大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年12月05日 | 創作

<3609> 作歌ノート  瞑目の軌跡 (一)

               成果とも言はば言へるか瞑目の軌跡における歌のその数

  魯にあってはるかに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(子羔)や、それ帰らん。

     由や死なん」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知ったとき、

     老聖人は佇立瞑目すること暫し、やがて潸然として涙下った。

 これは、中島敦が孔子の弟子である子路について書いた『弟子』という短編の中の一文で、子路が衛の後継争いに巻き込まれて死んだとき、魯にあってその政変を聞いた孔子の心情を想像して描いた部分として知られる。孔子のそのときの様子を「佇立瞑目すること暫し、やがて潸然として涙下った」と極めて簡潔に述べているが、「佇立瞑目」という情景が、物語の最後でもあって実に印象深く読後に残った。

 この章を編むに当たり「瞑目の軌跡」と題したが、この瞑目とは、孔子の「佇立瞑目」に見える瞑目に等しく、目を瞑って思いを巡らせるというほどの意で、ここではこの瞑目の一心より生まれた歌に関わる章と言って差し支えない。瞑目の内に思いやる方があり、瞑目することによって強く惹かれるものに向かうことが出来る。それは現在のそこここに見える人物や風物だけでなく、歴史上のそれらにも及び、歌を作る営為に繋がる。この章の短歌は私の短歌の中でも、私という人物の趣味傾向というか、歴史上のことにしても、何に心を惹かれるかというような点のはっきりしたところが見える。

                                                       

   で、この章の歌群は随想的な傾向にある歌が多く、鑑賞者の同調を促す色合いの強いのが見て取れる。そして、それは美を意識するものである一方、哲学的であり、宗教的あるいは道徳的、または倫理的範疇において一首一首の構築に結実を期する思いがある。

   その素材対象を分析してみると、それは、歴史上の人物にしても、物語中の人物にしても、指向の偏りを認めざるを得ず、これが私のキャラクターというものであろう。豪放磊落、権謀術数、放蕩三昧といった世渡りの印象が強い人物よりも、艱難辛苦、一生に悲劇性を有して生きたような人物に惹かれるのは致し方のないところである。

   その悲劇性には姑息でない思いの強さのようなものが心の基部に覗い得る人物、例えば、キリストとか司馬遷とか後鳥羽院とか、そういった人物に思いがなされ、後に後鳥羽院と袂を分かつ煩悶の歌人藤原定家や病気と闘い夭折した正岡子規や石川啄木といった人物に詩歌人という点も合わせ、人生を一貫し得た苦悩と成果の姿において惹かれる。そして、これらの人物は作歌の折りによく私の心の中に現れ、ときに対話をしたりすることになったりする。

   ところで、人生は孤独な試行錯誤であり、思いの表象である短歌もこの点にあって、表現になお推敲の必要性を感じるものもあるものながら、歌の自立で言えば、その表現には成果も認識出来るところ、この章に掲げる「瞑目の軌跡」の歌群にもそれが言えると思う。  写真はイメージで水面に孤影を映すシラサギ。

   何かなし欠けたる一首定まらず思ひの筆における推敲

   瞑目のうちに生し来し歌の数はたして思ひのそれなる軌跡         生(な)

   凡庸も生にほかなき身のひとつここに瞑目の軌跡の歌群

   生きること生きて為すこと常凡にあれど思ひの即ち歌群

     誰や知る誰も知らざる瞑目のうちに込め来し顳顬ぞある

   瞑目の思ひのうちの夕暮を分かつたとへば孤影 白鳥

   内実の内証覚束なき蕊のその働きの歌か身のうち              蕊(しべ)

   歌の数思ひの数にあるとして思ひは生るる現の岸辺

   自らに問ひ自らを答へとし悉皆つねの歌心の岸辺

   何処にもあるものながらあらざるを我が心中の孤影に献ず

   常の景つねの思ひにありそして歌は生まるる瞑目のうちに

   咳き込める男の咳に触発の歌も加へて瞑目の題

   自らを他者と見做して問ふ歌もあれかし其もまた自づなる歌

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳 ~小筥集

2021年04月09日 | 創作

<3373> 写俳百句 (50) 萌ゆる春

                       若葉萌ゆ萌ゆるに日差し惜しみなし

                     

 春の盛り、好天に恵まれ天理市の天理ダムから桜井市笠、滝倉、芹井、白木、三谷、小夫方面の大和高原に出かけてみた。雑木林の落葉樹は一斉に芽を吹き、花を交えて、若芽、若葉の彩り。十分な日差しの下、大気は澄み、明るく、健やかで、透明感があった。

