大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月22日 | 吾輩は猫

<202> 吾輩は猫 (17)    ~<200>よりの続き~
      生きてゐる 証なりけり 見え隠れ する幸不幸 吾輩は猫
 とにかく、暮らしの向上を経済的発展に求めて来た人間の社会ではその基にある家族構成にもこの経済の成り行きが大きく影響し、結果として核家族化を進め、大家族の崩壊を来たして来たのであった。 で、一家団欒などという言葉は死語に等しくなって、 今やその核家族すらも危く、 家族関係というものが希薄化し、より深刻な状況に陥っている。 吾輩がお世話になっているTさん一家がまさにその核家族の典型で、まだ家族間に十分絆があり、一家三人は和やかに暮らしているが、この近辺を見ても、一家団欒などというような光景は全くといってよいほど見受けられない。Tさんの話では、四十代後半から二十代半ばの女性十人がTさんの職場で働いているようであるが、 二十代は二人で、結婚しているのが何とわずか三人だという。 これは、誰が考えても、核家族を通り越して家族の完全崩壊を予兆している姿に見える。
 Tさんの一家は慎ましく、 例外に属するが、最近ではどこの家でもテレビが家族それぞれの部屋にあり、車も各自が別々に所有し、物が山とある。これは物質的豊かさであり、利便であることを物語るものであって、 吾輩などから見れば、贅沢この上ないと思うのであるが、人間の社会ではこれが普通の光景になっている。 これは発展する経済の力学的構図として進められて来た人間社会の眺めであるが、この経済的に効率のよい構図において、 家族間の乖離も押し進められて来たわけである。例えば、対話は肉声によらず、専らメールによるような具合で、これは技術の発展にもよるのであるが、家族の乖離状況に符合する。そして、この傾向は日を追っていよいよ進んでいるように思われる。
 老後の問題でも、介護の世界を見ればわかるが、現今の人間社会では家族で十分な介護が出来る状況になく、介護制度というものを作り上げた。これは制度によってこの社会整備の不備を補う仕組みであるが、 制度は十分でなく、 介護が制度(知恵)の奴隷と化しているような面も見受けられる。 同じ屋根の下で暮らしていても、 何一つ行動をともにすることがなく、家族によっては寝るときくらいが同じ屋根の下で過すという具合になってしまった。果たして、これは幸せなる光景と言えるかどうか。
 家族崩壊の現象は、経済的発展と軌を同じくし、それはいよいよ進んで、核家族の分裂にまで及んでいることは前述の通りである。核家族の崩壊は独り暮らしの増えることを意味するものにほかならず、独り暮らしというのは自由の極みとは言えるかも知れないけれども、それはイコール淋しさの極みでもある。猫の吾輩から言えば、孤独もよいものであるが、この自由と孤独は、 技術の進歩による利便性と物欲主義の拝金に彩られた物質的豊かさとそれに伴う反面の歪み補正を役割とする制度の整合性によって進められつつ、いよいよそれを深化させているように思われる。

 この光景を思うに、何から何まですべてが人工的な中に組み込まれてゆく様相が感じられ、いよいよ自立を難しくし、窮屈で、このため、一方では海外に逃れる者を助長し、一方では生活保護者を増やすというような国の状況を生んでいるのである。この状況は今後も続く可能性が強いが、これをよしとするか、よしとしないか、 猫の吾輩にも考えさせられる。 どちらにしても、 暮らしの営みが幸せ感に溢れた安心していられる人間の社会であってもらいたいと思う。猫の暮らしにも及ぶことであるから。(以下は次回に続く)