大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1153> 人 生 (2)

        遙か来てまた何処へか 人生は或ひは旅と誰かも言へり

  谷川俊太郎の「そのおとこ」を読んでいると、なぜか与謝野晶子が日露戦争で旅順に出兵した弟を思って作った「君死にたまふことなかれ」という詩を思い出した。その詩のはじめの部分をあげてみると次の通りである。

          ああ、弟よ、君を泣く、

         君死にたまふことなかれ。

         末に生まれし君なれば

         親のなさけは勝りしも、

         親は刃をにぎらせて

         人を殺せと教へしや、

         人を殺して死ねよとて

         二十四までを育てしや。

 

         堺の街のあきびとの

         老舗を誇るあるじにて、

         親の名を継ぐ君なれば、

         君死にたまふことなかれ。

         旅順の城はほろぶとも、

         ほろびずとても、何事ぞ、

         君は知らじな、あきびとの

         家の習ひに無きことを。

 「そのおとこ」は、誰がこのように落ちぶれることを望んだろう。どのような経緯によって、路傍の片隅でぼろ切れのように生きることになったのか。「君死にたまふことなかれ」は訴える。「人を殺して死ねよとて、二十四までを育てしや」と。自分の意志に反して人生を歩まねばならなくなった弟に「君死にたまふことなかれ」はまさに姉晶子の祈りである。

                           

 そのおとこや弟ほどでないにしても、人生においては誰もが大なり小なりそのおとこや弟と同じような危うさを感じて歩いたことがあるだろう。新聞の日々の記事を見ていればそれがわかる。なぜ人を殺すことになったのか。なぜ汚職で捕まることになったのか。お前の父や母は人を殺せと教えたか。賄賂を貰ってまで裕福に暮らせと言ったか。長い長い人生のその旅の途。ときには魔がさすこともあろう。判断を誤ることも、誘惑に惑わされることも、人に裏切られることも、有頂天になることも、悲嘆に暮れて自失することも、間々あろう。そのような心の隙に、怒りとか姑息とかやりきれなさとか失望とか、そういうのが高じて生まれる無気力といった魔物が巣くう。

 長い人生の旅。とほとほと歩いて来て、また、とほとほと歩くべくある。そんな長い旅の途。いかに疲労困憊していても、自分のペースを乱さず、とほとほと歩いて行く。焦らず、奢らず、諦めず、安らかな気持ちを保ちながら歩き行ければ幸いである。思えば、人生は平凡なくらいがいい。そして、遙かな道のりを遙かな思いを抱いて歩いて行く。持続は力と言うが、確かにそう言える。人生はとほとほと歩く持続の旅である。 写真はイメージ。日露戦争で中国の奉天に入る日本軍(講談社『20世紀全記録』)。  ~了~

 

 


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2014年10月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1152> 人 生 (1)

         この身とは とほとほとほと来てここに なほとほとほと歩むべくある

            かたすみに

         そのおとこは

         たっている

         てらてらと

         あかびかりする

         ぶかぶかのがいとう

         そのしたに

         かさねられた

         なんまいものしゃつ

         やぶれて

         くちをあけた

         かたちんばのくつ

         ぼうぼうにのびた

         かみのけのうえの

         よごれた

         とざんぼう

         てに

         わけのわからないものを

         いっぱいにつめこんだ

         かみぶくろをさげ

         ひとびとが

         にぎやかに

         ゆきかうなか

         ものごいをするでもなく

         だれかをさがすでもなく

         ただ

         じっと

         たっている

 

         かたすみに

         そのおとこはたっている

         なかばひらかれた

         くちびるは

         どすぐろく

         ほおからあごには

         もつれあった

         しらがまじりのひげ

         ひふには

         いくえにも

         あかがこびりつき

         めは

         ちゅうをみつめて

         うごかない

 

         うまれたときは

         そのおとこも

         あかんぼだった

         ははおやの

         ちちをのんだ

         はのないくちで

         わらい

         とおくをはしる

         でんしゃのおとを

         きき

         のきばをとびかうつばめを

         めで

         おった

         たぶんがっこうで

         あいうえおを

         ならった

         てつぼうで

         さかあがりが

         できた

         まなつの

         すなはまで

         すいかを

         たべた

         ・・ 以下略 ・・

                                           

