<1153> 人 生 (2)
遙か来てまた何処へか 人生は或ひは旅と誰かも言へり
谷川俊太郎の「そのおとこ」を読んでいると、なぜか与謝野晶子が日露戦争で旅順に出兵した弟を思って作った「君死にたまふことなかれ」という詩を思い出した。その詩のはじめの部分をあげてみると次の通りである。
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生まれし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
「そのおとこ」は、誰がこのように落ちぶれることを望んだろう。どのような経緯によって、路傍の片隅でぼろ切れのように生きることになったのか。「君死にたまふことなかれ」は訴える。「人を殺して死ねよとて、二十四までを育てしや」と。自分の意志に反して人生を歩まねばならなくなった弟に「君死にたまふことなかれ」はまさに姉晶子の祈りである。
そのおとこや弟ほどでないにしても、人生においては誰もが大なり小なりそのおとこや弟と同じような危うさを感じて歩いたことがあるだろう。新聞の日々の記事を見ていればそれがわかる。なぜ人を殺すことになったのか。なぜ汚職で捕まることになったのか。お前の父や母は人を殺せと教えたか。賄賂を貰ってまで裕福に暮らせと言ったか。長い長い人生のその旅の途。ときには魔がさすこともあろう。判断を誤ることも、誘惑に惑わされることも、人に裏切られることも、有頂天になることも、悲嘆に暮れて自失することも、間々あろう。そのような心の隙に、怒りとか姑息とかやりきれなさとか失望とか、そういうのが高じて生まれる無気力といった魔物が巣くう。
長い人生の旅。とほとほと歩いて来て、また、とほとほと歩くべくある。そんな長い旅の途。いかに疲労困憊していても、自分のペースを乱さず、とほとほと歩いて行く。焦らず、奢らず、諦めず、安らかな気持ちを保ちながら歩き行ければ幸いである。思えば、人生は平凡なくらいがいい。そして、遙かな道のりを遙かな思いを抱いて歩いて行く。持続は力と言うが、確かにそう言える。人生はとほとほと歩く持続の旅である。 写真はイメージ。日露戦争で中国の奉天に入る日本軍(講談社『20世紀全記録』)。 ~了~