが、被爆者団体などがずっと叫んで来た核廃絶に対してはどうなのかという疑問が投げかけられるところであるが、この点についても演説の後半において触れた。「我が国(米国)のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から自由になり、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはならない」と核廃絶の方向性を示す持論を述べた。世界で展開している核事情においては反発の声も起きる発言と見なせるが、この言葉は、核廃絶を求めて世界に発信し続けて来た被爆者に対する敬意の現れとも思えるところがあった。

 そして、戦争が止まず、テロが横行する世界の現状に触れ、核兵器が邪悪の手に渡らないようにしなければならないことにまで言及した。「私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではない。私たちは学ぶことが出来る」と人類に共通する人道意識を推し進め、戦争が起こり難く、残虐性が簡単には受け入れられないようにすることが肝心だとも述べた。

 最後に米国の独立宣言の言葉をあげ、すべての人類が平等に創造され、生命、自由、幸福追求の権利に言及し、「全ての人命は貴重である」と述べ、これを伝えて行かなくてはならないという思いで広島の爆心地に立っていることに触れた。そして、「科学の驚異を、人類を抹殺するのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えている」と述べ、「広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきだ」と結論づけた。

 思うに、オバマ大統領の広島における言葉は謝罪云々を越えた人類共通の理念として核兵器の不要を述べたものであり、広島、長崎の被爆者たちが発し続けて来た核廃絶の訴えに和するものである。被爆者たちのこれまでの声が七十一年の間、核の廃絶は叶わなかったものの、一度たりとも使わせなったその強い使命的な意志が今日に至り、オバマ米大統領の広島来訪も実地のものにしたことが言えるのである。

  オバマ大統領の言葉にもあるように、これからも核廃絶の声が発せられ、人類の脅威を取り除くべく、広島、長崎には核廃絶の声が続けて発せられる必要があるだろうと思える。オバマ大統領は残り八ヶ月の任期であれば、大統領を退くのも近い。後任に誰が選ばれるか、気になるところであるが、大統領が変われば、後任の大統領の意向が政治には反映され、オバマイズムは遠のき薄れて行く恐れもある。そういうことも踏まえ、オバマ大統領のこのほどの広島来訪とその演説の言葉は貴重であり、世界で唯一の被爆国日本はこれを機になお核廃絶の訴えをしっかり持ち続け、平和の希求を世界に発信して行かなくてはならないのではないかと思われるのである。

  最後に触れて置かなくてはならないことは、元米海兵隊員の軍属の男による沖縄の女性暴行殺人事件のことである。沖縄は大戦において広島、長崎に劣らない民間人を巻き込んだ悲劇に呑み込まれ、今なお悲劇はその延長線上で起きている。この事実も「全ての人命は貴重である」と述べたオバマ大統領には認識してもらいたいと思う。もしかしたら、この認識があるゆえにこの言葉は発せられたとも思えるのであるが、私にはオバマ米大統領のうわべだけでない良心が感じられた今回の演説ではあった。 写真は原爆死没者の慰霊碑の前で、広島来訪の所感の言葉を述べるオバマ米大統領(左)と慰霊碑に献花するオバマ大統領(NHK総合テレビのニュースより)。


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2016年05月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1611> マガモとアヒル

          マガモにアヒルが恋をした

       アヒルもマガモに恋をした

       マガモは故国に帰りたい

       アヒルはついて行きたいが

       飛ぶに飛べない身を嘆き

       マガモにそれを告げたので

       マガモは悩み考えた

       俺がここに残るだけ

       そうだ ここに残るだけ

       それで叶えられる恋

      穏やかにして池の水

       恋の道とはこれやこの

       マガモとアヒルのランデブー

       晴れた五月のランデブー        

 奈良市佐紀町の水上池に仲よしのマガモとアヒルがいる。マガモは体の美しいオスなのでアヒルの方はメスに違いない。水上池の近辺は野鳥が多く見られ、野鳥の会の会員らがよく観察に訪れるところである。冬場には北国から渡って来るカモの仲間などで池はにぎやかになる。

 春になると、渡りの冬鳥たちはこぞって北国に帰り、池は留鳥のカイツブリやアオサギなどがわずかに残り、水面は淋しいくらい静かになる。上空では夏鳥のツバメが飛び交い、近くの田畑ではケリやオオヨシキリやキジ、カラス、スズメなどの姿や鳴き声が聞かれるといった具合である。カモの仲間では毎年カルガモだけが残り、その姿が見られる。

 そんな水上池で、この夏は首と頭部が鮮やかな瑠璃色をした嘴が黄色いマガモのオスが一羽残り、純白のアヒルと仲良く泳ぐ姿が見て取れる。水上池にはコブハクチョウとアヒルが一羽ずつ棲みついていて、コブハクチョウについてはシラサギと仲違いしていることをこのブログの<1486>で取り上げたが、今度はアヒルの方である。

                         

 マガモは一団でよく渡って来るカモで、メスはカルガモに似て地味だが、オスは美しい。ともに黄色い嘴を持ち、嘴の根元半分が黒く、先端の方半分が黄色いカルガモと見分けられる。ほかのカモとともにマガモの一団は春を待って北国に帰り、今年も姿を消した。だが、オス一羽が残り、アヒルに寄り添って泳いでいるという次第である。

 連れ添って泳ぐマガモとアヒルはきっと恋仲に違いない。アヒルは飛ぶことが出来たらマガモと一緒に北国へ飛んで行ったかも知れない。だが、よく飛べても数メートルなれば、北帰行の旅は叶うべくもなく、この恋の思いを成就させるにはマガモの方に選択肢が振り向けられることになるは必定。ということで、マガモにはアヒルへの恋を選ぶか、故国の北国を選ぶかの選択が迫られることになった。そして、マガモはこの択一にアヒルへの恋を選んだのである。

 マガモのオスにとって、この恋の選択は一生を左右する大問題であったが、アヒルへの恋の情が募り、一羽で残ったのである。こういう次第で、マガモとアヒルの恋は水上池で展開し、仲良く泳ぐ姿が見られるというわけである。アヒルは家鴨と書かれるように、マガモが原種の家禽であれば、その血筋はマガモに通じるからこの二羽の恋は違和なく叶うことになると思える。

 恋すれば、恋の成就は誰もが望む。寄り添って泳ぐこのマガモとアヒルにもこれは言える。恋を愛に昇華することは出来ると思いたい。純粋な恋の持ち主たちに幸あれと思う。穏やかに広がる池の恋物語 仲良く泳ぐ真鴨と家鴨  写真は水上池で。