大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年10月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1403> 「うむ」の来歴

       日月の速さに棹を差しながら 「うむ」の来歴いまに及べり

 来歴七十年。長いか、短いか。過ぎてみれば短いような気もする。その間、折り節に諸事情があったと顧みるにその度ごとに「うむ」の言葉をもってその諸事情を胸に納めて来たように思われる。そのときどきの思考、判断が正しかったかどうか。ときには撹乱されるという仕儀にも及んだが、それもこれも「うむ」のうちに納めて来た。

                         

 よしにつけ悪しきにつけ、これは一つの実績であり、あるは愚かと賢さ、あるは弱さと強さの現れにほかないところ。自らの内に残ったものが何かは知らず、一顆の重さを掌にしているその感。以後も「うむ」に納めてゆくべく精進のほかにはあらずと言ったところである。以下に五首の歌あり。明日への一歩というほどの心持ち。 写真はイメージで、リンゴ。

  肯定も否定もと惑ひゐることも 言はばすべては「うむ」のうちそと

  現身の事情あれこれ 「うむ」のうち 「うむ」三千の身のほどを来ぬ

  それよその  如何にあれども「うむ」にあり 丸き林檎は「うむ」を諾ふ

  「うむ」によりことは納まり得る そして そこより見ゆる地平の彼方

  「うむ」といふ言葉は心の言ひにして 定まる道をありがたくする


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2015年10月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1402> 紅葉、黄葉

        紅葉の 日が差し来れば 輝けり

 大和の紅(黄)葉は標高八〇〇メートル付近を麓にむかって下りている感じである。大峰山脈の山頂付近では既に終わり、冬の装いである。青垣の低山帯はまだ本格的な紅(黄)葉には至っていない。平地に下りて来るのはなお遅く、十一月中ごろ以降ではないか。落葉樹は四季の表情が豊かで、見る者を魅了する。日本の山の自然林は落葉樹の雑木に被われているところが多く、四季折々その姿を楽しませてくれるが、紅(黄)葉が見られる秋はまた格別である。 写真は左から山一面の紅(黄)葉。みごとなカエデの紅葉。何の木か、山の自然林では黄葉が目につく。 写真は何れも大台ヶ原ドライブウエイで。

                       

     紅葉の山行く先の期待感

  紅葉に黄葉 個性競ふごと

  紅葉も黄葉も燃え尽きるまで

  紅葉に黄葉こりゃあお祭りだ

  紅葉の真っただ中の暖かさ


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2015年10月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1401> 大和山岳行(18) 和 佐 又 山

         枯れし花 にも姿あり 形あり

 朝晩冷え込むようになり、一週間前に比べると、季節が進んだ感じがする。今日は上北山村の和佐又山(一三四四メートル)に登った。和佐又山は大峰山脈の北を代表する大普賢岳(一八〇〇メートル)の登山口に当たる和佐又山ヒュッテを抱く円錐形の山で、大台ヶ原方面から遠望すると、大峰山脈の懐に位置し、その円錐形によって、その位置が確認出来る山である。

  ブナ、ミズナラ、ヒメシャラ、オオイタヤメイゲツ、ホオノキなどの落葉高木にツツジ類などの落葉低木、これに、モミやヒノキなどの針葉樹が点在して混じり、山は全体に落葉樹林で占められ、紅(黄)葉が見られる山であるが、今年は紅(黄)葉の進み具合が早く、ほぼ終わりを見せ、山は冬に向かっている感じがあった。

  秋の花も一段と冷え込む中、見られるのはキッコウハグマくらいで、後はアザミにしても野菊にしても咲き残ったという段階で、枯れたものや実になったものなどが見られた。冬は雪の多いところで、大人の腰辺りの高さまで積雪があるため、奈良県では珍しいスキー場になるという。本格的なスキーには距離が短くて無理なようであるが、子供に人気があり、家族連れの利用が多いという。

       

  大半が落葉樹の山なので、四季折々にその変化が楽しめるような感じがした。ヒユッテを起点にすれば気軽に登れる山である。健脚には足を延ばして大普賢岳から国見岳、七曜岳などを巡れば山岳の雰囲気が味わえる。また、笙ノ窟など大峯奥駈の修験道の行場などを訪ねることも出来る。 写真は左からすっかり葉を落とした和佐又山山頂付近の木々(後方は大普賢岳方面)、落葉に敷き詰められた和佐又山の登山道、かわいらしい花をつけたキッコウハグマ、枯れたノリウツギの花、赤い実をつけたミヤマシキミ。


