大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月31日 | 吾輩は猫

<211> 吾輩は猫 (22)    ~<209>よりの続き~
          なぜ人が人であるのか なぜ猫が猫であるのか 益川博士
 「吾輩は猫」は二十一回をもって終了。ここで少し吾輩「ふうた」について触れておきたいと思う。実のところ「ふうた」にはモデルがある。十年以上前のことで、はっきりとした日月は覚えていないが、私の家をねぐらにしていた雉猫の雄がいて、野良猫であったが、いつの間にか我が家に居ついて半分飼い猫のような暮らしをしていた。生い立ちというものであろうか、大変人なつっこいところがあって猫好きのみんなに可愛いがられ、その一生は幸せであったろうと思っている。
 五年ほど出入りがあったが、 ある冬の寒い早朝、 その日は泊っていたのであるが、声をかけて来るので、居間の戸を開けてやったら「みゃー」と鳴いて出て行った。喧嘩をして足に怪我をしていたので痛ましかったが、 出て行った。そして、それっきり帰って来なかった。あのときの声は「さようなら」という挨拶だったかも知れない。死んだとしか思えない。どこでどのように死んだのか。それが今も思われるが、何者にも知られず、死んでゆくのが猫の流儀であろうと思い、本文でも触れた。あれからほかにも我が家には何度か猫の出入りがあったが、今に至るまで、あの「ふうた」に優る猫を見ない。実に賢い猫であった。で、漱石先生の吾輩に倣ってこの話を書いた次第である。
 モデルが雉猫であるのに、ここでは三毛猫にしたのは、雉猫の写真が撮れなくて已むを得ず三毛猫にした次第である。 三毛猫に雄はほとんどいないと言われ、 写真の三毛猫も雌であろうと思われるが、 それはそれで、宝塚ジェンヌのように男役を演じてもらったわけである。 三毛猫の「たま」駅長は雌で、 女性駅長であるが、女性の進出が著しい昨今の人間社会に照らして見れば、現代を反映した登用であると言える。とにかく、そういうわけで、三毛猫の吾輩が登場した次第である。
 ここに モデルの「ふうた」に和して詠んだ「ふうた」に寄せる歌「猫のゐる風景」の中から十首をあげて披露し、 この項を終えたいと思う。では、以下十首。なお、冒頭の短歌の中の益川博士は2008年のノーベル物理学賞を受賞した理論物理学の益川敏英博士である。
    みな生きてゐるのだ つまり 人がゐて 犬がゐて また 猫もゐるなり
  コーヒーの 午後のひととき 香に匂ひ 安らかなるが 猫の背に見ゆ
  マンガ本 散らかるあたりに 思考の芽 現代の影は 猫にも及ぶ
  ねずみなど 捕らぬが現代文明の 仕儀なり 猫も時代を生きる
  空なかに 雲雀が揚がり 啼いてゐる 啼け啼け啼けよ 猫は眠れる
  地球儀の やうな眼に 映しゐる 猫の天地は 自由の天地
  向日葵は 地をゆく猫に 高かくして 午後のさ庭の 風景に立つ
  犬と猫に 対してなせる 論評の 傍観否めざるものの声
  迫真の 鯖の頭を 銜へ行く 真昼の猫の なつかしきかな
  天地人 否 否 猫もゐて思ふ この世といふは 不可思議にある