大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年12月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1458> 師走の奈良スケッチ

         何となく 腰落ち着かぬ 年の暮

 今日は奈良公園の界隈を歩き、奈良の年の瀬のスケッチを試みた。年のというだけで、何となく落ち着かない雰囲気がそこここに見られる。二十年に一度と言われる式年造替が行なわれている春日大社では迎春準備が行なわれていた。興福寺から東大寺、春日大社の一帯では、暮も押し迫っているというのに、海外からの観光客が多く、いつものにぎわいがが見られた。正月を日本で迎えるスケジュールなのだろうか。日本を知るには、年越しの神社に赴くのがよかろうと思う。

   焼き芋や 鹿も欲しがる 奈良の冬

 季語が二つは拙いか。ほかに言葉が見つからない「奈良の冬」ではある。鹿せんべいの露店とともに焼き芋屋が繁盛している。外国人の顧客が多いように見受けられる。地元にも観光客にも鹿さまさまの光景ではある。「こりゃあ表彰ものだ」とそんなことも思いながら上記の句を得た。みんな喜んでいる。鹿との触れ合いは観光客にとっていい思い出になるだろう。

                               

   冬晴れや 奈良は甍の 下にあり

 奈良の特徴は鹿だけではない。最も顕著な特徴は国宝級の仏像がもっとも多く存在する古都である。その仏像を鑑賞しないで奈良を語ることは出来ないだろう。数え上げれば切りがないが、まずは、東大寺の大仏さんを訪れること。次に興福寺の諸仏を訪ねればよい。そして、少し離れているが、唐招提寺の三尊、殊に千手観音立像を奨めたい。

   聳え立つ 圧巻重層 冬の塔

 もちろん、奈良は神社仏閣の建造物も魅力的である。春日大社の社殿(現在は式年造替による修理中につき、工事用の幕に被われている)、東大寺の大仏殿及び二月堂、興福寺の五重塔、それに西ノ京の薬師寺と唐招提寺等々。それぞれに魅力的である。 写真は左から繁盛する焼き芋屋、二月堂の舞台上から眺める大仏殿の大屋根など。右は興福寺の五重塔。

   暖かな 日差しが冬を 丸くする


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2015年12月25日 | 写詩・写歌・写俳

<1457> クリスマス

         温暖化の 異変肌身に クリスマス

 クリスマス寒波とか言われ、クリスマスは概して寒さの中で迎える印象が強い。ホワイトクリスマスと言われ、トナカイとともにやって来るサンタクロースには雪がなくてはさまにならないが、今年の日本列島は北国でも極端に雪が少ないようで、スキー場などは困り果てているというニュースも聞かれる昨今。やはり、クリスマスはそれなりの寒さがなくてはさまにならないとは言える。

                                               

  だが、高齢者にはこの暖かな冬は助かる。と、身勝手なことを思いながら、クリスチャンホームでもない我が家では、例年真似ごとにしてクリスマスケーキを頂く。今日は妻と二人、午後のティータイムに紅茶とクリスマスケーキを頂いた。写真はクリスマスのショートケーキと紅茶。まさにささやかなクリスマス。  諸兄にも諸氏にも Merry Christmas


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2015年12月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1456> 2015年 回 顧 (2)

         世の中の移り変はりは昔より常にしてあり今に至れる

 戦後七十年、安倍政権になって世の中が大きく変わる気配がうかがえる。国民にはその気配に期待と懸念が交錯し、それがこの一年だったと言える。期待は希望、懸念は不安と言ってみてもよかろう。世の中を大きく変えゆくような安倍政権の政策的要素は幾つかあげられるが、私たちにとってそれらの要素は我が国の国体及び社会の根幹、つまり、基盤に関わる重要な案件ばかりであることが言える。では、その要素の一つ一つについて考察し、この一年が如何にあったかを見てみたいと思う。

 まず一番にあげられるのは、戦争の放棄を謳った平和憲法たる現憲法の解釈を政権の都合によって、戦争の出来るような国にしたこと。所謂、国体の基にある憲法の精神基盤を壊したということである。これは戦後七十年の間、平和を貫いて来た現憲法の類例を見ない希有な実績に対する挑戦的行為であるが、この挑戦が米国追随をよしとする現れとして見えたことで議論を二分した。言わば、この米国追随のために憲法の解釈を変え、平和憲法の尊厳を蔑にしてまで戦争の出来る国にしたわけである。この強権によって成ったこの法制が実施されるようになると、徐々に国民の間にもその影響が出て来ることが思われる。

                          

 二番目は、環太平洋パートナーズシップ協定(TPP)の合意による戦略的な経済の連携が及ぼす自由貿易の影響というものがある。合意内容が公開されていないので、考察し難いところではあるが、この協定は概して消費者に有利で、生産者に不利な、言わば、都市部によく、地方の田舎によろしくない協定の趣があり、第一次産業への影響が大きく、農業では農家の姿を大きく変えるのではないかと思われる点があげられる。