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2015年10月27日 | 創作

<1400> 我が老年期の記

        不束に来し身なりしがいま少し歩みを欲す老年期なり

 自分というのは自分の身体からは出られないようになっているので、よほどの工夫をしない限り、自分を外から見ることは出来ない。という具合で、自分というものを客観的に見ることは難しいと言える。ということで、このことに私たちはときに気づかされることがある。

  私は古稀を越えた言わば老齢の域に人生の歩みを進めている存在であるが、まだ、自分に対し、年寄りだという気分はない。ところが、このブログでも触れたように、次のような話がある。久しぶりに電車に乗ったら小学生が「どうぞ」と言って席を譲ってくれた。こういう経験は初めてのことだったが、このとき自分は年寄りなんだとはたと気づかされたのであった。未だ年寄りだと思ったことのない身が、その実体を外からの目に指摘されたのである。言わば、これは外から見ることの出来ない自分という存在を教えられた例と言える。

                                         

 ということで、老年期というのは、人生のいつの時期をいうものかと考えてみるに、これは晩年をいうにほかならず、その間は、初老より始まり、最晩年の終末期、つまり、死ぬまでということになる。この年齢域の最も特徴的なものは、体力の衰えが現れ、自覚に及ぶということであろう。「年には勝てぬ」とはよく言われることである。

 こういう人生最後の年齢期においては、体力の衰えと同時に自分の限界を思い知らされるところとなり、遂には死というものを考えのうちに入れ、遅まきながらも、如何に生き、そして、如何に死するかというようなことが真剣に考えられるようになる。で、そこには宗教とか哲学とかが自分という存在に影響を及ぼすことになったりする。

 ここでよく使われるのが、諦観とか達観という言葉である。諦観はことの本質を見て、及ばざると知り、あきらめること。達観は全体の情勢をよく見通し、惑わず、道理や真理を見極めることである。これは人の境地を言うに当てて用いられる言葉で、諦観にしても達観にしても、老年期にこのような境地を得ることが出来れば幸いであり、人生における理想形と言えるように思える。

 現在の平均寿命からして言えば、この老年期は古稀、つまり、七十歳より死を迎えるまでをいうものとして考えられる。我が国の制度では、今のところ六十五歳以上に年金支給がなされるということで、六十五歳から老年期と考えるべきかも知れない。年金の支給年齢を七十歳に引き上げるというような制度改正の声も聞かれるが、この五年の期間は雇用などの実体を考えるとなかなか悩ましく難しい問題だと言える。

 という次第で、わたしは老年期のただ中を歩いていることになるが、諦観には及べず、ましてや達観などはなおさらのことで、今までの人生を引きずりながら悩ましくも惑い、日一日を過しているというところである。では、そういうことで、私の進行形にある老年期の歌を以下に十首ほどあげてみたいと思う。 写真はイメージで、冬雲と満月。

   来し道は節々あれど一筋にありてこの身の今を歩める

   人生の確かさそれはこの先も未完にありて歩む身の上

   瞑目の集成にして自らの歌の数々懐かしくある

   越えて来しものらが見ゆるこの先もまだ幾ばくか思ひの徒輩

   キリストと釈迦の例へば磔刑と涅槃この身は夢に果つるを

   阿吽なる人の一生 阿より吽 吽に終はるをほつほつ思ふ

   冬雲が流れて行くよ 人の世の生の姿を思はしめつつ

   人生は感傷ときに惜別の歌など聞かるさざ波の岸

   人生は彼方(あなた)に此方(こなた) 身の思ひ 神の間に間の玉水を受く

   月は満ちそして欠けゆく 人生の慰撫にしてありやさしかりけり


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2015年10月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1399> 大和高原の秋

         実り得て 穫り入れを待つ 蕎麦の里

 好天が続き、蕎麦の栽培には絶好だったのではなかろうか。九月には花が満開だと新聞の記事にあった。その花がここに来てすっかり実になり、収穫を待つばかりになっている。今日も天気がよく、「荒神の里・笠蕎麦」で知られる大和高原の一角、桜井市笠の笠山荒神社周辺に広がる蕎麦どころに出かけてみた。

                                                                       

  現地で収穫した蕎麦を食べさせる村興しで始められた蕎麦のメニューに人気があり、今日も昼時には多くの人たちが訪れていた。NHKの番組でも紹介され、この番組で知ったという遠来の客も見られた。

  蕎麦を頂いた後は、売店で地産の野菜や花を買い求め、巻雲が青空にすじを引く秋晴れに誘われて、大和高原をドライブして回った。 写真は大和高原の秋の空。蕎麦畑は実の収穫時期を迎え茶色く見えた。 巻雲の 高さに秋の 透き通る