 これは谷川俊太郎の「そのおとこ」と題する詩の冒頭から六十七行までを抄出したものである。全行書き出してもよかったが、残りが百五十行にも及ぶので、はじめの部分のみにした。冒頭からここまでの三章でこの詩が概ね何を言わんとしているかわかる。なので、以下を省いた。 写真はイメージで、道(左)と『谷川俊太郎詩集』。    ~続く~


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2014年10月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1151> 鬼子母神の石榴

       親たちが日参したる鬼子母神 戦地に子息を送りしがゆゑ

 東大寺二月堂のちょうど真下に当たる西側に鬼子母神が祀られている。細長い平屋の建物の中央部が鬼子母神のお堂になっていて、絵馬などが掛けられている。その長い建物の前に少し庭があり、下の道と積まれた石垣で隔てられ、その石垣上の庭に十本ほどの石榴の古木が見える。

 鬼子母神は、もと槃闇迦という鬼神の妻で、一万人(多く)の子を持っていたが、人肉を好み、人の子を奪って食べていた。子を奪われた親たちは嘆き悲しんだ。この様子をうかがい知った釈迦が鬼子母の最愛の子を隠した。鬼子母は自分の子がいなくなって悲しみに暮れた。これを見て釈迦は子を失った親の気持ちがわかったであろうと鬼子母を諭し、鬼子母は以後、心を改め、人の子を奪うのを止め、子を守るようになり、神として崇められるようになったという。別に訶梨帝母とか歓喜母とも呼ばれる。

             

 一説には、釈迦が人肉の味がするという石榴の実を鬼子母に与え、人の子を食うのを止めさせたとも言われる。心を改め、子を守る神になった鬼子母神は左手で胸に一子を抱き、右手で吉祥果を持つ天女の姿をしたやさしい女神で、この吉祥果を石榴に見立てたという説もある。このため、鬼子母神にとって石榴は切り離せない木になった。人肉がどのような味であるか知るよしもないが、石榴の甘酸っぱいようなところから連想されたのだろう。

 ところで、二月堂傍の鬼子母神には戦時中、戦地に子息を送り出した親たちが子息の無事を願って日参し、鬼子母神はにぎわったと言われる。国民を死地に向かわせた国と子を思う親の気持ちの落差を戦争はその成り行きの中で押しつけて来た。それも親たちの気持ちに反する死を美化する方法によって。そして、その親たちの切なる願いにもかかわらず、多くの若い命が散らされて行った。言って見れば、戦争というのは鬼神の妻の行為に等しいと言えるだろうことが思われる。

 果たして、敗戦後は改心して子らの守神になった鬼子母神のように平和を守って来た国であるが、また、悪夢を呼び起こす鬼神の欲望でもないが、その危ういささやきが聞かれるようになって来た。なお、石榴は西アジアが原産地であるが、今、あの辺りは厳しい状況に陥っている。鬼子母神の石榴のような効用の持ち主は現れないものか。集団的自衛権行使容認を決めようとしている日本にとばっちりが来なければよいのだが、グローバル化する世界の情勢は容赦のないところがうかがえる。 写真は左から鬼子母神の前庭に見える石榴。甍に映える石榴。花。熟して割けた石榴の実。今ちょうど石榴は実の季節である。

 


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2014年10月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1150> グローバル化

       混迷の避け得ざること言はむかな 地球人口七十二億

 最近、イスラム国やエボラ出血熱の問題がニュースとして伝えられ、クローズアップされているが、両方とも国境を越えたグローバル化の現象として捉えられる。グローバル化と言えば、インターネットによる情報通信システムにすでに現れ、金融、経済活動にもその傾向が見て取れる。こうしたグローバル化の状況の中で、このイスラム国とエボラ出血熱の二つの事例はグローバル化が一段進んだことを印象づけるものとしてあげることが出来る。そして、それは、既にグローバル化してボーダレスの状況にあるインターネットの情報通信システムや金融、経済活動に深く関係していることが言える。

 グローバル化による世界の状況は、速やかな伝達とその伝達される情報の共有化において、人類の命題である公平な進展に向かうはずであるが、それとは裏腹に貧富の差を拡大し、その格差によって二極化される状況を生み出し、結果として先鋭的に現れて来たのがこのイスラム国とエボラ出血熱の問題であると見ることが出来る。で、この問題には、現象への臨床的対応もさることながら、社会の成り立ちとその関係性において考察することが必要なことを示唆しているように思われる。

