<204> 吾輩は猫 (18) ~<202>よりの続き~
進化して 至りぬといふ 今を生き ゐるなりここに この猫の身も
ここで技術ということが思われて来るが、 人間はその進歩によってロボットの開発をして来た。 そのうちペットのロボットを作って、ロボットが「いってらっしゃい」とか「おかえりなさい」とか言って見送ったり、出迎えたりするようになるかも知れない。否、既にその兆しがないではなく、 ロボットが犬や猫に取って代わるということもあながち考えられないことではなくなった。ロボットならば 排泄物などの煩わしいトラブルもなく、今回のごとき回覧も必要なくなるというようなロボット推奨の謳い文句も現われて来よう。
こうして、 技術を駆使したロボットのペットがお目見えするような時代が来れば、 共生などという言葉はお題目に過ぎなくなり、 この大地には人間だけが人間に必要なものとともに暮らすという図が描かれることになる。 猫が鼠を捕るという野性などは二十世紀以前の光景であったと戯画的に捉えられ、 猫の生きものとしての尊厳などは揶揄の対象になるやも知れず、「たま」 駅長の人気なども遺物的光景として懐かしまれるようになるかも知れない。 そして、 不要の猫は哀れなるかな、 かけがえのない血の通った温かさをもってあるものながら、 人間の周囲から姿を消すことになる。 ああ、 何たる悪夢か。 情けなくも大地の子は駈けることもままならず、空を飛ぶ鳥を見上げて羨望する身となる。
人間における技術の進歩が精神の進歩と一致すればよいのであるが、 それがなかなか思うにまかせず、技術が欲望に負けてしまうということが多々見受けられるのである。 もちろん、 技術の進歩が利便や豊かさをもたらし、暮らしの向上に寄与して来たことは確かで、 認めるが、 欲望に目を奪われ、 その技術が悪に利用されるというようなことにも及んで来た。戦争がまさにその例で、 技術の進歩が戦火をも大きくしたのである。
最近の例で言えば、原発の事故がある。 事故が起きたとき、技術的能力が問われたのであったが、それ以上に、原発依存の欲求にばかり目がいって、放射能という負の面に目が向けられずに来た現代人の精神感覚というものが問われたのであった。で、原発の事故は、 精神を置き去りにした一方的且つ一辺倒なものの見方ややり方が、知恵や技術や全てを含めて、 如何に真の進展にならないかということを教訓として示したのであった。 では、人間の優れた知恵や技術というものはどのようにあるべきなのか。それは人間だけでなく、 犬も猫も空飛ぶ鳥も すべての生きものがその生を幸せに全う出来るようにあるべく働きとなることだと思われるが、どうであろうか。 (以下は次回に続く)