 殊に小規模農家の行く末が心細く、日本列島のほとんどの地方に見られる棚田の存亡にも関わることが懸念され、この協定が国土の風景をも大きく変える可能性があると思える。風景は人々の感性に及んで来るから、国民の精神状況にも関わって来る。それに棚田の稲作が消えて行くと、山地の管理放棄と同じく、その地域の保水能力が低下し、洪水を引き起こす可能性が大になり、私たちの暮しに大きな打撃を与えることに繋がると見てよい。こういうところにも環太平洋パートナーズシップ協定(TPP)は影響すると考えられる。

                          

 次に、社会の成り立ちに変化を来たす国政の政策的動向が見られたことである。これは今まで放置して来た政治の偏向と怠慢によるところが大きいと見なせるが、少子高齢化による社会の行き詰まりに右往左往したのが今年だったと言える。物質的に恵まれていても、子供や年寄りがのびのびと暮すことが出来ないような世の中は余裕のない決して豊かな国とは言えず、日本はそういう真の豊かさに至っていない一種歪んだ豊かさの国になって今日に至っているということが指摘出来る。

 これにやっと気づいたのかどうかは知らないが、政治の無策はなお続き、経済成長一辺倒、社会の大きな問題である家族の成り立ちなどには無関心で、家族というのはほぼ崩壊状態にあると言え、子供の貧困率が極めて高く、生活保護者が増え、孤独を託つ下流老人と言った言葉が流行語になるなどといったありさまである。これでは、少子高齢化の問題を解決することなど出来ようはずがない。国民を目いっぱい働かせて疲れさせるのが落ちである。

 一方、企業による不正が横行し、企業の倫理が問われたのがまた今年の世相の一端だった。否、これは相変わらずと言った方がよいかも知れない。東京五輪に関わる新国立競技場の建設問題やエンブレムの問題にしても不正に近いところがうかがえる。これは現代における病的な現象と言ってよいのかも知れない。自由な競争をよしとする理念に基づいて行なわれて来た戦後教育の負の面が現れたと私などは見るのであるが、どうだろうか。言わば、自分さえよければ人さまはどうなっても構わないというまことに嘆かわしい競争社会の一面の姿と言えば言えるところがある。今年はこのような点も浮き彫りになった。

 このような社会の構図の中で、マイナンバー制が導入され、いよいよ国民一人一人を国が管理するという状況に至った。これは携帯電話のスマホに見られる状況に等しく、個の極みを示すもので、家族単位の社会というものの崩壊を意味するものと言える。一方は家族関係など無視して、国が自らの制度によって一元管理する仕組みで、一方は個々人がこれも家族などは関わりなく、外界とのコミュニケーションに寄り、幻想的バーチャルな世界に流されて行く傾向に陥り、犯罪などに絡むという事件などが起きている。国の一元管理は秘密保護法と相まって国民を縛り、全体主義に陥る懸念がある。幻想的バーチャルな世界は前述したごとき事件を生み、風紀の乱れを増加させることにもなりかねないということが言える。こういうことも、私たち国民には懸念、即ち、不安要素として今年は考えさせられた。

 そして、最後にあげられる要素が、国の負債、借金による財政の逼迫状況である。米国は国の経済的状況を立て直し、0金利政策にピリオッドを打ったが、何故日本は米国に追随しながら経済的状況を立て直せず、財政の健全化も図れないのか。追随しながら足並みが揃わないのは何に原因するのか。思うに、それは追随が安易に行なわれ、厳しくないからではないか。この分で行くならば、安保の問題もTPPの問題も米国への貢献に傾斜して、我が国には恩恵に与かれない乏しいものに展開してゆくことが懸念されるわけで、こういうところにも国民は不安を覚える。国の財政状況を思うに、脆い堤防の河川が想起される。。

 まだ、言い足りないように思われるが、とにかく、戦後七十年の2015年の今年は、その節目の年にあって、世の中を大きく変える出来事があった年として見ることが出来る。果たして来年はどんな年へと展開して行くのだろうか。移り変わりは世の常であり、これは今も昔も変わらず、そして、今があり、明日があるということである。 どんなに展開して行っても日本は日本であるが、なるべく多くの国民が納得出来るような運びになって欲しいものである。 写真上は姿を消して行くかも知れない棚田の稔りの秋の風景。 写真下は安保法制の関連法可決に際し、国会議事堂前で反対の声を上げる抗議デモの一シーン(今年一月)。   ~ おわり ~

 

 

 


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2015年12月23日 | 写詩・写歌・写俳

<1455> 2015年 回 顧  (1)

         私たち国に飼はれてゐる羊かもね番号札を付けられ

 戦後七〇年の節目の年に当たる2015年を言い表す今年の漢字に「安」という字が選ばれた。今年は安保法制関連法の可決に始まり、円安、原油安と表題に「安」のつく出来事が多かったが、加えるところ、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の合意、シリア情勢に絡むイスラム過激派組織イスラム国(IS)による多発テロ事件、埋め立てによる中国の南沙諸島海域における人工島造成問題等々、まだあるが、こうしたグローバルな状況下、不安な要素が私たちに心理の上で重くのしかかり、「安」を選ばせた一年であったということだろう。

                                                             