 イスラム国に各国の若者が戦闘員として吸収されているという現象は、世界の体制の中で、若者が生きがいを失い不満を抱いている状況にあることに繋がるもので、まだグローバル化していなかった時代には、貧富とか格差の問題は国内的事情として他国の干渉を許さず、国内の課題として済ませられた。ゆえに、イスラム国のような問題は起きず、テロを引き起こすかも知れない戦闘員の逆流などは心配されて来なかった。

  しかし、グローバル化した現在ではその貧富の差や格差の問題は世界的に共有されるところとなり、横の繋がりが容易になり、体制への対抗軸に育つことになった。要は、グローバル化によって一つの問題の提起をもって世界は広く繋がることが出来るようになった。これはインターネットによる情報の共有化が世界規模になり、一方ではグローバル化によっていよいよ格差が大きくなるということがあるからで、その繋がりに必要な触媒がイスラム国の場合、イスラム教という宗教だということである。

         

 私はこのグローバル化したボーダレスの状況を横軸に見られる現象と捉え、個々人における格差の状況を縦軸に見られる現象と捉える。この現象の図式から、私は世界の新たな状況が生じて来たとことに目を向ける必要性を感じる。この認識からすると、国民の間に貧富の差や格差の認識がない国ではイスラム国に若者が出て行くような現象は起きず、貧富の差や格差の認識がより強い国ほど、出て行く若者の状況が見られるということになる。言わば、この問題は、イスラム国に若者が向かって出て行く国にも問われている問題だということが指摘出来る。

 エボラ出血熱もやはりグローバル化する世界には大きな問題として横たわる。グローバル化の進む世界において経済成長を掲げる国がその成長をそれぞれに成し遂げるには互いに大いなる交流を必要とし、その交流を活発にさせなければならず、グローバル化の状況においては、そのような力学が働き、各国による競争が激化する。これは必然なことで、このような力学の状況においてはエボラ出血熱のようなリスクの問題も生じ、世界は右往左往することになる。

 こういう競争原理の世界においては、当然のごとくトラブルも発生することは必至で、そこには安全保障という問題が浮上し、武力をもってそれに対応するという手段が用いられるところとなる。イスラム国に対する米国等の空爆がそれを物語るが、武力のみでは安全保障にならないことを今回のエボラ出血熱の蔓延は示唆したものと言える。言わば、この問題は、グローバル化した時代の新展開を示すものと言えるわけである。テロに爆発物を用いるような時代は古くなりつつあるとも見て取れるようなところに来たと言っても差し支えなかろうか。

 オウム真理教が毒薬のサリンを使ったようにこのような質の悪いエボラ出血熱の病原菌がテロに用いられるような時代が来ないとも限らないことをエボラ出血熱の問題は示した。とにかく、このイスラム国とエボラ出血熱の問題はグローバル化の一段と進んだ世界の状況を示す証として受け取ることが出来る。  写真は銃を持って気勢を上げるイスラム国の兵士たちとエボラ出血熱患者の手当てに当たる関係者(いずれもテレビ映像による)。

 


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2014年10月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1149> ヒガンバナの異変

       人間には思惑がある

     正解がどこにあるか

     考えを巡らせるとき

     思惑の人間によらず

           自然に立って考える

     迷いを生じたときは

           この自然に立ち帰る

     これが正解への道だ

 宇陀市榛原赤埴(はいばらあかばね)の仏隆寺の石段脇に群生していたヒガンバナが皆無の状態になり、秋の花の時期にその花を見ることが出来なくなったという。この場所は千年桜とも呼ばれる奈良県の天然記念物に指定されているサクラの古木が見られるところで、春にはサクラの花、秋にはヒガンバナがそれぞれに咲き、その花の彩が観光の目玉のようになっていた。このヒガンバナが消えたのである。

 当地はイノシシやシカの出没があり、以前からその食害に悩まされている地区の一つで、仏隆寺に向かう道の傍の棚田ではイノシシやシカの侵入を防ぐ防護柵やネットが張り廻らされているほどである。ニュース等によれば、足跡などの痕跡によってヒガンバナがなくなったのは、このイノシシやシカの食害が原因ではないかとされている。私には少々不思議に思えるのであるが、そういうことのようである。

