大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年03月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1553> 今年最初の雨蛙

         何はあれ 命の春と 思ふべし

 今年最初の雨蛙に昨日馬見丘陵公園で出会った。散り敷いたクヌギの落葉の衾の下から現われた様子がうかがえた。ここで冬眠していたのに違いない。このところの暖かさに誘われたとみえる。春の陽光を浴び、動こうとする気配がないのは目覚めたばかりだからではないか。

 保護色が利いていないのは目覚めたばかりで、まだ、機能しないということか。クヌギの大きな木の辺りには長い尾羽と鋭い嘴の持ち主であるモズや何でも食べるやくざなカラスが常住しているので、雨蛙には油断禁物この上ないところである。動くと目立つのでよろしくない。緑の草叢が増えるまで自重すべきで、これが肝心であることは雨蛙自身も心得ているはずである。

                        

 一時も早く保護色の変身術を使わないといけない。昨年話題にした我が家の雨蛙ぷくぷくもお父さんはどうしたろうか。どこかで冬眠しているに違いないが、果して姿を見せるかどうか。待つことにしたいと思っている。二階ベランダ下の樋の上の所定の場所は変わることなくある。

  ぷくぷくのお父さんの微動だにしない姿は哲学者か宗教家を思わせるところがあった。面壁九年の達磨大師にもイメージが重なるところ。今年最初に出会った雨蛙はあのぷくぷくのお父さんとは異なり、雨蛙らしい蛙であるが、少し危うさが感じられなくもない。では、写真で紹介することにしよう。クヌギの落葉の間から顔を出した雨蛙。   雨蛙 目覚めの春は 如何ならむ

 


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2016年03月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1552> 旅鳥 シマアジ

         池水も 花を映して 春の色  

                                     

 馬見丘陵公園の池にシマアジが初お目見えし、野鳥フアンを喜ばせている。渡りの途中に立ち寄る旅鳥として知られ、秋と春に見られるカモの仲間である。大和地方で見られるのは珍しく、カメラを携えた野鳥フアンが望遠レンズで泳ぐシマアジの姿を追った。

         

 体長四十センチ足らず、雄は頭部に白く太いすじ、羽毛に縞模様があり、他のカモ類と見分けがつく。雌はコガモの雌に似るところがあり、わかり難い。マガモと違ってあまり警戒心がなく、岸辺の近くまで来るので撮影しやすい水鳥ではある。池にはどのくらい滞在するのだろうか。

  マガモは既に北に旅立ったか、池面にその姿は見られなかった。「月と花との名こそ惜しけれ」の思い切々たるところ。大和のサクラはこの週末あたりに咲き揃うのだろう。このところの暖かさではある。 写真上段は花を映す池面。写真下段は左から池に姿を見せたシマアジの雄。番いかそれともコガモの雌か、一緒に泳ぐシマアジの雄(手前)。初お目見えのシマアジを望遠レンズで追う野鳥フアンら。

  何処へか 水鳥たちは 帰り行く 惜別の花 身に点しつつ

 


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2016年03月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1551> 安全保障関連法施行

        愚かさの見え隠れする戦火テロ止まるところを知らずあるなり

 昨日、二十九日、安全保障関連法が施行され、集団的自衛権の行使が可能になり、自衛隊が武器を持って海外で戦えるようにした。所謂、平和の礎になっている憲法九条の戦争抑止の精神をなし崩しにし、遂に戦争の出来る国へと突き進むことになった次第である。これは同盟国の米国追随を進める安倍政権の意向によるもので、いよいよ米国との結びつきを強くした。これで自衛隊の任務はより厳しくなるだろうが、果して、どのような影響が生じて来るのか。

 この関連法は、これを憲法違反だとする多くの意見があり、施行に反対する声が今も上っている中での施行となったわけであるが、これは国民の総意に遠く、安倍政権の強権の結果ということにほかならない。であれば、国民は今後もこの関連法の施行による影響については注視して行く必要がある。でないと、この問題は、政権の都合によってどんどんなし崩し的に日本が他国の戦争に巻き込まれて行くことになるからである。

 自衛隊を戦地に赴かせるという日本の決定に同盟国の米国が、戦略の中にこの決定を組み入れないはずはなく、米国からは新たな要求が日本になされることは必至で、日本はその要求にまた悩まされなくてはならないだろう。同盟の深化はその深化により悩みも深くすることを覚悟しておく必要がある。嘗て、安全保障関連法の施行は引鉄のようなものだと言ったことがあるが、その引鉄発言において、これからの展開についてシミュレーションしてみたいと思う。

    

 今や朝鮮半島は北朝鮮の挑発的言動に揺さぶられ、有事の懸念すら持たれるほどになっているが、以前、日本の安全保障関連法の施行が引鉄になると言ったのは、米国がこの施行を待って北朝鮮に戦争を仕掛けて行くという発想に立ったからである。米国はアフガニスタンやイラクにおける戦闘に辟易し、派遣していた地上軍を引き上げさせ、今や飛び火したシリアなど中東で困り果て、テロの拡散がヨーロッパにも及ぶに至り、和平の道を探るところにまで至っている。

