<1583> 掌編 「紅の薔薇」
主なき家に咲く薔薇くれなゐの色に夢見しころの面影
運命というのは非情なものである。この感慨は、四十年ほども前のことであるが、丘の斜面に住宅地が開発され、そこの新築一戸建ての家に引っ越して来た親子三人が辿った一生をうかがい知ることによる。なだらかな坂の中ほどにその家はあり、三人の新しい暮しがスタートした。親は四十歳代のはじめ。子は男子で小学六年生だった。
夫は会社勤め、妻は主婦で、パートで働いていた。新築のその家には案外広い庭が南面してあり、東に緩やかな坂道があった。西は塀を隔てて隣家と接し、北と南は雛段状に家が連なっている。そんな住宅地で、庭にはまだ植え込みらしい植え込みがなく、明るく見えた。
庭には金属製のフェンスが廻らされていたが、その隙間から庭の様子が垣間見られた。入居後間もなく、玄関に近いフェンスの傍に薔薇が植えられた。薔薇は最初の年には花を咲かせなかったが、二年目の春に花芽を数個つけ、四月の終わりごろ開花した。紅の大きな花だった。それから毎年春の時季だけでなく、秋にも花を咲かせ、ときには寒中にも花が見られるようになった。しかし、花はやはり勢いのある春の花に勝るものはなく、今もそのように見える。
こうして、三人は好きな薔薇の花を見ることが出来る家で暮すようになったのであるが、ときは移り、男の子は大学に入るとこの家を離れて暮らすようになった。男の子は親にあまり負担をかけたくないと思い、積極的にアルバイトをし、その稼ぎを自分の生活の足しにした。暫く後、稼いだお金でオートバイを購入し、通学に使い、アルバイト先にもオートバイを利用して出かけた。
そんな日々がずっと続いて、四回生になったばかりの春、男の子はアルバイト先から帰る途中、左折しようとしたトラックにオートバイごと巻き込まれるという事故に遭った。救急車で運ばれたが、意識が戻らないまま亡くなった。享年二十二歳。一人息子を突然に失った二人の落胆は如何ほどだったか。夫婦はそれでもそれぞれの勤めに励み、暮らし向きを変えることなく暮して来た。
そうして、夫は無事に定年を迎え、妻の了承を得て自分のやりたい一杯飲み屋の計画を練っていた。しかし、このとき、膵臓癌が見つかり、癌は相当進んだ状態で、結局、定年間もない六十三歳にして亡くなった。何ともあっ気ない死で、妻はひとり暮しを強いられることになり、マイホームに夢を乗せて移り住んだ丘の坂の家でひっそりと暮らす羽目になった。
年金額はそれほど多くないが、夫の保険金と貯えによって経済的に困ることはなかった。その点に不安はなく老後を過ごすことが出来たが、家族のないこころ細さは免れ得なかった。そうした心境にあった妻のその後の人生は長く続き、それでも気丈にして来た。だが、八十歳の大台を迎えるころから足許が覚束なくなり、その数年後、遂に介添えが必要となり、一人で守って来た家を離れて介護施設に入ったのであった。
家はそのままにし、寝起きに必要なものと普段使うものだけを揃え、夫と息子の以牌を胸に入所した。夢を抱いて移った新居から四十余年のことである。家のローンは既に完済し、何の問題もなく、手入れを二度ほど加えていることもあって、古臭くなってはいるが、住むにこと欠くことのない家で、妻にはいつまでも住み続けて居たいという思いがあった。入所してからも空家にした家が気になり、管理を業者に頼むなどして四季を問わず奇麗にして今に至る。夢を持って植えられた紅の薔薇は長い年月を経て、この家が空家になり、主がいなくなってからも人の背丈ほどを保ち、時季が来ると紅の大きな花を咲かせている。
今後、どのような推移にことは運ばれて行くのか。高々四十年ほどとは言え、命の存在にあれば、その歳月は長く重いと思える。芭蕉は人生を旅と見て、「草の戸も住替る代ぞひなの家」と詠んだ。果たして、この世はどのように移り行くのだろうか。運命の非情は坂の家の三人に止まらず、誰の上にも来る。主が変われば、その家の状況にも変化が起きるだろう。薔薇は何も知らぬげに紅の花を咲かせているが、その薔薇とても行く末はわからない。 写真はイメージで、主のいない庭に咲く薔薇。