大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年04月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1584> 少 年

          蝶を追ふ少年一人緑陰に入りゆく父母の幸せ映し

 ゴールデンウイークの前半の今日は土曜日。上々の空模様となり、公園に繰り出す人出も普段の倍以上であった。公園は落葉樹がすっかり若葉を開き、園内の風景を緑あふれる夏の様相に変えていた。陽光は強く、緑陰を求める季節になり、木陰で休む人が多く見られた。

          

 その緑陰に向かって黒揚羽を追う少年が私の眼前を突っ切って行った。黒揚羽は地上すれすれに飛び、少年が振りかざす白い網を避けながら逃げ、緑陰の道に入って行った。父親は先を歩き、母親は立ち止まって少年の行く手に目をやっていた。

 しばらくして、少年は母親の許へ戻って来た。少し息を弾ませ、母親に「逃げられてしまった」と告げた。母親の手には虫籠が下げられていたが、中には何も入っていなかった。少年は先を歩く父親を追ってまた駈け出し、父親に追いつくと何か父親に話しかけた。そして、父親が差し出した手を取って母親の方を振り向きながら帰って行った。いつも歩きに行く馬見丘陵公園での一景ではあった。 写真は木陰で休む人たち(左)と網を持って蝶を追う少年(右)。  思ひ出は一生ならむ 緑陰に入りゆく蝶を追ふ白き網


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年04月29日 | 創作

<1583> 掌編 「紅の薔薇」

         主なき家に咲く薔薇くれなゐの色に夢見しころの面影

 運命というのは非情なものである。この感慨は、四十年ほども前のことであるが、丘の斜面に住宅地が開発され、そこの新築一戸建ての家に引っ越して来た親子三人が辿った一生をうかがい知ることによる。なだらかな坂の中ほどにその家はあり、三人の新しい暮しがスタートした。親は四十歳代のはじめ。子は男子で小学六年生だった。

 夫は会社勤め、妻は主婦で、パートで働いていた。新築のその家には案外広い庭が南面してあり、東に緩やかな坂道があった。西は塀を隔てて隣家と接し、北と南は雛段状に家が連なっている。そんな住宅地で、庭にはまだ植え込みらしい植え込みがなく、明るく見えた。

                                                                         

 庭には金属製のフェンスが廻らされていたが、その隙間から庭の様子が垣間見られた。入居後間もなく、玄関に近いフェンスの傍に薔薇が植えられた。薔薇は最初の年には花を咲かせなかったが、二年目の春に花芽を数個つけ、四月の終わりごろ開花した。紅の大きな花だった。それから毎年春の時季だけでなく、秋にも花を咲かせ、ときには寒中にも花が見られるようになった。しかし、花はやはり勢いのある春の花に勝るものはなく、今もそのように見える。

 こうして、三人は好きな薔薇の花を見ることが出来る家で暮すようになったのであるが、ときは移り、男の子は大学に入るとこの家を離れて暮らすようになった。男の子は親にあまり負担をかけたくないと思い、積極的にアルバイトをし、その稼ぎを自分の生活の足しにした。暫く後、稼いだお金でオートバイを購入し、通学に使い、アルバイト先にもオートバイを利用して出かけた。

 そんな日々がずっと続いて、四回生になったばかりの春、男の子はアルバイト先から帰る途中、左折しようとしたトラックにオートバイごと巻き込まれるという事故に遭った。救急車で運ばれたが、意識が戻らないまま亡くなった。享年二十二歳。一人息子を突然に失った二人の落胆は如何ほどだったか。夫婦はそれでもそれぞれの勤めに励み、暮らし向きを変えることなく暮して来た。

 そうして、夫は無事に定年を迎え、妻の了承を得て自分のやりたい一杯飲み屋の計画を練っていた。しかし、このとき、膵臓癌が見つかり、癌は相当進んだ状態で、結局、定年間もない六十三歳にして亡くなった。何ともあっ気ない死で、妻はひとり暮しを強いられることになり、マイホームに夢を乗せて移り住んだ丘の坂の家でひっそりと暮らす羽目になった。

 年金額はそれほど多くないが、夫の保険金と貯えによって経済的に困ることはなかった。その点に不安はなく老後を過ごすことが出来たが、家族のないこころ細さは免れ得なかった。そうした心境にあった妻のその後の人生は長く続き、それでも気丈にして来た。だが、八十歳の大台を迎えるころから足許が覚束なくなり、その数年後、遂に介添えが必要となり、一人で守って来た家を離れて介護施設に入ったのであった。

