大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月26日 | 吾輩は猫

<206> 吾輩は猫 (19)    ~<204>よりの続き~
      そこそこに 食ってゆければ それでよし 天道の下 一個のこの身
 人間の世界では兆の一万倍に当たる京の位にまでお金の数字が膨らみ近づいている。一から数えると、先端が遥かな彼方に霞んでしまい、実感出来ないが、個人でも億の単位のお金を稼いだとか使ったとか、そのような御仁も現れ、目を瞠る。しかし、そういう御仁でも日に三度の食事に変わりなかろうし、 充たすべき食欲、 胃袋の大きさなども知れている。だが、そういうところに、かかる裕福な御仁は気が行かず、もちろん、ひもじさなどは知り得ようはずもなく、裕福ゆえに知り得ないという心の貧しさが生じることになる。ひもじさを知り得ている吾輩などは そこのところがよくわかる。 富裕を誇る御仁にはそんなものはわからなくて結構と言うに違いないが、知るということはこの世に生を受けてあるものにとってはお金にもまさる価値があると言えなくもない。天下の回りものであるお金を独り占めにしてほかの者を貧窮に陥れ、他を顧みないような御仁に比べ、 貧窮していても他に対する思いやりの精神を涵養し得るひもじさの体験者たる吾輩などの方がむしろこの世において有益であろうと自負する。そこそこに食って行ければそれでよい。
 これは前にも述べたと思うが、良心の証たる悩みというものについてもこのひもじさの感覚と同じことが言えるのではなかろうかということが思われる。当事者にとって悩みなどない方がいいに決まっている。しかし、悩みは誰もが持ち合わせている。今なくてもいつか持つことになる。姐御歌手が唄う「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌がある。この歌に「誰もみな悩みのなか」という下りがある。この歌の要のところであるが、 この歌詞が示すように、 自分に悩みがあれば、 悩みを持つものの気持ちがわかり、祈りの象徴である「あの鐘」も共有出来て、ともに鳴らし、ともに聴くことが出来る。
 お金のことで言えば、 お金は欲望に取り入って魔物にもなる。 人間の世界にそれがよく現われている。 自分のお金ではないのに、お金を自由に扱える立場にあるものが、 その立場を利して博打をするようなことが最近多発している。 そういう御仁は自分が罪を犯しているとは思っていないから始末が悪い。 金融の誘惑に欲望はあっさりと誘われるが、 そのお金は金融のテクニックによって浚われることになるわけである。猫の吾輩などはこの身以外に所有物はなく、その点は気楽なものである。これは図体に比例してあることかも知れない。図体が大きければ、 その身を養うにも大きいものがいる。この図体というのは体躯のことではなく、その身を処するすべてのものをいう。つまり、 図体が大きければ、影の部分も大きくなるわけで、知恵があって強いものは、その知恵や強さによって生じる負もそれに比することが考えられる。 原発事故がこれに当たることは言うまでもなかろう。 とにかく、 人間には人間、猫には猫に相応の様相があってその生は展開している。  (以下は次回に続く)