大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年07月11日 | 創作

<3463> 写俳百句 (65) 蟻塚の夏

                 新しき蟻塚に夏雲の峰

                         

 梅雨の中休みの大和地方。今日十一日は晴天になり、白い夏雲がまぶしく、気温も上昇し、蒸し暑い一日になった。午前中、馬見丘陵公園に出かけ、五千歩ほど歩いた。なるべく緑陰を辿って歩いたが、汗をかいた。

   草原を歩いていると木陰に蟻塚が見られ、真新しい感じで、アリたちが忙しなく動いていた。蟻塚は白い夏雲に照らされて明るく浮き立って見えた。池辺ではヤンマやシオカラやコシアキなどのトッボの仲間。草叢ではキリギリス。姿を見えないが、チョン ギースの鳴き声がそこここで聞かれた。まさに昆虫の季節。

   今日は日曜日とあって公園には捕り網と虫かごを手にした子供連れが目立って多かった。ウグイスは相変わらずその美声を聞かせていたが、やはり姿は見えず、立ち止まって聞き入る人もなく、美声は美声だが、こう暑くなると、その声も半減されて聞く者の耳に届く。いよいよ盛夏である。 写真は夏雲(左)に照らされて浮き立つ蟻塚(右)。  チョンギース行ける道道チョンギース


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2021年04月27日 | 創作

<3390> 写俳百句 (53)  桐の花

              桐の花青垣山を見晴るかす

        

 初夏の候、この時期になると、キリが花を咲かせる。今年はいつもの年より早いようで、古墳の墳丘が点在する奈良県営の馬見丘陵公園には高さ15メートル超のキリの巨木が見られ、既に満開を迎えて、遠望する青垣の山並を背景に咲いている。

   花は巫女が神前で奉納する神楽舞の際、手にして鳴らす神楽鈴を思わせる円錐花序に淡紫色の筒状鐘形の花を多数つける。下向きに咲く花には芳香があり、清楚で、初夏にぴったりの趣がある。写真は青垣の山並を背景に咲くキリの花(左)と花序のアップ(右)。

   青垣の山を巡らし桐の花

   青垣の山とし大和桐の花

   晴れ渡る大和国中桐の花


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2021年01月06日 | 創作

<3279>  写俳百句  (31)  ソシンロウバイ咲く

                     蝋梅やマスクを外し花に寄る

                            

 ロウバイはロウバイ科の落葉低木で、漢字では蝋梅または臘梅と書く。蝋梅は漢名の蝋梅の音読みによるもので、ウメとほぼ同時期に咲く花に芳香があり、やや光沢があって蜜蝋に似るからという。一方、臘梅は旧暦十二月の臘月に花を開くからという。カラウメ、トウウメ(唐梅)の名でも知られる。江戸時代のはじめ、中国から渡来し、観賞用に庭や公園などに植えられて来た。

   花は内側が暗褐色、外側が黄色で芳香がある。馬見丘陵公園では花全体が黄色のソシンロウバイ(素心蝋梅)が三部から七部咲きほどに開き、よい香を漂わせている。新型コロナウイルスの影響甚だしく、公園を訪れる人はほとんどがマスク姿。花に近づくとマスクを外し、スマホをかざし写真に収めていた。 写真は青空の下で花を開いたソシンロウバイ。黄色の花冠と冬晴れの青空は補色関係にあり、よく映えて見える。


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2020年12月30日 | 創作

<3272>  作歌ノート   ジャーナル思考 (十)

               聞け足らぬ見よなほ足らぬ思ふ身の思ひの在処思へばなほも                 在処(ありか)

             Observe and analyse

             Know and build

             Out of research poetry comes.

                                            John Griason

 これは十九世紀イギリスの記録映画の第一人者ジョン・グリアーゾンの言葉である。この言葉には記録映画がいかにして作られるべきかということが述べられているが、この言葉は人生訓としても意味の深い言葉として受け取れる。言葉は命令形であるが、末尾に「足らぬ」を付けてみれば、人生訓としての色合いがより鮮明になって来る。つまり、次の歌のような意味合いになる。

    見よ足らぬ聞けなほ足らぬ解するに築くに足らぬゆゑになほあれ

        なほ足らぬなほまだ足らぬ語るにはその観察もその認識も

    足らざれば足らざるままに行くほかはあらぬがしかしよしとは言へぬ

   観察が足りない。分析も足りない。ゆえに、認識することも、構築することも十分にはなされない。足りない観察や分析のために懐疑が生まれ、推理と想像が逞しくなる。その推理や想像が美しく豊かであればよいが、貧しければ、足りない調査の分、推理も想像も貧しくならざるを得ない。もっとよく観察し、もっとよく分析し、その上でしっかり認識し、構築しなければならない。美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。そのことをよく承知しなければならない。