 家はそのままにし、寝起きに必要なものと普段使うものだけを揃え、夫と息子の以牌を胸に入所した。夢を抱いて移った新居から四十余年のことである。家のローンは既に完済し、何の問題もなく、手入れを二度ほど加えていることもあって、古臭くなってはいるが、住むにこと欠くことのない家で、妻にはいつまでも住み続けて居たいという思いがあった。入所してからも空家にした家が気になり、管理を業者に頼むなどして四季を問わず奇麗にして今に至る。夢を持って植えられた紅の薔薇は長い年月を経て、この家が空家になり、主がいなくなってからも人の背丈ほどを保ち、時季が来ると紅の大きな花を咲かせている。

 今後、どのような推移にことは運ばれて行くのか。高々四十年ほどとは言え、命の存在にあれば、その歳月は長く重いと思える。芭蕉は人生を旅と見て、「草の戸も住替る代ぞひなの家」と詠んだ。果たして、この世はどのように移り行くのだろうか。運命の非情は坂の家の三人に止まらず、誰の上にも来る。主が変われば、その家の状況にも変化が起きるだろう。薔薇は何も知らぬげに紅の花を咲かせているが、その薔薇とても行く末はわからない。 写真はイメージで、主のいない庭に咲く薔薇。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年04月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1582> ホオジロ(頬白)について

          経験に勝るものなき生きる身に経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ

 島木赤彦の「高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも」について、ホオジロという野鳥は灌木(低木)に棲み、高槻、即ち、ケヤキのような喬木(高木)の梢に来て囀ることはあり得ないというような意見があって、この歌が発表された大正年代以来話題になって来た。この経験則による意見に照らして、私もその意見を入れてこのブログの<554>の「万葉の花(78)のワラビ」や<605>の「ワラビ考余話」において、高槻の梢でホオジロが囀るというこの歌に対し、志貴皇子の万葉歌に登場するワラビとともに論を展開して来た。

 ところがこのほどこの論の展開はよくなく、論の訂正をしなくてはならない仕儀に至った。というのは、このほど島木赤彦が詠んだごとく、ホオジロが灌木のみならず、喬木にも来て高らかに囀るのを実地に目撃体験したからである。このような体験をしたからは今まで抱いていた考えを改めざるを得なくなった。というわけで、ここにこの「高槻のこずゑにありて頬白の――」という歌を貶めるようなことを言って来た不遜を謝し、赤彦のこの歌における観察に瑕疵はなく、灌木のみとする見解に対し、高槻の正当性を認めるに至ったという次第である。

                  

 この歌への疑義に対し、歌人で日本の野鳥研究家の中西悟堂はホオジロについて「つねに木の梢頭にとまってさえずる習性があるが、それも一本の木でなく、すこしずつ離れた三、四本の木の梢をぐるぐるまわって鳴いている。蕃殖期は自分の巣の縄張り、そうでない時季では自分の餌場所の縄張りの歌を歌っているのだ」と、赤彦のこの歌を擁護するように言っている。

 私が目撃したホオジロは馬見丘陵公園内の自然公園エリアで三度にわたり目撃した。多分同じホオジロだと思うが、最初はツツジなどの雑木が生える低木林で低い梢に二羽が見られた。次はまだ葉の開出が見られないムクロジの梢で高らかに囀っていた。高さは十五メートルほど。三度目はラクウショウのてっぺん。まだ、葉の開出がなく裸木状態だった。日を変えてのことで、このときも高らかに囀っていた。高さは二十メートル以上ある。そこからコナラのてっぺん近くに移り、少し囀って姿を消した。コナラは葉の開出が見られ下から見ると逆光で、このときには思うように写真を撮ることが出来なかった。という次第で、ホオジロは喬木の梢で囀るのを実地で目撃し経験したのであった。

 思えば、野鳥は概ね高い位置の見晴らしの利くところに陣取って囀っている。縄張りを主張しているのであろう。囀るのはオスである。典型的なのはヒバリで、揚げ雲雀というように天空高くに昇って一頻り囀るのが常である。ウグイスにしても笹鳴きと言われる冬場は薮の中などで鳴いているが、暖かくなって繁殖期が近くなると、高い木の梢や見晴らしのよい枯れアシなどに来てあのみごとな鳴き声を披露し、自分をアピールしている。