 これは一つの異変ということになるが、ヒガンバナはヒガンバナ科の多年草で、古い時代に中国方面から渡来して来たものと言われ、日本のものは種子によって子孫を殖やすのではなく、地中の鱗茎によって殖えるような仕組みになっているという。つまり、ヒガンバナという植物は花よりも鱗茎の方が大切であることが言える。鱗茎が失われれば、日本のヒガンバナの場合は絶滅する。所謂、仏隆寺のヒガンバナは、現在鱗茎が失われた絶滅状態に陥っているわけである。

                                                                                       

 この重要な鱗茎を守るために、ヒガンバナは鱗茎に毒性を有して自らを守る体質というか、仕組みをつくり上げている。その毒性はアルカロイドと呼ばれる物質によるもので、ほかの野生の植物にも、或いはバイケイソウ、ハシリドコロ、ヤマトリカブト(カワチブシ)などに含まれている。これらの植物は食べると死に至ることもある恐ろしい植物として昔から知られている。紀伊山地ではこれらの毒草はよく見られ、野生の動物たちもこれらの植物は食べることなく、増える傾向にある。それは毒性の効用によってこれらの植物が野生動物、殊に食欲旺盛なシカの食害を免れているからと考えられる。

 この例で言えば、大台ヶ原山のカワチブシがあり、釈迦ヶ岳登山道の十津川村ルートに当たる古田の森付近一帯のバイケイソウがある。ともに群生し、その群落は増える傾向にある。大台ヶ原山も古田の森付近も野生ジカの多いところで、植生への影響が見られるが、カワチブシやバイケイソウは増えている状況にある。これはこれらの植物がアルカロイドの毒性を有し、シカに食べられずにあるからと言ってよさそうである。然るに、アルカロイドの毒性を有するヒガンバナが姿を消した。果たしてこれはどういうことなのだろうか。足跡などの痕跡が残っているというが、イノシシやシカに食い尽されたのだろうか。前述したような理由によって、この点が少々気になるわけである。

  もともとヒガンバナは彼岸花と記されるように、仏教との関わりがあり、曼珠沙華の別名で知られ、墓場の周辺に植えられたことによって、死人花とか幽霊花などの地方名が見られ、毒性を有することとこの墓場のイメージによって今一つ印象のよくないところがある。だが、この毒性を利して棚田の畔などに植え、畔に穴を開けるモグラ避けにし、救荒植物に充てたと言われる。所謂、ヒガンバナの鱗茎は食用になるが、水に晒して毒性を除去しないといけない。野生動物たちはその除去の智恵がないので、食べられないということになる。棚田にヒガンバナが多いのはもともとこの毒性を利したモグラ対策に始まったということである。ここで、この度のヒガンバナ消滅のことが思われるわけで、その原因について次のようなことがあげ得ることが言える。

 まず、実際にイノシシやシカが食い荒らしたのだろうかという疑問が湧いて来ること。シカは普通上物を食べ、イノシシは土を掘り起して食べる。どちらにしても、野生の動物にヒガンバナの鱗茎が食べられたとすれば、その動物に毒性に対する免疫があるということになる。また、土まで掘り起して食べなければならないということは、それほど美味か食に逼迫して困っているということを想像させる。今一つは、ヒガンバナの鱗茎に毒性がなくなり、食べても食当たりしなくなったこと。これも考えられる。そして、今一つは人間がイノシシやシカを装ってヒガンバナの鱗茎を掘り盗ったということも考えられなくはないということになる。

  仏隆寺の近くの斜面には以前、ヤマユリが沢山生えていて、花の時期にはみごとだった。このヤマユリもいつの間にか姿を消した。ヤマユリの鱗茎は毒性がなく美味で、食用に供せられるが、イノシシの好物でもあり、イノシシは土を掘り起こして食べるから、こちらの方はイノシシが原因とも言える。だが、人間による盗掘もあり得ることは否定できない。果たして、消えてしまったヒガンバナはどのような仕儀によって消失してしまったのだろうか。  写真は仏隆寺石段脇一帯に咲くヒガンバナ(二〇〇〇年九月撮影)と仏隆寺近くの斜面の草地に群生して咲くヤマユリ(一九九八年七月撮影)。