大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより~ 写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年01月31日 | 写詩・写歌・写俳

<151> 冬 花 火
        込められし祈りにありて冬花火
  若草山の今年の山焼きでは、東日本大震災と台風十二号の被災地に寄せ、その復興を願って例年より多い六百発の花火が打ち揚げられた。これについては二十八日に触れたが、その願いとしての冬花火を以前の花火も含め、ここに幾つかの写真をもって、振り返ってみたいと思う。打ち上げ花火については、中河与一の『天の夕顔』を思い出す。 この小説は打ち上げ花火に夕顔をイメージし、 その花火の夕顔を天に召された彼女が摘みとることを想像したプラトニックラブで、心の中の彼女との交信が美しく描かれている。
  夕顔の花火は夏の夜であるけれども、 山焼きの冬花火にもこの美しい夕顔の花火を思い起こすことが出来る。私には、山焼きの打ち上げ花火も、夕顔の願いに等しく、東日本大震災と台風十二号の被災者への慰霊ということが思われる。

                      


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2012年01月30日 | 写詩・写歌・写俳

<150> 寒  雀
    寒雀 ぱらぱらと降り 籾拾ふ
  私たちにとってスズメほど親しみのある野鳥はいないが、最近、そのスズメが少なくなっているようである。知人の賀状にもこれに触れて、「ウグイスやツバメが、家へも畑にもきません。小鳥たちはどこへ行ったんでしょうか。 スズメの声があまり聞こえないのも、 耳が遠くなったせいだけではないような気がします」とそのように記されていた。
  生きものはどんな生きものでも 食べる物と棲むところが必要で、このニつの要素の どちらかでも欠けると生き難いことになる。 このことを念頭に置いて 考えると、この知人の話も 理解出来る。 私の家でも春になるとウグイスの声が聞かれたが、 この数年聞くことがなくなった。
  これは近くの古墳に薮があって、ウグイスがそこをねぐらにしていたが、 古墳の薮が刈り取られたため、住人にはすっきりしたのであるが、 ウグイスにはねぐらを追われる結果になった。多分、このためだろう。 それ以来、 春になってもウグイスの姿はなく、 声も聞かれなくなったのである。
                                                                       
  ツバメは夏の渡り鳥で、四月の中ごろには姿を見せるが、ツバメも最近は少なくなっているようである。ツバメの宿は民家の軒や土間の梁などで、不思議にも、毎年やって来る。私の故郷の家でも土間の梁に板を取り付け、ツバメが巣を作れるようにし、 玄関の戸の取手のところをくり抜いて留守の時でもツバメがそこから出入り出来るようにしていた。
  ネコがその戸口でツバメを狙っていたこともあるが、捕まえられたことはなかった。 また、 ツバメの卵を狙ってアオダイショウが入り込み、大騒ぎになったこともあったが、昔の家はそうした小動物に対して大らかな造りになっていた。しかし、最近の家は寸分の隙もなく、 ツバメが巣を作ることが出来ない状況になっているのが実情である。
  この問題は 民家を棲み処にしているスズメにも当てはまる難題で、 軒のない家の造りがスズメには致命的になっているのがわかる。 朝起きると、以前はスズメのちゅんちゅんという鳴き声が聞こえて来たものであるが、最近は、 知人も感じているようにそれがとんと聞こえて来なくなったということである。
  スズメと言えば、おとぎ話の「舌切り雀」や小林一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」という句、それに「雀の学校」などの童謡にも登場し、「雀の涙」や「雀百まで踊り忘れず」などの諺にも用いられ、スズメノテッポウ、 スズメヤリ、 スズメノエンドウ、スズメバチ、 スズメガなど草花や昆虫にもその名が見られる。これはスズメが私たちの身近に見られ、いつも接触して来たからにほかならない。そんな中、 私の印象に 残っているスズメと言えば、 森鴎外の『山椒大夫』のラストシーンに出て来るスズメが思われる。
    安寿恋しや、ほうやれほ。
    厨子王恋しや、ほうやれほ。
    鳥も生(しょう)あるものなれば、
    疾う疾う逃げよ、逐わずとも。
  これは人買いの山椒大夫に浚われ、 幼くして母と生き別れになった厨子王が成年して国司になり、 老いた母と再会する場面で、 盲になった母が 蓆に坐ってアワを啄みに来るスズメを長い竿で逐いながら 繰り返し つぶやく詞である。 この詞を聞いた厨子王は、このスズメを逐う老女が母であると知り、 涙の再会を果たしたのであった。熱い涙のお陰で老母の眼は開き、二人はしっかりと抱き合った。 このラストのシーンは実に感動的で、 私にはこの『山椒大夫』を感銘を受けた本の一つにあげることが出来る。このようにスズメは害鳥に数えられているが、私たちの身近で親しい存在にある。ところが、 最近、 その数が少なくなっているということである。