  シジュウカラにしても囀るオスは高木の梢にとまっている。オオルリやミソサザイなど美しい声で囀る小鳥たちはみな普段よりも見通しの利く高い木の梢にとまっている。ホオジロにもこのことが言えるわけで、これが野鳥の習性であり、自然の姿というものであろう。このほどこのことを認識し、島木赤彦の「高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも」の正当性をここに改めて思う次第である。写真はムクロジの梢で高らかに囀るホオジロ(左)と低木にとまるホオジロ(右)。同じオスではないかと思われる。

 

 

 


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2016年04月27日 | 植物

<1581> ザイフリボクとヒトツバタゴ

          似て非なる日々の営み積み重ね移り変はりてゆく世のならひ

 草木を問わず植物にはよく似たものがあって間違いやすいところがある。花にも言えることで、判別がつかないものに出会うことがある。こういうときには図鑑が頼りになるが、植物の細部にわたる観察が必要で、写真による比較が一つの方法としてある。最も確かな方法は標本をとることであろうが、貴重な植物ではそこまでの勇気が湧かない。スケッチするのもよいが、信頼性が問われるし、面倒だというのが先に立つ。

 ということもあって、私は専ら手っ取り早い写真に収めて図鑑と対比するやり方をしている。大方はこれで賄えるが、写真だけでは判別出来ないときもある。このほど馬見丘陵公園で花を咲かせるヒトツバタゴに出会ったのであるが、まだ若い木で、ザイフリボクと間違えた。公園の樹木には名前を書いた札が立てられているので間違いに気づいた。

  この二つはよく似た白い花を樹冠いっぱいに咲かせる。花期が晩春から初夏のころであるのも間違いの元になった。もちろん、知識が豊富で観察が行き届いていれば、間違うことはないが、遠目には間違うおそれがあるザイフリボクとヒトツバタゴの若木ではある。

        

 では、二つの木を見てみよう。まず、ザイフリボクはバラ科の落葉小高木で、高さは十メートルほどになる。葉は互生し、楕円形で、先端は尖り、縁に細かい鋸歯がある。花は白い線形の五弁花で、四月から五月にかけて咲く。花が神前に捧げる玉串につけられる幣(しで)に似るところからシデザクラ(四手桜)の名でも呼ばれる。本州の岩手県以西、四国、九州に分布し、大和でも林縁などで見かける。

 次にヒトツバタゴはモクセイ科の落葉高木で、高さは三十メートルほどにもなる。葉は対生し、長楕円形から広卵形で、縁に鋸歯はない。四月から五月ごろ新枝の先に円錐花序を出し、白い多数の花をつける。花冠は四深裂し、裂片が線状披針形になる特徴を有する。長野、岐阜、愛知県、長崎県の対馬、朝鮮半島、中国、台湾ととびとびに分布するが、最近は公園樹として多く植えられている。

  奇妙な名の持ち主であるが、タゴは野球バットの用材や器具材にされる同じモクセイ科のトネリコのことで、ヒトツバは単葉であることによるという。別名はナンジャモンジャで、これは珍しい木だったからと言われる。 写真は左二枚がヒトツバタゴ、右二枚がザイフリボク(宇陀市で)。

 


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2016年04月26日 | 植物

<1580> 金剛山のニリンソウ

          競ひ合ふ ごとくに花の 二輪草

 金剛山の春の花を求めて大阪側のカトラ谷を登った。平日の割には登る人が多かったが、花を咲かせるニリンソウが目的のようで、谷筋の群生地は花盛りとあって多くの登山者が見られた。ニリンソウはキンポウゲ科の多年草で、全国的に分布し、山野の湿ったところに群生する。茎頂に花茎を二、三立て、先端に白い花弁状の萼片五個からなる花を上向きにつける。 

                    

 一茎に概ね二個の花をつけるのでこの名がある。「ふたりは二輪草」と川中美幸が唄う二輪草はこのニリンソウのことである。因みに一茎に一花のイチリンソウがあり、一茎に三花のサンリンソウがある。みなキンポウゲ科に属し、白い花弁状の萼片五個の花を春から夏にかけて咲かせる。一茎二花の現在は一花目が咲き、二花目は蕾のものが多いので、花盛りは当分続きそうである。 写真は二枚とも群落に花を咲かせるニリンソウ (金剛山のカトラ谷で)。