   ウグイス、シジュウカラ、セキレイなどの囀る声が聞かれ、コロナ禍の人中、その騒がしさや不安感を忘れさせてくれるようなひととき。高原の晴れやかな春の風景は気持のよいものであった。 写真は若葉が瑞々しいダム湖畔(天理市の天理ダム)。


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2021年04月06日 | 創作

<3370>  写俳百句  (49)  柿若葉

                  青空へ掲げし気負ひ柿若葉

                                 

 今年はサクラの開花が早く、ソメイヨシノはほとんだ散り終わり、他の草木も花や芽立ちに変化が見られ、全般に四季のメリハリが薄れ、季節の巡りが早く、その進み具合が俳句の季語にそぐわない感をうかがわせる。写真に合わせて句作する「写俳」を試みるようになってこの感を強くするようになった。

   例えば、ここに取り上げた柿若葉は初夏の季題である。だが、写真は四月五日、昨日の撮影である。いくら暖かいと言え、四月初旬を初夏とは言い難い。これは季語が不動の認識によるのに対し、写真は変化の実景を写し取るという性質にあるからだろう。

   言わば、写真の実際からすれば、春に夏の句ということになるが、これは私の都合によるものではなく、季節の方が通念と異なっているからと言える。自然の方がどんどん変化して四季が今までと感覚的にずれて来ると、いよいよこの季語の問題は悩ましくなる。 写真は青空に映える柿若葉。    若葉して青空の下三輪車


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2021年01月08日 | 創作

<3281> 写俳百句(32)  続・寒波

       那智の滝凍れる報の寒さかな

 昨日に比べ一段と寒く、寒気団が日本列島をすっぽり被って、完璧な冬型になった感。日本海側ではドカ雪の様相。太平洋側では晴れて強い空っ風。大和地方は山に囲まれた位置と地形により、この時期、北と南では微妙な気象的違いがある。明日は雪かと思っていても奈良盆地では今日のように完璧な冬型気圧配置では案外積雪にらならない。だが、南部の山間地は多分雪を見ていると思われる。

         

 とにかく、昨日に続く厳し寒さで、深紅の冬バラの花を浮かべていた陶器の鉢の水が花ごとすっかり凍って、ぶ厚くカチカチになっていた。割っみると、氷は結構な厚さであったが、氷はどのようにぶ厚くなって行くのだろうか。昨日は薄い氷だったので、これは一晩の結果である。相当冷え込んだに違いない。なお、熊野の那智の滝が一部凍ったとの報。

   それにしても水鳥の羽毛はどういうふうになっているのか。そんなことも思われる今朝の寒さではあった。この寒さの中、新型コロナウイルスにはいよいよ活発化するのであろうか。私たちにはますます注意が必要であると思えて来る。 写真はバラの花とともに凍った鉢の水。割ってみると三センチほどの厚さがあった。


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2020年12月28日 | 創作

<3270>  作歌ノート   ジャーナル思考 (九)

               風に木々そよぎつつある真昼間の公園脇の殺人事件

 人は人ゆえに人を憎しみ、人は人ゆえに人を殺める。人はやはり、よかれあしかれ人に関わって生きている。犬に噛まれても犬を憎むのでなく、犬の飼い主を憎む。今日もまたその憎しみによるものか、殺人事件があった。私たちは「ころし」と呼ぶが、人が人を殺めることにほかならない。殺めるという行為は、即ち、意をもって人の命を奪うこと。殺人には必ず何らかの動機がある。現場で取材に当たりながら私たちは犯人の動機と行動の子細を探る。―――この記事は私が写真記者の立場にあるとき記したもので、殺人事件に思いを巡らせたもので、次のように思いをめぐらせている。

 事件によっては犯人が特定出来ない場合もある。そんなときには物証などを手がかりに推理してみたりするが、「ころし」をいま少し突き詰めて考えてみると、人は自身の内にある人をして人を憎しみ、自身の内にある人をして人を殺めるということが言える。それは、因果の果てというか、誇るべき人と生まれながらというか、そういうことで、犯人が割り出され、詳しく調べられた結果などを知ると、大概は動機が人に対するものであるのがわかり、「なるほど、そうだったか」と納得させられるという具合になる。

                               

   で、犯人は人に生まれず、鳥にでも生まれていれば、人を憎むこともなければ、人を殺めることもなかったに違いないと、そういうふうに思えて来ることもある。ゲーテは「人間こそ、人間にとって最も興味ある存在であり、恐らくは、また、人間だけが人間に興味を感じさせる存在であろう」(『ゲーテ格言集』高橋健二編訳)と言っている。何というか、事件はいつも人と人との関わりから生まれるものと言え、哀れを含んでいる。