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2012年01月29日 | 写詩・写歌・写俳

<149> 菜 の 花
       菜の花が咲いた
      菜の花が咲いた
      冬へお別れ
      春へお誘い
      みんな行こう
      みんな歌おう

  このところ寒さの厳しい日が続いているが、春の花である菜の花が咲いているのを見かけた。という次第で
、ここに写真で紹介したいと思う。菜の花はアブラナ科の一、二年草であるアブラナのこと。在来種と外来のセイヨウアブラナがあって、 ナタネ(菜種)とも呼ばれ、主に種油を採るために栽培され、電燈が普及するまで灯火の役目を担って来た。

 このため菜の花は全国的に見られ、「菜の花畠に入日薄れ 見わたす山の端霞ふかし」と文部省唱歌の『朧月夜』にも歌わるほどその黄色い花は親しまれ、レンゲソウとともに田畑に植えられる我が国の春を代表する花になり、今に至っている。大和でも盆地の平野部が菜の花に埋めつくされた時代があり、 短歌や俳句にその風景が詠まれている。以下の短歌がそれで、許六は江戸、躬治は明治、好子は昭和の人である。特に許六の句は大和郡山市の郡山城址に碑として残されている。
    菜の花の 中に城あり 郡山                                 森川許六
    菜の花に 大和三山 よき高さ                                  小松好子                          
    一すぢの小道の末は畑に入りて菜の花一里當麻寺にまで                     服部躬治

                                          
  最近の大和路を見るに、菜の花は、バイオ燃料の再認識などで各地に植えられ、村興しや町興しの観光目的に栽培されることも多くなっているのがわかる。中には早咲きの品種も出回り、冬にも花が見られるようになった。  写真は大和郡山市の小泉付近で。
 

                                             


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2012年01月28日 | 祭り

<148> 奈良・若草山の山焼き
       山焼きや 写真撮る人 列をなす
  一月の第四土曜日に当たる二十八日夜、恒例の奈良・若草山の山焼きが行われた。 松明の聖火行列と安全祈願の神事が行われた後、午後六時過ぎから花火が打ち上げられ、同六時三十分ごろに点火され、一時間ほどをかけて、山腹約三十三ヘクタールの約七割が焼かれた。焼け残った部分は二月の昼間に焼くという。今年は東日本大震災や台風十二号の被災地復興を祈願してハートマークや笑い顔、シカなどを模った六百発の花火が打ち上げられ、例年になく豪華だった。
  山焼きの起源は、江戸時代に若草山における東大寺と春日社興福寺の領地争いを奉行が仲裁したとき境界をはっきりさせないのがよいとして始められたというのが一般的な見解であったが、最近、両社寺から、 古文書に山焼きが領地争いに由来するという記述がないことからこの由来説に不服が申し立てられ反論が出た。反論は、領地争いによるものではなく、山頂の古墳に幽霊が出て、山を焼いて霊を慰めないと祟りが及ぶという迷信があって、そのため通行人が火を放ったのが始まりであるという。 しかし、この社寺側の反論も実証がないことから山焼きの由来説については今もはっきりしたことはわからないことになっている。
  山焼きは江戸時代のころ始められたようで、 中断もあったが、 明治十一年に復活し、最初は昼間に行なわれ、同三十三年から夜間に移った。 戦後の昭和二十五年からは一月十五日の成人の日に行なわれるようになったが、現在は休日法の関係で一月の第四土曜日に移行され、この日の夜に行なわれるに至っている。
                                                 