    見よよく見識れよく識らば自づから足るなり足れば詩歌は生るる           生(あ)

   あなたの明日は、あなたの今日にかかっている。今日あることは、明日への思いに繋がる。しっかり見、しっかり聞き、しっかり感じ、そして、しっかり分析し、しっかり認識すること。そうすれば、あなたの明日は自ずから開かれたものになるだろう。

   グリアーゾンの言葉はこのように言っていると理解される。この言葉をよく実践したのはウオルト・デイズニーの記録映画『砂漠は生きている』であった。超スローモーションのサボテンの開花シーンなどが評価された画期的な作品だった。では、もう一度グリアーゾンの言葉を聞いてみよう。

                    Observe and analyse

           Know and build

            Out of research poetry comes.

   美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。それは、心を虚にし、よく見、よく聞き、そして、よく認識し、よく構築することであると言っている。

                                                                    ❊

             有罪と無罪の間にある思ひたとへば天網恢々のこと

 本当のことに近づいたとしても、私たちの能力で、それに触れることは十中八九出来ない。触れることが出来なければ、そこに懐疑が生まれる。そして、私たちは、その本当のものに至れず、懐疑のままでいなくてはならない。これはあまり気分のよいものではない。そこでなるべく真実に近づくよう努めるということになる。それで、一歩真実に近づいたとしても、完璧ではなく、妥協が待っている。ときには「あなたにとって真実でなくても、私にとって真実である」というようなことも言われる。しかし、事実にあれやこれやのあるはずはない。こういうふうに考えると、人の口に上る真実の言いが方便に過ぎないということも言えて来る。

                                                 

 真実が明快に示されないことは裁判の中でもよく現れ、指摘される。全能の神でない私たちは、有罪(罪の重さ)と無罪(罪の軽さ)を決めかねる。昨日有罪であったものが、今日は無罪という光景を私たちはどれほど見て来たか。これは、努力にもかかわらず、いかに私たちの見聞が怪しく、調査が行き届かない中で裁判に向かい、妥協して来たかということを示すもので、私たちは、その限界のもどかしさの中でよく神的存在の顕現を望んだりする。

 「天網恢々疎ニシテ漏ラサズ」というが、そのようなことを望み、「私たちで裁けないなら、神さまが」というような声も聞こえて来る。しかし、その望みは、裁く側や傍観者である第三者だけが抱く思いではなく、裁かれる側にもある思いであるはず。特に無罪と言い切れる自信のある裁かれ側は、裁かれている歯がゆさの中で、なお一層その思いをつのらせ、或るは見えない本当の犯人に対し、「あの世へ行けば地獄だ」 というような思いを抱くのではなかろうかと思えたりする。 写真はカット。裁判の惨さを伝えた記事の切り抜き(ブログ記事と写真との直接の関係はない)。

  法により裁かるるとは言はるるが裁くは人の意によれる            意(おもひ)

  裁判の「破棄」の記事より顕ち来たる犠牲となりし者の辛酸

  真実のかけらを掬ふ耳目ありだがなほ掬ひ得ざる真実

  神はなぜ明かさざらむか掬ひたくゐて掬へざる真実の闇

  見よ足らぬ聞けなほ足らぬ足らぬまま裁かれし人の惨憺の生

 


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2020年12月20日 | 創作

<3263>  写俳百句  (28)  冬薔薇

                 眼鏡の奥の心熱冬薔薇

                                          

 冬薔薇(ふゆさうび)は寒薔薇(かんさうび)とも呼ばれる冬に咲くバラのこと。四季咲きのバラが冬に咲いている風情で、俳句では冬の季語である。暖かなころ咲く花は色鮮やかで幸せ感に満ち溢れ、バラの右に出る花はないほどの色合いを有し、咲き誇るが、寒さの厳しい中で咲く花は縮こまり、艶やかな花だけに、よりわびしく感じられる。こういう印象によって冬薔薇の花は受け止められている。

 しかし、この冬枯れの庭に咲く冬のバラは、そうした侘しさを外見からは印象付けられるが、その花にズームインして、例えば、深紅のバラの内側に目をやると、外見にはない燠を思わせる秘めた熱情のような色合いをうかがうことが出来る。これも冬薔薇の一面と言えよう。それにしても、このバラの花のエネルギーは何処に発するのか、霜をも溶かす勢いに見える。