  また、国内に目を転じると、消費税の軽減税率の成り行き、マイナンバー制の導入実施、東京五輪にからむ競技場建設やエンブレムのやり直し騒動、沖縄の米海兵隊基地普天間飛行場の名護市辺野古への移転問題等々、また、一般社会においては自然災害の多発、企業による不正行為の発覚、子供や若い女性が被害者となる殺人事件、それに、子供の貧困や下流老人、介護難民といった問題が噴出するということが次々に起こり、日本の根幹というか基盤が崩壊して行くような不安心理が私たちの気持ちを締め付けるような一年だったこと。これにもより、「安」の一字が選ばれ、浮き彫りにされたと言える。

  殊に、今年は政治色が際立ち、安倍政権の官邸の独走が目についたこともあって、今年の漢字が安倍の「安」ということも選に働いたのだろう。だが、選ばれた最も大きい理由は、これらの出来事に影響されて私たち国民の心理が不安に傾いたところにあると言ってよいように思われる。この国民の不安な心理に対し、安倍首相はことあるごとに安全とか安心という言葉を用い、その政策を推し進めて来た観がある。

 という次第で、この「安」を思うに、そこには安全と安心の反対語、即ち、これらの言葉の裏返しである危険と不安の意識が私たち国民の間の気持ちに横たわってあったことが言える。安全と危険は肉体乃至は物質的な面における言いであり、安心と不安は精神乃至は心的な面における言いであって、前者の状況は見えやすく、後者の状況は見え難いという特質があり、前者のそれは即刻見えて来るのに対し、後者のそれは漸次現れて来る傾向にあることが指摘出来る。

  政治家はこのことをよく心得、政治の手法に用いている。選挙が近づけば、票を集めたいために政権政党では前者の見えやすいところをもって有権者に訴える「ばらまき」という手法を用いる。所謂、政治は見え難いところよりも見えやすいところに手をつけたがるわけで、将来のことよりも目先のことに対処する傾向があると言える。政治家にはその方が自らの仕事において有利に働くからである。

 これは政治家に、後者の心的案件である国民の福祉よりも前者の物的案件である道路やダムなどをつくる公共事業の方に力を注がせるということになるわけで、これが一つの実例で、言い換えるならば、安全に応える方が安心に応えるよりも政治家には有権者に対するアピールの効果があるということになり、安心を求める国民に応え切れない政治が展開され、この状況が長年続いた結果、国民にとってそのマイナス面の現れとして福祉が十分に機能しないという現在の閉塞状況を生んだと言える。

  で、総じて言えることは、そんなこんなで、2015年の今年は「安」に関わる安心が得られない不安の中に私たち国民の気持ちがあって、その心理において「安」の一字が選ばれたということが出来る。という次第で、今年の漢字一字に選ばれた「安」について、この国が進もうとしている政治的方向に顕現する不安な面に焦点を当て、「基盤」という言葉をキーワードに考察してみたいと思う。 写真は京都・清水寺の森清範貫主によって書き上げられた今年の漢字「安」の一字(新聞記事の転写による)。  ~次回に続く~。

 

 


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2015年12月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1454> 冬 至

         木の影が長さを競ひゐる冬至

 二十二日は冬至。大和地方は晴天に恵まれ暖かな冬至となった。いつものように馬見丘陵公園へ歩きに行き、冬至ということで、冬至のスケッチを試みながら歩いた。最近、日によって寒暖の差が大きいように思われるが、地球温暖化の言われるところ、気温の推移を見ると暖冬基調であるのがうかがえる。今日は暖かく、歩いていても全く寒さを感じなかった。

                                                

  木の影がもの言ひたげな冬至かな

 冬至は、北半球において太陽が最も南側に低く運行する日で、昼が一番短く、夜が一番長い日である。これは地球が傾いた状態で太陽の周りを廻っているからで、冬至は地球が傾いているその分、太陽との角度と距離に差が生じ、日照時間が最短になる日である。この日を境に日脚は徐々に伸び、三月の春分の日に昼夜の長さが同じになり、六月の夏至において冬至とは反対に北半球では昼が一番長く、夜が一番短い状態になる。

  木の影を辿りて歩く冬至かな

 件の池ではカモの数が増えてにぎやかだった。今日はカワウの姿も数羽見られた。陽光の反射によって明るく輝く池面を背にしてコガモが三々五々泳ぐ姿を見せ、これが小春の一景になって、のどかさが感じられた。

    鴨小鴨日差し明るき冬至かな

  園内は相変わらず歩いている人が目につく。中には夫婦で歩いている姿も見ることが出来る。歩くは健康によい。歩けなくなったら介護の域。どうにかして元気でいたいとは思う。歩いている人にはそのための精進であるとも思える。ときには携帯ラジオを聞きながら歩く人もいる。

                                     

  寄り添へば影も寄り添ふ冬日かな

 それにしても、明日からは日脚が徐々に伸びてゆく。寒さは厳しくなるものの春へは一歩一歩。確かな足取りに先が望める。こと重げくいろいろな問題や課題のあるのが世の常であるが、我が身を保ってみな粛々と行くべくあることを願うばかりではある。

  冬至とは 明日より日脚 伸びゆく日