 これは四半世紀前になるが、ベトナム戦争後に起きたカンボジアの内戦に似るところで、米国には中東での矛を一応収め、その矛先を今度は朝鮮半島に向けるということが考えられるのである。軍事大国である米国には地球上のどこかで戦火がなくてはならず、その戦火に介入しないでは国が立ち至って行かない。ので、どこかで戦火が起きるように仕向けて行く。そして、中東の後は、「ならず者の国」と嫌われている北朝鮮をターゲットにするということが考えられる。

 この北朝鮮との戦いにあっては同盟国の韓国と日本が地上戦において戦いを展開することへの期待が持たれることになる。そして、ここでは中国の出方が問題になるが、経済が思わしくない中国にとって、お隣さんの戦いは棚ぼたのようなもので、戦火が長引けば米国と中国の思惑による代理戦争の呈を見せるやも知れず、朝鮮半島は戦火の泥沼に陥り、ここに軍事大国のロシアがシリアのようにちょっかいを出して来るやもしれないということも言えなくはない。

 日本は日本海という海の緩衝帯によってそれほど直接的な影響はないかも知れないが、拉致被害者が人質にされている状況下にあっては、同盟国の米韓の要望如何にかかわらず、戦争の出来る国にしたことにより地上部隊を朝鮮半島に派遣し、北朝鮮軍と戦わねばならないことになる。負けることはないにしても、戦争の現場は殺し合いであるから、戦火を交えることは戦死者を出すことになる。どちらかが加害者になり、殺人者になる。関連法からはこういう厳しさが日本に突きつけられることになる。軍事にかかわる同盟関係の深化は、こうした厳しい局面も飲まねばならないということである。これが荒唐無稽なシミュレーションであればよいが。 写真は左から参議院の予算委員会の質疑で質問に答える安倍首相。北朝鮮が放映した軍事演習の動画。安保関連法に反対のデモで掲げられた横断幕。

 


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2016年03月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1550> 詩 の 此 岸

      人と争うのは

    嫌だ

    けれど

    理不尽には

            黙っていられない

      そういう心の

            持ち主たる自負

    この自負には

    悲哀が絡む

    絡むときには

            無の境地を

            求めたくなる

            はたして

            無の境地など

      あるのか

      そう自問するに

            心の奥底には

            まだ 

      純粋を極める

            無の境地が

            あるように思える

            はたして

            自負の思いは

            時の扉に触れ

            山野の自然の

      慰めを得ながら

             この生の悲哀に

             向き合い

             時の扉の彼方に

             多少の望みと

             多少の憧れを

     見出して行きたい

                                 

 歌人の佐々木幸綱は『詩の此岸』の中で、「人間は百キロにも足りない水分をたたえた皮の袋にすぎないが、皮の袋の内側には、われわれが矛盾と呼ぶところの相反発する両極が化学的にも力学的にもあるいは電気的にもかならずとり込まれてあって、その両極の反発、葛藤、緊張、相克によって人体は維持されている。生きるとは即ち、基本的にこのダイナミズムのバランス状態にほかならぬ。そして、感性は、ここを土壌として芽ぶく芽ぶきと言ってよいはずだ」と言っている。

 私などもこうした皮袋の存在であろう。その内側はかろうじてバランスされてあると言えようか。皮袋の内には悲哀と憧憬。この両方において私の皮袋は成り立ち得ていることが思われる。矛盾という認識は、実のところ矛盾ではなく、正と負を両極に持つ生そのものの姿である。負がなければ正はなく、正がなければ負は成立しない。生のダイナミズムは大小多少のあることながら、この相対なくして生は成り立ち得ない。そして、感性の土壌、即ち、詩歌の発露の一端がここに認められるというわけである。 写真はイメージで野の緑。

 


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2016年03月27日 | 植物

<1549> サ ク ラ 前 線

         待たれ咲くさくらに惜しまれ散るさくら さくらさくらの 今年もさくら

 ソメイヨシノの開花を告げて日本列島を北上して行くサクラ前線は今どの辺りなのだろうか。奈良市の佐保川堤のサクラ並木は蕾が膨らみ今にも咲き出しそうな木が圧倒的であるが、中には二、三分咲きのものも見られるといったところである。これからの気温の変化が気になるところで、冷え込みが続けば、開花は遅くなるだろう。

       

 ときおりソメイヨシノに似た満開の花に出会うが、これはヒガンザクラ系のコヒガンザクラかエドヒガンと思われる。ソメイヨシノやヤマザクラよりも花期が早く、春の彼岸のころに咲くのでこの名がある。シダレザクラはエドヒガンの枝が垂れ下がる種で長寿を誇るものが多い。因みに八重ザクラは花期が遅く、天然記念物にも指定されているナラノヤエザクラは四月末から五月初めのころ花が咲き、サクラの花の殿を務める。

 サクラはバラ科の落葉高木であるが、春にはバラ科の木の花がよく見られ、ウメやナシ、モモ、スモモ、アンズといった果樹類があり、低木ではユキヤナギ、シジミバナ、コデマリ、ボケ、ヤマブキ等々。これらの低木は刈り込みが出来る容易さがあり、公園や庭などに植えられることが多い。今咲き誇っているユキヤナギは叢生し、白い小花を枝ごとにびっしりと咲かせるので、全体が花に被われボリュームがあって、黄色い花のレンギョウなどとともに辺りを明るくするところがある。 写真は三分ほど咲いた佐保川堤のソメイヨシノの花(左)と満開のユキヤナギ(奈良市内で)。