  若草山は、古くは葛尾山(つづらおやま)と呼ばれ、山頂には鶯塚古墳(鶯陵)と呼ばれる五世紀ごろの前方後円墳があることでも知られるように、背後の春日山が斧鉞を入れない原始林で被われているのに対し、昔から人の立ち入りが盛んにあって、庶民の間でも山に入る者が多く、ススキを中心とする草原の山が出来て、以後、その草原を維持するために山焼きも行なわれたのであろう。また、山全体が火山によって出来た安山岩の山で、土砂崩れなどの起き難い土質にあることも若草山が草原である大きな要素としてあり、山焼きなどもこの条件下になされるようになったことがわかる。これに領地争いや幽霊などのエピソードが加えられ、その由来が説話的に語られるようになったのではなかろうか。
  どちらにしても、 若草山の山焼きは大和の冬の風物詩として定着し、 全国的に知られるところとなり、多くの見物人を集めるに至っている。山焼きは順次焼かれ、全山が一時に燃え上がるわけではないので、 肉眼では帯になって燃えるのが見える程度で、 長時間露光による写真のように全山が炎に包まれているようには見えない。このため、山焼きは写真の独壇場と言ってよく、 カメラマンは三脚でカメラを固定して撮るので、よいアングルポイントにはカメラマンが群れをなすことになる。   写真の塔は興福寺の五重塔で、この写真のみ以前の撮影による。


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2012年01月27日 | 写詩・写歌・写俳

<147> 近 況
         冬人家 それぞれにあり 西日受け
  回って来た団地の回覧に、来年度の新入児童が一人であるという報告があった。これは我が団地の住人が 高齢化し、 子育て世代が 少なくなっていることを物語るもので、団地内で子供の声がなく、静まりかえっている現象に等しいことが言える。これは我が団地だけでなく、戦後の高度経済成長にともなって昭和の中ごろ出現した新興住宅地に漏れなく見られる現象ではないかと思われる。
  言うならば、この現象は我が国が辿って来た戦後の結果であり、現在の日本が有する社会的縮図の一端であると言える。 労働者の派遣化などに見られる雇用不安や都市部に見られる待機児童の問題、3・11以後に言われるようになった「絆」の問題などもこの国が辿って来た結果の現れであることが思われる。 そして、 ここに少子高齢化の高齢者として私たちも組み込まれていることに気づく。
  働きに働いて来た私たちの世代は、老後を穏やかに暮らすことを一つの夢にしていたのであるが、理念の見られない場当たり的な政策によるつぎはぎだらけの制度に終始する国政の頼りなさと不備、 また、官僚の利己的政策に不安と不満を募らせる状況になっていると思える。
                                                            
 子供に伸び伸びとした希望が見られず、 年寄りに不安を与えるような国が 果たして幸せを言える国であるだろうか。社会的にみて、私たちの世代は感じている。 今、どのような状況に直面しているか。 それは「公」も「私」も頼りにならないという八方塞りにあるということで、自衛に入っているというのが実情である。死後の葬式や墓のことも自分の意志を示しておくというやり方。それに関わる費用は自分で賄うという方法である。 これは私たちの親の時代とは明らかに異なる老後の状況と言える。
  例えば、リビング・ウイル(生前の意思)という言葉があるが、この閉塞した社会情勢の中で、 このリビング・ウイルが高齢者の誰の心持ちの中に も芽生えて来ているのではないかと思われるふしがある。それは如何に死するかという命題に沿うもので、如何なる死を望むかという意思の問題であって、 極めて深刻に高齢者の心理に根を張りつつあるかということが言える。後ろ向きとは言われそうであるけれども、 これが私たちの世代の幸せに関わる重要な案件であることは確かである。
  安心はいかなる世代にも大切なものであるが、 安心がお金で左右される傾向が強く現われている昨今、これは時代の流れであろうが、 百年安心と宣言されていた年金一つをあげてみても、国の国民に対する裏切り行為は、何を信じて暮らして行けばいいのかという不安な状況を私たちに負わせているということになる。
  冒頭の句の風景は昔も今も変わることなくあるように見えるが、その実質は私たちが故郷を離れて都市部に出て来たころに比べると、相当変質していることが覗える。二百世帯もある団地で新入児童がたった一人というのは深刻で異常なこととに相違ない。