 もちろん、殺人は極端な例であるが、その因果の端緒には私たちの日常におけるやりきれない腹立たしさのようなものが少なからずあるのではないかと思われる。この腹立たしさ(鬱憤)のような感情は誰もが経験するところであろう。で、この腹立たしさのような感情の上に極端な殺人事件も起きるのであって、ゲーテが言うように、人は人ゆえに人に関わり、拘ってその因を生むのであろうことが思われる。また、欲望の果てに人を殺めたり気づつけたりすることもある。色欲や金欲がその例であるが、これにしても、生が有する哀れななりゆきにほかならない。

  これやこの人を憎むも自らの人をしてなす心と思ふ

  憎むこと憤ること妬むこと人は人ゆゑに人に拘る

  人をして人を憎しみ人をして人を殺むる人と生まれて

  人にして人を憎しみ人にして人を殺むる哀れと言へる

  人ゆゑに人を殺むるその因果人に生まれてとは人の声

  憎しみの果てと思へるまた殺人(ころし)曇天が引き鉄かも知れぬ

  殺めたるものと殺められしもの二人の間の因縁因果

  人が人を殺めなくてはならぬとは聞けば哀れな言ひ訳けなども

      事件にはいつも臭ひが付き纏ふ人間臭といふその臭ひ

      事件にはいつも被疑者と被害者に加ふるところ傍観者あり

      今日もまた人を殺めし事件(こと)のあり人と人との関はりにして

                              ❊

 この殺人で、最近、動機のよく理解出来ない事件が増える傾向にあると言われる。なぜ動機があるのに動機が理解出来ないのか。それは、一つに社会自体がその動機について理解しようとしないか、理解したくないという意思を働かせる傾向にあるからではないかと思われる。

   では、どうしてそういうことになるのか。それは、事件の動機が社会自体に向けられてあるにもかかわらず、社会とは関係なく、事件が本人自身に起因し、その責はすべて本人に帰するとする考えをもって事件を処置しようとするからではないかという気がする。本人を異常な特別者にしてこれを事件の因とし、事件の決着に導かんとするやり方である。

   例えば、最近、加害者側が弁護に用いる手法を思い起こせばわかる。何かと言えば、犯人の精神的異常性を弁護に用い、犯人を異常者(廃人)にしてしまい、このことによってことの始末をつけようとする精神鑑定の傾向が見られることである。

   これは、加害者の動機を十分に解明出来ない第三者による裁きの限界を示すものであるとともに、加害者を異常者(廃人)と決めつけることによって加害者が最悪の判決を免れる効果がもたらされるからで、弁護の一つの戦略乃至は手法としてあるように思える。

   そして、そこには裁判の底に社会そのものもが有する社会の病弊たる事件を社会に起因していると認めたくない心理があり、それが働いて無意識のうちに事件の社会性を打ち消したいとする動機が加わるからではないかという気がする。所謂、社会の自意識作用が事件処理に働くからと考えられる。

   別の言い方をすれば、事件が個人の異常な特質に発したもので、社会とは関係せず起きたものとする見方によって事件を片付けたいという意思が働くからではないかということ。この事件に対する仕儀は妥協的光景で、最近の刑事事件の裁判を見聞するにつけ、このことが思われる。

 殺人事件は個人的な異常資質乃至は個人間の対人関係を背景にして起きる場合と社会の様相に起因する場合とがあるが、見分けがつけ難いような事件もある。犯人が捕まってもその動機がはっきり解明されず、有耶無耶のうちに妥協をもって終わるという感じのケースもある。

 動機が単純な場合は事件解決にもやもやは残らないが、動機が社会に向けられた鬱屈した心理状態にあるような場合は事件が解決してもすっきりしないことがある。時代も背景も異なるので一概には言えないが、社会を背景に起きる事件では魯迅の『阿Q正伝』が思い出される。

 『阿Q正伝』は、阿Qという人物の心の葛藤を通して一九一一年辛亥革命当時の中国社会のありさまをつぶさに描いた小説であるが、阿Qは周囲の人と関わりながら心の葛藤を募らせ、ついには社会の様相に巻き込まれて死に追いやられる。果たして、殺人事件は究極のものであるが、その動機を探るに、それは、いずれにしても、人が自分のうちのある人をして人を殺めるということにほかならず、それは今も昔も変わらないと言えるように思われる。 写真は殺人事件の記事の切り抜きと魯迅の『阿Q正伝』の文庫本。